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第一章「自由の代償」
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王宮を去る朝は、雪明りがやわらかく地面を照らしていた。
門前に並んだ黒塗りの馬車の前で、老執事フリードが膝を折る。
「王妃――いえ、リディア様。道中、くれぐれもご自愛を」
「ええ。あなたも元気で、フリード」
「……陛下より、最後にこれを預かっております」
差し出されたのは、薄い革装丁の書冊。表紙の金箔には“王宮礼式・改訂稿”とある。
開けば、端正な筆致の注釈がいくつも添えられていた。私が王妃時代、どうしても馴染めなかった細目の改訂案――私が密かに提案し、宙ぶらりんになっていたものだ。
「……ありがとう」
唇の奥で言葉がほどけ、私はそっと本を閉じる。
別れの挨拶はそれだけだった。王門が開き、車輪が雪を踏む音が遠のいてゆく。白い石造りの塔がひとつ、またひとつ後方へ滑り、王都の輪郭は次第に霞に紛れた。
自由は、こんなにも静かなものなのだろうか。
胸の奥で風が鳴る。冷たいのに、確かに肺はよく動いた。私は薄手の毛皮の襟を立て、指先で革表紙を撫でた。
公爵領ファルネーゼ。
冬の陽光が谷間の村々を白く縁取り、丘の上の小城は変わらず慎ましく立っていた。父は公務で地方巡察に出ており、城の迎えは最小限だ。
私は王妃の称号を返上し、ただの“公爵令嬢リディア”に戻る手続きを淡々と済ませた。
夜、女官頭のマリアが暖炉に薪をくべながら言った。
「お戻りになって、城の空気が少し若返ったようでございますよ」
「そうかしら」
「ええ。皆、リディア様の穏やかな足音を恋しがっておりましたから」
私の足音。
王宮では、いつも音を小さく殺すように歩いていた。
マリアは銀の盆に薬草茶を置き、声を潜める。
「――王都では、いま“雪薔薇祭”の準備が始まっているとか。陛下もご出席で」
「そう……」
祭の初日に王が雪の花弁を掬い、凍ての精霊に豊穣を祈る古い習わし。私は三度、その儀式を遠目に見ただけだった。王妃席に座りながら、隣は空席のまま。
私は茶碗を持ち直し、微笑を作る。
「私には、いまは領地の冬支度が先よ。倉庫の管理や橋の修繕、やることがたくさんあるわ」
そう言えば、胸の空洞に少し土が入る。
働けば、空白は埋まる。たぶん。
翌朝、私は正門ではなく裏門から城外へ出た。
市場の匂いは王都のそれよりも素朴で、焼き栗と燻したチーズの香りがまじる。行商人の荷車には山から切り出された薪と、雪の下から掘り出した冬菜。
フードを目深にかぶると、誰も私が公爵令嬢だとは気づかない。
「奥さん、手袋はどうだい。うちのは羊毛に狼の毛が混ざっていて温かいよ」
「では、ひとつ。……もうひとつ、あちらの小さなものも」
「良い目利きだ。そっちは縫い目が細かい」
手袋を包む紙に古い字が滲んでいる。“東境の狼、出没注意”。
「最近、狼が多いの?」
「獣だけじゃないさ」行商人は声をひそめた。「森に“呪いの眼”が出るって。ほら、寒気がひどくなる夜、遠くで紫の光が揺らめくってやつ」
「紫の……」
「古い森の魔獣だ。王都の騎士団は、今季は人手が足りねえらしい。国王様が国境へ使節を出しているとかで」
国境。使節。
ミレーネの黒髪が雪に張り付く光景が、唐突に想像の中に差し込んできた。
私は紙袋を抱え直し、礼を言って足早に市場を抜けた。
