10 / 26
第十章 約束の続き
しおりを挟む翌朝の空は、透きとおるように晴れていた。
昨夜の月をそのまま溶かしたような淡い光が、屋敷の庭の芝と泉の水面を照らしている。
エドガーは早くから起きていた。机の上には封のない便箋と、褪せた青い切れ端。
(もう、渡さない理由はない)
視察から戻って以来、彼女の目から自分の影が薄くなっているのを感じる。
泉で呼ばれなかったのではなく、来られなかった——その事実を、言葉としてきちんと伝えなければならない。
一方、リディアは侍女のマリーに外出の支度を整えさせていた。
「今日はお出かけですか?」
「ええ、庭まで」
「お庭……では、泉のほうですか?」
問いかけに返事をせず、ただ微笑んだ。
昨日まで胸を塞いでいた重さは、少しだけ和らいでいる。
それは、楽団の公開稽古の帰り道、ふと空を見上げたときに思ったのだ。
(待っているだけじゃ、約束は続かない)
泉のほとり。
空は晴れ、風はやわらかく、忘れな草の青が水面のきらめきに溶けている。
リディアが立つと、子供の頃に二人で並んだ景色が鮮やかによみがえった。
——困ったら呼べ。
——お前が笑ってるときは一緒に笑う。
「……笑ってなんて、いられなかったわ」
小さな独り言は、波紋に呑まれて消えた。
そのとき、背後から規則正しい足音が近づく。
振り向けば、陽を背負ったエドガーが立っていた。
「……来てくれたのね」
「来るなと言われても、来た」
近づくにつれて、彼の息遣いとわずかな旅塵の匂いが感じられる。
彼はポケットから小さな紙片を取り出し、彼女の前に差し出した。
《夕刻、泉にて》——あの日、渡せなかった言葉。
「渡せなかった。……視察が急に延びて、来られなかった」
短い説明なのに、そこには数日分の後悔が詰まっていた。
リディアは紙を見つめ、そして彼を見上げる。
「……じゃあ、私も言うわ。あの日、ここで待ってた。ずっと」
青い瞳が揺れる。
「呼んでくれていたのか」
「ええ。心の中で何度も」
「声に出してくれ」
「今、出すわ。——来て、エドガー」
その瞬間、彼はためらいもなく彼女の手を取った。
掌と掌が重なり、旅の冷たさがゆっくりと溶けていく。
「……俺は、侯爵家との縁談を断る」
低くはっきりとした声が、泉の水面に響く。
「家のためだと言われても、お前を失うほうがよほど損だ」
リディアは唇を震わせ、微笑んだ。
「そんな計算、初めて聞いたわ」
「計算じゃない。……約束だ」
彼はポケットから褪せた青い切れ端を取り出し、彼女の手首に軽く巻いた。
「これを返す日まで、離れない」
「返す日なんて、来るのかしら」
「来ないほうがいい」
二人の影が水面で重なり、ゆらめきながら一つになる。
遠く、屋敷の鐘が昼を告げた。
この日、泉で交わされた言葉は、かつての幼い約束を新しい形で繋ぎ直した。
誤解やすれ違いに何度も揺れた心は、まだ完全にはほどけていない。
けれど、もう片方の手が確かにそこにある——それだけで十分だった。
25
あなたにおすすめの小説
この度娘が結婚する事になりました。女手一つ、なんとか親としての務めを果たし終えたと思っていたら騎士上がりの年下侯爵様に見初められました。
毒島かすみ
恋愛
真実の愛を見つけたと、夫に離婚を突きつけられた主人公エミリアは娘と共に貧しい生活を強いられながらも、自分達の幸せの為に道を切り開き、幸せを掴んでいく物語です。
わかったわ、私が代役になればいいのね?[完]
風龍佳乃
恋愛
ブェールズ侯爵家に生まれたリディー。
しかしリディーは
「双子が産まれると家門が分裂する」
そんな言い伝えがありブェールズ夫婦は
妹のリディーをすぐにシュエル伯爵家の
養女として送り出したのだった。
リディーは13歳の時
姉のリディアーナが病に倒れたと
聞かされ初めて自分の生い立ちを知る。
そしてリディアーナは皇太子殿下の
婚約者候補だと知らされて葛藤する。
リディーは皇太子殿下からの依頼を
受けて姉に成り代わり
身代わりとしてリディアーナを演じる
事を選んだリディーに試練が待っていた。
毒殺されそうになりました
夜桜
恋愛
令嬢イリスは毒の入ったお菓子を食べかけていた。
それは妹のルーナが贈ったものだった。
ルーナは、イリスに好きな恋人を奪われ嫌がらせをしていた。婚約破棄させるためだったが、やがて殺意に変わっていたのだ。
あなたが願った結婚だから
Rj
恋愛
家族の反対を押し切り歌手になるためニューヨークに来たリナ・タッカーは歌手になることを応援してくれる叔母の家に世話になっていた。歌手になることを誰よりも後押ししてくれる従姉妹であり親友でもあるシドニーが婚約者のマーカスとの結婚間際に亡くなってしまう。リナとマーカスはシドニーの最後の願いを叶えるために結婚する。
もう悪役令嬢じゃないんで、婚約破棄してください!
