血と束縛と 番外編・拍手お礼短編

北川とも

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番外編 拍手お礼50

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 着替えなどを詰め込んだバッグを肩にかけた鷹津は、改めて部屋を見回す。結局二年も住まなかった部屋で、愛着の欠片も湧かなかったが、それでも数少ない思い出はできた。
 この部屋で、〈オンナ〉を抱いた――。
 鷹津は、静かな眼差しをベッドに向ける。この部屋での無味乾燥の味気ない生活の中で、これ以上ないほどの厄介事と、複雑な男関係を背負った美容外科医との思い出は、目も眩むほど鮮やかな色彩を放っている。
 その思い出の中で生活できなくなるのは惜しかったが、これから先のことを考えると、仕方ない。
 家具類は置いたままにして、処分は回収業者に任せることになっている。部屋の解約だけではなく、諸々の手続きは済ませていた。
 これまでの鷹津は、警察官という職業柄、引っ越しと異動はセットになっていた。数少ない荷物を伴って、辞令に従って勤務地を移り、部屋を移っていた。独身寮生活に嫌気が差して、民間の物件に移ったときは清々したものだ。
 しかしもう、その生活は二度と訪れない。鷹津は、警察官を辞めた。
「とうとう、ヤクザから逃げ回る生活か……」
 いままで警察官という身分に守られて好き勝手してきたが、それも終わりだ。
 この部屋を解約したあとの次の物件は、借りていない。やり残した大事な仕事を終えるまで、何日間かはビジネスホテルを転々としなければならなかった。〈計画〉の遂行のために、総和会から放たれた犬どもに居場所を掴まれるわけにはいかないのだ。
 腕時計で時間を確認すると、もう一つのバッグも持って部屋をあとにする。
 ここ最近の鷹津は、総和会のせいでうんざりするような気分をさんざん味わってきたが、今日ばかりは様子が違う。これから人と会う予定があり、少しばかり心が浮き立っていた。
 部屋を出ると、マンションの駐車場に向かいながら、慎重に周囲を警戒する。〈連中〉は二種類の尾行を使い分けていた。
 一つは、あくまで鷹津の行動を探るため、気配を消して行うものだ。厄介なのは、もう一つのほうだ。尾行の形を取りながら、あえて露骨に姿を見せ、つけていると心理的圧迫をかけてくるものだ。刑事にとっては、後者をやられるほうが、ムカつく。
 何度か、捕まえてぶちのめしてやろうかとも思ったが、これは総和会――というより、長嶺守光と南郷桂の二人による挑発だとわかっているからこそ、ギリギリのところで堪えた。ささやかな報復を心に誓っていたからこそ、できたことだ。
 車を走らせながら、後続車の動向には注意を払っていたが、どうやら今日は尾行はついていないようだった。
 鷹津は短く口笛を吹いてから、煙草を咥えた。


