〔完結〕計算高い聖女に婚約者を奪われましたが、公爵様が私を離してくれません

柴田はつみ

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最終章 もう、誰かのためだけには咲かない

 聖女オフィリアが隣国ウィンザー王国の聖療院へ移ったのは、薄金花の小袋が見つかった日から三日後のことだった。

 王宮からの発表は、短く整えられていた。

 聖女オフィリアは、癒やしの力を正しく学び直すため、ウィンザー王国の聖療院にて一定期間の修養に入る。今後の活動は、王妃エレノアと聖療院長の管理のもとで行われる。

 そこに、罪を断じる激しい言葉はなかった。

 けれど、社交界の者たちは皆、意味を理解した。

 オフィリアは王宮から離された。
 王太子エドワードのそばにも、王妃の慈善事業にも、自由には近づけなくなった。

 リリアベルは、その知らせをアシュフォード伯爵家の自室で聞いた。

 窓の外では、春の終わりを告げるやわらかな風が庭の花を揺らしている。朝の光を受けた薔薇は、王宮の青い薔薇とは違って、華やかな意味を背負っていない。ただ静かに、そこに咲いていた。

 リリアベルは、窓辺の椅子に座ったまま、侍女マリアが読み上げた王宮からの報せを聞いていた。

 胸は晴れなかった。

 オフィリアが遠ざけられたからといって、これまでの痛みが消えるわけではない。青い薔薇の夜も、自分の名を使われた紙も、そんなつもりではなかったという言葉に傷ついた時間も、なかったことにはならない。

 けれど、終わったのだと思った。

 少なくとも、誰かの涙で自分の未来を書き換えられる日々は、ここで終わった。

「お嬢様」

 マリアが、銀盆に一通の封書を載せて戻ってきた。

「王太子殿下より、お手紙が届いております」

 リリアベルは、封書を見つめた。

 胸の奥が、かすかに痛む。

 もう大きく揺れることはない。それでも、長い年月をかけて育てた想いが、完全に消えたわけではなかった。

「ありがとう。読ませて」

 封を開くと、エドワードの整った文字が並んでいた。

 そこに、復縁を願う言葉はなかった。

 君なら分かってくれるという言葉で、私は何度も君を傷つけた。
 オフィリアの涙を見て、泣かなかった君の痛みを見落とした。
 青い薔薇を渡せなかったことだけではない。私は、長い間、君自身を見ていなかった。

 リリアベルは、ゆっくりと読み進めた。

 もう戻ってほしいとは言わない。
 それを願う資格が、今の私にはない。
 ただ、君が自分の未来を選べることを、心から願っている。
 長い間、私の隣で努力してくれたことに感謝する。
 そして、その努力に甘え続けたことを謝罪する。