翠月るるな
恋愛
目が覚めたら、冷酷無情の悪役令嬢だった。
しかも舞台は、主人公が異世界から来た少女って設定の乙女ゲーム。彼女は、この国の王太子殿下と結ばれてハッピーエンドになるはず。
て、ことは。
このままじゃ……現在婚約者のアタシは、破棄されて国外追放になる、ということ。
普通なら焦るし、困るだろう。
けど、アタシには願ったり叶ったりだった。
だって、そもそも……好きな人は、王太子殿下じゃないもの。
恋を再び
Rj
恋愛
政略結婚した妻のヘザーから恋人と一緒になりたいからと離婚を切りだされたリオ。妻に政略結婚の相手以外の感情はもっていないが離婚するのは面倒くさい。幼馴染みに妻へのあてつけにと押しつけられた偽の恋人役のカレンと出会い、リオは二度と人を好きにならないと捨てた心をとりもどしていく。
本編十二話+番外編三話。
お互いの幸せのためには距離を置くべきだと言った旦那様に、再会してから溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
男爵家の令嬢であるアムリアは、若くして妻を亡くした伯爵令息ヴィクトールの元に嫁ぐことになった。
しかしヴィクトールは彼女との間に距離を作っており、二人は冷めた夫婦生活を送っていた。
その原因は、ヴィクトールの前妻にあった。亡くなった前妻は嫁いだことを好ましく思っておらず、彼に厳しく当たっていた。そしてそのまま亡くなったことにより、ヴィクトールに深い傷を残していたのである。
そんな事情を知ったことで、アムリアは彼に寄り添おうとしていた。
それはヴィクトールも理解していたが、今の彼には彼女を受け入れるだけの心構えができなていなかった。それ所か、しばらく距離を開けることを提案してきたのである。
ヴィクトールの気持ちも考慮して、アムリアはその提案を受け入れることにした。
彼女は実家に戻り、しばらくの間彼と離れて暮らしたのである。
それからしばらくして、アムリアはヴィクトールと再会した。
すると彼の態度は、以前とは異なっていた。彼は前妻との間にあったしがらみを乗り越えて、元来持っていた愛をアムリアに対して全力で注ぐように、なっていたのである。
殿下からの寵愛は諦めることにします。
木山楽斗
恋愛
次期国王であるロウガスト殿下の婚約は、中々決まらなかった。
婚約者を五人まで絞った現国王だったが、温和な性格が原因して、そこから決断することができなかったのだ。
そこで国王は、決定権をロウガスト殿下に与えることにした。
王城に五人の令嬢を集めて、ともに生活した後、彼が一番妻に迎えたいと思った人を選択する。そういった形式にすることを決めたのだ。
そんな五人の内の一人、ノーティアは早々に出鼻をくじかれることになった。
同じ貴族であるというのに、周りの令嬢と自分を比較して、華やかさがまったく違ったからである。
こんな人達に勝てるはずはない。
そう思った彼女は、王子の婚約者になることを諦めることを決めるのだった。
幸か不幸か、そのことを他の婚約者候補や王子にまで知られてしまい、彼女は多くの人から婚約を諦めた人物として認識されるようになったのである。
そういう訳もあって、彼女は王城で気ままに暮らすことを決めた。
王子に関わらず、平和に暮らそうと思ったのである。
しかし、そんな彼女の意図とは裏腹に、ロウガスト殿下は彼女に頻繁に話しかけてくる。
どうして自分に? そんな疑問を抱きつつ、彼女は王城で暮らしているのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる