悠久の城

蓬屋 月餅

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悠久の城

【   】前編

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 インテリアデザイナー。
 それはその名の通り、建物内部のインテリアデザインなどを担う仕事である。
 インテリアコーディネーターという職もあるが、インテリアコーディネーターはすでに完成されている空間を家具などでデザインするのに対し、インテリアデザイナーは空間の設計から壁紙の選定に至るまでを担当し、時には建築現場まで足を運んで計画通りの内装を仕上げる、という違いがある。
 穏矢は1歳年下の妹が起こした会社(実家の工務店の系列)でまさにそのインテリアデザイナーとして仕事をしていた。
 『していた』という過去形なのは、それは彼が今では現場に出るような案件よりも他のスタッフが担っている仕事の相談役に徹するようになっているからだ。
 設計図のミスがないかを確かめたり、関係各所とのやり取りや手引きの手はずを整えたり。会社内でのそれぞれの仕事が円滑に進むようにとあちこちのサポートをしているのである。
  
 そんな彼の毎日はとても順調だ。
 そもそも表立ったことをするよりも裏方としての“縁の下の力持ち”的な働きを好んでいた彼にとって、今のこの 気の合う妹 や賑やかなスタッフといった面々と共に大きなストレスを抱えることのないまま働けているという環境はこれ以上ないほど居心地がよく、仕事面で不満を感じることは一切ない。
 そしてなにより…私生活が充実しているからだというのも大きかった。
 古平 真祐さねまさというパートナーと大学時代から付き合い始め、途中6年半ほど別れて一切連絡も取り合わないという期間もありはしたが、しかしどうしても忘れることができずに『心の底から本気で好きになる人はこの人しかいない』と思い続けてようやく再会した彼と再び恋人になった今。
 ひょんなことから同棲もすることになり、彼はかつてとは比べ物にならないほど心が満たされる日々を送ることができていると自負している。 
 本来 製図作業などに夢中になると食事をおろそかにしてしまうことも少なくなかった穏矢のため、真祐はきちんと3食用意して食べさせたりするなどのサポートを欠かさず、以前は痩せて倒れそうになることもあったほどだった彼はすっかり体の不調もない健康体として過ごせるようになっているのだ。(すっかり健康的になった穏矢は『元々の美人さがなおも際立った』という感じであり、周りの人々にもひそかに安心を与えていたりもする)
 夜の相性もすこぶる良い真祐とのそんな生活は、彼にこの上ない潤いと充足感をもたらしている。

 ストレスのない仕事環境
 さして物欲も旅行欲もないことから金銭的に困ることのない生活
 そして愛するパートナーとの健康的で潤いのある毎日…

 こんなにも恵まれていていいのだろうかとすら思えるほどの何一つ不足のない日々。
 穏矢はそんな生活を送っていた。


ーーーーーーー


 黙々と製図台に向かう穏矢。
 その手元からは定規に沿って筆記具が紙の上を滑る心地の良い軽やかな音がしている。
 少し変わった手触りをした製図用の紙の上に数多あまた 引かれてゆく真っ直ぐな線は一見すると縦横無尽に引かれているようだが、しかし次第に壁や扉や窓のサッシを示す構成が姿を見せ始め、それが建物内部の構造を示した設計図だということを明らかにしてゆく。
 美しい等間隔の線が並ぶそれは、まるで芸術品だ。
 筆記具の芯の太さを変えながら専用の製図道具を使って角度を示す記号や数字をさらに描きこんでゆけば、それは真っ白な用紙の上に手書きで描かれたものだとは思えないほど緻密な設計図になる。

(…あ、ここ1本引き忘れてる。角度は……)

 おおまかに確認したところ、わずかな線の引き忘れに気がついた彼は手元のダイヤルをカチカチと回して定規の角度を設定すると、それを所定の位置に移動させ、固定し、そして軽やかに線を引いて仕上げた。
 この“製図”というのはかなりセンスが必要な作業だ。
 というのも、美しい製図(つまり見やすい製図)を仕上げるにはただ単に沢山線を引けばいいというわけではないからだ。
 ある程度であれば何度も繰り返し練習をすることで描けるようにはなるが、それを仕事とするには実際に“余分な線やものを書かず” “紙を汚さず”さらにそれを“手早く仕上げる”ということができなくてはならないので、製図に関する“センス”(つまり直感的なもの)に従って手を動かせるようでなくてはいけない。
 それに自らの頭の中にあるものを平面的に描き出すというのは、なかなか難しいものなのだ。
 しかし彼には天性のそのセンスがあって、学生時代から製図を引くことにかけてはほとんど製図用紙を無駄にしたりすることがないような腕を誇っていた。
 使いこなすのが難しい専門的な道具でも彼は扱うのがとても上手く、それらを巧みに扱うので一枚仕上げるのも本当に惚れ惚れしてしまうほどの速さだ。

