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【平穏】前編
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古平 真祐という男は、幼い頃からとにかく真面目な性格をしている男だった。
容姿こそ少々軟派(人たらし)なようだが、しかし彼自身は中学時代にはすでに自身の将来について明確な展望を持っていたのだ。
周りのクラスメート達が『この先どの高校や大学へ行くか』というような話をしている中でも、彼はどうしても一般的な会社に就職してサラリーマンになっている自らの姿を思い描くことができず、であれば『何かしらの事業を自らの手で立ち上げて経営者になるしかない』と、そう思っていた。
具体的にどのような事業の経営をするかということは決めかねていたものの、とにかく事業を興してそれを維持していくためには経営学という学問が役に立つはずだと考えた彼は、そうした考えを軸に地元の高校、そして大学への進路を設定していった。
彼のこの真面目な考え方や性格は血筋によるものだったのだろう。
彼の両親や兄姉達も皆きちんとした考えをもって勉学に励んでおり、そもそも一家全員がそうした真面目な家風だったのだ。
そのため『将来経営者になりたい』という真祐の進路設定も歓迎し、すでに良いところの大学へ進学していた兄姉も揃って彼のことを応援してくれていた。
少しでも将来に繋がるようにと、勉学に励みつつも高校の校則の範囲内で様々なアルバイトなどをして備えていた真祐。
だが高校2年生になった頃、彼が同性愛者であるということが知られたことで今度はその真面目な家風が仇となり、彼は実家に居づらくなってしまった。
面と向かって何かを言われたわけではなくとも 家族間にそこはかとなく漂う空気感に息がつまって仕方がなかった彼は結局地元を離れることにし、なるべく遠く離れた大学に進学を決めた。
それが後に運命の出逢いに繋がるとは、当時の彼は全く思いもしていなかった。
ーーーーー
高校卒業と共に上京し、1人暮らしをしつつ大学生活を送っていた中で彼はついにその人に出逢うことになる。
同じ経営学部の友人から「俺、他の大学の友達から『経営学のことを知りたいって人がいるんだけど』って相談されててさぁ」と話を持ち掛けられたことがすべての始まりだった。
「なんかよく知らんけど、ちょっと経営に興味がある…らしい?んだよ。で、俺達が勉強してるのが経営学だからその分野の話をしてくれる人を紹介してほしいんだって」
友人からその話を聞いた真祐がレポートに使う資料をまとめながら「へぇ…で?なんでその話を俺に?」となんとなく応えると、その友人は「いや…だからお前を紹介しようかと思って。いいだろ?な?頼むよ~」と頼み込んできた。
「はぁ?なんで俺が…」
思わず怪訝そうな声になる真祐に「いや~、お前が忙しくしてるのは知ってるけどぉ」と苦笑いを浮かべる友人。
「でもやっぱお前って教えるのも上手いし、なんでもそつなくこなすじゃん?だから適任だと思うんだよこういうのもさ」
「…バイト、レポート、勉強。その他に教師もやれって?」
「違うよ!教師ってそんな立派なのじゃなくてさ、ただ基本的な部分をちょこっと教えてやってほしいってことだよ。他の大学の人なんだけど専門的なことを勉強したいっていうよりは経営の仕組みを簡単に理解したいって感じみたいだし…」
「そりゃそうだろ。専門的に理解したいなら俺達みたいにちゃんと講義を受けないと無茶だ」
「なぁ~頼むよ古平ぁ~…俺は本当にお前が一番だって、適任だと思って話してんだってば」
資料をまとめる手を遮ってまで頼み続けた友人。
元来頼み事をされると断りづらい性格の真祐はその頼みを断りきることができず、すでにバイトと学業との両立でいっぱいいっぱいだったにもかかわらず勉強も教えることになったのだった。
後日、真祐の元を訪ねてきた他大学からの男女2人組。
女性の方が真祐の友人に『誰か教えてくれる人はいないか』と声をかけたその人で、男の方が経営学を学びたいという人物だ。
…どうやら真祐の友人はこの女性の方を気に入っていて、どうにかしてさらなる接点を増やしたいと思っていたらしい。
真祐とその友人、そして他大学から来た2人組の4人は大学のカフェテリアで会った。
「古平!紹介するよ、こちら『ササタ シズヤ』君ね。勉強を教えてほしいって人」
真祐と会う前に紹介を済ませていたのか、単なる友人の友人であって本来は知り合いではなかったはずの《ササタ》を紹介する真祐の友人。
「どうも。古平真祐です」
「…はじめまして。佐々田です」
佐々田と名乗ったその人は同い年の、細身な体格にごくシンプルな装いをした大人しめな印象の男だった。
初対面で緊張しているのか、控えめな声と態度を見せる佐々田。
ぎこちない自己紹介をしつつ(いや…女の子との繋がりのために利用されたのかよ、俺…)などと思いながらしばらく談笑していると、結局友人は女性と連れだって出て行き、後には真祐と佐々田だけが取り残されてしまった。
午後のカフェテリアはもうすでに人の姿がまばらになっていて、静かだった。
「あー…とりあえず連絡先交換する?で、互いの時間が合う時にどっかのカフェとか都合つく場所で話ができればと思うんだけど」
「あ…はい、お願いします」
「うん、じゃあそういうことで。よろしく」
スマホを取り出して佐々田と連絡先を交換した真祐。
彼はその時見た佐々田のスラリとした指先に一瞬目を奪われたが、すぐに気を取り直して今後何をどのように教えれば良いのかと話し合う。
佐々田は建築科の学生でありながらも、実家が工務店をしているため、経営について少しは知っておきたいという考えを持っていたようだ。
そのため教える内容は本当にごく簡単な 経営に関して知っておくべき知識などで済みそうだった。
真祐のスマホに新しく追加された連絡先には『佐々田 穏矢』という表示がされていた。
そうして真祐は自身の勉強の他に大学の食堂をはじめとした様々なバイトをこなしつつ佐々田と会って勉強を教えるようになったわけだが、単純にやることが増えて忙しさが増したはずなのに、彼はむしろそれまでよりも充実した良い日々を送るようになっていった。
この佐々田という男は真祐以上に真面目な(というよりも聡明な)性格をしているのに、なんだか話しているだけで面白く、何度か顔を合わせているうちにどんどんと勉強を教えているという感覚がなくなっていくような不思議な人物だったのだ。
これまでに色々なバイトをしてきた真祐が唯一経験していなかった職種というのが『家庭教師』だったのだが、佐々田に教えていると《きっと教えがいのある生徒ってのはこういう人のことを言うんだろうな》と思ったほどだ。
それに佐々田は真祐と会う時は必ず「忙しいのに時間を作らせちゃってて 悪いから」となにかしらの手土産を持ってきていて、ただ人に教えるのだけでも自分の復習になっていいなと思っていた真祐もその律儀な姿に感心してしまう。
教えがいがあり、雑談の趣味も合う。
礼儀正しく、好感が持てて、それにお堅いだけではなく時折砕けた表情や話し方をしては上手く距離感を詰めてくる…真祐にとって彼は非の打ちどころのない人物だった。
さらに重要なことに、佐々田は容姿の何から何までが真祐の好みド真ん中を貫いていた。
上京してから勉強とバイトの毎日に明け暮れていた彼にとっては恋愛事はかなり優先順位の低いものになっていて、適度に遊びはしても恋人が欲しいと思うことはおろか、もう随分と長い間誰のことも目に入らなかったというのに。
性格がよく合っていて容姿までタイプとくればもはや気にならないはずがなく、真祐はいつしか佐々田と会うことが純粋に楽しみになっていった。
そして佐々田は真祐のことを名字で『古平』と呼んでいるのに対し、真祐は佐々田のことを『シズヤ』と名前で呼び、少しずつさらに親交を深めていったのだった。
ーーーーー
佐々田に勉強を教えるようになってから半年と少しが過ぎた頃。
カフェなどでは席の確保に手間取ったり資料を広げたりするのにも不便だったりするということで、勉強会の場所は自然と真祐の家になることが増えていた。
…が、これはけっしてやましい思いがあってのことではないのだということを彼の名誉のために明言しておきたい。
彼は佐々田にそういう意味での好意を抱き始めていたのは事実だが、しかしこうした普通の出会いをした相手というのは往々にしてストレート(つまりノンケ)であり、その後のことは期待するべきではないと考えていたのだ。
単なる友人として過ごせるだけで…それだけで充分だと。
