愛する旦那様へ、この家を出ていきます。もう二度と会うことはないでしょう。

四馬㋟

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第十話

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 その日の夜、月姫子は初めて煌雅の寝室で過ごすことになった。これから本当の意味で彼の妻になれるのだと思うと、喜びのあまり、再び涙がこみ上げてくる。けれど浮かれていたのは最初だけで、

「月姫子さん、どうしたの?」

 深い口づけの後、手馴れた様子の煌雅に帯を解かれ、肌着を脱がされた途端、月姫子は怖気づいてしまった。なぜなら自分の裸が美しくなかったから。既に半年は経っているというのに、継母に折檻された傷跡がまだいたるところに残っていて、シミのように広がっている。

「ごめんなさい」

 月姫子は泣いて謝った。

「どうして謝るの?」
「綺麗じゃ、ないから……」
「それは、初めてじゃないということ?」
「いいえいいえ」

 かぶりを振って、嗚咽混じりに訴える。

「私のような醜い女、誰も相手にしません」
「月姫子さん、君への侮辱は、夫である俺への侮辱でもあるんだよ」

 困ったように指摘されて、身の縮むような思いがした。

「ご、ごめんなさい」
「謝ることはないよ。これからは、神納家当主の妻として、堂々としていればいい」

 それができたらどんなにいいか。
 こんな醜い女を抱いて、煌雅は後悔しないだろうか。

 不安ばかりが募って、そんな自分が嫌になる。

「そろそろ続きをしてもいいかな?」
「……はい」

 煌雅は考え深げに首を傾げると、探るように手を動かした。
 ゆっくりとした慎重な動きで、月姫子の背中に触れる。

「……ところどころ腫れてるね」
「子どもの頃に火傷して……」

 それはウソだった。

 何度目かのお見合いが失敗して、癇癪を起こした継母にやられたのだ。着物を脱がされ、裸にされた状態で、背中に金属製の火鉢を押し付けられた。この時ばかりはさすがに命の危険を感じて家から逃げようとしたものの、準備の途中で体調を崩して寝込んでしまい、回復した頃には逃げる気力も失っていた。

「子どもの頃に? それは災難だったね」

 幸い煌雅に疑う様子はなく、優しく頭を撫でられる。

「でも俺の前では気にしなくていいよ。どうせ見えないんだから」

 盲目であることを茶化すように言う彼に、胸がぎゅっと締め付けられた。月姫子の負い目を少しでも軽くしようとしてくれているのだろう。そのことが嬉しく、気遣われていると実感できた。

「さあ、君も目を閉じて。たまには視覚に頼らないで、俺にだけ集中してよ」

 言われた通り、月姫子はそっと目を閉じた。

 昔から、暗闇は恐ろしいものだと思っていた。けれど今は少しも怖くはない。緊張はしていたし、心臓もうるさいほど高鳴っていたけれど、頼りがいのある温かなぬくもりに包まれて、安心して身を任せることができた。ゆっくりと事は進んでいき――気づけば朝になっていた。

 多少の痛みはあったものの、気持ちはいつになく晴れやかだ。
 この日、この夜、月姫子は神納煌雅の妻になった。



 ***



 目が覚めると、愛する人の腕が身体に絡みついていて、それだけで幸福感を覚えた。

 窓から差し込む朝日が眩しい。
 視界に映る全てのものが美しく、光り輝いて見える。

 このまま愛しい人の腕に抱かれて、幸福感を噛み締めていたかったが、そうもいかない。彼の好きな白ご飯を炊いて、お味噌汁を作らなければ。もうすぐ新鮮なお魚が届くだろうから、焼き魚にして、お漬物はきゅうりとお茄子にしよう。いそげば、いつもの朝食の時間に間に合うかもしれない。

 眠っている夫を起こさないよう、寝台からそっと抜け出して、手早く肌着を身に付ける。着替えている途中、胸の辺りに昨夜の痕跡を見つけて、恥ずかしさと誇らしさで胸がいっぱいになった。

 ――私はもう、無学で醜いだけの女ではないわ。

 これからは辛い過去は忘れて、未来に目を向けよう。

「……月姫子さん、まだ寝ていればいいのに」

 上体を起こした煌雅がこちらに顔を向けているのに気づいて、ドキっとする。

「ごめんなさい、起こしてしまいましか?」
「いいんだ。俺が単に物音に敏感なだけだから」

 ぼんやりとした口調で言いながら「ふわぁ」と大きな欠伸する。
 後ろについた寝癖がなんだか可愛らしい。

 普段は身なりの整った、完璧な姿の煌雅しか見たことがなかったので、寝起き姿の彼は新鮮だった。寝台から降りる気配はなく、枕に背を預けてぼんやりしている。寝起きはあまり良くないといっていたから、そのせいだろう。

「今、温かいお茶をお持ちしますね」
「そんなことはいいから、ベッドに戻っておいでよ」
「……煌雅様ったら」
「前にも言ったろ、君は働きすぎだ。少しくらいサボってもいいんだよ」

 真面目な顔をして何を言うかと思えば、

「サボって何をするんですか?」
「何も。ベッドでごろごろして、俺の抱き枕になるといい」
「お気遣いは嬉しいですが……」
「気遣っているわけじゃなくて、俺の願望を言ってる」

 珍しく子どもじみたことを言い張る煌雅に、愛しさがこみ上げてくる。

「煌雅様……」
「あとその、様を付けるのもやめてくれ」

 わかりましたと、月姫子はすんなり譲歩した。

「ですが私は、いやいや家のことをしているわけでも、煌雅さんのお世話をしているわけでもないんです。好きなんですよ。この家に来て、好きだと気づいたんです。ですから私から唯一の楽しみを取り上げないでくださいまし」

 煌雅は苦虫を噛み潰したような顔をすると、

「その言い方はずるいなぁ」

 とぼやいた。

「それだとまるで、俺と一緒にいるより家事をするほうが好きみたいじゃないか」
「まあ、煌雅さん、これ以上私を困らせないでください」

 以前の自分なら、煌雅に嫌われることを恐れて、彼の言いなりになっていたことだろう。そもそも、このような言い合いに発展することもなかったはずだ。この心境の変化に、一番驚いているのは月姫子自身だった。

 ――煌雅さんにわがままを言えるようになるなんて。

 そしてそのわがままを、煌雅はしぶしぶ受け入れてくれた。
 朝食の支度が済んだら呼んでくれと言って、お布団の中に潜り込む。

 どうやら年甲斐もなく不貞腐れているらしい。。
 月姫子はくすくす忍び笑いをしながら一階へと降りて行き、台所へ入る。

 ――心が通じ合うってこういうことなんだわ。

 鼻歌を口ずさみながら割烹着を身に着け、月姫子は無意識のうちに微笑んでいた。今でも信じられない。自分が初恋の人の妻になれるなんて。これが夢ではないことを実感するために、何度頬をつねったことか。

 ――もしかして一生分の幸福を使い果たしてしまったのではないかしら。

 いっそ怖いくらいだったが、何もかもが順風満帆に思えた。
 この時は……。

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