 最後に、短くこう書かれていた。

 君がこれから歩む道に、穏やかな日々がありますように。

 リリアベルは、手紙を読み終えたあと、しばらく窓の外を見た。

 涙はこぼれなかった。


 エドワードを愛していた時間は、嘘ではなかった。彼の隣に並べる自分になりたいと願った日々も、リリアベルにとっては大切だった。

 だからこそ、終わりは悲しい。

 けれど、戻りたいとは思わない。

 リリアベルは手紙を丁寧に畳み、小さな木箱の中へしまった。何度も読み返すためではない。長く抱えてきた恋を、確かにここへ置いていくためだった。

 その日の午後、リリアベルは王妃エレノアに招かれ、王宮へ向かった。

 もう、王太子の婚約者として向かうのではない。

 アシュフォード伯爵令嬢リリアベルとして、王妃からの正式な相談を受けるためだった。

 案内されたのは、王妃の私的な小広間だった。大きな窓から庭が見え、卓上には慈善事業の資料が並んでいる。施療院へ届ける薬草、孤児院への布、隣国から入る香料の一覧。

 王妃は、リリアベルを穏やかに迎えた。

「来てくれてありがとう、リリアベル」

「お招きいただき、光栄に存じます」

「今日は、王太子妃候補としてではなく、あなた自身にお願いがあります」

 その言葉に、リリアベルは顔を上げた。

 王妃は、机の上の資料へ手を添えた。

「慈善週間の薬草配分と、ウィンザー王国との香料交易の見直しを進めたいのです。あなたの知識が必要です」

「私の、知識が……」

「ええ。あなたは王宮で多くを学びました。その時間を、失ったものにしてはいけません」

 王妃の声は、静かに胸へ届いた。

「あなたは、妃にならなくても、この国に必要な人です」

 リリアベルは、すぐには答えられなかった。

 王太子妃になるために学んだこと。
 殿下の隣にふさわしくあるために積み重ねたこと。
 それらは、婚約が終わればすべて無駄になるのだと思っていた。

 けれど、違った。

 学んだことは、リリアベルの中に残っている。
 誰かの妻になるためだけではなく、人を助けるために使える。

「王妃陛下」

 リリアベルは、ゆっくりと言った。

「私でお役に立てるなら、お受けいたします」

「ありがとう」

「ただ、今度は……誰かのために自分を消すのではなく、自分の意思で学び、働きたいのです」

 王妃は、深く頷いた。

「それでよいのです。むしろ、そうでなければなりません」

 その言葉に、リリアベルの胸が熱くなった。

 王宮は、もう苦しいだけの場所ではないのかもしれない。

 完璧な婚約者として微笑むための場所ではなく、自分の言葉と知識で誰かの役に立てる場所へ、少しずつ変わっていくのかもしれない。

 打ち合わせが終わる頃には、窓の外が夕暮れに染まり始めていた。

 王妃の部屋を出たリリアベルは、庭園へ続く回廊を歩いていた。王宮の中は相変わらず美しい。けれど、以前のように胸を圧迫するような苦しさはなかった。

 庭園の出口に近づいた時、見慣れた深紺の上着が目に入った。

 カイル・ラングフォード公爵だった。

 彼はリリアベルに気づくと、ゆっくり近づき、丁寧に礼をした。

「お疲れさまでした」

「公爵。どうしてこちらへ?」

「王妃陛下とのお話が終わる頃だと思いましたので」

「待っていてくださったのですか」

「はい」

 短い返事だった。

 けれど、胸があたたかくなる。

 誰かに待たれることが、こんなにも穏やかなものだと、リリアベルは知らなかった。

 以前の待つ時間は、いつも痛みを伴っていた。
 殿下がこちらを見てくれるのを待つ。
 約束を思い出してくれるのを待つ。
 聖女様ではなく、自分を選んでくれるのを待つ。

 けれど、カイルの待つは違う。

 
 ただ、リリアベルが自分の意思で歩いてくる場所にいてくれる。

「少し、庭を歩いてもよろしいですか」

 リリアベルが尋ねると、カイルの表情がやわらいだ。

「喜んで」

 二人は庭の小径へ向かった。

 春の終わりの庭には、淡い薔薇が咲いていた。青い薔薇ではない。王家の証でも、婚約者へ贈られる花でもない。

 それでも、美しかった。

「王妃陛下から、新しいお役目をいただきました」

 リリアベルは、歩きながら言った。

「薬草配分と、隣国との香料交易について、意見を求めたいと」

「あなたにふさわしい役目だと思います」

「そうでしょうか」

「ええ。あなたは、誰かの隣にいるためだけに学んできたのではありません。その知識は、あなた自身のものです」

 リリアベルは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

「公爵は、いつも私の中に残っているものを見つけてくださいますね」

「私は見つけているだけです。もともと、あなたの中にあったものです」

「私は、それに気づいていませんでした」

「これから気づいていけばよいのです」

 リリアベルは、庭の薔薇を見た。

「殿下から、手紙が届きました」

 カイルは、急に表情を変えることなく、静かに聞いてくれた。

「そうでしたか」

「戻ってほしいとは書かれていませんでした。謝罪と、感謝と、私の未来を願う言葉でした」

「読んで、つらくなりましたか」

「少し」

 リリアベルは正直に答えた。

「でも、戻りたいとは思いませんでした」

「それが、今のあなたの答えなのですね」

「はい」

 リリアベルは、胸に残る痛みを否定せずに頷いた。

「殿下をお慕いしていた時間は、私にとって大切でした。けれど、その場所へ戻れば、また自分を後回しにしてしまう気がします」

「戻らなくてよいと思います」

 カイルの声は、深く穏やかだった。

「あなたは、もう十分に待ちました」

 その一言に、リリアベルの胸が揺れた。

 彼は、いつもリリアベルが自分で言えない言葉を、そっと差し出してくれる。

 もう十分に待った。

 その通りだった。

「私は、まだ恋をすることが怖いです」

 リリアベルは、小さく言った。

「誰かを好きになれば、また自分を失ってしまうのではないかと考えてしまいます」

 カイルは、すぐには答えなかった。

 庭の風が、二人の間を通り抜ける。

 やがて、彼は静かに言った。

「その怖さごと、大切にしてください」

 リリアベルは、彼を見た。

「怖いままで、よいのですか」

「はい。無理に消す必要はありません。過去を忘れる必要もありません」

 カイルは、リリアベルから少しだけ距離を保ったまま、まっすぐに続けた。

「私は、あなたに急いでほしいとは思っていません。あなたが誰かの隣を選びたいと思える日まで、待ちます」

 リリアベルの胸が、甘く締めつけられた。

「ですが、その時に私の名を思い出していただけるなら、それ以上の幸いはありません」

 それは、求婚ではなかった。

 けれど、どんな華やかな愛の言葉よりも、今のリリアベルには深く届いた。

 急がせない。
 過去を否定しない。
 自分のまま進む時間を、認めてくれる。

 リリアベルは、少しだけ頬を熱くしながら答えた。

「私は、まだすぐにお返事できる心ではありません」

「分かっています」

「それでも……」

 彼女は、庭の薔薇を見つめた。

 青い薔薇を受け取れなかったあの夜から、いくつものことが変わった。
 王太子の婚約者という未来は消えた。
 聖女の涙に揺らされる日々も終わった。
 そして今、自分の隣に、急かさず待ってくれる人がいる。

 リリアベルは、カイルへ向き直った。

「公爵の隣では、私は私のままでいられる気がします」

 カイルの瞳が、かすかに揺れた。

 彼は胸に手を添え、深く礼をした。

「その言葉を、何より大切にします」

 リリアベルは、自然に微笑んだ。

 以前の自分なら、誰かに選ばれることを待っていた。
 青い薔薇を胸に飾られることで、自分の価値を確かめようとしていた。

 けれど、もう違う。

 青い薔薇は、もういらない。
 妃の座も、もう望まない。

 それでも、リリアベルにはこれから選べる未来がある。

 誰かに飾られるためではなく、自分の意思で咲く未来が。

 春の風が、二人の間をやわらかく通り抜けた。

 リリアベルは庭に咲く薔薇を見つめながら、胸の奥で静かに思った。

 もう、誰かのためだけに咲く花ではない。

 これからは、自分の心を裏切らずに生きていく。



ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。

最後までリリアベルを見守ってくださった皆様に、心から感謝いたします。

また次のお話でもお会いできますように。

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