18 / 18
最終章 もう、誰かのためだけには咲かない
聖女オフィリアが隣国ウィンザー王国の聖療院へ移ったのは、薄金花の小袋が見つかった日から三日後のことだった。
王宮からの発表は、短く整えられていた。
聖女オフィリアは、癒やしの力を正しく学び直すため、ウィンザー王国の聖療院にて一定期間の修養に入る。今後の活動は、王妃エレノアと聖療院長の管理のもとで行われる。
そこに、罪を断じる激しい言葉はなかった。
けれど、社交界の者たちは皆、意味を理解した。
オフィリアは王宮から離された。
王太子エドワードのそばにも、王妃の慈善事業にも、自由には近づけなくなった。
リリアベルは、その知らせをアシュフォード伯爵家の自室で聞いた。
窓の外では、春の終わりを告げるやわらかな風が庭の花を揺らしている。朝の光を受けた薔薇は、王宮の青い薔薇とは違って、華やかな意味を背負っていない。ただ静かに、そこに咲いていた。
リリアベルは、窓辺の椅子に座ったまま、侍女マリアが読み上げた王宮からの報せを聞いていた。
胸は晴れなかった。
オフィリアが遠ざけられたからといって、これまでの痛みが消えるわけではない。青い薔薇の夜も、自分の名を使われた紙も、そんなつもりではなかったという言葉に傷ついた時間も、なかったことにはならない。
けれど、終わったのだと思った。
少なくとも、誰かの涙で自分の未来を書き換えられる日々は、ここで終わった。
「お嬢様」
マリアが、銀盆に一通の封書を載せて戻ってきた。
「王太子殿下より、お手紙が届いております」
リリアベルは、封書を見つめた。
胸の奥が、かすかに痛む。
もう大きく揺れることはない。それでも、長い年月をかけて育てた想いが、完全に消えたわけではなかった。
「ありがとう。読ませて」
封を開くと、エドワードの整った文字が並んでいた。
そこに、復縁を願う言葉はなかった。
君なら分かってくれるという言葉で、私は何度も君を傷つけた。
オフィリアの涙を見て、泣かなかった君の痛みを見落とした。
青い薔薇を渡せなかったことだけではない。私は、長い間、君自身を見ていなかった。
リリアベルは、ゆっくりと読み進めた。
もう戻ってほしいとは言わない。
それを願う資格が、今の私にはない。
ただ、君が自分の未来を選べることを、心から願っている。
長い間、私の隣で努力してくれたことに感謝する。
そして、その努力に甘え続けたことを謝罪する。
最後に、短くこう書かれていた。
君がこれから歩む道に、穏やかな日々がありますように。
リリアベルは、手紙を読み終えたあと、しばらく窓の外を見た。
涙はこぼれなかった。
エドワードを愛していた時間は、嘘ではなかった。彼の隣に並べる自分になりたいと願った日々も、リリアベルにとっては大切だった。
だからこそ、終わりは悲しい。
けれど、戻りたいとは思わない。
リリアベルは手紙を丁寧に畳み、小さな木箱の中へしまった。何度も読み返すためではない。長く抱えてきた恋を、確かにここへ置いていくためだった。
その日の午後、リリアベルは王妃エレノアに招かれ、王宮へ向かった。
もう、王太子の婚約者として向かうのではない。
アシュフォード伯爵令嬢リリアベルとして、王妃からの正式な相談を受けるためだった。
案内されたのは、王妃の私的な小広間だった。大きな窓から庭が見え、卓上には慈善事業の資料が並んでいる。施療院へ届ける薬草、孤児院への布、隣国から入る香料の一覧。
王妃は、リリアベルを穏やかに迎えた。
「来てくれてありがとう、リリアベル」
「お招きいただき、光栄に存じます」
「今日は、王太子妃候補としてではなく、あなた自身にお願いがあります」
その言葉に、リリアベルは顔を上げた。
王妃は、机の上の資料へ手を添えた。
「慈善週間の薬草配分と、ウィンザー王国との香料交易の見直しを進めたいのです。あなたの知識が必要です」
「私の、知識が……」
「ええ。あなたは王宮で多くを学びました。その時間を、失ったものにしてはいけません」
王妃の声は、静かに胸へ届いた。
「あなたは、妃にならなくても、この国に必要な人です」
リリアベルは、すぐには答えられなかった。
王太子妃になるために学んだこと。
殿下の隣にふさわしくあるために積み重ねたこと。
それらは、婚約が終わればすべて無駄になるのだと思っていた。
けれど、違った。
学んだことは、リリアベルの中に残っている。