 そうして午前中から取り掛かっていた製図を仕上げ終えた穏矢。
 彼が出来上がった製図を眺めて最終チェックをしていると、傍らに置いていた携帯端末が何やら知らせてくる。
 見てみるとそこには真祐からのメッセージが届いていた。

«これから帰るんだけど、夕飯はどうする?»

«紹人からもらったおかず類ってもう全部食べ切っちゃったよな»

 内容は夕食の相談だった。
 穏矢はキッチンの方へと目を向けてから返信する。

«うん。何もない。だから作るか買うかしないと»
«じゃあ事務所の近くにある店の角煮とかを買って帰ろうか?穏矢も前に美味しいって言ってたやつ。もっと軽く済ませたいならやめとくけど»
«いや、角煮がいい»
«^^それじゃこれから買って帰るよ»
«分かった»

 真祐が事務所の近所にある店でおかずなどを買ってくるということに決まり、穏矢はそれに合わせて白米と蒸し野菜を用意することにする。
 用意とは言っても、大人2人が食べるだけの米を量って水と共に炊飯器にセットし、あらかじめ切って冷蔵庫にストックしてあるキャベツやニンジンを適量蒸し器に入れるだけだ。
 穏矢には料理の腕はまったくと言っていいほどない。それに関心もない。
 だからこそ1人で暮らしていた時は大してしっかりとした食事をすることもなかったわけだが、そんな彼も真祐との暮らしが始まって以降はいくらか気にするようになって、今は炊飯と蒸し野菜くらいは作れるようになっている。
 蒸し野菜は料理ができない彼にとって最適な料理だ。
 なぜなら失敗することがないからだ。
 野菜炒めは火が通っていない硬い野菜を食べることになるか、それともよく火を通そうとしすぎて焦がすかという失敗がある。
 煮てポトフやスープに仕立てるのも、味付けが濃かったり薄かったりという失敗がある。
 しかし蒸し野菜はと言うと、焦げることはないし特別味をつける必要もないのだ。
 鍋に湯か水を入れておいて、あとはタイマーを設定して加熱しておけば勝手に出来上がるのである。
 空焚きになると危険だが、コンロのタイマーを利用すればちょうどいいところで加熱が終了するので空焚きになる心配も少ない。
 …どの程度から料理を言えるものになるのかはそれぞれだろうが、とにかく以前の家では住み始めてから数年が経過してもなお一切キッチンを利用することがなかった彼に比べればこうして『コンロの火をつけるようになった』ということ自体が大きな進歩だ。
 彼はそのの蒸し野菜を用意する。
 きっと真祐が帰ってきて角煮を皿に移したりする頃にはちょうど炊飯が完了し、アツアツの白米と程よく火の通った甘い蒸し野菜が出来上がっていることだろう。

 夕方に差し掛かって少し暗くなり始めた部屋の電気を点け、穏矢は時間を確認する がてらいつものニュース番組を観るべくリモコンを操作する。
 時間的にも、ちょうど番組は今巷で話題になっているという何かの専門店の紹介をしている頃だ。

(へぇ、この店…内装もいいな)

 つい職業柄 紹介されている店の内装や座席などの配置に目が行きがちな穏矢はちらちらとそちらの方を気にしつつも片付けを始めた。

 資料本を資料庫と化している自室の棚へと持っていき
 製図道具をケースに戻し
 製図台の上を綺麗に

 この資料本もそこそこの厚さのあるものを持ち運んだりするので、意図せずとも自然と筋トレが行われて健康的な体づくりのために一役買っているのは間違いないだろう。
 彼は自室とリビングとを行き来しながら片付けを進める。
 そうしているうちにニュース番組はそれまでのコーナーを1つ終えてCMへと移っていった。
 陽気な音楽と共に放送される家具や家電、保険、車、飲食チェーン店にテーマパークの季節限定イベントといった様々なCM。
 その中には入浴剤のCMもあり、そのCMをきっかけに昨夜湯船を洗って湯を抜いたままだったことを思い出した穏矢は、浴室で給湯器のスイッチを入れて湯張りを始める。
 もし湯張りを忘れていたままだったら『いざ入ろうとしたときに湯船が空だった』という、なんともやるせない事態に陥っていたことだろう。
 きちんと湯が供給され始めたことを確認してからリビングへと戻っていく穏矢。
 …するとそこでちょうどテレビからニュースキャスターの声が聞こえてきたのだった。

