涙の味に変わるまで【完結】

真名川正志

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「いつ?」
「高校3年生の夏だった。このままだと明日奈と完全に離れ離れになって、会う機会もなくなるだろうと思って、告白したんだ。ラブレターを書いて呼び出して、『ずっと前から好きでした。付き合ってください』ときみに言った。でもきみは、『たとえ世界が滅亡してあなたと2人きりになったとしても、あなたを好きになることはないと思います』と僕に言ったんだ」
「嘘。私、そんなひどいことを言ったの?」

 明日奈は愕然とした表情でそう訊いた。
 言われた方がいつまでも憶えているが、言った方がすぐに忘れてしまうものなのだ。僕の目から涙がこぼれ、床に落ちた。

「言ったよ。今でも時々、そのときのことを夢に見るんだ」
「高校3年生の夏って、具体的にはいつ?」
「期末テストが終わった、次の日だった」
「ああ――。それって、私が2帳の通帳を見つけてしまった、次の日よ。きっと、そのことで苛々して、正道に八つ当たりしちゃったんだと思う」

 明日奈は蒼白な顔でそう言った。

「そうか。それは間が悪かったな。でも、本当に……本当に憶えてないのか? 僕を傷つけたくて、忘れた振りをしているんじゃないのか?」

 僕は嗚咽を漏らしながら言った。泣きたいのは明日奈の方なのだから、僕は泣いてはいけないと思うのに、涙が止まらなかった。

「ごめんなさい……。正直に言うと、小学校高学年くらいから数十回、男子から呼び出されて告白されて、断るということを繰り返していたから、1つ1つのことはよく憶えていないの」
「そうだろうと思ったよ。明日奈は、僕になんか手の届かない、高嶺の花だから」
「――私が『たとえ世界が滅亡してあなたと2人きりになったとしても、あなたを好きになることはないと思います』と言ったから、あなたはこんなことをしたの? 世界が滅亡したのだと私に思い込ませて、私が正道を愛するようになれば、正道の勝ち、みたいな感じで?」
「いや、そこまでのことは考えていなかった。ただ、これくらいのことをしなければ、明日奈には愛してもらえないと思っていたんだ」
「11年前、あなたに酷いことを言ったのは謝るわ。ごめんなさい。でも、だからと言って、私の人生を滅茶苦茶にして、弄んでもいいということにはならない」

 そう言うと、明日奈はエアーロック室とは反対側に向かって廊下を進んでいった。僕は床の上に転がったまま、どこへ行くのだろうとぼんやりと考えていた。
 5分くらいして、明日奈は敷蒲団を引き摺りながら戻ってきた。どこかの寝室から持ってきたのだろう。明日奈は何も言わずに僕の隣に蒲団を敷くと、また引き返していった。フローリングの床の上に長時間転がっていると身体が痛くなるから、という配慮なのだろう。酷いことをした僕に対してそんなふうに気遣うことができるなんて、やはり明日奈は僕なんかとは吊り合わない素晴らしい女性なのだなと思いながら、僕は蒲団の上に移動した。
 動くものがないため、廊下の電灯が自動的に切れてしまった。僕は暗闇の中で明日奈を待った。

 20分くらいして、ようやくまたセンサーが反応して電灯が点いた。1年前に閉じ込められたときの私服に着替えた明日奈が廊下を歩いてきたのだ。1年前と違うのは、シーツを割いて作ったおんぶ紐で、娘をおんぶしていることだった。
 明日奈は僕の近くで立ち止まると、逡巡するような表情をした後、しゃがみ込んだ。先ほど床の上に置いていた赤ちゃんの命名辞典を開き、あるページで手を止めた。

「教えるかどうか迷ったんだけど、もうそんな機会もないだろうし、やっぱり教えておくことにする。これを見て」

 明日奈が本を開いて僕に見せたのは、男の子の名前が載っているページだった。その中に、「正道」という名前があった。
 赤ペンで「正道」に丸がつけてあり、その下に手書きで、「正しい道を進んでくれますように」と書かれていた。

「いつだったか、正道は、名前の由来をお父さんやお母さんに聞いても教えてもらえなかったと話していたことがあったよね。それを根拠に、自分は親から愛されていないのだと思っているようだった。でも、お父さんとお母さんのどちらかは、真剣に考えて名前を付けてくれたんだよ。そのことだけは知っておくべきだと思う」

 正しい道を進んでくれますように、か。
 何だそれ。漢字を見たまんまじゃないか、と思った。本当はやっぱり適当に名前を付けたんじゃないだろうかとも思った。

 しかし、心の別の部分でこう考えていた。
 誰からも愛されていなかったわけじゃなかった。物心ついたときには冷え切った家庭になっていたけど、少なくとも生まれたときは、祝福されていたのだ。正しい道を進んでくれますようにと、両親は考えていたのだ。それなのに僕は、明日奈にひどいことをしてしまった。道を踏み外し、犯罪者になってしまった。

「じゃあ私、もう行くから。愛ちゃんは私が1人で育てるわ。あなたとはもう2度と会いたくない。さようなら」

 それだけ言うと、明日奈は苦労してエアーロック室の扉を開き、通り抜けた。扉の自重で、ドアが勝手に閉まった。
 外に出た明日奈は、きっとスマホで警察に電話しようとするだろう。警察が到着するまで、どれくらい時間が残されているだろう。
 僕はそう思いながら、必死にもがき、芋虫のように床を這って、台所まで行った。包丁で苦労してテープを切り、手足の自由を取り戻した。
 真っ先にやったことは、自分のスマホを録画モードにすることだった。僕は自撮りしながら、コピー用紙にボールペンで、「遺産は全て私の娘の朝日奈愛に相続させる」と書き、日付と名前を書き、包丁で指を切って拇印を押した。
 そのまま撮影を続け、延長コードを抜くと、椅子を持って洗濯物を干す場所に行った。スマホを壁に立てかけて、僕の方を向かせて撮影を続けながら、椅子に乗った。延長コードの端を投げ、輪にすると、首に通した。

「僕にこんなことを言う資格がないのは分かっているけど――頼む。明日奈も愛も、幸せになってくれ」

 僕はスマホに向かってそう言いながら、椅子を蹴った。



 次に目が覚めたときは、警察病院のベッドの上だった。刑事によると、明日奈は警察に通報した後、嫌な予感がしてシェルターの中に引き返して、僕が首を吊っているのを発見して救命したそうだ。

 明日奈に命を助けてもらったのに、再び自殺しようとしたら、明日奈を侮辱することになる。
 そう考え、僕は死ぬのを諦めた。

 長い裁判があり、法廷で裁判長から懲役9年を言い渡されたのが、明日奈を見た最後だった。
 僕は控訴せずにその判決を受け入れ、刑務所に服役した。共犯の充夫は懲役3年となった。

 服役している間、誰も面会に来なかった。

 模範囚として出所したとき、僕は37歳になっていた。

 誰も僕を知らない遠方に引っ越し、工場に就職した僕は、明日奈に養育費を送り始めた。娘の愛が20歳になるまでは送金を続けるつもりだ。僕が亡くなったら、遺産は全て愛に相続させようと思い、節約して真面目に働いている。それが僕の唯一の生きがいだ。愛には苦労をかけているだろうし、会えなくても仕方がないと受け入れている。

 それでも桜が舞う季節になると、明日奈を核シェルターに招き入れたあの日のことを思い出し、口の中が涙の味に変わり始める。

【完】
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