涙の味に変わるまで【完結】

真名川正志

文字の大きさ
40 / 49

11-1

しおりを挟む
     【11】

 異変は、4月10日の朝から始まった。

「何だか、身体がだるくて、熱っぽいの」

 明日奈は『椿の間』のベッドに寝たまま、そう言った。具合が悪いのは娘の愛ちゃんではなく、母親の明日奈の方だった。

「大丈夫か?」
「うん……どうだろう。何か、凄く眠い」

 明日奈はぼんやりとした表情でそう言った。

「しっかりしろ。とりあえず熱を測ってみよう。体温計を持ってくるから待ってろ」

 僕はそう言うと、急いで倉庫へ行き、救急箱の中から体温計を取り出し、『椿の間』に戻った。明日奈は、ベッドの上で上半身を起こすと、僕から渡された体温計を浴衣の中に入れた。しばらくして、体温計が鳴る音が聞こえた。明日奈は体温計を取り出すと、こう言った。

「38度1分……。ちょっと熱があるみたい」

 僕も体温計を見たが、確かに体温計には38度1分と表示されていた。

「ちょっとじゃないだろ。風邪でも引いたのか?」
「うん……。そんな感じかな」
「炊飯器でお粥を炊いてくる。それと、洗面器に氷水を作って、タオルも持ってくる」
「待って。その前に、愛ちゃんを連れて行って。風邪を移すといけないし、粉ミルクも飲ませないといけないから……」
「分かった。愛ちゃんは僕に任せろ。明日奈は自分のことだけ心配していればいい。とりあえず、今は寝ててくれ」

 僕はそう言うと、愛ちゃんをベビーベッドに載せたまま『椿の間』の外に出した。ベビーベッドの脚の底には毛布で作った靴下を履かせており、愛ちゃんを載せたまま引き摺ることができるようにしていた。

 僕は愛ちゃんを隣の『雀の間』へ連れていった。愛ちゃんはぐっすりと眠っていたので、少しなら目を離しても大丈夫だろうと判断し、急いで食堂へ行き、炊飯器でお粥が炊けるようにセットした。『雀の間』へ寄ったが、やはり愛ちゃんは眠り続けていたので、今は明日奈の方を優先しようと思い、浴室へ行き洗面器を手に取ると、食料庫へ行き、砕いてある氷を洗面器の中に入れた。その洗面器を持って、洗面所へ行き水を汲み、棚からフェイスタオルを取り出して『椿の間』へ行った。洗面器の中の氷水にタオルを浸して絞り、明日奈の額の上に載せた。

「ありがとう……。少し楽になったみたい」

 明日奈は息をしているだけでも苦しそうな様子でそう言った。
 それから僕は、哺乳瓶で粉ミルクを作って愛ちゃんに飲ませたり、愛ちゃんのオムツを替えたり、明日奈にお粥を食べさせたりと、甲斐甲斐しく2人の世話を続けた。

 しかし、明日奈の容体は一向に良くならなかった。救急箱の中に入っていた風邪薬や抗生物質も飲ませてみたのだが、効果はなかった。

 高熱が続き、日に日に明日奈の食欲が衰えていくのが分かった。まだ出産から2週間くらいしか経っておらず、この時期にこの状態は危険だということは、素人の僕にでも分かった。

 明日奈が熱を出し始めてから4日目の、4月14日。

「正道……お願いがあるの」

 明日奈は『椿の間』のベッドの上に横たわったまま、弱々しい口調でそう言った。
 愛ちゃんは『雀の間』で大人しく寝てくれていた。

「何だ? 何でも言ってくれ」
「『桜の間』の、ベッドの下に、私の鞄が入っているの……」
「鞄を持ってくればいいのか?」
「うん……」

 明日奈はそう言って目を閉じた。
 僕は急いで『桜の間』へ行き、ベッドの下を覗いた。すると、1年前に明日奈が持っていた鞄があるのを発見した。それを持って、『椿の間』へ戻る。

「明日奈、鞄を持ってきたよ」
「ありがとう……。その中にスマホが入ってない?」

 明日奈は目を閉じたままそう言った。最初のうちはスマホを持ち歩いていた明日奈だったが、核シェルターの中では不要と判断したのか、いつの間にか鞄の中に入れっ放しになっていたようだ。