きっと大学を卒業してしまえばそのまま疎遠になってしまうのだから、今のこの友人として気兼ねなく過ごせている日々を大切にしたいと。
彼はそう考えて、佐々田と一緒にいる時にはそういった類の好意はおくびにも出さなかった。
だがそうして特にこれといった進展もなく過ぎていたある日のこと、一通り勉強を終えて一息ついていた真祐は何気なく自分のバッグに筆記具などを片付けていた佐々田を眺めていて、そしてあることに気付いたのだった。
バッグに詰め込まれていくノートに記されている名前が『Shizunao Sasata』であるということに。
「シズ…ナオ…?」
「って誰?」
思わずそう訊いていた真祐。
すると視線の先にあるらしいノートを見た佐々田は「あぁ、これ。僕の名前ね」とこともなげに言った。
「僕の持ちもんだし、そりゃあ自分の名前書いてあるでしょ」
「え?だってお前、『シズヤ』じゃないのか?」
「違うよ。本当は『シズナオ』」
「えっ…?」
「?」
初めに紹介されてからずっと『穏矢』を『シズヤ』だと思っていた真祐は「な、なんで今まで間違ってるって言わなかったんだ!?」と目を瞬かせる。
「名前を間違われてたら言わないとダメだろ!俺、てっきり今まで…」
「いいよ慣れてるし。子供の頃からよく『シズヤ』って呼ばれてきたから」
「いや、でもそんな…いくらなんでも…」
どうやら彼は名前の読みを訊ねられたときにきちんと「シズナオです」と答えようとするのだが、大抵の人は『シズ』だけを聞いた時点で「シズヤさんですか」と早合点してしまうらしい。
彼が名前を訊ねられる時というのは『穏』の読みを知りたいがためであることがほとんどであり、誰もが『矢』の読みは『ヤ』でしかないと思いこんでいるのだ。
それをいちいち訂正するのも億劫になってしまったということで、彼はもはや『シズヤ』で通しているという。
思いがけず佐々田の本当の名前を知った真祐。
「…お前が今日持ってきてくれたこのお菓子、紅茶とコーヒーだったらどっちが合うと思う?穏矢」
「は…?」
「なぁ、穏矢」
佐々田、もとい穏矢はあまり本名で呼ばれることに慣れていないらしく、照れたような表情をみせて真祐をより一層惹きつける。
「ほら、紅茶とコーヒーだったらどっちがいいかって訊いてるのに」
「…紅茶」
「紅茶な、だと思った。カフェでもコーヒーは頼まないもんな、いつも紅茶とかだし」
「…うん。僕はコーヒーは飲まん」
「ははっ、飲まんですか。ま、俺もあんまりコーヒーは飲まんから一緒だな」
その一件以降、彼らは互いに『穏矢』『古平』と呼び合うようになり、さらに親密になっていったのだった。
ーーーーー
真祐が色々なバイトをしたのは将来自分がどういった業種の仕事をするかを見極めるためでもあったのだが、20歳を超えてとあるバーで働き出したことで、彼はついにその意志を固めることになる。
そのバーは当時開店したばかりのゲイバーで、店名を【No smork】といった。
マスターは温厚な人で、まだ開店したばかりの客入りも少ないようなときだったにもかかわらず『これだけイケメンならうちにも箔がつくだろうし、なにより他で働かせるのはもったいないから』といって真祐を採用してくれたのである。
客が少なかったからこそマスターに一から十、何から何まで仕事を教えてもらうことができた彼はすっかりバーでの仕事を好きになり、それまでしていた他のバイトに区切りをつけてようやくバイト先を一本に絞ることができた。
漠然としていた彼の中学時代からの夢は『自分のバーをもつ』というはっきりとした形をもって動きはじめたのだ。
実際、バーでの仕事は彼の天職でもあった。
適度に専門知識が必要で、人とも関わり、なにより店や場の雰囲気はマスターを中心としていかようにも変えられる。
きっとそこには『自分と同じ人達が沢山いる』という安心感もあっただろう。
大学や世間ではストレートばかりに囲まれていても、ここに集まってくるのは一夜かそれ以上になる相手を求めてきている皆自分と同じ性的指向の人々なのだ。
皆同じだからこそ自分の性的指向を気にせず自然体でいられるこの空間は、彼にとっての大切な場所になった。
どこかの企業へ就職活動をするわけでもなく、バイトも一本に絞り、気持ちにも余裕ができた真祐は穏矢と会う時間も機会も増やすようになっていたが、しかしそれはあくまでも友人としてのものであって相変わらず一線を越えることは一切なかった。
ひそかに慕い、そして不本意ながら穏矢が誰かと睦み合うときはどんな姿を見せるのだろうかと想像してシたことすらあるが、だからといって真祐は自らの思いを伝えなければ気が済まないというような自制心のない突発的な行動に出る子供じみた性格ではないのだ。
真祐にとっての穏矢は高嶺の花というか、別世界の人というか、憧れるだけのアイドルのような絶対にそういう意味では手の届かない人だった。
しかし何の偶然か、ある日突然 事は起こるものだ。
それはいつものように真祐がバーで接客をしていたときのことだった。
常連との軽いやり取りの他、初めて来た人にバーでのルールを説明するなどしていつも通りに仕事をしていた真祐。
バーのルールといっても堅苦しいものではなく、店の雰囲気に慣れてもらうために少々会話をこなしながら軽く『コースター』についての説明をするくらいだ。
『コースター』というのはこのバーのマスターが用意したシステムのことだ。
まず入店した客にはスタッフからコースターが手渡される。
このコースターにはバーのロゴが描いてあるわけだが、片面は『青』、そしてもう片面は『赤』で印刷されていて、青い方を上にしていると『相手を探している』という意味になり、反対に赤い方を上にしていると『ただ酒を楽しみに来ている』という意思表示になるわけだ。
そしてさらにもう1つ、このコースターには一部切込みが入っていて簡単に丸い穴を開けることができるようになっているのだが、これは自分のポジションの意思表示として利用されている。
つまり欠けていない青いコースターを使っている者は『相手募集中のトップ』で、穴の開いた青いコースターを使っている者は『相手募集中のボトム』ということである。
どちらもできる者は好みの相手に自ら「俺はどっちのポジジョンでもイけるんだけど」と話しかけに行っているので問題ない。
このコースターのシステムによって上手いこと相手を見つけることができるため、バーを訪れたときには1人だった多くの男達は2人連れ(2人とも限らないようだが)となって出て行くのだった。
開店からしばらく日が経ち、徐々に人の入りが多くなってきたバーは出会いを求める人とゆったり会話や酒を楽しむための場として人気になり、それなりに忙しくなるようになってきていて、真祐もより一層働きがいを感じながら仕事をしていたその時。
新たにドアベルが鳴り、客を迎え入れるために扉の方へ目を向けた瞬間、彼は目を疑った。
入ってきたのは見慣れた細身の男、穏矢だったのだ。
何度確かめてみてもそっくりさんなどではなく、穏矢本人その人だった。
このバーはけっして表通りにあるような店ではなく、その界隈で有名になりつつあるというだけの店だ。
にもかかわらず穏矢はここに現れた。
真祐は端から見ればいつも通りの落ち着いた様子だったかもしれないが、内心とても驚いていた。
穏矢も驚きを隠せないようで、少々ばつが悪そうにしながらもカウンターの端の席に座る。
「…いらっしゃいませ、当店は初めてのご利用ですね?」
「…はい」
ぎこちない雰囲気が漂う中でも、真祐は店員としての振る舞いを崩さずに平静を装う。
だが、ただ1つ私的な感情から店員らしからぬ行動をしたのも事実だった。
彼は穏矢にコースターの説明をせず、赤を上にしてさっさとお冷を置き、裏返せないようにしたのだ。
穏矢が他の客に自ら声をかけてしまえばすぐにそのシステムについてはバレてしまうだろうが、とにかく真祐は彼のコースターを赤にしておきたかった。
誰かと連れ立って出て行く姿などは絶対に見たくなかったからだった。
ーーーーー
その後、真祐が悶々としながら過ごしたのは言うまでもないだろう。
バーに来たことについてをメッセージで訊くのはどうにも憚られる。
もしかしたら訊くべきではないのかもしれない。
しかし、気になって仕方がない。
幸い(?)にもその日は結局酒を楽しんで穏矢はそのまま帰ったが、あのバーに来たということは大方相手を探しに来たということだったに違いないのだ。
そもそもどうやってあの場所を知ったのだろうか。
SNSか もしくは…他にその手の知り合いがいて教えてもらったのか。
だとしたら他のバーにも行ったことがあるのではないのか?