《……ここで速報です。さきほど〇〇区××の路上でトラックと乗用車による事故が発生したとの通報がありました》

《現場に駆け付けた警察によりますと、走行していたトラックが故障により減速し、後続の乗用車が止まりきれず追突したとのことです。また、追突を回避しようとハンドルを切った1台が横の横断歩道に進入し、横断中だった歩行者の男性と接触しました。この事故では複数のけが人が発生しており、トラックと乗用車を運転していた男性の他、歩行者の30代男性も救急搬送されている模様です。怪我の程度はまだ分かっていません》

《繰り返しお伝えします。本日△時◇分頃、〇〇区××の路上で車の玉突き事故が発生したと目撃した通行人から通報がありました。現場は二車線道路の……》

 それまで和やかに季節の話題などを口にしていたニュースキャスターの、冷静な口調で伝えられる『速報』。
 穏矢は漠然と(事故か…『〇〇区××』ってなんか聞き覚えのある場所だな、どこだ?)と何気なくそのニュース画面に目を向けたのだが、次に映った事故現場の様子を見て驚いた。

(え、ここって真祐の事務所の表通りに出た所じゃん)

 そう、速報で伝えられている事故現場とは真祐が事務所を構えている場所のすぐ近くだったのだ。
 穏矢も数回訪れたことがあり、見知っている場所である。
 聞き覚えのある場所だというのも真祐から聞いたことがあったからだったのだろう。
 彼は『自分の知っている場所が事故現場としてテレビに映っている』ということに妙な感覚を覚えながらも思う。

(真祐はこの事故のこと知ってるかな?…いや、いつもこの表通りの方は通らないから知らないかも。真祐はいつもこの裏通りの方を車で通ってるんだし)

(見たところ事故した車は真祐のじゃないから…真祐自身には関係はないだろうな。でもスタッフの子達はどうだろう、皆まきこまれてないといいけど…)

 そんな風に考えつつ なおも事故現場の様子を伝えているニュースを観る穏矢。
 テレビ画面には割れたテールランプやヘッドランプ、大きくゆがんだボンネット、そして現場を規制している警察官などが映し出されている。
 走行中の自動車が急にエンジントラブルで動力を得られなくなるなどという事態に陥ることはほとんどないものの、しかし長年きちんとした整備を受けていなかったりという整備不良車であればその可能性もないわけではない。それにエンジンだけではなく、クラッチの不具合などでもこういった事故の原因には充分なりうる。
 穏矢自身は車を運転する機会はないものの、それこそ真祐は車を所有していて、なおかつ事務所への通勤に毎日運転している身なのでこういった不具合には注意をする必要があるだろう。
 このような事故も他人事ではないと感じた穏矢は注意深くそのニュースを観つつ真祐と定期点検の時期などについて確認し合おうと思い直す。
 だが、その次に画面に映ったものを観て彼はそれまでのそういった考え一切を放ってしまったのだった。
 画面に映ったもの。
 それは横断歩道そばに映ったとある“袋”だった。
 ほんの一瞬映ったのみで、きちんと確認する間もなく画面が切り換えられてしまったが…どうもその袋には真祐が『買って帰る』とメッセージに書いて寄越した“角煮を売る店”のもののように見えた。

 途端に、穏矢はなんだか嫌な予感に駆られていた。

 その店は表通り沿いにある店だと以前聞いたことがある。
 真祐の車が事故に絡んでいないようだということから安心していたが、しかしもし表通りまで徒歩で買い物をしに行っていたとしたら…彼がこの事故に遭遇している可能性だってないとは言い切れないのではないか。
 むしろ、車通りの多い表通りで買い物をするためにわざわざ車を出すとは思えない。
 駐車場に車を置いたまま徒歩で表通りに向かったと考える方が自然なはずだ。
 だとすると、この袋の持ち主は…

(…いや、そんなわけないって)