「ああ、あったよ」

 僕は鞄の中を探り、スマホと、1年前に充夫のインタビューをするのに使っていたICレコーダーを発見した。

「スマホの充電器も入っていると思うから、充電して……」
「それはいいけど、何に使うんだ?」
「いいから、早く……」
「分かった」

 この状態の明日奈に逆らうことができるわけがない。僕は言われたとおりにスマホを充電器を挿し、コードをコンセントに挿した。

「次は――」

 どうすればいい? と訊きかけて、僕はやめた。明日奈はいつの間にか寝息を立てていたからだ。
 僕は隣のベッドに腰掛け、明日奈の寝顔を眺めていた。食事の量が減っているため、すっかり痩せてしまったような気がする。

 まさか、こんなことになるなんて、と思った。
 このまま明日奈が回復しなかったら、僕はどうすればいいのだろう。

 中学生の頃、卓球の大会で圧倒的な強さを見せていた明日奈。高校で友人に会いに隣のクラスへ行ったとき、女の子たちと楽しそうに笑い合っていた明日奈。高校の修学旅行先のホテルの自動販売機の前で、カメラに向かって笑っていた明日奈。10年ぶりに再会したとき、僕のことをすっかり忘れていた明日奈。山上くんって性格が捻くれてるんじゃないの? と言いながら笑っていた明日奈。牢屋に閉じ込められることになったら、山上正道を差し入れしてもらうと言っていた明日奈。

 どんなときでも、明日奈は輝いていた。

 僕はいつも、そんな彼女を眩しく思いながら見つめていた。
 今も、それは変わっていない。

「明日奈……」

 僕が小さく名前を呼ぶと、明日奈は目を開いた。顔だけを動かし、僕が隣のベッドに寝ているのを見つけると、明日奈は弱々しい笑みを浮かべた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

紙の上の空

中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。 容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。 欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。 血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。 公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。

神様がくれた時間―余命半年のボクと記憶喪失のキミの話―

コハラ
ライト文芸
余命半年の夫と記憶喪失の妻のラブストーリー! 愛妻の推しと同じ病にかかった夫は余命半年を告げられる。妻を悲しませたくなく病気を打ち明けられなかったが、病気のことが妻にバレ、妻は家を飛び出す。そして妻は駅の階段から転落し、病院で目覚めると、夫のことを全て忘れていた。妻に悲しい思いをさせたくない夫は妻との離婚を決意し、妻が入院している間に、自分の痕跡を消し出て行くのだった。一ヶ月後、千葉県の海辺の町で生活を始めた夫は妻と遭遇する。なぜか妻はカフェ店員になっていた。はたして二人の運命は? ―――――――― ※第8回ほっこりじんわり大賞奨励賞ありがとうございました!

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

『大人の恋の歩き方』

設楽理沙
現代文学
初回連載2018年3月1日~2018年6月29日 ――――――― 予定外に家に帰ると同棲している相手が見知らぬ女性(おんな)と 合体しているところを見てしまい~の、web上で"Help Meィィ~"と 号泣する主人公。そんな彼女を混乱の中から助け出してくれたのは ☆---誰ぁれ?----★ そして 主人公を翻弄したCoolな同棲相手の 予想外に波乱万丈なその後は? *☆*――*☆*――*☆*――*☆*    ☆.。.:*Have Fun!.。.:*☆

【完結】知られてはいけない

ひなこ
ホラー
中学一年の女子・遠野莉々亜(とおの・りりあ)は、黒い封筒を開けたせいで仮想空間の学校へ閉じ込められる。 他にも中一から中三の男女十五人が同じように誘拐されて、現実世界に帰る一人になるために戦わなければならない。 登録させられた「あなたの大切なものは?」を、互いにバトルで当てあって相手の票を集めるデスゲーム。 勝ち残りと友情を天秤にかけて、ゲームは進んでいく。 一つ年上の男子・加川準(かがわ・じゅん)は敵か味方か?莉々亜は果たして、元の世界へ帰ることができるのか? 心理戦が飛び交う、四日間の戦いの物語。 (第二回きずな児童書大賞で奨励賞を受賞しました)

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

処理中です...