…とすると、真祐の知らないところで誰か他の男が穏矢の肌に触れたことだって…
『穏矢はストレートであって、絶対に手が届くはずがない』
そう思っていた真祐。
だが穏矢がバーに来たことについて考えるにつれ、にわかに信じがたいことに、彼はそれまで先がないと思えていた暗闇の中に一筋の光の道が示されたかのようにも思い始めた。
(そうだよな…それなら俺にも望みはあるってことなんじゃないのか?だって、少なくとも穏矢は男を……)
であればいつまでも1人で悶々としている暇はない、と真祐は次に勉強会をしたその日、思い切った行動に出ることにした。
すっかり真祐の家で勉強することが恒例となったまま、いたって普通の様子でいつも通りに振舞っている穏矢。
それとは対照的に、バーに来たことについて訊ねる機会をずっと伺っていて気が気ではなかった真祐。
「…あ、手にインク付いてたわ。洗面所借りていい?」
「あぁ、もちろん」
「ありがとう」
お借りします、と断って洗面所に行った穏矢の背中を見送った真祐は緊張しつつ机の上を拭い、気を落ち着けがてらキッチンで手を洗って一息をつく。
もしかしたらこれからしようとしている会話のせいで穏矢との この勉強会や友人関係が終わってしまうかもしれない。しかし、逆に上手くいけば進展することだってありうる。
(ずっとこうしてたって何にも変わらないんだぞ…やるならやれ!ときには大きく動くことだって必要なんだ、分かってるだろ、俺!)
身の置きどころを探してソファに座り込んだ真祐は、堅実に生きてきたこれまでの人生史上初めての大きな賭けに備えた。
一か八かの、大博打だ。
「それじゃあ僕はそろそろ帰るわ」
「今日もありがとう」
洗面所から戻ってきた穏矢は机のそばに置いてあった荷物を手に取ろうとする。
勉強会が終わって解散となる、昼過ぎのいつもの時刻だ。
だが真祐は意を決して口を開いた。
「あのさ、穏矢。この間バーに…来たのってさ」
おずおずと話し始めると、穏矢は「あぁ、うん」とこともなげに頷く。
「古平が働いてたのってあのバーだったんだな。知らなかった」
「まぁ…知り合いが急に来てびっくりしただろうけどさ、もうあそこには行かないから安心してよ。それじゃ」
「ま、待てってば!」
なおも帰ろうとする穏矢を慌てて引き止め、真祐はさらに思い切って言った。
「お前っ…あのバーがどういうバーか知ってて来たのか?だってあそこは…」
「知ってるよ当然。ゲイバーでしょ。…なに、僕が行っちゃいけない理由でもあるの?僕は成人してるし、そういう場所で相手を探したって問題ないはずじゃん」
「相手って…やっぱりじゃあお前あのとき…!」
疑いは確信に変わり、真祐の中でありとあらゆる感情が渦巻いた。
穏矢がゲイ、バイ、パンのどれかは知らないが、とにかく彼は男を相手にする(もしくはできる)男であり、ストレートというわけではなかったのだ。
それに『相手を探しに来た』というくらいなのだから、真祐がバーで働いていない日に来ていたとしたら穏矢は早々に相手を見つけて店を出て行っていたに違いない。
なにせ穏矢はそういう場にいればすぐに声が掛かるであろうというような、とにかく綺麗な男なのだ。
今まで『ストレート相手にアプローチはするまい』と一線を引いてきた自分をよそにそんなことになっていたかもしれないなどと考えるだけで真祐は嫉妬すら抱く。
だが今はそんなことに構っていられる暇はなかった。
今しか…そう、今しかない。
直感的に悟った真祐はソファから立ち上がり、その勢いのまま訴えた。
「あ、あのさ、穏矢!」
「俺、お前のことが好きなんだよ!その…Likeじゃなく、Loveの…Loveの意味で!」
「相手探してるっていうんならさ、俺に…俺にしとけよ!そんなどっかの誰かよく知らないやつじゃなくて、俺に…!」
きちんとした台詞を考えている余裕もなく、ひたすら胸の奥底からの言葉を吐き出した真祐。
それはお世辞にもかっこいいと言えるものではなかった。
穏矢も呆然として「な…にを言い出すかと思ったら」と眉をひそめる。
「古平が僕を?そんな…まさか」
「まさかじゃない、俺はずっと前からお前のことを良いなと思ってたんだって!でもお前はストレートだろうと思って…」
「はぁ!?古平こそノンケだろ」
「何だと!?違う、俺はそうじゃない!俺の恋愛対象は元から男だ!」
「はっ…いや、えっ…?」
驚きの応酬が続き、次第に妙な気恥ずかしさがじわじわと2人の間を漂い始めた。
「僕…古平のこと、本当にノンケだろうと思ってた…だって真面目だし」
「いや、それを言うならお前の方がそうだろ?お前のほうがよっぽど真面目でまさかゲイバーに来るようには…」
「……」
「………」
「っていうか」
「「真面目だからってなんだよ…!!」」
同時に吐露した2人。
互いがそれぞれのことを『真面目だからストレートに違いない』と思っていたのだが、しかし真面目であることと個人の性的指向にはなんの関わりもなく、まったく別のことであるということを彼らはその時になってはっきりと理解したのだった。
改めて沈黙が2人を包む中、真祐は穏矢に向けて一歩踏み出す。
「穏矢は俺のこと…そういう風には見れないか?やっぱり友達としてしか…」
「俺、お前のことが本当にちゃんと恋愛の意味で好き、なんだけど…でももし穏矢が俺のことをそう思えないなら、それはそれで…いいと思ってる」
「俺、友達として過ごしてるのでもすごく楽しかったから…だから今まで通りでも、俺は…うん……」
返答次第では真祐は大失恋となるこの状況。
彼には一秒がとんでもなく長いように感じられて仕方がなかった。
だが、穏矢は戸惑ったような表情でボソボソと呟く。
「友達っつかそんなん…どっちかっていうと僕の方が古平のこと………だし……」
「………うん」
否定的なことを言われなければそれだけで充分だと覚悟していた真祐にとって、穏矢のその言葉はあまりにも色よい答えすぎた。
気づけば真祐は穏矢の手を取り、さらに一歩近づいていた。
初めて握ったその手は想像していたよりもずっと細く華奢で、握る力加減に気をつけなければならないとさえ思える。
しかしその指や手のひらから伝わる確かな体温、そして視線を伏せたままじっとしていることではっきりと見える睫毛の一本一本は真祐をさらに突き動かした。
「………」
意識せず片手を穏矢の頬に添えると、かすかに驚きの表情が浮かび、唇が薄く開く。
唇の輪郭や素のままのはずなのに美しい色、見るからに滑らかな質感。
それらは真祐の視線をくぎ付けにした。
「………」
ゆっくり、ごくゆっくりと自らの顔を近づけていく真祐。
しかし穏矢は体を引かなかった。
やがて互いの息遣いまでもがはっきりと感じられるくらいの距離まで近づき、これが最後のチャンスだとばかりに動きを止めてみても、それでも穏矢は動かない。
この距離まで迫られて動かないということは、それがもはや『答え』に等しかった。
真祐は上唇からそっと触れ合わせると、次に下唇を、そして唇の中心からすべてを穏矢の唇に重ね合わせる。
「………」
…誰かと口づけをするのは初めてではないのに真祐の胸がこんなにも高鳴っているのは、相手が本当に好きな男であるからに他ならなかった。
唇で唇の柔らかさを確かめ合う感覚の心地よさは言葉では表すことができない。
まさに得も言われぬ幸福感が全身を包み込む。
それらを存分に味わい尽くし、ようやく少し離れようとした真祐だったが、今度は穏矢がそれを逃さないというように握り合った手とは逆の手を真祐の腰に回し、引き寄せ、そして唇をもう一度押し付けた。
ただ触れ合うのとは違い、少しだけ食むようにしながら。
そうしてもたらされたくすぐったさによってゾクゾクとした感覚が脊髄を駆け巡り、ついには真祐の中の張りつめていた一本の糸か何かをぷつんと切ってしまった。
彼の中にカッと燃え上がった炎はどうやって抑えればいいのか分からないほど大きくなっていて、ふっと沸いた衝動のまま穏矢の手を引いて再びソファに座ると、穏矢も引っ張られたその勢いのまま真祐の膝の上に跨るようにして腰を下ろす。
立って抱き合うのよりもずっと近くなった距離で向き合うと、2人はどちらからともなくさらに唇を求めて夢中になった。
「ん…っ……ふぅっ、ぅ………」
つい今さっきまでただの友人関係でしかなかったとは思えないほどの絡み方をして激しく口づけを交わす真祐と穏矢。
無茶苦茶に顔を傾け合い、息が切れるまでそうし続ける姿はまるで口づけの仕方を知らない子供のようだ。
やがて息苦しくなってきたために唇を離して固く抱きしめ合うと、それまで共に過ごしている時に時々ふわりと香る程度だった互いの香りがはっきりと体の中にまで入り込んできた。