誰かの妻になるためだけではなく、人を助けるために使える。
「王妃陛下」
リリアベルは、ゆっくりと言った。
「私でお役に立てるなら、お受けいたします」
「ありがとう」
「ただ、今度は……誰かのために自分を消すのではなく、自分の意思で学び、働きたいのです」
王妃は、深く頷いた。
「それでよいのです。むしろ、そうでなければなりません」
その言葉に、リリアベルの胸が熱くなった。
王宮は、もう苦しいだけの場所ではないのかもしれない。
完璧な婚約者として微笑むための場所ではなく、自分の言葉と知識で誰かの役に立てる場所へ、少しずつ変わっていくのかもしれない。
打ち合わせが終わる頃には、窓の外が夕暮れに染まり始めていた。
王妃の部屋を出たリリアベルは、庭園へ続く回廊を歩いていた。王宮の中は相変わらず美しい。けれど、以前のように胸を圧迫するような苦しさはなかった。
庭園の出口に近づいた時、見慣れた深紺の上着が目に入った。
カイル・ラングフォード公爵だった。
彼はリリアベルに気づくと、ゆっくり近づき、丁寧に礼をした。
「お疲れさまでした」
「公爵。どうしてこちらへ?」
「王妃陛下とのお話が終わる頃だと思いましたので」
「待っていてくださったのですか」
「はい」
短い返事だった。
けれど、胸があたたかくなる。
誰かに待たれることが、こんなにも穏やかなものだと、リリアベルは知らなかった。
以前の待つ時間は、いつも痛みを伴っていた。
殿下がこちらを見てくれるのを待つ。
約束を思い出してくれるのを待つ。
聖女様ではなく、自分を選んでくれるのを待つ。
けれど、カイルの待つは違う。
ただ、リリアベルが自分の意思で歩いてくる場所にいてくれる。
「少し、庭を歩いてもよろしいですか」
リリアベルが尋ねると、カイルの表情がやわらいだ。
「喜んで」
二人は庭の小径へ向かった。
春の終わりの庭には、淡い薔薇が咲いていた。青い薔薇ではない。王家の証でも、婚約者へ贈られる花でもない。
それでも、美しかった。
「王妃陛下から、新しいお役目をいただきました」
リリアベルは、歩きながら言った。
「薬草配分と、隣国との香料交易について、意見を求めたいと」
「あなたにふさわしい役目だと思います」
「そうでしょうか」
「ええ。あなたは、誰かの隣にいるためだけに学んできたのではありません。その知識は、あなた自身のものです」
リリアベルは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「公爵は、いつも私の中に残っているものを見つけてくださいますね」
「私は見つけているだけです。もともと、あなたの中にあったものです」
「私は、それに気づいていませんでした」
「これから気づいていけばよいのです」
リリアベルは、庭の薔薇を見た。
「殿下から、手紙が届きました」
カイルは、急に表情を変えることなく、静かに聞いてくれた。
「そうでしたか」
「戻ってほしいとは書かれていませんでした。謝罪と、感謝と、私の未来を願う言葉でした」
「読んで、つらくなりましたか」
「少し」
リリアベルは正直に答えた。
「でも、戻りたいとは思いませんでした」
「それが、今のあなたの答えなのですね」
「はい」
リリアベルは、胸に残る痛みを否定せずに頷いた。
「殿下をお慕いしていた時間は、私にとって大切でした。けれど、その場所へ戻れば、また自分を後回しにしてしまう気がします」
「戻らなくてよいと思います」
カイルの声は、深く穏やかだった。
「あなたは、もう十分に待ちました」
その一言に、リリアベルの胸が揺れた。
彼は、いつもリリアベルが自分で言えない言葉を、そっと差し出してくれる。
もう十分に待った。
その通りだった。
「私は、まだ恋をすることが怖いです」
リリアベルは、小さく言った。
「誰かを好きになれば、また自分を失ってしまうのではないかと考えてしまいます」
カイルは、すぐには答えなかった。
庭の風が、二人の間を通り抜ける。
やがて、彼は静かに言った。
「その怖さごと、大切にしてください」
リリアベルは、彼を見た。
「怖いままで、よいのですか」
「はい。無理に消す必要はありません。過去を忘れる必要もありません」
カイルは、リリアベルから少しだけ距離を保ったまま、まっすぐに続けた。