城に戻る前に、小さな酒場に寄る。
扉を開くと、暖炉の火がぱちぱちとはぜ、数人の旅人がスープを啜っていた。壁には剣帯を掛けるための古い釘。
奥の卓で、栗毛の男が手袋の縫い目を確かめながら呟く。
「狼の報せが三件、森の裂け目が二件……厄介だな」
背に古傷。革鎧は使い込まれているが、清潔に手入れされている。
私は卓の空席に近づき、声をかけた。
「裂け目、というのは?」
「……誰だ」男は視線だけを上げた。薄青い瞳が鋭いが、刺すような残酷さはない。
「ただの領民です。森へ薬草を摘みに行くことがあるので」
「裂け目は、地のことではない。魔力の流れがほつれる。見えるやつには見える。見えないやつには、ただ寒気が強まる夜に頭痛がするだけだ」
私は一拍遅れて笑った。「見える人、なのね」
「……あんたもだろう」
心臓が一瞬だけ痙攣する。
男は卓に地図を広げ、指で谷筋を辿った。
「東の黒樅の森、この辺りに二つ。冬の魔獣が“眼”を産み落とす。騎士団が出払ってる今、領内の腕利きで囲い込むしかない」
「囲い込む?」
「森の縁に火を回し、進路を狭めて誘導していく。町へ下りる前に仕留める」
「あなたは――」
「名乗るほどの者じゃない」男は肩をすくめた。「いまは傭兵をやってる。名前はカイン。昔は王都で盾を持っていたこともある」
王都で盾――近衛、あるいは。
私はスカートの裾をつまみ、丁寧に礼をした。
「カイン。もしよければ、私にも手伝わせてください」
「冗談じゃない。森で素人は死ぬ」
「薬草の見分けと、少しの火なら扱えます。……それに、見えるものもあります」
私が手袋を外すと、白い指先に薄く魔光が灯った。炎ではなく、灯。
男の瞳にわずかな興味が走る。
「誰に教わった」
「誰にも。子どものころから、光は手の内にあるものだと思っていました」
「……なるほど」
沈黙ののち、カインは頷いた。
「夜明け前に森へ入る。足を引っ張るなよ、領民」
私は微笑をこぼしそうになって、それを飲み込んだ。
夜明け前の森は、音がない。
雪を踏むたび、世界がからんと鳴る。焚き火の赤がかすかに残る陣地で、カインが手短に指示を飛ばす。
「南の見張り、東の岩棚に二人。火は合図まで絶対に上げるな。風は北から、煙が戻る。……リディア、こっちだ」
名を呼ばれて視線が交わる。訂正しようかと思ったが、やめた。
魔獣は冬の底から上がってくるという。人間の温い息を嗅ぎつけ、開いた裂け目から這い出る。
私は両手を胸の前で組み、息を整えた。
最初の異変は、静けさの向こうから来た。
眼に見えないほど微細な“鳴き”――魔力の糸が擦れる音。薄紫の膜が、木々の間でふっと明滅する。
カインが低く呟く。「来る」
姿を現したのは、鹿の骨格に氷の皮膜を纏ったような影だった。
眼の代わりに空洞があり、その中で紫の光がゆっくりと回転している。
私は喉を鳴らし、足を半歩引いた。
「恐れるな。眼に向かって光を当てろ。炎は暴れる。光だ」
「わかってる」
指先に灯を集める。
手の中の魔石がなくとも、体内のどこかに泉がある。その泉に沈んでいくように、ゆっくりと息を吐く。
光が弾け、細い矢の形に整う。
「今だ」
私の光が紫の空洞を射抜き、魔獣が一瞬だけ足を止めた。
その隙に、カインの刃が氷膜の下の筋を切る。
クリスタルが砕けるような音――獣は雪の上で崩れた。
息が弾む。指先が震えている。
カインが短く笑った。「やるじゃないか、領民」
「手が、少し……」
「初めてなら当然だ。無茶はするな」
