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【11】
異変は、4月10日の朝から始まった。
「何だか、身体がだるくて、熱っぽいの」
明日奈は『椿の間』のベッドに寝たまま、そう言った。具合が悪いのは娘の愛ちゃんではなく、母親の明日奈の方だった。
「大丈夫か?」
「うん……どうだろう。何か、凄く眠い」
明日奈はぼんやりとした表情でそう言った。
「しっかりしろ。とりあえず熱を測ってみよう。体温計を持ってくるから待ってろ」
僕はそう言うと、急いで倉庫へ行き、救急箱の中から体温計を取り出し、『椿の間』に戻った。明日奈は、ベッドの上で上半身を起こすと、僕から渡された体温計を浴衣の中に入れた。しばらくして、体温計が鳴る音が聞こえた。明日奈は体温計を取り出すと、こう言った。
「38度1分……。ちょっと熱があるみたい」
僕も体温計を見たが、確かに体温計には38度1分と表示されていた。
「ちょっとじゃないだろ。風邪でも引いたのか?」
「うん……。そんな感じかな」
「炊飯器でお粥を炊いてくる。それと、洗面器に氷水を作って、タオルも持ってくる」
「待って。その前に、愛ちゃんを連れて行って。風邪を移すといけないし、粉ミルクも飲ませないといけないから……」
「分かった。愛ちゃんは僕に任せろ。明日奈は自分のことだけ心配していればいい。とりあえず、今は寝ててくれ」
僕はそう言うと、愛ちゃんをベビーベッドに載せたまま『椿の間』の外に出した。ベビーベッドの脚の底には毛布で作った靴下を履かせており、愛ちゃんを載せたまま引き摺ることができるようにしていた。
僕は愛ちゃんを隣の『雀の間』へ連れていった。愛ちゃんはぐっすりと眠っていたので、少しなら目を離しても大丈夫だろうと判断し、急いで食堂へ行き、炊飯器でお粥が炊けるようにセットした。『雀の間』へ寄ったが、やはり愛ちゃんは眠り続けていたので、今は明日奈の方を優先しようと思い、浴室へ行き洗面器を手に取ると、食料庫へ行き、砕いてある氷を洗面器の中に入れた。その洗面器を持って、洗面所へ行き水を汲み、棚からフェイスタオルを取り出して『椿の間』へ行った。洗面器の中の氷水にタオルを浸して絞り、明日奈の額の上に載せた。
「ありがとう……。少し楽になったみたい」
明日奈は息をしているだけでも苦しそうな様子でそう言った。
それから僕は、哺乳瓶で粉ミルクを作って愛ちゃんに飲ませたり、愛ちゃんのオムツを替えたり、明日奈にお粥を食べさせたりと、甲斐甲斐しく2人の世話を続けた。
しかし、明日奈の容体は一向に良くならなかった。救急箱の中に入っていた風邪薬や抗生物質も飲ませてみたのだが、効果はなかった。
高熱が続き、日に日に明日奈の食欲が衰えていくのが分かった。まだ出産から2週間くらいしか経っておらず、この時期にこの状態は危険だということは、素人の僕にでも分かった。
明日奈が熱を出し始めてから4日目の、4月14日。
「正道……お願いがあるの」
明日奈は『椿の間』のベッドの上に横たわったまま、弱々しい口調でそう言った。
愛ちゃんは『雀の間』で大人しく寝てくれていた。
「何だ? 何でも言ってくれ」
「『桜の間』の、ベッドの下に、私の鞄が入っているの……」
「鞄を持ってくればいいのか?」
「うん……」
明日奈はそう言って目を閉じた。
僕は急いで『桜の間』へ行き、ベッドの下を覗いた。すると、1年前に明日奈が持っていた鞄があるのを発見した。それを持って、『椿の間』へ戻る。
「明日奈、鞄を持ってきたよ」
「ありがとう……。その中にスマホが入ってない?」
明日奈は目を閉じたままそう言った。最初のうちはスマホを持ち歩いていた明日奈だったが、核シェルターの中では不要と判断したのか、いつの間にか鞄の中に入れっ放しになっていたようだ。
「ああ、あったよ」
僕は鞄の中を探り、スマホと、1年前に充夫のインタビューをするのに使っていたICレコーダーを発見した。
「スマホの充電器も入っていると思うから、充電して……」
「それはいいけど、何に使うんだ?」
「いいから、早く……」
「分かった」
この状態の明日奈に逆らうことができるわけがない。僕は言われたとおりにスマホを充電器を挿し、コードをコンセントに挿した。
「次は――」
どうすればいい? と訊きかけて、僕はやめた。明日奈はいつの間にか寝息を立てていたからだ。
僕は隣のベッドに腰掛け、明日奈の寝顔を眺めていた。食事の量が減っているため、すっかり痩せてしまったような気がする。
まさか、こんなことになるなんて、と思った。
このまま明日奈が回復しなかったら、僕はどうすればいいのだろう。
中学生の頃、卓球の大会で圧倒的な強さを見せていた明日奈。高校で友人に会いに隣のクラスへ行ったとき、女の子たちと楽しそうに笑い合っていた明日奈。高校の修学旅行先のホテルの自動販売機の前で、カメラに向かって笑っていた明日奈。10年ぶりに再会したとき、僕のことをすっかり忘れていた明日奈。山上くんって性格が捻くれてるんじゃないの? と言いながら笑っていた明日奈。牢屋に閉じ込められることになったら、山上正道を差し入れしてもらうと言っていた明日奈。
どんなときでも、明日奈は輝いていた。
僕はいつも、そんな彼女を眩しく思いながら見つめていた。
今も、それは変わっていない。
「明日奈……」