穏矢から香るそれは柔軟剤やボディソープ、もしくはシャンプー、そしてなにかそれ以外の良い香りを、例えばうららかな陽の光の合わせたようなものに思えた。
香りと、鼓動と。そして耳元に感じるくすぐったいような息遣い。
健康で若い血気盛んな男にこれで我慢するなと言う方が明らかに無茶なことだっただろう。
「………」
それでも真祐はなんとか最後の最後である理性を、細切れになって散らばっていた理性というものをかき集めてやり過ごそうと試みていた。
『これ以上はまずい』『あまりにも段階を飛ばし過ぎている』と。
だがこともあろうに穏矢はその腰を真祐に押し付け、真祐の努力をすべて無に帰してしまう。
すでにそこは熱い口づけによって反応を示しているのだ。
もはや成す術なく、どうすることもできず、真祐は痛いほどに張りつめた自らの下半身に手を伸ばした。
「っ、はぁっ…」
抱きしめ合った体勢のまま手だけを動かしてベルトを外すと、穏矢の方からもまったく同じようにズボンの留め具を外す音が聞こえてくる。
チャックを下ろし、窮屈だった感覚が少し和らいだのと同時に下の方へ目を向けると…そこには向かい合わせになった2つの下着のたしかな膨らみがあった。
どちらも下着越しにどくどくと拍動している。
興奮しているのは真祐だけではないということがはっきりとしていた。
強烈な欲を抑え込もうとするものはすでになく、真祐は膨らみを穏矢のものにぐいっと押し付けると、そこは一層硬く熱く下着の中で変化する。
何度かそうしてすり合わせているといよいよ我慢が利かなくなり、どちらも互いの下腹部に手を当て、それから下着の中へと無遠慮に滑り込んでいった。
「……っ!!」
下着の中で押さえつけられていた熱く反り勃つものをまっすぐに上向かせると、その先端がはっきりと外に顔を覗かせる。
紅く濡れた2つの亀頭。
だが2人にはそれをまじまじと見つめる余裕すらもなかった。
「はっ、あぁっ……ぁ!!」
自分のものをしごいているのか相手のものをしごいているのかすら分からないほどの入り乱れた興奮のまま、ただただ強い刺激を求めて力加減もなくひたすら肉棒を収めた手を上下していると、喉奥から漏れる淫らな喘ぎと吐息が次第に大きくなっていく。
手の中にあるものは信じられないほどの熱を放っていて、心臓を鷲掴みにでもしているかのようにも思えた。
ローションなどの潤滑剤がなくとも十分なほどですぐにでも果ててしまいそうな中、真祐と穏矢は無我夢中になって舌を絡め、そして手の動きを早めながらもう片方の手でしっかりときつく固く体を抱きしめ合う。
「ふっ、う…い…イク…い、イクぅ…っ…!」
「はぁっ、しずなお…!」
それからまもなく放たれた2人の白濁。
それは真祐の腹部にべっとりと付着し、濃厚な跡を残した。
ーーーーーー
1人暮らしを始める際にすこし背伸びをして購入した広め、大きめのソファ。
真祐はこのときほどこのソファを購入して良かったと思ったことはない。
夢中になって互いの肉棒を扱いて果てた後、真祐は気だるげな気分のまま穏矢を後ろから抱きしめ、一緒になってソファの上に横たわっていた。
抱きしめる腕に力を込めると、穏矢の髪やうなじの香りが濃くなる。
胸元にある温もりや呼吸によってかすかに上下する穏矢の肩が、愛おしい気持ちを存分に湧き立たせる中、呼吸と鼓動の音以外には何もない静かなときをしばらく過ごした真祐は口を開いた。
「なんか…思春期真っ只中の子供みたいだったな…俺達…」
ははっ…という苦笑いも含まれているその言葉に、穏矢は「…ほんと、ただのガキじゃん」と答える。
「ハタチすぎてこれかよ…」
照れ隠しでもするように口悪く吐き捨てる姿すらも堪らず、真祐は「だよな」と穏矢の髪に口づけた。
「ほんと、ガキっぽいよな…でも…」
「ガキでも許してくれよ、な?」
後ろから抱きしめていると穏矢の華奢な体がよく分かる。
見る以上に骨が細く、儚げなのだ。
しかし腕に伝わる感触と熱には力強いものがあり、たった今起こったことが夢ではなく現実のことだということをはっきり知らせている。
まさか手の届くはずがないと思っていた人が、こうして腕の中に…。
その事実が幻であることを恐れるかのように、|真祐は恐る恐る訊ねてみる。
「あのさ…その、俺達って……つ、付き合うってことで、いい…んだよな?」
今更ながら臆病なほど緊張してしまう真祐。
だがそれほど待たないうちにボソボソという声で返事が返ってきた。
「……付き合わないつもりなのかよ」
「……!」
穏矢の表情は後ろからでは見えない。
しかし真祐にはよく分かっていた。
「俺達…俺達、付き合おう、穏矢!」
「俺、本当に…本当に大切にする、大切にするよ、穏矢!」
「好きだ、穏矢!」
嬉しさのあまり何度もそう繰り返す真祐に穏矢は「うん、分かったよ。もう分かったってば」と軽くあしらうかのように答えていたが、しかし彼も真祐の笑顔に負けずと劣らない、花の咲いたような笑みを浮かべて喜びをあらわにしていた。
その日は彼らにとっての特別な日として後々まで記憶されることになる。
なんでもなかったはずのその一日は、一瞬にして友人ではなく恋人としての新たな一歩を踏み出した記念日となったのだった。
ーーーーーーー
~『平穏』前編:その後~
それは恋人同士になったことを確認しあった直後のことだ。
ソファに寝そべったまま「もう少し、あと少しだけ」と時を惜しむようにして静かに過ごしていた2人。
真祐は今後穏矢とどこへ出かけようか、なにをしようかということをあれこれ考えていたのだが…その最中でふと湧き上がってきた1つの疑問にすっかり頭の中を支配されてしまっていた。
気まずくなるだろうか、と思いつつも気になって仕方がないので「あのさ…穏矢」と呼びかけてみる真祐。
「あの、1つ訊きたい事が…あるんだけど」
「なに?」
「いや…あのさ」
「なんだよ」
「いや、あの…」
言い淀む真祐。
「だから、その…やっぱりこういうのは初めに聞いておいたほうが良いんじゃないかと、そう思ってだな…訊くんだけど…」
「なに?はっきりしなよ」
なかなか言い出さない真祐に痺れを切らしたらしい穏矢の怪訝そうな声が響く。
真祐はさらに躊躇いながら、やっと口にした。
「穏矢って、ポジションはどっちとか…あんの?」
「………」
小さな声で「別に…言いたくなかったら良いんだけど……」とも続ける真祐。
「俺、別にヤりたがりとかってわけじゃないんだよ、さっきの今じゃこんなん信じてもらえないかもしれないけどさ…本当に。でもやっぱ訊いといたほうが良いだろ?一応…な、うん…」
プラトニックな関係になるならまだしも、やはり男同士で恋仲になればどうしても気になるのがポジション問題だ。
気まずいような空気を誤魔化そうとして言い繕う真祐だが、穏矢は平然としながら「…今んとこ、僕はタチしかやったことないかな」と応える。
「なんとなく、タチだけ」
「あっ…そ、そうなんだな!うん…そうか!」
「古平は?」
「えっ、俺?」
「うん」
経験はタチだけだという穏矢の答えになぜかやたらと動揺していた真祐は「俺?俺は…まぁ、どっちでもいいんだ」と肩をすくめた。
実際、真祐はそれまで相手に合わせていたためどちらの経験もある。の、だが……。
「俺はどっちでもいいから、それじゃあ……」
真祐のその様子を受けて、穏矢はやれやれというように「いいよ、タチがいいんでしょ」と自らを抱き締めて離さない腕をぽんぽんと叩く。
「それでいいよ、そうしよ」
「えっ…いやでもそんな…俺はウケでも全然……」
「嘘つけ、僕のこと抱きたがってるのバレバレだし。いいじゃん、それでも」
「…穏矢はそれでいいのか?」
「色々試してみればいいでしょ。やってみりゃいいんじゃないの」
「お、おう……」
さっぱりしているというのか、あっけらかんとして臆せずに自身のポジションを受け入れる穏矢はやたらと格好がよく見える。
真祐はそんな穏矢をさらにぎゅっと抱き締めると、「ちょっと、もう…苦しいってば」と言われながらも心からの笑みを堪えつつ応えた。
「…じゃ、そうしてみよう穏矢。誓うよ、俺。すごく優しくする」
「はいはい、分かったよ。また今度ね。よろしくどうぞ」
「うん…あっ、でも穏矢って準備の仕方は?分かるのか?」
「………」
「いいか、シャワーとかでやるんだぞ。イチジクは向いてないからダメだ、あれはそもそもそういう用途のものじゃないからな、使うと……」
「う、うるっさいな、分かったってば!!」
いくら大事なこととはいえども生々しい話をしだした真祐から逃れようとする穏矢。