二体、三体。森の裂け目は小刻みに開き、小鬼のような氷の獣を吐き出す。
光と刃。呼吸。
いつしか夜は浅く、東の空が灰色に滲んだ。最後の“眼”が細い声で鳴き、やがて静かに沈む。
仲間が歓声を上げる。焚き火に薪がくべられ、湯が沸く音。
私は手袋を脱ぎ、火にかざしてこわばった指を解く。
「……これで、村には下りない?」
「ああ。お前の矢が効いた」
カインは湯の入った木杯を差し出し、隣に腰を下ろした。
近くで見ると、彼の横顔には深い傷が一本、耳の後ろに走っている。
「昔、王都で盾を持っていたと言っていたわね」
「ああ。若かった。風向きが変わって、俺は門の外へ出た」
「風向き?」
「――王の側で働くには、信じる相手を間違えてはいけない。俺は、間違えた」
その言い回しは、どこか自嘲が混じっていた。
私は湯の縁を指でなぞり、遠い王都の塔を思い浮かべる。
銀糸の髪、蒼い瞳。
冷たいのに、時折、扉の外側でじっとこちらを見る視線。
気のせいだと、何度も自分に言い聞かせた視線。
焚き火がぱち、と鳴る。
カインがこちらを見た。
「王妃だった女が、どうして森で手を汚している」
「王妃ではないわ」
「元、だ。……あんたの指は綺麗だが、恐ろしく芯が強い」
私は笑う。
「芯なんてない。ただ、空白を埋めたいだけ」
「空白?」
「三年分の、沈黙」
言ってから、自分で驚く。言葉にすると、胸の底の冷えが少しだけ掬い上げられた。
「――王都へ戻る気はないのか」
「ないわ。いまは」
「“いまは”か」
カインは湯を一息に飲み干し、立ち上がった。
「東の見張りと交代してくる。焚き火から離れるな」
「ありがとう」
彼の背を見送りながら、私はポケットから例の書冊を取り出した。
“王宮礼式・改訂稿”。
端には、見慣れた堅い筆致で小さな線が引かれている。
――“王妃の披露席は王の左側。王が公務で不在の場合、王妃が代行として賓客の応対に立つことができる”。
あの人が、わざわざ訂正を重ねていた。もし、それが三年前に実現していたら――
やめよう。
過去に水をやるのは、雪の花を眺めながら雨の歌を唄うようなものだ。
森を出る頃、空は薄く青くなり、遠くの丘を渡る鐘の音が聞こえた。
村の入口まで見送ってくれたカインが、ふと足を止める。
「噂をひとつ。王都で“雪薔薇祭”の天幕に、陛下が今年は“王妃席を開ける”と宣言したそうだ」
「王妃は――不在のはずでしょう」
「それでも開けるそうだ。空席のまま」
胸が、妙な音を立てる。
「王は、時に頑なで、時に不器用だ。……どこか似ているな、あんたと」
彼はそれだけ言って、肩をすくめ、傭兵たちの列へ戻っていった。
私はしばらくその背を見送り、ゆっくりと踵を返す。
自由は、静かだ。
けれど、静けさの向こうで、何かが小さく鳴っている。
王都から吹く風の匂い。雪薔薇祭の白い花弁。空席の椅子。
城門の見張り台から、伝令が駆け下りてきた。
「リディア様! 王都より書状――至急、開封無用と!」
封蝋は王印。銀の翼が浮き彫りになっている。
胸が熱くなり、私はそっと封を切った。
『雪薔薇祭の二日目、王都の魔法大会にて“光の儀”を執り行う。
――もし、君が光を持つなら、来るといい。
アレクシス』
短い文。だが、三年間に受け取ったどの言葉よりも、熱があった。
手のひらの真ん中で文字がしばらく燃え、そのあと、静かな灰になって沈む。
私は顔を上げる。
冬空は澄み、吐く息は白く、遠くで子どもたちが雪を蹴って笑う。