 待ち合わせに指定されたのは、シティホテルのティーラウンジだった。
 ソファにもたれかかりながら、鷹津は気を抜くことなく周囲に鋭く視線を向け続ける。まだ尾行を警戒しているというより、これは純粋に職業病だ。それと、性分。目につく人間を片っ端から観察してしまう。
 興味が持てない人間ばかりだと、自分勝手なことを考えながらコーヒーを啜っていたが、こちらに向かってくる一人の男に目を止め、乱暴にカップを置いていた。
 その男は、ティーラウンジをゆっくりと見回し、冷やかな視線は鷹津の上を素通りする。これは仕方ない。鷹津は男の顔を知っているが、男のほうはそうではない。
 鷹津が軽く手を上げると、男は表情を変えることなく、まっすぐテーブルに歩み寄ってきた。
「――鷹津さん?」
 男にそう呼ばれた途端、鷹津は思わず苦笑を洩らす。
 声まで似ていやがる、と心の中で呟いていた。
「ああ。佐伯さん、だな」
 頷いた男――佐伯英俊が、正面のソファに腰掛ける。
 写真や、遠目ではあるが直接見た顔ではあるのだが、弟である佐伯和彦とやはりよく似ていた。六歳の年齢差分の違いはあるものの、瑣末なことだといえる。ただ、持っている雰囲気は、まったく違った。
 冷たい表情を浮かべたときでも、どこか人を惹きつける色気や艶やかさがある弟のほうとは違い、兄のほうは、何も感じさせない。怜悧で冷淡で、人としての温もりを持っていないのではないかとすら思ってしまう。
 コーヒーを注文した英俊は、さっそくブリーフケースからA4サイズの封筒を取り出した。その封筒を受け取った鷹津は、黙って相手を見る。
「父から預かってきました。あなたに渡せばいいと」
 封筒を開けて中を見てみると、ファイルされた書類が入っていた。
「それと、これも」
 紙袋がテーブルに置かれ、これはなんだと眼差しで問いかけると、淡々とした口調で英俊は答えた。
「当面の活動資金が入っています。あまり使いすぎるなとのことです。連絡は、紙袋に入れてある携帯電話を使ってください。充電器などもすべて入っています。あとで確認してください」
 言いたいことは言ったと、英俊は口を閉じる。コーヒーが運ばれてきたら、一口だけ口をつけてさっさと席を立ちそうな様子だ。
 沈黙で間が持たないと感じるほど、人並みの感覚は持ち合せていない鷹津だが、英俊に――というより、佐伯兄弟の関係について興味があり、黙ってはいられなかった。
「――よく似ているな。あんたと、佐伯……弟は」
 英俊は眼鏡の中央を押し上げると、一瞬、苦痛を感じたように眉をひそめ、ぼそりと応じた。
「兄弟ですから」
「だが、仲はよくない」
「……余計なお世話です。世の中、掃いて捨てるほど、険悪な仲の兄弟はいます」
「だが、見捨てられない。出来の悪い息子を放逐するなんてことも、ない話じゃない。もっとも、官僚ではないものの、弟も有能だろ。なのに佐伯家は、弟のほうを飼い殺しにしたがっている。なぜか」
 コーヒーが運ばれてきて、英俊の前に置かれる。その間も、視線はまっすぐ鷹津を捉え、微動だにしない。眼差しで他人を従わせることに慣れた人間特有の傲慢さが、この男には漂っていた。
 英俊が不快げに唇を歪める。
「会ったばかりの人間を、露骨に値踏みするように見ますね。嫌な人間だと言われたことはありませんか?」
 同じようなことを、しょっちゅう弟のほうから言われていたと教えたら、この男はどんな顔をするだろうか。
 鷹津はわざと下卑た笑みを浮かべ、声を潜めた。
「そんな男を、あんたの父親は頼ろうとしている。これはその証だろ?」
 渡された封筒と紙袋を示して見せると、すでにもう英俊は無表情に戻っていた。
「勘違いしないでください。父は、あなたを利用しようとしているんです」
「光栄だな。政治家や官僚たちの間から、怪物のように言われている佐伯俊哉に、利用する価値があると認められたということは」
「何かあれば、すぐに切り捨てます」
「――あんたに、それを判断する権限はあるのか?」
 答えは、沈黙だった。
 佐伯兄弟にとって、父親である俊哉の影響力はどれほどのものなのだろうと、鷹津は漫然と想像する。普通の父子関係ではないのだろうと、電話で俊哉と話しただけの和彦の反応を思い出し、なんとなく嫌な気分になるのだ。まるで、幼子を苛めたような胸の悪さを、あのときの鷹津は感じていた。
 それでも鷹津は目的のために、俊哉と手を組む――利用されることを選んだ。
「しっかり利用されてやるから、父親に伝えておいてくれ」
 英俊は沈黙を保ったまま、千円札を二枚置いて席を立った。足早に立ち去る後ろ姿を見送った鷹津は、何事もなかったようにコーヒーを飲もうとしたが、のんびりする暇はないことに気づく。
 早々に、落ち着いて過ごせる宿を見つけなければならないのだ。受け取った書類にもじっくりと目を通し、今後の詳細な予定も立てたい。紙袋に封筒を突っ込み、鷹津は立ち上がる。
 ロビーを通り抜けてホテルを出たところで、ふとある光景が視界に飛び込んできた。
 階段の陰に隠れるようにして、さきほど別れたばかりの英俊が立っていた。何をしているのかと目を凝らすと、携帯電話で話している最中のようだ。
 エリート官僚は忙しいらしい。そんなことを思いながら、素知らぬ顔をして立ち去ろうとした鷹津だが、次の瞬間、英俊の表情の変化を目の当たりにして、足を止めた。
 冷たい無表情が一変して、微笑を浮かべたのだ。柔らかく、艶めいたものすら感じさせる表情は、今、英俊の心にある感情がそのまま表に出ているのだろう。その感情を傾けるのは、おそらく電話の相手だ。
 鷹津は、英俊に気づかれないうちに、反対方向へと歩き出す。頭の中では、英俊に関する情報を検索していた。
 英俊は独身で、現在のところつき合っている人間はいないと聞いている。しかし、人間関係など短期間でいくらでも変化する。
 自由に動ける身なら、いくらでも探ってやるのだが、今のところ鷹津は、他にやるべきことが山積している。
 舌打ちして、乱雑に髪を掻き上げると、背後を振り返る。複雑な感情のまま鷹津は呟いた。
「――……本当によく似てる。あいつと、俺の〈オンナ〉は」

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