だが真祐はそんな穏矢の事さえも愛おしく思えてならず、「悪かった、悪かったってば。俺が悪かったよ」と笑いながら穏矢をソファに引き留めた。
なんだか離れてしまうのが惜しい交際初日。
空の色はすっかり茜色になりつつあった。
容姿こそ少々軟派(人たらし)なようだが、しかし彼自身は中学時代にはすでに自身の将来について明確な展望を持っていたのだ。
周りのクラスメート達が『この先どの高校や大学へ行くか』というような話をしている中でも、彼はどうしても一般的な会社に就職してサラリーマンになっている自らの姿を思い描くことができず、であれば『何かしらの事業を自らの手で立ち上げて経営者になるしかない』と、そう思っていた。
具体的にどのような事業の経営をするかということは決めかねていたものの、とにかく事業を興してそれを維持していくためには経営学という学問が役に立つはずだと考えた彼は、そうした考えを軸に地元の高校、そして大学への進路を設定していった。
彼のこの真面目な考え方や性格は血筋によるものだったのだろう。
彼の両親や兄姉達も皆きちんとした考えをもって勉学に励んでおり、そもそも一家全員がそうした真面目な家風だったのだ。
そのため『将来経営者になりたい』という真祐の進路設定も歓迎し、すでに良いところの大学へ進学していた兄姉も揃って彼のことを応援してくれていた。
少しでも将来に繋がるようにと、勉学に励みつつも高校の校則の範囲内で様々なアルバイトなどをして備えていた真祐。
だが高校2年生になった頃、彼が同性愛者であるということが知られたことで今度はその真面目な家風が仇となり、彼は実家に居づらくなってしまった。
面と向かって何かを言われたわけではなくとも 家族間にそこはかとなく漂う空気感に息がつまって仕方がなかった彼は結局地元を離れることにし、なるべく遠く離れた大学に進学を決めた。
それが後に運命の出逢いに繋がるとは、当時の彼は全く思いもしていなかった。
ーーーーー
高校卒業と共に上京し、1人暮らしをしつつ大学生活を送っていた中で彼はついにその人に出逢うことになる。
同じ経営学部の友人から「俺、他の大学の友達から『経営学のことを知りたいって人がいるんだけど』って相談されててさぁ」と話を持ち掛けられたことがすべての始まりだった。
「なんかよく知らんけど、ちょっと経営に興味がある…らしい?んだよ。で、俺達が勉強してるのが経営学だからその分野の話をしてくれる人を紹介してほしいんだって」
友人からその話を聞いた真祐がレポートに使う資料をまとめながら「へぇ…で?なんでその話を俺に?」となんとなく応えると、その友人は「いや…だからお前を紹介しようかと思って。いいだろ?な?頼むよ~」と頼み込んできた。
「はぁ?なんで俺が…」
思わず怪訝そうな声になる真祐に「いや~、お前が忙しくしてるのは知ってるけどぉ」と苦笑いを浮かべる友人。
「でもやっぱお前って教えるのも上手いし、なんでもそつなくこなすじゃん?だから適任だと思うんだよこういうのもさ」
「…バイト、レポート、勉強。その他に教師もやれって?」
「違うよ!教師ってそんな立派なのじゃなくてさ、ただ基本的な部分をちょこっと教えてやってほしいってことだよ。他の大学の人なんだけど専門的なことを勉強したいっていうよりは経営の仕組みを簡単に理解したいって感じみたいだし…」
「そりゃそうだろ。専門的に理解したいなら俺達みたいにちゃんと講義を受けないと無茶だ」
「なぁ~頼むよ古平ぁ~…俺は本当にお前が一番だって、適任だと思って話してんだってば」
資料をまとめる手を遮ってまで頼み続けた友人。
元来頼み事をされると断りづらい性格の真祐はその頼みを断りきることができず、すでにバイトと学業との両立でいっぱいいっぱいだったにもかかわらず勉強も教えることになったのだった。
後日、真祐の元を訪ねてきた他大学からの男女2人組。
女性の方が真祐の友人に『誰か教えてくれる人はいないか』と声をかけたその人で、男の方が経営学を学びたいという人物だ。
…どうやら真祐の友人はこの女性の方を気に入っていて、どうにかしてさらなる接点を増やしたいと思っていたらしい。
真祐とその友人、そして他大学から来た2人組の4人は大学のカフェテリアで会った。
「古平!紹介するよ、こちら『ササタ シズヤ』君ね。勉強を教えてほしいって人」
真祐と会う前に紹介を済ませていたのか、単なる友人の友人であって本来は知り合いではなかったはずの《ササタ》を紹介する真祐の友人。
「どうも。古平真祐です」
「…はじめまして。佐々田です」
佐々田と名乗ったその人は同い年の、細身な体格にごくシンプルな装いをした大人しめな印象の男だった。
初対面で緊張しているのか、控えめな声と態度を見せる佐々田。
ぎこちない自己紹介をしつつ(いや…女の子との繋がりのために利用されたのかよ、俺…)などと思いながらしばらく談笑していると、結局友人は女性と連れだって出て行き、後には真祐と佐々田だけが取り残されてしまった。
午後のカフェテリアはもうすでに人の姿がまばらになっていて、静かだった。
「あー…とりあえず連絡先交換する?で、互いの時間が合う時にどっかのカフェとか都合つく場所で話ができればと思うんだけど」
「あ…はい、お願いします」
「うん、じゃあそういうことで。よろしく」
スマホを取り出して佐々田と連絡先を交換した真祐。
彼はその時見た佐々田のスラリとした指先に一瞬目を奪われたが、すぐに気を取り直して今後何をどのように教えれば良いのかと話し合う。
佐々田は建築科の学生でありながらも、実家が工務店をしているため、経営について少しは知っておきたいという考えを持っていたようだ。
そのため教える内容は本当にごく簡単な 経営に関して知っておくべき知識などで済みそうだった。
真祐のスマホに新しく追加された連絡先には『佐々田 穏矢』という表示がされていた。
そうして真祐は自身の勉強の他に大学の食堂をはじめとした様々なバイトをこなしつつ佐々田と会って勉強を教えるようになったわけだが、単純にやることが増えて忙しさが増したはずなのに、彼はむしろそれまでよりも充実した良い日々を送るようになっていった。
この佐々田という男は真祐以上に真面目な(というよりも聡明な)性格をしているのに、なんだか話しているだけで面白く、何度か顔を合わせているうちにどんどんと勉強を教えているという感覚がなくなっていくような不思議な人物だったのだ。
これまでに色々なバイトをしてきた真祐が唯一経験していなかった職種というのが『家庭教師』だったのだが、佐々田に教えていると《きっと教えがいのある生徒ってのはこういう人のことを言うんだろうな》と思ったほどだ。
それに佐々田は真祐と会う時は必ず「忙しいのに時間を作らせちゃってて 悪いから」となにかしらの手土産を持ってきていて、ただ人に教えるのだけでも自分の復習になっていいなと思っていた真祐もその律儀な姿に感心してしまう。
教えがいがあり、雑談の趣味も合う。
礼儀正しく、好感が持てて、それにお堅いだけではなく時折砕けた表情や話し方をしては上手く距離感を詰めてくる…真祐にとって彼は非の打ちどころのない人物だった。
さらに重要なことに、佐々田は容姿の何から何までが真祐の好みド真ん中を貫いていた。
上京してから勉強とバイトの毎日に明け暮れていた彼にとっては恋愛事はかなり優先順位の低いものになっていて、適度に遊びはしても恋人が欲しいと思うことはおろか、もう随分と長い間誰のことも目に入らなかったというのに。
性格がよく合っていて容姿までタイプとくればもはや気にならないはずがなく、真祐はいつしか佐々田と会うことが純粋に楽しみになっていった。
そして佐々田は真祐のことを名字で『古平』と呼んでいるのに対し、真祐は佐々田のことを『シズヤ』と名前で呼び、少しずつさらに親交を深めていったのだった。
ーーーーー
佐々田に勉強を教えるようになってから半年と少しが過ぎた頃。
カフェなどでは席の確保に手間取ったり資料を広げたりするのにも不便だったりするということで、勉強会の場所は自然と真祐の家になることが増えていた。
…が、これはけっしてやましい思いがあってのことではないのだということを彼の名誉のために明言しておきたい。
彼は佐々田にそういう意味での好意を抱き始めていたのは事実だが、しかしこうした普通の出会いをした相手というのは往々にしてストレート(つまりノンケ)であり、その後のことは期待するべきではないと考えていたのだ。
単なる友人として過ごせるだけで…それだけで充分だと。