「私は、あなたに急いでほしいとは思っていません。あなたが誰かの隣を選びたいと思える日まで、待ちます」
リリアベルの胸が、甘く締めつけられた。
「ですが、その時に私の名を思い出していただけるなら、それ以上の幸いはありません」
それは、求婚ではなかった。
けれど、どんな華やかな愛の言葉よりも、今のリリアベルには深く届いた。
急がせない。
過去を否定しない。
自分のまま進む時間を、認めてくれる。
リリアベルは、少しだけ頬を熱くしながら答えた。
「私は、まだすぐにお返事できる心ではありません」
「分かっています」
「それでも……」
彼女は、庭の薔薇を見つめた。
青い薔薇を受け取れなかったあの夜から、いくつものことが変わった。
王太子の婚約者という未来は消えた。
聖女の涙に揺らされる日々も終わった。
そして今、自分の隣に、急かさず待ってくれる人がいる。
リリアベルは、カイルへ向き直った。
「公爵の隣では、私は私のままでいられる気がします」
カイルの瞳が、かすかに揺れた。
彼は胸に手を添え、深く礼をした。
「その言葉を、何より大切にします」
リリアベルは、自然に微笑んだ。
以前の自分なら、誰かに選ばれることを待っていた。
青い薔薇を胸に飾られることで、自分の価値を確かめようとしていた。
けれど、もう違う。
青い薔薇は、もういらない。
妃の座も、もう望まない。
それでも、リリアベルにはこれから選べる未来がある。
誰かに飾られるためではなく、自分の意思で咲く未来が。
春の風が、二人の間をやわらかく通り抜けた。
リリアベルは庭に咲く薔薇を見つめながら、胸の奥で静かに思った。
もう、誰かのためだけに咲く花ではない。
これからは、自分の心を裏切らずに生きていく。
ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。
最後までリリアベルを見守ってくださった皆様に、心から感謝いたします。
また次のお話でもお会いできますように。
王宮からの発表は、短く整えられていた。
聖女オフィリアは、癒やしの力を正しく学び直すため、ウィンザー王国の聖療院にて一定期間の修養に入る。今後の活動は、王妃エレノアと聖療院長の管理のもとで行われる。
そこに、罪を断じる激しい言葉はなかった。
けれど、社交界の者たちは皆、意味を理解した。
オフィリアは王宮から離された。
王太子エドワードのそばにも、王妃の慈善事業にも、自由には近づけなくなった。
リリアベルは、その知らせをアシュフォード伯爵家の自室で聞いた。
窓の外では、春の終わりを告げるやわらかな風が庭の花を揺らしている。朝の光を受けた薔薇は、王宮の青い薔薇とは違って、華やかな意味を背負っていない。ただ静かに、そこに咲いていた。
リリアベルは、窓辺の椅子に座ったまま、侍女マリアが読み上げた王宮からの報せを聞いていた。
胸は晴れなかった。
オフィリアが遠ざけられたからといって、これまでの痛みが消えるわけではない。青い薔薇の夜も、自分の名を使われた紙も、そんなつもりではなかったという言葉に傷ついた時間も、なかったことにはならない。
けれど、終わったのだと思った。
少なくとも、誰かの涙で自分の未来を書き換えられる日々は、ここで終わった。
「お嬢様」
マリアが、銀盆に一通の封書を載せて戻ってきた。
「王太子殿下より、お手紙が届いております」
リリアベルは、封書を見つめた。
胸の奥が、かすかに痛む。
もう大きく揺れることはない。それでも、長い年月をかけて育てた想いが、完全に消えたわけではなかった。
「ありがとう。読ませて」
封を開くと、エドワードの整った文字が並んでいた。
そこに、復縁を願う言葉はなかった。
君なら分かってくれるという言葉で、私は何度も君を傷つけた。
オフィリアの涙を見て、泣かなかった君の痛みを見落とした。
青い薔薇を渡せなかったことだけではない。私は、長い間、君自身を見ていなかった。
リリアベルは、ゆっくりと読み進めた。
もう戻ってほしいとは言わない。
それを願う資格が、今の私にはない。
ただ、君が自分の未来を選べることを、心から願っている。
長い間、私の隣で努力してくれたことに感謝する。
そして、その努力に甘え続けたことを謝罪する。
最後に、短くこう書かれていた。
君がこれから歩む道に、穏やかな日々がありますように。
リリアベルは、手紙を読み終えたあと、しばらく窓の外を見た。