 妙な想像を振り払おうとする穏矢だが1度湧いた不安感を拭うことはできない。
 彼はメッセージアプリを開いて真祐に《事務所の近くで事故があったらしいんだけど、大丈夫?》と送信してみる。
 …しかしいつもであれば運転中であっても隙を見て返信してくるはずだというのに、少し待ってみても既読がつくことさえなかった。
 まさか何かあったのではないか。
 そんな考えが頭から離れなくなった穏矢しずなお
 彼の不安をあおるかのように、いつのまにか速報を伝え終えたニュース番組は【続いては天気予報のコーナーです。気象予報士の○○さん…】といつもの明るさを取り戻している。

(…電話、かけてみるべきかな)

 そう思いつつ真祐とのやり取りが記録されているメッセージ画面の時刻を見た穏矢は、そこでまた新たなことに気付いてさらに不安感を増長させた。
 食事の用意をし、製図台や資料を片付けているとあっという間に時間が過ぎて行ってしまうので彼は今の今まで気が付かなかったのだ。
 真祐からの«^^それじゃこれから買って帰るよ»というメッセージが届いたのはもう 50分も前になっていた ということを。

 いつもは27、8分、遅くとも35分ほどで帰宅するというのに。
 ましてや買い物をしてから車に乗って岐路についたとしたって、表通りまでは徒歩で5分ほどしかかからないはずなのに…こんなにも帰宅時間が長くかかるとは。
 人気のある店なので多少購入するまでに列に並んだかもしれないが、それを考慮したとしてもあまりにも遅いのではないか?
 事務所でなにかトラブルが発生し、残業をした可能性もある。しかしその場合には必ず連絡があるはずだ。

 いつもより遅い帰宅時間。
 既読のつかないメッセージ。
 そして、速報で伝えられた事故現場。

 …事故があったとニュースで伝えられた時間は、ちょうど真祐がその辺りを通っていてもおかしくない時間だったように思える。

「…真祐?」

 思わずそう呼びかけてみると、小さく呟いたはずのその声は広いリビングにやけに大きく響く。
 そんなはずがないと思うのに嫌な胸騒ぎは大きくなってゆくばかりで、ついに穏矢はいてもたってもいられなくなった。
 しかし真祐自身に電話を掛けてみることは彼にはできないのだった。
 なぜなら、もしそれでいつまで経っても応答がなかったとしたら…今考えていることがすべて本当に現実のことになってしまう気がして、恐ろしくてたまらないからだ。

(とにかく、とりあえず…真祐の事務所に電話していつ頃帰ったか聞いてみようか、たしか事務所には夜までスタッフが誰かしらいたはずだから…僕が真祐のパートナーだっていうのはみんな知ってるし、真祐のことを教えてくれるはず……せめて車が駐車場にあるかどうかだけでも、それだけでも分かれば………)

 携帯端末のメッセージ画面には、いまだに真祐による既読の2文字は表示されていない。
 もう一度《車で帰ってる?》とメッセージを送るものの、やはりしばらく待ってみても既読にならないので、穏矢は真祐から以前見せられた事務所の電話番号が書いてある彼の名刺を探し始めた。
 引き出しを開けて55㎜×91㎜のサイズのカードを探す穏矢。
 だが、その最中に彼の脳裏にはふとある考えがよぎる。

《もし本当に何かあったとき、パートナーである自分の元へはいつ知らせが来ることになるのだろうか》と。

 恋人であり、パートナーであり、同居人であり。そして…夫夫。
 そんな自分へはいつ連絡が来ることになるのだろうか、と。
 普通の男女の夫婦であれば、きっと様々な記録や情報などからまず配偶者の連絡先が突きとめられて真っ先に連絡が行くだろう。しかし、彼の場合はどうだろうか。

 恋人であり、パートナーであり、ほとんど夫夫といっても良いほどの毎日を過ごしているとはいえ、それは公的に証明された関係ではない。…たとえ個人情報を調べたとしてもそこに穏矢の連絡先が登場する可能性はきわめて低いのではないのだろうか。
 いくら睦まじく暮らしていたとしてもそれは“自分達がそう言っているだけ”に過ぎず、あくまでも彼らは公的に言えばただの“同居人”という扱いになるはずだ。
 また、事務所の方に連絡が行ったとしてもスタッフには自身の個人的な連絡先を教えていない以上、こちらにコンタクトを取る手段をすぐに見つけることはできないだろう。

 もし、今この瞬間に真祐が危険な状態になっていたとしても。
 穏矢にはそれを知る術はなく、そして駆け付けることさえできない。

 その事実に気が付いた彼は名刺を探していた手を動かすことすらできなくなってしまった。

「……………」

 炊飯が完了したことを知らせるメロディが、キッチンから響いてきていた。
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