きっと大学を卒業してしまえばそのまま疎遠になってしまうのだから、今のこの友人として気兼ねなく過ごせている日々を大切にしたいと。
彼はそう考えて、佐々田と一緒にいる時にはそういった類の好意はおくびにも出さなかった。
だがそうして特にこれといった進展もなく過ぎていたある日のこと、一通り勉強を終えて一息ついていた真祐は何気なく自分のバッグに筆記具などを片付けていた佐々田を眺めていて、そしてあることに気付いたのだった。
バッグに詰め込まれていくノートに記されている名前が『Shizunao Sasata』であるということに。
「シズ…ナオ…?」
「って誰?」
思わずそう訊いていた真祐。
すると視線の先にあるらしいノートを見た佐々田は「あぁ、これ。僕の名前ね」とこともなげに言った。
「僕の持ちもんだし、そりゃあ自分の名前書いてあるでしょ」
「え?だってお前、『シズヤ』じゃないのか?」
「違うよ。本当は『シズナオ』」
「えっ…?」
「?」
初めに紹介されてからずっと『穏矢』を『シズヤ』だと思っていた真祐は「な、なんで今まで間違ってるって言わなかったんだ!?」と目を瞬かせる。
「名前を間違われてたら言わないとダメだろ!俺、てっきり今まで…」
「いいよ慣れてるし。子供の頃からよく『シズヤ』って呼ばれてきたから」
「いや、でもそんな…いくらなんでも…」
どうやら彼は名前の読みを訊ねられたときにきちんと「シズナオです」と答えようとするのだが、大抵の人は『シズ』だけを聞いた時点で「シズヤさんですか」と早合点してしまうらしい。
彼が名前を訊ねられる時というのは『穏』の読みを知りたいがためであることがほとんどであり、誰もが『矢』の読みは『ヤ』でしかないと思いこんでいるのだ。
それをいちいち訂正するのも億劫になってしまったということで、彼はもはや『シズヤ』で通しているという。
思いがけず佐々田の本当の名前を知った真祐。
「…お前が今日持ってきてくれたこのお菓子、紅茶とコーヒーだったらどっちが合うと思う?穏矢」
「は…?」
「なぁ、穏矢」
佐々田、もとい穏矢はあまり本名で呼ばれることに慣れていないらしく、照れたような表情をみせて真祐をより一層惹きつける。
「ほら、紅茶とコーヒーだったらどっちがいいかって訊いてるのに」
「…紅茶」
「紅茶な、だと思った。カフェでもコーヒーは頼まないもんな、いつも紅茶とかだし」
「…うん。僕はコーヒーは飲まん」
「ははっ、飲まんですか。ま、俺もあんまりコーヒーは飲まんから一緒だな」
その一件以降、彼らは互いに『穏矢』『古平』と呼び合うようになり、さらに親密になっていったのだった。
ーーーーー
真祐が色々なバイトをしたのは将来自分がどういった業種の仕事をするかを見極めるためでもあったのだが、20歳を超えてとあるバーで働き出したことで、彼はついにその意志を固めることになる。
そのバーは当時開店したばかりのゲイバーで、店名を【No smork】といった。
マスターは温厚な人で、まだ開店したばかりの客入りも少ないようなときだったにもかかわらず『これだけイケメンならうちにも箔がつくだろうし、なにより他で働かせるのはもったいないから』といって真祐を採用してくれたのである。
客が少なかったからこそマスターに一から十、何から何まで仕事を教えてもらうことができた彼はすっかりバーでの仕事を好きになり、それまでしていた他のバイトに区切りをつけてようやくバイト先を一本に絞ることができた。
漠然としていた彼の中学時代からの夢は『自分のバーをもつ』というはっきりとした形をもって動きはじめたのだ。
実際、バーでの仕事は彼の天職でもあった。
適度に専門知識が必要で、人とも関わり、なにより店や場の雰囲気はマスターを中心としていかようにも変えられる。
きっとそこには『自分と同じ人達が沢山いる』という安心感もあっただろう。
大学や世間ではストレートばかりに囲まれていても、ここに集まってくるのは一夜かそれ以上になる相手を求めてきている皆自分と同じ性的指向の人々なのだ。
皆同じだからこそ自分の性的指向を気にせず自然体でいられるこの空間は、彼にとっての大切な場所になった。
どこかの企業へ就職活動をするわけでもなく、バイトも一本に絞り、気持ちにも余裕ができた真祐は穏矢と会う時間も機会も増やすようになっていたが、しかしそれはあくまでも友人としてのものであって相変わらず一線を越えることは一切なかった。
ひそかに慕い、そして不本意ながら穏矢が誰かと睦み合うときはどんな姿を見せるのだろうかと想像してシたことすらあるが、だからといって真祐は自らの思いを伝えなければ気が済まないというような自制心のない突発的な行動に出る子供じみた性格ではないのだ。
真祐にとっての穏矢は高嶺の花というか、別世界の人というか、憧れるだけのアイドルのような絶対にそういう意味では手の届かない人だった。
しかし何の偶然か、ある日突然 事は起こるものだ。
それはいつものように真祐がバーで接客をしていたときのことだった。
常連との軽いやり取りの他、初めて来た人にバーでのルールを説明するなどしていつも通りに仕事をしていた真祐。
バーのルールといっても堅苦しいものではなく、店の雰囲気に慣れてもらうために少々会話をこなしながら軽く『コースター』についての説明をするくらいだ。
『コースター』というのはこのバーのマスターが用意したシステムのことだ。
まず入店した客にはスタッフからコースターが手渡される。
このコースターにはバーのロゴが描いてあるわけだが、片面は『青』、そしてもう片面は『赤』で印刷されていて、青い方を上にしていると『相手を探している』という意味になり、反対に赤い方を上にしていると『ただ酒を楽しみに来ている』という意思表示になるわけだ。
そしてさらにもう1つ、このコースターには一部切込みが入っていて簡単に丸い穴を開けることができるようになっているのだが、これは自分のポジションの意思表示として利用されている。
つまり欠けていない青いコースターを使っている者は『相手募集中のトップ』で、穴の開いた青いコースターを使っている者は『相手募集中のボトム』ということである。
どちらもできる者は好みの相手に自ら「俺はどっちのポジジョンでもイけるんだけど」と話しかけに行っているので問題ない。
このコースターのシステムによって上手いこと相手を見つけることができるため、バーを訪れたときには1人だった多くの男達は2人連れ(2人とも限らないようだが)となって出て行くのだった。
開店からしばらく日が経ち、徐々に人の入りが多くなってきたバーは出会いを求める人とゆったり会話や酒を楽しむための場として人気になり、それなりに忙しくなるようになってきていて、真祐もより一層働きがいを感じながら仕事をしていたその時。
新たにドアベルが鳴り、客を迎え入れるために扉の方へ目を向けた瞬間、彼は目を疑った。
入ってきたのは見慣れた細身の男、穏矢だったのだ。
何度確かめてみてもそっくりさんなどではなく、穏矢本人その人だった。
このバーはけっして表通りにあるような店ではなく、その界隈で有名になりつつあるというだけの店だ。
にもかかわらず穏矢はここに現れた。
真祐は端から見ればいつも通りの落ち着いた様子だったかもしれないが、内心とても驚いていた。
穏矢も驚きを隠せないようで、少々ばつが悪そうにしながらもカウンターの端の席に座る。
「…いらっしゃいませ、当店は初めてのご利用ですね?」
「…はい」
ぎこちない雰囲気が漂う中でも、真祐は店員としての振る舞いを崩さずに平静を装う。
だが、ただ1つ私的な感情から店員らしからぬ行動をしたのも事実だった。
彼は穏矢にコースターの説明をせず、赤を上にしてさっさとお冷を置き、裏返せないようにしたのだ。
穏矢が他の客に自ら声をかけてしまえばすぐにそのシステムについてはバレてしまうだろうが、とにかく真祐は彼のコースターを赤にしておきたかった。
誰かと連れ立って出て行く姿などは絶対に見たくなかったからだった。
ーーーーー
その後、真祐が悶々としながら過ごしたのは言うまでもないだろう。
バーに来たことについてをメッセージで訊くのはどうにも憚られる。
もしかしたら訊くべきではないのかもしれない。
しかし、気になって仕方がない。
幸い(?)にもその日は結局酒を楽しんで穏矢はそのまま帰ったが、あのバーに来たということは大方相手を探しに来たということだったに違いないのだ。
そもそもどうやってあの場所を知ったのだろうか。
SNSか もしくは…他にその手の知り合いがいて教えてもらったのか。
だとしたら他のバーにも行ったことがあるのではないのか?