涙はこぼれなかった。
エドワードを愛していた時間は、嘘ではなかった。彼の隣に並べる自分になりたいと願った日々も、リリアベルにとっては大切だった。
だからこそ、終わりは悲しい。
けれど、戻りたいとは思わない。
リリアベルは手紙を丁寧に畳み、小さな木箱の中へしまった。何度も読み返すためではない。長く抱えてきた恋を、確かにここへ置いていくためだった。
その日の午後、リリアベルは王妃エレノアに招かれ、王宮へ向かった。
もう、王太子の婚約者として向かうのではない。
アシュフォード伯爵令嬢リリアベルとして、王妃からの正式な相談を受けるためだった。
案内されたのは、王妃の私的な小広間だった。大きな窓から庭が見え、卓上には慈善事業の資料が並んでいる。施療院へ届ける薬草、孤児院への布、隣国から入る香料の一覧。
王妃は、リリアベルを穏やかに迎えた。
「来てくれてありがとう、リリアベル」
「お招きいただき、光栄に存じます」
「今日は、王太子妃候補としてではなく、あなた自身にお願いがあります」
その言葉に、リリアベルは顔を上げた。
王妃は、机の上の資料へ手を添えた。
「慈善週間の薬草配分と、ウィンザー王国との香料交易の見直しを進めたいのです。あなたの知識が必要です」
「私の、知識が……」
「ええ。あなたは王宮で多くを学びました。その時間を、失ったものにしてはいけません」
王妃の声は、静かに胸へ届いた。
「あなたは、妃にならなくても、この国に必要な人です」
リリアベルは、すぐには答えられなかった。
王太子妃になるために学んだこと。
殿下の隣にふさわしくあるために積み重ねたこと。
それらは、婚約が終わればすべて無駄になるのだと思っていた。
けれど、違った。
学んだことは、リリアベルの中に残っている。
誰かの妻になるためだけではなく、人を助けるために使える。
「王妃陛下」
リリアベルは、ゆっくりと言った。
「私でお役に立てるなら、お受けいたします」
「ありがとう」
「ただ、今度は……誰かのために自分を消すのではなく、自分の意思で学び、働きたいのです」
王妃は、深く頷いた。
「それでよいのです。むしろ、そうでなければなりません」
その言葉に、リリアベルの胸が熱くなった。
王宮は、もう苦しいだけの場所ではないのかもしれない。
完璧な婚約者として微笑むための場所ではなく、自分の言葉と知識で誰かの役に立てる場所へ、少しずつ変わっていくのかもしれない。
打ち合わせが終わる頃には、窓の外が夕暮れに染まり始めていた。
王妃の部屋を出たリリアベルは、庭園へ続く回廊を歩いていた。王宮の中は相変わらず美しい。けれど、以前のように胸を圧迫するような苦しさはなかった。
庭園の出口に近づいた時、見慣れた深紺の上着が目に入った。
カイル・ラングフォード公爵だった。
彼はリリアベルに気づくと、ゆっくり近づき、丁寧に礼をした。
「お疲れさまでした」
「公爵。どうしてこちらへ?」
「王妃陛下とのお話が終わる頃だと思いましたので」
「待っていてくださったのですか」
「はい」
短い返事だった。
けれど、胸があたたかくなる。
誰かに待たれることが、こんなにも穏やかなものだと、リリアベルは知らなかった。
以前の待つ時間は、いつも痛みを伴っていた。
殿下がこちらを見てくれるのを待つ。
約束を思い出してくれるのを待つ。
聖女様ではなく、自分を選んでくれるのを待つ。
けれど、カイルの待つは違う。
ただ、リリアベルが自分の意思で歩いてくる場所にいてくれる。
「少し、庭を歩いてもよろしいですか」
リリアベルが尋ねると、カイルの表情がやわらいだ。
「喜んで」
二人は庭の小径へ向かった。
春の終わりの庭には、淡い薔薇が咲いていた。青い薔薇ではない。王家の証でも、婚約者へ贈られる花でもない。
それでも、美しかった。
「王妃陛下から、新しいお役目をいただきました」
リリアベルは、歩きながら言った。
「薬草配分と、隣国との香料交易について、意見を求めたいと」
「あなたにふさわしい役目だと思います」
「そうでしょうか」
「ええ。あなたは、誰かの隣にいるためだけに学んできたのではありません。その知識は、あなた自身のものです」
リリアベルは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「公爵は、いつも私の中に残っているものを見つけてくださいますね」