自由は静かだ。けれど、その静けさは、いま確かに音を孕んでいた。
――王都へ行こう。
空席の椅子に、雪の花びらが落ちる前に。
門前に並んだ黒塗りの馬車の前で、老執事フリードが膝を折る。
「王妃――いえ、リディア様。道中、くれぐれもご自愛を」
「ええ。あなたも元気で、フリード」
「……陛下より、最後にこれを預かっております」
差し出されたのは、薄い革装丁の書冊。表紙の金箔には“王宮礼式・改訂稿”とある。
開けば、端正な筆致の注釈がいくつも添えられていた。私が王妃時代、どうしても馴染めなかった細目の改訂案――私が密かに提案し、宙ぶらりんになっていたものだ。
「……ありがとう」
唇の奥で言葉がほどけ、私はそっと本を閉じる。
別れの挨拶はそれだけだった。王門が開き、車輪が雪を踏む音が遠のいてゆく。白い石造りの塔がひとつ、またひとつ後方へ滑り、王都の輪郭は次第に霞に紛れた。
自由は、こんなにも静かなものなのだろうか。
胸の奥で風が鳴る。冷たいのに、確かに肺はよく動いた。私は薄手の毛皮の襟を立て、指先で革表紙を撫でた。
公爵領ファルネーゼ。
冬の陽光が谷間の村々を白く縁取り、丘の上の小城は変わらず慎ましく立っていた。父は公務で地方巡察に出ており、城の迎えは最小限だ。
私は王妃の称号を返上し、ただの“公爵令嬢リディア”に戻る手続きを淡々と済ませた。
夜、女官頭のマリアが暖炉に薪をくべながら言った。
「お戻りになって、城の空気が少し若返ったようでございますよ」
「そうかしら」
「ええ。皆、リディア様の穏やかな足音を恋しがっておりましたから」
私の足音。
王宮では、いつも音を小さく殺すように歩いていた。
マリアは銀の盆に薬草茶を置き、声を潜める。
「――王都では、いま“雪薔薇祭”の準備が始まっているとか。陛下もご出席で」
「そう……」
祭の初日に王が雪の花弁を掬い、凍ての精霊に豊穣を祈る古い習わし。私は三度、その儀式を遠目に見ただけだった。王妃席に座りながら、隣は空席のまま。
私は茶碗を持ち直し、微笑を作る。
「私には、いまは領地の冬支度が先よ。倉庫の管理や橋の修繕、やることがたくさんあるわ」
そう言えば、胸の空洞に少し土が入る。
働けば、空白は埋まる。たぶん。
翌朝、私は正門ではなく裏門から城外へ出た。
市場の匂いは王都のそれよりも素朴で、焼き栗と燻したチーズの香りがまじる。行商人の荷車には山から切り出された薪と、雪の下から掘り出した冬菜。
フードを目深にかぶると、誰も私が公爵令嬢だとは気づかない。
「奥さん、手袋はどうだい。うちのは羊毛に狼の毛が混ざっていて温かいよ」
「では、ひとつ。……もうひとつ、あちらの小さなものも」
「良い目利きだ。そっちは縫い目が細かい」
手袋を包む紙に古い字が滲んでいる。“東境の狼、出没注意”。
「最近、狼が多いの?」
「獣だけじゃないさ」行商人は声をひそめた。「森に“呪いの眼”が出るって。ほら、寒気がひどくなる夜、遠くで紫の光が揺らめくってやつ」
「紫の……」
「古い森の魔獣だ。王都の騎士団は、今季は人手が足りねえらしい。国王様が国境へ使節を出しているとかで」
国境。使節。
ミレーネの黒髪が雪に張り付く光景が、唐突に想像の中に差し込んできた。
私は紙袋を抱え直し、礼を言って足早に市場を抜けた。
城に戻る前に、小さな酒場に寄る。
扉を開くと、暖炉の火がぱちぱちとはぜ、数人の旅人がスープを啜っていた。壁には剣帯を掛けるための古い釘。
奥の卓で、栗毛の男が手袋の縫い目を確かめながら呟く。