…とすると、真祐の知らないところで誰か他の男が穏矢の肌に触れたことだって…
『穏矢はストレートであって、絶対に手が届くはずがない』
そう思っていた真祐。
だが穏矢がバーに来たことについて考えるにつれ、にわかに信じがたいことに、彼はそれまで先がないと思えていた暗闇の中に一筋の光の道が示されたかのようにも思い始めた。
(そうだよな…それなら俺にも望みはあるってことなんじゃないのか?だって、少なくとも穏矢は男を……)
であればいつまでも1人で悶々としている暇はない、と真祐は次に勉強会をしたその日、思い切った行動に出ることにした。
すっかり真祐の家で勉強することが恒例となったまま、いたって普通の様子でいつも通りに振舞っている穏矢。
それとは対照的に、バーに来たことについて訊ねる機会をずっと伺っていて気が気ではなかった真祐。
「…あ、手にインク付いてたわ。洗面所借りていい?」
「あぁ、もちろん」
「ありがとう」
お借りします、と断って洗面所に行った穏矢の背中を見送った真祐は緊張しつつ机の上を拭い、気を落ち着けがてらキッチンで手を洗って一息をつく。
もしかしたらこれからしようとしている会話のせいで穏矢との この勉強会や友人関係が終わってしまうかもしれない。しかし、逆に上手くいけば進展することだってありうる。
(ずっとこうしてたって何にも変わらないんだぞ…やるならやれ!ときには大きく動くことだって必要なんだ、分かってるだろ、俺!)
身の置きどころを探してソファに座り込んだ真祐は、堅実に生きてきたこれまでの人生史上初めての大きな賭けに備えた。
一か八かの、大博打だ。
「それじゃあ僕はそろそろ帰るわ」
「今日もありがとう」
洗面所から戻ってきた穏矢は机のそばに置いてあった荷物を手に取ろうとする。
勉強会が終わって解散となる、昼過ぎのいつもの時刻だ。
だが真祐は意を決して口を開いた。
「あのさ、穏矢。この間バーに…来たのってさ」
おずおずと話し始めると、穏矢は「あぁ、うん」とこともなげに頷く。
「古平が働いてたのってあのバーだったんだな。知らなかった」
「まぁ…知り合いが急に来てびっくりしただろうけどさ、もうあそこには行かないから安心してよ。それじゃ」
「ま、待てってば!」
なおも帰ろうとする穏矢を慌てて引き止め、真祐はさらに思い切って言った。
「お前っ…あのバーがどういうバーか知ってて来たのか?だってあそこは…」
「知ってるよ当然。ゲイバーでしょ。…なに、僕が行っちゃいけない理由でもあるの?僕は成人してるし、そういう場所で相手を探したって問題ないはずじゃん」
「相手って…やっぱりじゃあお前あのとき…!」
疑いは確信に変わり、真祐の中でありとあらゆる感情が渦巻いた。
穏矢がゲイ、バイ、パンのどれかは知らないが、とにかく彼は男を相手にする(もしくはできる)男であり、ストレートというわけではなかったのだ。
それに『相手を探しに来た』というくらいなのだから、真祐がバーで働いていない日に来ていたとしたら穏矢は早々に相手を見つけて店を出て行っていたに違いない。
なにせ穏矢はそういう場にいればすぐに声が掛かるであろうというような、とにかく綺麗な男なのだ。
今まで『ストレート相手にアプローチはするまい』と一線を引いてきた自分をよそにそんなことになっていたかもしれないなどと考えるだけで真祐は嫉妬すら抱く。
だが今はそんなことに構っていられる暇はなかった。
今しか…そう、今しかない。
直感的に悟った真祐はソファから立ち上がり、その勢いのまま訴えた。
「あ、あのさ、穏矢!」
「俺、お前のことが好きなんだよ!その…Likeじゃなく、Loveの…Loveの意味で!」
「相手探してるっていうんならさ、俺に…俺にしとけよ!そんなどっかの誰かよく知らないやつじゃなくて、俺に…!」
きちんとした台詞を考えている余裕もなく、ひたすら胸の奥底からの言葉を吐き出した真祐。
それはお世辞にもかっこいいと言えるものではなかった。
穏矢も呆然として「な…にを言い出すかと思ったら」と眉をひそめる。
「古平が僕を?そんな…まさか」
「まさかじゃない、俺はずっと前からお前のことを良いなと思ってたんだって!でもお前はストレートだろうと思って…」
「はぁ!?古平こそノンケだろ」
「何だと!?違う、俺はそうじゃない!俺の恋愛対象は元から男だ!」
「はっ…いや、えっ…?」
驚きの応酬が続き、次第に妙な気恥ずかしさがじわじわと2人の間を漂い始めた。
「僕…古平のこと、本当にノンケだろうと思ってた…だって真面目だし」
「いや、それを言うならお前の方がそうだろ?お前のほうがよっぽど真面目でまさかゲイバーに来るようには…」
「……」
「………」
「っていうか」
「「真面目だからってなんだよ…!!」」
同時に吐露した2人。
互いがそれぞれのことを『真面目だからストレートに違いない』と思っていたのだが、しかし真面目であることと個人の性的指向にはなんの関わりもなく、まったく別のことであるということを彼らはその時になってはっきりと理解したのだった。
改めて沈黙が2人を包む中、真祐は穏矢に向けて一歩踏み出す。
「穏矢は俺のこと…そういう風には見れないか?やっぱり友達としてしか…」
「俺、お前のことが本当にちゃんと恋愛の意味で好き、なんだけど…でももし穏矢が俺のことをそう思えないなら、それはそれで…いいと思ってる」
「俺、友達として過ごしてるのでもすごく楽しかったから…だから今まで通りでも、俺は…うん……」
返答次第では真祐は大失恋となるこの状況。
彼には一秒がとんでもなく長いように感じられて仕方がなかった。
だが、穏矢は戸惑ったような表情でボソボソと呟く。
「友達っつかそんなん…どっちかっていうと僕の方が古平のこと………だし……」
「………うん」
否定的なことを言われなければそれだけで充分だと覚悟していた真祐にとって、穏矢のその言葉はあまりにも色よい答えすぎた。
気づけば真祐は穏矢の手を取り、さらに一歩近づいていた。
初めて握ったその手は想像していたよりもずっと細く華奢で、握る力加減に気をつけなければならないとさえ思える。
しかしその指や手のひらから伝わる確かな体温、そして視線を伏せたままじっとしていることではっきりと見える睫毛の一本一本は真祐をさらに突き動かした。
「………」
意識せず片手を穏矢の頬に添えると、かすかに驚きの表情が浮かび、唇が薄く開く。
唇の輪郭や素のままのはずなのに美しい色、見るからに滑らかな質感。
それらは真祐の視線をくぎ付けにした。
「………」
ゆっくり、ごくゆっくりと自らの顔を近づけていく真祐。
しかし穏矢は体を引かなかった。
やがて互いの息遣いまでもがはっきりと感じられるくらいの距離まで近づき、これが最後のチャンスだとばかりに動きを止めてみても、それでも穏矢は動かない。
この距離まで迫られて動かないということは、それがもはや『答え』に等しかった。
真祐は上唇からそっと触れ合わせると、次に下唇を、そして唇の中心からすべてを穏矢の唇に重ね合わせる。
「………」
…誰かと口づけをするのは初めてではないのに真祐の胸がこんなにも高鳴っているのは、相手が本当に好きな男であるからに他ならなかった。
唇で唇の柔らかさを確かめ合う感覚の心地よさは言葉では表すことができない。
まさに得も言われぬ幸福感が全身を包み込む。
それらを存分に味わい尽くし、ようやく少し離れようとした真祐だったが、今度は穏矢がそれを逃さないというように握り合った手とは逆の手を真祐の腰に回し、引き寄せ、そして唇をもう一度押し付けた。
ただ触れ合うのとは違い、少しだけ食むようにしながら。
そうしてもたらされたくすぐったさによってゾクゾクとした感覚が脊髄を駆け巡り、ついには真祐の中の張りつめていた一本の糸か何かをぷつんと切ってしまった。
彼の中にカッと燃え上がった炎はどうやって抑えればいいのか分からないほど大きくなっていて、ふっと沸いた衝動のまま穏矢の手を引いて再びソファに座ると、穏矢も引っ張られたその勢いのまま真祐の膝の上に跨るようにして腰を下ろす。
立って抱き合うのよりもずっと近くなった距離で向き合うと、2人はどちらからともなくさらに唇を求めて夢中になった。
「ん…っ……ふぅっ、ぅ………」
つい今さっきまでただの友人関係でしかなかったとは思えないほどの絡み方をして激しく口づけを交わす真祐と穏矢。
無茶苦茶に顔を傾け合い、息が切れるまでそうし続ける姿はまるで口づけの仕方を知らない子供のようだ。
やがて息苦しくなってきたために唇を離して固く抱きしめ合うと、それまで共に過ごしている時に時々ふわりと香る程度だった互いの香りがはっきりと体の中にまで入り込んできた。
穏矢から香るそれは柔軟剤やボディソープ、もしくはシャンプー、そしてなにかそれ以外の良い香りを、例えばうららかな陽の光の合わせたようなものに思えた。