僕が小さく名前を呼ぶと、明日奈は目を開いた。顔だけを動かし、僕が隣のベッドに寝ているのを見つけると、明日奈は弱々しい笑みを浮かべた。
異変は、4月10日の朝から始まった。
「何だか、身体がだるくて、熱っぽいの」
明日奈は『椿の間』のベッドに寝たまま、そう言った。具合が悪いのは娘の愛ちゃんではなく、母親の明日奈の方だった。
「大丈夫か?」
「うん……どうだろう。何か、凄く眠い」
明日奈はぼんやりとした表情でそう言った。
「しっかりしろ。とりあえず熱を測ってみよう。体温計を持ってくるから待ってろ」
僕はそう言うと、急いで倉庫へ行き、救急箱の中から体温計を取り出し、『椿の間』に戻った。明日奈は、ベッドの上で上半身を起こすと、僕から渡された体温計を浴衣の中に入れた。しばらくして、体温計が鳴る音が聞こえた。明日奈は体温計を取り出すと、こう言った。
「38度1分……。ちょっと熱があるみたい」
僕も体温計を見たが、確かに体温計には38度1分と表示されていた。
「ちょっとじゃないだろ。風邪でも引いたのか?」
「うん……。そんな感じかな」
「炊飯器でお粥を炊いてくる。それと、洗面器に氷水を作って、タオルも持ってくる」
「待って。その前に、愛ちゃんを連れて行って。風邪を移すといけないし、粉ミルクも飲ませないといけないから……」
「分かった。愛ちゃんは僕に任せろ。明日奈は自分のことだけ心配していればいい。とりあえず、今は寝ててくれ」
僕はそう言うと、愛ちゃんをベビーベッドに載せたまま『椿の間』の外に出した。ベビーベッドの脚の底には毛布で作った靴下を履かせており、愛ちゃんを載せたまま引き摺ることができるようにしていた。
僕は愛ちゃんを隣の『雀の間』へ連れていった。愛ちゃんはぐっすりと眠っていたので、少しなら目を離しても大丈夫だろうと判断し、急いで食堂へ行き、炊飯器でお粥が炊けるようにセットした。『雀の間』へ寄ったが、やはり愛ちゃんは眠り続けていたので、今は明日奈の方を優先しようと思い、浴室へ行き洗面器を手に取ると、食料庫へ行き、砕いてある氷を洗面器の中に入れた。その洗面器を持って、洗面所へ行き水を汲み、棚からフェイスタオルを取り出して『椿の間』へ行った。洗面器の中の氷水にタオルを浸して絞り、明日奈の額の上に載せた。
「ありがとう……。少し楽になったみたい」
明日奈は息をしているだけでも苦しそうな様子でそう言った。
それから僕は、哺乳瓶で粉ミルクを作って愛ちゃんに飲ませたり、愛ちゃんのオムツを替えたり、明日奈にお粥を食べさせたりと、甲斐甲斐しく2人の世話を続けた。
しかし、明日奈の容体は一向に良くならなかった。救急箱の中に入っていた風邪薬や抗生物質も飲ませてみたのだが、効果はなかった。
高熱が続き、日に日に明日奈の食欲が衰えていくのが分かった。まだ出産から2週間くらいしか経っておらず、この時期にこの状態は危険だということは、素人の僕にでも分かった。
明日奈が熱を出し始めてから4日目の、4月14日。
「正道……お願いがあるの」
明日奈は『椿の間』のベッドの上に横たわったまま、弱々しい口調でそう言った。
愛ちゃんは『雀の間』で大人しく寝てくれていた。
「何だ? 何でも言ってくれ」
「『桜の間』の、ベッドの下に、私の鞄が入っているの……」
「鞄を持ってくればいいのか?」
「うん……」
明日奈はそう言って目を閉じた。
僕は急いで『桜の間』へ行き、ベッドの下を覗いた。すると、1年前に明日奈が持っていた鞄があるのを発見した。それを持って、『椿の間』へ戻る。
「明日奈、鞄を持ってきたよ」
「ありがとう……。その中にスマホが入ってない?」
明日奈は目を閉じたままそう言った。最初のうちはスマホを持ち歩いていた明日奈だったが、核シェルターの中では不要と判断したのか、いつの間にか鞄の中に入れっ放しになっていたようだ。
「ああ、あったよ」
僕は鞄の中を探り、スマホと、1年前に充夫のインタビューをするのに使っていたICレコーダーを発見した。
「スマホの充電器も入っていると思うから、充電して……」
「それはいいけど、何に使うんだ?」
「いいから、早く……」
「分かった」
この状態の明日奈に逆らうことができるわけがない。僕は言われたとおりにスマホを充電器を挿し、コードをコンセントに挿した。
「次は――」
どうすればいい? と訊きかけて、僕はやめた。明日奈はいつの間にか寝息を立てていたからだ。
僕は隣のベッドに腰掛け、明日奈の寝顔を眺めていた。食事の量が減っているため、すっかり痩せてしまったような気がする。
まさか、こんなことになるなんて、と思った。
このまま明日奈が回復しなかったら、僕はどうすればいいのだろう。
中学生の頃、卓球の大会で圧倒的な強さを見せていた明日奈。高校で友人に会いに隣のクラスへ行ったとき、女の子たちと楽しそうに笑い合っていた明日奈。高校の修学旅行先のホテルの自動販売機の前で、カメラに向かって笑っていた明日奈。10年ぶりに再会したとき、僕のことをすっかり忘れていた明日奈。山上くんって性格が捻くれてるんじゃないの? と言いながら笑っていた明日奈。牢屋に閉じ込められることになったら、山上正道を差し入れしてもらうと言っていた明日奈。
どんなときでも、明日奈は輝いていた。
僕はいつも、そんな彼女を眩しく思いながら見つめていた。
今も、それは変わっていない。
「明日奈……」
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