「狼の報せが三件、森の裂け目が二件……厄介だな」
背に古傷。革鎧は使い込まれているが、清潔に手入れされている。
私は卓の空席に近づき、声をかけた。
「裂け目、というのは?」
「……誰だ」男は視線だけを上げた。薄青い瞳が鋭いが、刺すような残酷さはない。
「ただの領民です。森へ薬草を摘みに行くことがあるので」
「裂け目は、地のことではない。魔力の流れがほつれる。見えるやつには見える。見えないやつには、ただ寒気が強まる夜に頭痛がするだけだ」
私は一拍遅れて笑った。「見える人、なのね」
「……あんたもだろう」
心臓が一瞬だけ痙攣する。
男は卓に地図を広げ、指で谷筋を辿った。
「東の黒樅の森、この辺りに二つ。冬の魔獣が“眼”を産み落とす。騎士団が出払ってる今、領内の腕利きで囲い込むしかない」
「囲い込む?」
「森の縁に火を回し、進路を狭めて誘導していく。町へ下りる前に仕留める」
「あなたは――」
「名乗るほどの者じゃない」男は肩をすくめた。「いまは傭兵をやってる。名前はカイン。昔は王都で盾を持っていたこともある」
王都で盾――近衛、あるいは。
私はスカートの裾をつまみ、丁寧に礼をした。
「カイン。もしよければ、私にも手伝わせてください」
「冗談じゃない。森で素人は死ぬ」
「薬草の見分けと、少しの火なら扱えます。……それに、見えるものもあります」
私が手袋を外すと、白い指先に薄く魔光が灯った。炎ではなく、灯。
男の瞳にわずかな興味が走る。
「誰に教わった」
「誰にも。子どものころから、光は手の内にあるものだと思っていました」
「……なるほど」
沈黙ののち、カインは頷いた。
「夜明け前に森へ入る。足を引っ張るなよ、領民」
私は微笑をこぼしそうになって、それを飲み込んだ。
夜明け前の森は、音がない。
雪を踏むたび、世界がからんと鳴る。焚き火の赤がかすかに残る陣地で、カインが手短に指示を飛ばす。
「南の見張り、東の岩棚に二人。火は合図まで絶対に上げるな。風は北から、煙が戻る。……リディア、こっちだ」
名を呼ばれて視線が交わる。訂正しようかと思ったが、やめた。
魔獣は冬の底から上がってくるという。人間の温い息を嗅ぎつけ、開いた裂け目から這い出る。
私は両手を胸の前で組み、息を整えた。
最初の異変は、静けさの向こうから来た。
眼に見えないほど微細な“鳴き”――魔力の糸が擦れる音。薄紫の膜が、木々の間でふっと明滅する。
カインが低く呟く。「来る」
姿を現したのは、鹿の骨格に氷の皮膜を纏ったような影だった。
眼の代わりに空洞があり、その中で紫の光がゆっくりと回転している。
私は喉を鳴らし、足を半歩引いた。
「恐れるな。眼に向かって光を当てろ。炎は暴れる。光だ」
「わかってる」
指先に灯を集める。
手の中の魔石がなくとも、体内のどこかに泉がある。その泉に沈んでいくように、ゆっくりと息を吐く。
光が弾け、細い矢の形に整う。
「今だ」
私の光が紫の空洞を射抜き、魔獣が一瞬だけ足を止めた。
その隙に、カインの刃が氷膜の下の筋を切る。
クリスタルが砕けるような音――獣は雪の上で崩れた。
息が弾む。指先が震えている。
カインが短く笑った。「やるじゃないか、領民」
「手が、少し……」
「初めてなら当然だ。無茶はするな」
二体、三体。森の裂け目は小刻みに開き、小鬼のような氷の獣を吐き出す。
光と刃。呼吸。
いつしか夜は浅く、東の空が灰色に滲んだ。最後の“眼”が細い声で鳴き、やがて静かに沈む。
仲間が歓声を上げる。焚き火に薪がくべられ、湯が沸く音。
