忘れな草の約束を胸に抱く幼なじみ公爵と、誤解とすれ違いばかりの婚約までの物語

柴田はつみ

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第九章 真実の欠片

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 辺境伯領での視察は、予想以上に長引いた。
 冷たい北風と荒れた空が続き、エドガーは帰還の予定を何度も延ばさざるを得なかった。
 夜は火の気の少ない宿舎で地図と報告書に囲まれ、昼は領主との協議や視察地への移動に追われる。

 だが、どんなに仕事が詰まっていても、脳裏に浮かぶのは泉の風景だった。
 雲間からわずかに差す光、夜露を宿す忘れな草、そして——そこに彼女が立っていたかもしれないという想像。

(もし、本当に呼んでくれていたなら……)

 あの時、もう一歩踏み出していればと、何度も思った。
 だが、現実には泉のそばに自分の影はなかった。
 それが彼女にどう映ったか、考えるほど胸が重くなる。

     

 一方、王都。
 リディアは日々を静かに過ごしていた。
 昼は母と共に社交の支度や小規模なお茶会に顔を出し、夜は書庫や庭でひとり過ごす時間が増えた。
 エドガーの不在は屋敷の空気から温度を奪い、彼女の胸に小さな空洞を作っていた。

 そんなある日、旧知の令嬢から小さな封筒が届いた。
《噂を耳にしました。——セリーヌ嬢と公爵様の縁談、正式に進んでいるとか》
 添えられたのは、評議会の記者から流れたという手書きのメモだった。
 そこには、「仮面舞踏会で公爵と最も多くの時間を共にしたのはセリーヌ嬢」とあった。

 リディアはメモを握りしめ、すぐに引き出しへしまい込んだ。
 仮面越しの会話と手の温もりが、紙切れの文字によって急に遠く感じられる。

     

 数日後の午後、王都に戻ったエドガーは馬車を屋敷の門前で降りた。
 冷たい風と共に、旅塵を纏ったまま執事に指示を飛ばす。
「……リディアは?」
「奥様と共に、楽団の公開稽古にお出かけです」
「楽団……」
 ジュリアンの名が脳裏を過る。
 視線が自然と遠くへ向き、馬車をそのまま楽団の練習場へ走らせた。

     

 練習場は石造りの古い建物で、内部は音楽と人のざわめきで満ちていた。
 舞台上ではヴァイオリンの旋律が響き、客席には小規模な観客が座っている。
 エドガーが扉の陰から探すと、前方にリディアの姿があった。
 隣には伯爵令息。彼が何か耳打ちすると、彼女はかすかに笑みを浮かべた。

 その笑顔は、舞踏会で自分に向けられたものと同じなのか——確信が持てない。
 足が自然と前に出そうになったとき、演奏が一旦止まり、ジュリアンが舞台袖から歩み出てきた。

「次の曲は——」と観客へ説明する声が響く。
 リディアの視線が舞台に向かい、拍手を送る。その横顔に、旅の間に募った言葉が喉で詰まる。

     

 演奏が終わった後、出口で再び彼女を見つけた。
「……戻っていたのね」
 リディアは驚きもせず、静かに言った。
「昨日の夕刻は——」
「行けなかった。視察が急に延びた」
「そう」
 短い返事。それ以上は問わず、彼女は外套の裾を整えて伯爵令息と並んで歩き出す。

「送ろう」
「結構よ。——お疲れでしょう?」
 拒まれたのは、気遣いか距離か。その見分けがつかないまま、エドガーはその場に立ち尽くした。

     

 夜。
 書斎の机の上に、旅に出る前に書いた《夕刻、泉にて》の紙がまだ残っていた。
 握りしめた拳が、静かに震える。

(言葉にして渡していれば——)

 机の引き出しに紙を押し込み、ランプを消す。
 窓の外には、雲間から覗く月と、遠く光る庭の泉があった。
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