香りと、鼓動と。そして耳元に感じるくすぐったいような息遣い。
健康で若い血気盛んな男にこれで我慢するなと言う方が明らかに無茶なことだっただろう。
「………」
それでも真祐はなんとか最後の最後である理性を、細切れになって散らばっていた理性というものをかき集めてやり過ごそうと試みていた。
『これ以上はまずい』『あまりにも段階を飛ばし過ぎている』と。
だがこともあろうに穏矢はその腰を真祐に押し付け、真祐の努力をすべて無に帰してしまう。
すでにそこは熱い口づけによって反応を示しているのだ。
もはや成す術なく、どうすることもできず、真祐は痛いほどに張りつめた自らの下半身に手を伸ばした。
「っ、はぁっ…」
抱きしめ合った体勢のまま手だけを動かしてベルトを外すと、穏矢の方からもまったく同じようにズボンの留め具を外す音が聞こえてくる。
チャックを下ろし、窮屈だった感覚が少し和らいだのと同時に下の方へ目を向けると…そこには向かい合わせになった2つの下着のたしかな膨らみがあった。
どちらも下着越しにどくどくと拍動している。
興奮しているのは真祐だけではないということがはっきりとしていた。
強烈な欲を抑え込もうとするものはすでになく、真祐は膨らみを穏矢のものにぐいっと押し付けると、そこは一層硬く熱く下着の中で変化する。
何度かそうしてすり合わせているといよいよ我慢が利かなくなり、どちらも互いの下腹部に手を当て、それから下着の中へと無遠慮に滑り込んでいった。
「……っ!!」
下着の中で押さえつけられていた熱く反り勃つものをまっすぐに上向かせると、その先端がはっきりと外に顔を覗かせる。
紅く濡れた2つの亀頭。
だが2人にはそれをまじまじと見つめる余裕すらもなかった。
「はっ、あぁっ……ぁ!!」
自分のものをしごいているのか相手のものをしごいているのかすら分からないほどの入り乱れた興奮のまま、ただただ強い刺激を求めて力加減もなくひたすら肉棒を収めた手を上下していると、喉奥から漏れる淫らな喘ぎと吐息が次第に大きくなっていく。
手の中にあるものは信じられないほどの熱を放っていて、心臓を鷲掴みにでもしているかのようにも思えた。
ローションなどの潤滑剤がなくとも十分なほどですぐにでも果ててしまいそうな中、真祐と穏矢は無我夢中になって舌を絡め、そして手の動きを早めながらもう片方の手でしっかりときつく固く体を抱きしめ合う。
「ふっ、う…い…イク…い、イクぅ…っ…!」
「はぁっ、しずなお…!」
それからまもなく放たれた2人の白濁。
それは真祐の腹部にべっとりと付着し、濃厚な跡を残した。
ーーーーーー
1人暮らしを始める際にすこし背伸びをして購入した広め、大きめのソファ。
真祐はこのときほどこのソファを購入して良かったと思ったことはない。
夢中になって互いの肉棒を扱いて果てた後、真祐は気だるげな気分のまま穏矢を後ろから抱きしめ、一緒になってソファの上に横たわっていた。
抱きしめる腕に力を込めると、穏矢の髪やうなじの香りが濃くなる。
胸元にある温もりや呼吸によってかすかに上下する穏矢の肩が、愛おしい気持ちを存分に湧き立たせる中、呼吸と鼓動の音以外には何もない静かなときをしばらく過ごした真祐は口を開いた。
「なんか…思春期真っ只中の子供みたいだったな…俺達…」
ははっ…という苦笑いも含まれているその言葉に、穏矢は「…ほんと、ただのガキじゃん」と答える。
「ハタチすぎてこれかよ…」
照れ隠しでもするように口悪く吐き捨てる姿すらも堪らず、真祐は「だよな」と穏矢の髪に口づけた。
「ほんと、ガキっぽいよな…でも…」
「ガキでも許してくれよ、な?」
後ろから抱きしめていると穏矢の華奢な体がよく分かる。
見る以上に骨が細く、儚げなのだ。
しかし腕に伝わる感触と熱には力強いものがあり、たった今起こったことが夢ではなく現実のことだということをはっきり知らせている。
まさか手の届くはずがないと思っていた人が、こうして腕の中に…。
その事実が幻であることを恐れるかのように、|真祐は恐る恐る訊ねてみる。
「あのさ…その、俺達って……つ、付き合うってことで、いい…んだよな?」
今更ながら臆病なほど緊張してしまう真祐。
だがそれほど待たないうちにボソボソという声で返事が返ってきた。
「……付き合わないつもりなのかよ」
「……!」
穏矢の表情は後ろからでは見えない。
しかし真祐にはよく分かっていた。
「俺達…俺達、付き合おう、穏矢!」
「俺、本当に…本当に大切にする、大切にするよ、穏矢!」
「好きだ、穏矢!」
嬉しさのあまり何度もそう繰り返す真祐に穏矢は「うん、分かったよ。もう分かったってば」と軽くあしらうかのように答えていたが、しかし彼も真祐の笑顔に負けずと劣らない、花の咲いたような笑みを浮かべて喜びをあらわにしていた。
その日は彼らにとっての特別な日として後々まで記憶されることになる。
なんでもなかったはずのその一日は、一瞬にして友人ではなく恋人としての新たな一歩を踏み出した記念日となったのだった。
ーーーーーーー
~『平穏』前編:その後~
それは恋人同士になったことを確認しあった直後のことだ。
ソファに寝そべったまま「もう少し、あと少しだけ」と時を惜しむようにして静かに過ごしていた2人。
真祐は今後穏矢とどこへ出かけようか、なにをしようかということをあれこれ考えていたのだが…その最中でふと湧き上がってきた1つの疑問にすっかり頭の中を支配されてしまっていた。
気まずくなるだろうか、と思いつつも気になって仕方がないので「あのさ…穏矢」と呼びかけてみる真祐。
「あの、1つ訊きたい事が…あるんだけど」
「なに?」
「いや…あのさ」
「なんだよ」
「いや、あの…」
言い淀む真祐。
「だから、その…やっぱりこういうのは初めに聞いておいたほうが良いんじゃないかと、そう思ってだな…訊くんだけど…」
「なに?はっきりしなよ」
なかなか言い出さない真祐に痺れを切らしたらしい穏矢の怪訝そうな声が響く。
真祐はさらに躊躇いながら、やっと口にした。
「穏矢って、ポジションはどっちとか…あんの?」
「………」
小さな声で「別に…言いたくなかったら良いんだけど……」とも続ける真祐。
「俺、別にヤりたがりとかってわけじゃないんだよ、さっきの今じゃこんなん信じてもらえないかもしれないけどさ…本当に。でもやっぱ訊いといたほうが良いだろ?一応…な、うん…」
プラトニックな関係になるならまだしも、やはり男同士で恋仲になればどうしても気になるのがポジション問題だ。
気まずいような空気を誤魔化そうとして言い繕う真祐だが、穏矢は平然としながら「…今んとこ、僕はタチしかやったことないかな」と応える。
「なんとなく、タチだけ」
「あっ…そ、そうなんだな!うん…そうか!」
「古平は?」
「えっ、俺?」
「うん」
経験はタチだけだという穏矢の答えになぜかやたらと動揺していた真祐は「俺?俺は…まぁ、どっちでもいいんだ」と肩をすくめた。
実際、真祐はそれまで相手に合わせていたためどちらの経験もある。の、だが……。
「俺はどっちでもいいから、それじゃあ……」
真祐のその様子を受けて、穏矢はやれやれというように「いいよ、タチがいいんでしょ」と自らを抱き締めて離さない腕をぽんぽんと叩く。
「それでいいよ、そうしよ」
「えっ…いやでもそんな…俺はウケでも全然……」
「嘘つけ、僕のこと抱きたがってるのバレバレだし。いいじゃん、それでも」
「…穏矢はそれでいいのか?」
「色々試してみればいいでしょ。やってみりゃいいんじゃないの」
「お、おう……」
さっぱりしているというのか、あっけらかんとして臆せずに自身のポジションを受け入れる穏矢はやたらと格好がよく見える。
真祐はそんな穏矢をさらにぎゅっと抱き締めると、「ちょっと、もう…苦しいってば」と言われながらも心からの笑みを堪えつつ応えた。
「…じゃ、そうしてみよう穏矢。誓うよ、俺。すごく優しくする」
「はいはい、分かったよ。また今度ね。よろしくどうぞ」
「うん…あっ、でも穏矢って準備の仕方は?分かるのか?」
「………」
「いいか、シャワーとかでやるんだぞ。イチジクは向いてないからダメだ、あれはそもそもそういう用途のものじゃないからな、使うと……」
「う、うるっさいな、分かったってば!!」
いくら大事なこととはいえども生々しい話をしだした真祐から逃れようとする穏矢。
だが真祐はそんな穏矢の事さえも愛おしく思えてならず、「悪かった、悪かったってば。俺が悪かったよ」と笑いながら穏矢をソファに引き留めた。
なんだか離れてしまうのが惜しい交際初日。
空の色はすっかり茜色になりつつあった。
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