私は手袋を脱ぎ、火にかざしてこわばった指を解く。
「……これで、村には下りない?」
「ああ。お前の矢が効いた」
カインは湯の入った木杯を差し出し、隣に腰を下ろした。
近くで見ると、彼の横顔には深い傷が一本、耳の後ろに走っている。
「昔、王都で盾を持っていたと言っていたわね」
「ああ。若かった。風向きが変わって、俺は門の外へ出た」
「風向き?」
「――王の側で働くには、信じる相手を間違えてはいけない。俺は、間違えた」
その言い回しは、どこか自嘲が混じっていた。
私は湯の縁を指でなぞり、遠い王都の塔を思い浮かべる。
銀糸の髪、蒼い瞳。
冷たいのに、時折、扉の外側でじっとこちらを見る視線。
気のせいだと、何度も自分に言い聞かせた視線。
焚き火がぱち、と鳴る。
カインがこちらを見た。
「王妃だった女が、どうして森で手を汚している」
「王妃ではないわ」
「元、だ。……あんたの指は綺麗だが、恐ろしく芯が強い」
私は笑う。
「芯なんてない。ただ、空白を埋めたいだけ」
「空白?」
「三年分の、沈黙」
言ってから、自分で驚く。言葉にすると、胸の底の冷えが少しだけ掬い上げられた。
「――王都へ戻る気はないのか」
「ないわ。いまは」
「“いまは”か」
カインは湯を一息に飲み干し、立ち上がった。
「東の見張りと交代してくる。焚き火から離れるな」
「ありがとう」
彼の背を見送りながら、私はポケットから例の書冊を取り出した。
“王宮礼式・改訂稿”。
端には、見慣れた堅い筆致で小さな線が引かれている。
――“王妃の披露席は王の左側。王が公務で不在の場合、王妃が代行として賓客の応対に立つことができる”。
あの人が、わざわざ訂正を重ねていた。もし、それが三年前に実現していたら――
やめよう。
過去に水をやるのは、雪の花を眺めながら雨の歌を唄うようなものだ。
森を出る頃、空は薄く青くなり、遠くの丘を渡る鐘の音が聞こえた。
村の入口まで見送ってくれたカインが、ふと足を止める。
「噂をひとつ。王都で“雪薔薇祭”の天幕に、陛下が今年は“王妃席を開ける”と宣言したそうだ」
「王妃は――不在のはずでしょう」
「それでも開けるそうだ。空席のまま」
胸が、妙な音を立てる。
「王は、時に頑なで、時に不器用だ。……どこか似ているな、あんたと」
彼はそれだけ言って、肩をすくめ、傭兵たちの列へ戻っていった。
私はしばらくその背を見送り、ゆっくりと踵を返す。
自由は、静かだ。
けれど、静けさの向こうで、何かが小さく鳴っている。
王都から吹く風の匂い。雪薔薇祭の白い花弁。空席の椅子。
城門の見張り台から、伝令が駆け下りてきた。
「リディア様! 王都より書状――至急、開封無用と!」
封蝋は王印。銀の翼が浮き彫りになっている。
胸が熱くなり、私はそっと封を切った。
『雪薔薇祭の二日目、王都の魔法大会にて“光の儀”を執り行う。
――もし、君が光を持つなら、来るといい。
アレクシス』
短い文。だが、三年間に受け取ったどの言葉よりも、熱があった。
手のひらの真ん中で文字がしばらく燃え、そのあと、静かな灰になって沈む。
私は顔を上げる。
冬空は澄み、吐く息は白く、遠くで子どもたちが雪を蹴って笑う。
自由は静かだ。けれど、その静けさは、いま確かに音を孕んでいた。
――王都へ行こう。
空席の椅子に、雪の花びらが落ちる前に。
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