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第十一章 揺れる決意
しおりを挟む泉の水面に映る二人の影は、昼の光の中で静かに揺れていた。
リディアは巻かれた青い布切れをそっと押さえ、その感触を確かめる。
褪せた色は年月を宿していたが、その温もりは確かに今の彼から伝わってくるものだった。
「……戻ってきてくれて、嬉しいわ」
「戻らない理由はなかった」
「でも、いくらでも理由を作れる人はいる」
「俺は作らない」
言葉は迷いなく落ち、水面が小さく震える。
短い沈黙のあと、エドガーが低く言った。
「ただ……これから少し、騒がしくなるかもしれない」
「騒がしい?」
「侯爵家は、断ってもすぐには引かないだろう」
彼の視線が泉から遠くの屋敷へと向かう。その横顔は穏やかでありながら、どこか鋼のような硬さを含んでいた。
その予感は、翌日には現実になった。
朝食の席で執事が一通の手紙を差し出したのだ。
「リディア様宛にございます。侯爵家の紋章が……」
母が首を傾げながら封を切る。「まぁ、セリーヌ嬢からのお茶会のお誘いですって」
「私に?」
「ええ。“これまで誤解を与えてしまったことをお詫びし、改めて親しくなりたい”と」
母の声は穏やかだが、その裏に潜む社交の圧力をリディアは感じ取った。
「……出席しなければ、波風が立ちますね」
「ええ。だからこそ、出席なさいな。大人の応対を見せるのよ」
返事はしなかった。ただ青い布切れに指を触れ、息を静かに整えた。
お茶会の日。
侯爵家の応接間は淡い薔薇色の壁紙に包まれ、窓辺のレース越しに庭の白薔薇が揺れている。
セリーヌは笑顔で迎え入れたが、その瞳の奥には測るような光が宿っていた。
「ようこそ、リディア様。今日はぜひ、ざっくばらんにお話を」
「……ありがとうございます」
用意された茶は香り高く、菓子は繊細な細工が施されていた。
だが一口ごとに、言葉の刃が巧妙に差し込まれる。
「公爵様とは長いお付き合いだとか。羨ましいわ」
「幼い頃からの知り合いです」
「幼なじみは、家族のようでいて……時に、それ以上になるものね」
微笑を絶やさず、リディアは茶を口に運んだ。
セリーヌは続ける。
「でも、家のためには新しい縁も必要。そう思いません?」
「……必要な方には、そうでしょうね」
「まぁ、ご謙遜を」
会話は波紋のない湖面のように滑らかだったが、その底では互いに相手の出方を探っていた。
お茶会を終えて屋敷へ戻ると、エドガーが玄関に現れた。
「どうだった」
「礼儀正しく、穏やかに……という場でした」
「何か言われたか」
「いくつか。——家のためには新しい縁も必要、だと」
エドガーの眉がわずかに動く。
「俺がいる前で、同じことを言ってほしいな」
「言わせるの?」
「場合によっては」
短いやり取りのあと、彼は歩み寄り、青い布切れの結び目を確かめるように指先で触れた。
「これが外れるときは、俺が許すときだ」
「許す?」
「お前を離す理由を、自分に許すときだ」
その言葉に、リディアの胸が熱くなる。
けれど同時に、頭のどこかで別の予感が芽を出していた——この先、簡単には許されない嵐が来る、と。
数日後、伯爵令息からの手紙が届いた。
《近日、慈善音楽会がございます。公爵様も招かれるとか。ぜひお隣に》
リディアは封を閉じ、しばらく視線を落とした。
慈善音楽会——公の場で、三人が顔を揃えることになる。
(……揺らぐのは、きっと私だけじゃない)
青い布切れを握りしめ、静かに息を吸った。
その感触は確かで温かい。だが同時に、試される日が近づいていることも確かだった。
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