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しおりを挟む白瀬美都はひたすら逃げていた。走っても走ってもただ暗闇が広がる空間。壁があるわけでもないのに『イッショニナロウ』というノイズ混じりの老若男女の声と狂気をはらんだ笑い声が幾重にも反響している。
終わりの見えない逃走。精神はどんどん追いつめられていく。
美都はぐっと奥歯を噛みしめ、溢れそうになる涙を手の甲で払う。
泣いている暇なんてない。
今は何がなんでも“アレ”から逃げなければ。
『あ……』
限界を迎えた足から力が抜け、崩れるように倒れこんだ。早く立って逃げなければ。そう思ったところで遅かった。どこからかのびてきた幾本の黒い手によって身体が雁字搦めにされた。絶対にはなさないとでもいうように黒い手が身体に食いこみ美都は涙を滲ませた。
ダメだ。“アレ”がくる。逃げなければ。でなければ――また“アレ”に嬲られ、弄ばれ、喰われることになる。
逃げなければという気持ちとは裏腹にフラッシュバックを起こして身体が恐怖で硬直する。
逃げて、喰われて。また逃げて、喰われての繰り返し。何度も、何度も、繰り返し。今が何度目かもわからない。
ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
ギリギリで耐えていた心が崩れていく。
『……ヤダ……もう…許して……』
美都の小さな願いはいつの間にか静かになった空間に溶けて消え、代わりに黒い人影が姿を現した。黒い手に拘束され、項垂れ涙を流す美都の目は絶望に染まっていた。
人影は満足げに口角を上げ――
「――都っ! 美都!」
「っ……ぁっ……」
ようやく目を覚ました美都は虚ろな目をして、ぐったりとベッドに身体を預けたまま弱々しく喘いでいた。今にも止まってしまいそうな呼吸に水無要は美都を抱き起こし、乾いた唇に己の唇を重ね息を吹きこんだ。唇を離すと、美都の熱い吐息が顔を撫でる。一瞬、虚ろなままの美都の目と要の金色に輝く目が合い、つぅっと美都の頬を涙が伝い落ちた。涙を指で拭ってやりながら、要は呼吸が少しでもましになりほっとする。熱がある美都の身体は熱く、寝巻き代わりに着せたTシャツが汗でぐっしょり濡れている。
「美都、水飲もう。それから、身体拭いてあげるから着替えよう」
優しく言って美都を支えながら左腕をのばし、サイドテーブルに用意しておいた吸呑を手に取る。飲み口を美都の下唇にあて慎重に少量の水を含ませる。
(……ダメか)
わずかに口元は動くものの飲みこむことができずに、水はこぼれ顎へ伝っていく。要は眉をひそめ吸呑をサイドテーブルに戻し、代わりに水のペットボトルを手に取った。キャップを開け少量の水を含み、再び美都と唇を重ね口移す。美都の喉が動いた。
「飲めたな」
ぼーっとしている美都の頭を要は微笑みながらエラいと撫でる。
「もう少し、飲もうな」
水を口に含み、口移す。先程よりスムーズに美都は飲むことができた。要は注意深く美都の様子を見つつ、数度にわたり水を口移しで与え続けた。
「よく飲めたな」
中身が三分の一ほど減ったところでペットボトルをサイドテーブルに置き、濡れた口元を拭いてやりそのまま美都の身体をベッドに横たえる。
「じゃあ、ちょっと身体拭く準備してくるな。眠かったら寝ていいから」
離れようとする要のTシャツを美都の力ない手が掴んだ。
「どうした?」
「……ぁ……」
はくはくと口が動くばかりで言葉が出てこない美都の瞳は潤み、Tシャツを掴んでいる手はかすかに震えていた。要は震える冷たい手を握り、美都の顔を覗きこむ。
「大丈夫、すぐに戻ってくるよ。ここは安全だから安心して」
汗ではりついた亜麻色の髪を払って、美都の額にキスをする。反射で閉じられた瞼によって涙がこぼれ落ちた。
「俺がいる。何かあっても俺が守るよ」
涙を指で拭い目元に口づけて、美都の震える熱い身体を抱き寄せる。
「大丈夫、ここに怖いものは入ってこない」