「私は見つけているだけです。もともと、あなたの中にあったものです」
「私は、それに気づいていませんでした」
「これから気づいていけばよいのです」
リリアベルは、庭の薔薇を見た。
「殿下から、手紙が届きました」
カイルは、急に表情を変えることなく、静かに聞いてくれた。
「そうでしたか」
「戻ってほしいとは書かれていませんでした。謝罪と、感謝と、私の未来を願う言葉でした」
「読んで、つらくなりましたか」
「少し」
リリアベルは正直に答えた。
「でも、戻りたいとは思いませんでした」
「それが、今のあなたの答えなのですね」
「はい」
リリアベルは、胸に残る痛みを否定せずに頷いた。
「殿下をお慕いしていた時間は、私にとって大切でした。けれど、その場所へ戻れば、また自分を後回しにしてしまう気がします」
「戻らなくてよいと思います」
カイルの声は、深く穏やかだった。
「あなたは、もう十分に待ちました」
その一言に、リリアベルの胸が揺れた。
彼は、いつもリリアベルが自分で言えない言葉を、そっと差し出してくれる。
もう十分に待った。
その通りだった。
「私は、まだ恋をすることが怖いです」
リリアベルは、小さく言った。
「誰かを好きになれば、また自分を失ってしまうのではないかと考えてしまいます」
カイルは、すぐには答えなかった。
庭の風が、二人の間を通り抜ける。
やがて、彼は静かに言った。
「その怖さごと、大切にしてください」
リリアベルは、彼を見た。
「怖いままで、よいのですか」
「はい。無理に消す必要はありません。過去を忘れる必要もありません」
カイルは、リリアベルから少しだけ距離を保ったまま、まっすぐに続けた。
「私は、あなたに急いでほしいとは思っていません。あなたが誰かの隣を選びたいと思える日まで、待ちます」
リリアベルの胸が、甘く締めつけられた。
「ですが、その時に私の名を思い出していただけるなら、それ以上の幸いはありません」
それは、求婚ではなかった。
けれど、どんな華やかな愛の言葉よりも、今のリリアベルには深く届いた。
急がせない。
過去を否定しない。
自分のまま進む時間を、認めてくれる。
リリアベルは、少しだけ頬を熱くしながら答えた。
「私は、まだすぐにお返事できる心ではありません」
「分かっています」
「それでも……」
彼女は、庭の薔薇を見つめた。
青い薔薇を受け取れなかったあの夜から、いくつものことが変わった。
王太子の婚約者という未来は消えた。
聖女の涙に揺らされる日々も終わった。
そして今、自分の隣に、急かさず待ってくれる人がいる。
リリアベルは、カイルへ向き直った。
「公爵の隣では、私は私のままでいられる気がします」
カイルの瞳が、かすかに揺れた。
彼は胸に手を添え、深く礼をした。
「その言葉を、何より大切にします」
リリアベルは、自然に微笑んだ。
以前の自分なら、誰かに選ばれることを待っていた。
青い薔薇を胸に飾られることで、自分の価値を確かめようとしていた。
けれど、もう違う。
青い薔薇は、もういらない。
妃の座も、もう望まない。
それでも、リリアベルにはこれから選べる未来がある。
誰かに飾られるためではなく、自分の意思で咲く未来が。
春の風が、二人の間をやわらかく通り抜けた。
リリアベルは庭に咲く薔薇を見つめながら、胸の奥で静かに思った。
もう、誰かのためだけに咲く花ではない。
これからは、自分の心を裏切らずに生きていく。
ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。
最後までリリアベルを見守ってくださった皆様に、心から感謝いたします。
また次のお話でもお会いできますように。
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
女神の加護を持つ本物の娘が戻ってきました。偽物の私はどうすればいいのでしょうか
Mag_Mel
恋愛
名門アウレリア家で育ったレイチェルと、貧民街で育ったシンディ。
本来は逆の立場で生まれるはずだったふたりは、女神の暇つぶしによって産まれてすぐに入れ替えられていた。
その事実を知らぬまま貴族の令嬢として十八年を過ごしたレイチェルの前に、女神の加護を持つ「本物の娘」シンディが現れる。
それを境に、アウレリア家とは血の繋がりが無いことが判明したレイチェルの立場は曖昧なものとなった。
追い出されることもなく、家族として受け入れられることもない、中途半端な日々。
「お前は何も気にしなくていい」と兄は言うが、心は少しずつ削れていく。
そんな折、奉仕視察で訪れた貧民街で、彼女は思いがけない出会いを果たすことになる。
控えろと命じたのは王太子殿下ですので
くるみ
ファンタジー
王太子殿下に「控えろ」と命じられた公爵令嬢ミレイア。
ならばご命令どおりに、王太子妃教育も、政務補佐も、王宮文書局への出仕も、すべて控えさせていただきます。
彼女が王宮に行かなくなったその日から、これまで隠れていた綻びが少しずつ表に出始める。
「控えろと命じたのは、王太子殿下ですので」
冷遇する婚約者に、冷たさをそのままお返しします。
もちもちほっぺ
恋愛
貴族の娘、ミーシャは婚約者ヴィクターの冷酷な仕打ちによって自信と感情を失い、無感情な仮面を被ることで自分を守るようになった。エステラ家の屋敷と庭園の中で静かに過ごす彼女の心には、怒りも悲しみも埋もれたまま、何も感じない日々が続いていた。
事なかれ主義の両親の影響で、エステラ家の警備はガバガバですw
【完結】五年苦しんだの、次は貴方の番です。~王太子妃は許す気はありません~
なか
恋愛
「フィリア、頼む」
私の名前を呼びながら、彼が両膝を地面に落とす。
真紅の髪に添えられた碧色の瞳が、乞うように私を見上げていた。
彼––エリクはハーヴィン王国の王太子であり、隣国のシルヴァン国の王女の私––フィリアは彼の元へ嫁いだ。
しかし嫁いだ先にて……私は『子が産めない』身である事を告げられる。
絶望の中でエリクは、唯一の手を差し伸べてくれた。
しかし待っていたのは苦しみ、耐え続けねばならぬ日々。
『子が産めない』私は、全ての苦痛を耐え続けた……全ては祖国の民のため。
しかし、ある事実を知ってその考えは変わる。
そして……
「頼む。俺と離婚してほしい」
その言葉を、他でもないエリクから告げさせる事が叶った。
実り叶ったこの瞬間、頭を落として頼み込むエリクに、私は口元に微笑みを刻む。
これまで苦しんできた日々、約五年。
それがようやく報われる。
でもね、許す気はない。
さぁ、エリク。
『次は貴方の番です』
◇◇◇◇
ざまぁを多めにしたお話。
強い女性が活躍する爽快さを目指しております。
読んでくださると嬉しいです!
知らぬはヒロインだけ
ネコフク
恋愛
「クエス様好きです!」婚約者が隣にいるのに告白する令嬢に唖然とするシスティアとクエスフィール。
告白してきた令嬢アリサは見目の良い高位貴族の子息ばかり粉をかけて回っていると有名な人物だった。
しかも「イベント」「システム」など訳が分からない事を言っているらしい。
そう、アリサは転生者。ここが乙女ゲームの世界で自分はヒロインだと思っている。
しかし彼女は知らない。他にも転生者がいることを。
※不定期連載です。毎日投稿する時もあれば日が開く事もあります。
幼馴染が夫を奪った後に時間が戻ったので、婚約を破棄します
天宮有
恋愛
バハムス王子の婚約者になった私ルーミエは、様々な問題を魔法で解決していた。
結婚式で起きた問題を解決した際に、私は全ての魔力を失ってしまう。
中断していた結婚式が再開すると「魔力のない者とは関わりたくない」とバハムスが言い出す。
そしてバハムスは、幼馴染のメリタを妻にしていた。
これはメリタの計画で、私からバハムスを奪うことに成功する。
私は城から追い出されると、今まで力になってくれた魔法使いのジトアがやって来る。
ずっと好きだったと告白されて、私のために時間を戻す魔法を編み出したようだ。
ジトアの魔法により時間を戻すことに成功して、私がバハムスの妻になってない時だった。
幼馴染と婚約者の本心を知ったから、私は婚約を破棄します。
この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
冤罪から逃れるために全てを捨てた。
四折 柊
恋愛
王太子の婚約者だったオリビアは冤罪をかけられ捕縛されそうになり全てを捨てて家族と逃げた。そして以前留学していた国の恩師を頼り、新しい名前と身分を手に入れ幸せに過ごす。1年が過ぎ今が幸せだからこそ思い出してしまう。捨ててきた国や自分を陥れた人達が今どうしているのかを。(視点が何度も変わります)