背を撫で顔のあちこちにキスを送りながら、“ここは安全だ”と刷りこむように言葉を紡ぐ。しばらくして、美都の震えが治まった。顔は見れば不安の色が残りつつも穏やかな表情をしていて、涙を拭いていた手に自らすり寄ってくる。
(……かわいい……)
このまま彼を――。
邪な考えが浮かんだ。
「っすぐ、本当にすぐ戻って来るから」
要はすぐさまは己の欲望を押しこめ、美都の身体を放す。
「何かあったらこれ鳴らして」
指にかけるように組紐のついた鈴を渡し、美都の額に口づけ要は部屋を出た。
着替えを済ませ穏やかに眠る美都に要は安堵の息を吐いた。
悪夢に魘されることなく、ゆっくり眠れますように。
おまじないをするように美都の額にキスをする。触れた場所は熱いのに青白い顔をしている美都の横に要はゴロリと寝転がった。ゆったり眠れるように買ったキングサイズのベッド。今は美都も一緒に寝ていて普段に比べれば狭いはずなのに心地いい。
(さすがに疲れたな……)
金色だった要の目が徐々に黒へ戻っていく。
(……腹減った……飯食わないと……)
最後に食べたのはいつだったか。
美都を助けてから三日。幸いケガのほとんどは治癒能力を持つ者によってすぐ治すことができた。しかし、身体と魂が穢されたことによる衰弱からはなかなか回復することができず、要は美都のそばをずっと離れられずにいた。
玄関チャイムが鳴った。うとうとしていた要はガバリと身体を起こした。ベッドから下り、インターホンのカメラを確認する。画面には茶髪をひとまとめに縛った男――狐崎紫乃がひらひらと手を振っているさまが映っていた。要はため息を吐き、玄関に向かい解錠してドアを開ける。
「紫乃、わざわざチャイム鳴らさなくてもカギ預けてあるだろ?」
「あー、やっぱ無意識? なんか美都くんを守りたいって気持ちが溢れちゃってて、勝手に入ったら危なそうだったんだよね。……にても、ヒドいな」
家に招き入れられた紫乃は靴を脱ぎ、脇に立っている要を見た。ボサボサの黒髪に青ざめた顔。リビングに移動してソファーに座るだけのことすら緩慢で疲労を感じさせる。
「その様子じゃ、美都くんは相変わらず?」
要の許可を得ることもなく紫乃はキッチンに入り、持っていた保冷バッグから数個のタッパーを取り出して冷蔵庫を開ける。中の手つかずのタッパーを見て紫乃は眉をひそめ、持ってきたタッパーと入れ替える。
「あぁ、ずっと魘されて熱も下がらない。さっき目を覚ましたから水を飲ませたり、着替えさせたりしたけど朦朧としていてされるがままって感じだった。今は落ち着いて寝てる」
それもいつまでか。この瞬間、薄氷を踏み抜いて堕ちてしまってもおかしくない。
「そっか……。なぁ」
「断る」
「まだ何も言ってない」
「お前の言いたいことはわかる。でも、俺は美都の心を蔑ろにしたくない」
「要の気持ちもわかるけど……」
続く言葉は要の威圧的な視線で止められた。要自身もわかっていた。最善を考えるなら紫乃の考えが正しい。美都の心を大切にしたいというのは建前で、自分の覚悟がないのだ。美都に嫌われる覚悟が。
紫乃は大きく息を吐いた。
「わかった。現状を維持するなら、要。お前はまず飯を食って寝ろ。寝ている間は俺が美都くんを見てるから」
「店はいいのか? 美都が抜けた分もあるだろ?」
申し出はありがたかったが、紫乃はコンビニの店長として忙しくしている。美都もそのコンビニでアルバイトをしていた。大学が夏休みに入りシフトも増やしていたはずだ。二人が抜けた状態で果たして店は大丈夫なのだろうか。
「事情を話したら、みんな協力してくれてる。それにうちのお姫さまが大変お怒りで我が家の居候の尻を叩いて働かせてる」
日頃、ただ飯を食べているのだ。こんなときくらい役に立ってもらわねば困る。紫乃はほんの一瞬、私怨のこもった黒い笑みを浮かべた。
「だから、気にせず休め。お前が倒れたら、美都くんも助からない。わかったら、シャワーでも浴びてスッキリしてこい。その間に飯作っとくから」
そう言って、紫乃は勝手知ったるキッチンで作業を始めた。要は心の中で感謝を伝え、ふらふらと浴室へ向かった。
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