19 / 43
【可惜夜を君と】前編
しおりを挟む
≪ここのお店、結構いいところなんだけど。今度どう?≫
≪予約は僕が取るから≫
穏矢からとある料理店のリンクと共にそんなメッセージが送られてきたのは数日前のことだった。
いつも食事の誘いをするのは真祐からのみだったので、穏矢からの突然のそのメッセージにとても驚いた真祐。
もちろん彼にはその誘いを断る考えなど微塵もなく、すぐに≪良さそうなところだな、俺も行ってみたい≫と返信して2人での食事の約束を取り付けた。
≪日にちは任せるよ、俺はいつでも合わせられるしさ≫
≪じゃあ今週末はどう?≫
≪俺は構わないけど…
予約は大丈夫なのか?≫
≪大丈夫≫
≪そうか
なら今週末にしよう≫
≪この間借りたやつもその時返すから≫
≪あぁ、わるいな
却って気を遣わせて≫
≪ううん。
それよりこのお店は近くに駐車場がないから、来るときは電車かタクシーがいいと思う≫
≪分かった。そうするよ≫
≪うん≫
相変わらず端的に交わされるやり取り。
だが真祐はたしかにそこにはそれまでとは違う何かがあると感じていて、週末に決まったその食事の約束をとても楽しみにしていたのだった。
ーーーーーーー
穏矢はインテリアデザインなどの仕事をしているわけだが、時々昔世話になったデザイナーの先輩や建築関係の人にちょっといい店に連れて行ってもらうことがあるらしい。
そうした人達に連れて行ってもらう店というのはどれも先輩達が手掛けたものなどであり、穏矢にとっても今後の仕事の参考になりそうなところばかりだ。
しかし彼はあまり格式張ったような場は得意ではないため自分からそのような店に赴くことはまったくと言っていいほどなく、連れて行ってもらった後に再びそこを訪れることも滅多になかった。
…なかったはず、なのだが。
「ここ…本当にすごくおしゃれなところだな」
カウンター席に案内されてすぐのこと。
少し声を潜めて言う真祐に穏矢は頷いて答える。
「有名なデザイナーさんが手掛けたお店だから」
「そうなのか」
「前に先輩に連れてきてもらった時、また来たいなと思ったところなんだ。料理も美味しくて…紹人に聞いたら昔一緒に働いたことがある人のお店だって言ってた」
「えっ…紹人って本当に色んな人と知り合いなんだな…」
「そうらしいね」
人懐っこい紹人の人脈の広さに改めて驚いていると今晩の品書きについてスタッフが説明をしに来たので、2人はそれ以上話すことなくその説明に耳を傾けた。
そうして始まった食事。
店内は格調高さが窺える落ち着いた雰囲気に満ちていて、いつもの賑やかな声が聞こえてくる半個室とは大違いだ。
そのため真祐はにわかに緊張していた。
もちろん傍目には落ち着いた品のいい大人の男2人がマナーよく食事をしているようにしか見えないだろう。しかしこのような店に行くのが初めてでないとはいえ、内心では『間違った振る舞いをしないように』と常に気を張ってしまうのが真祐という男なのだ。
穏矢も同じように振る舞いに気を遣っているような様子であると気付いていた真祐は、変にあれこれと話して雰囲気を壊してしまうのも良くないだろうと思い、穏矢が時々話すのに合わせて応える以外にはあまり口を開かなかった。
「…ここ、お酒も色々置いてるけど。飲まないの?」
「今日は車じゃないんでしょ」
食事が中盤に差し掛かった頃になって穏矢にそう訊ねられた真祐は「あぁ、まぁお酒なしで味わうのもいいかと思って」と料理と共に供されていた茶を一口飲む。
「このお茶もすごく美味しいしさ。それに俺ばっかり飲んでも、ちょっと、あれだろ」
「あれって?」
「いや…ほらなんていうかさ。ま、とにかく俺はいいよ」
穏矢がこういった席であまり酒を飲むタイプではないことを知っている真祐は飲まない穏矢の隣で自分1人だけが酒を呷るのもいかがなものかと遠慮していたのだが、しかし穏矢は少しの間じっと何か考え込んでから「…やっぱり僕も1杯くらい飲もうかな」と言い出した。
「日本酒…がいいかな、日本酒を少しだけ」
なんと。珍しいこともあるものだ。
バーでならともかくとしても、こうした食事の席で彼が『酒を飲もうかな』などと自ら言い出すことは本当に稀なことであり、真祐も目を丸くする。
だがそんな真祐をよそに穏矢は様々な酒類の銘柄などが書かれた品書きを手にとってなにやら思案し始めていて、真祐もすぐさま「あっ、じゃあ俺も少しだけもらうことにするよ」と一緒になって穏矢の手元を覗き込んだ。
「料理に合いそうなのをどれか…ってすごくたくさん取り扱いがあるんだな」
「おすすめを聞いて、それを1杯ずつもらうことにする?」
「そうだな。そうしようか」
ずらりと並んだ銘柄の表記を一つ一つ確かめることを諦めた2人は早々にスタッフを呼び、すっきりとした飲み心地のものがいいという大まかな好みだけを伝えて後は任せることにした。
その後も進んでいく食事。
創作和食を提供するその店の味は新しいものでありながらも斬新過ぎるということはなく、まさに『和食の良いところを最大限まで引き出し、生かした』といった感じでなかなかのものだ。
これからその味に合う酒も来るというのだから、もう他に言うことはないだろう。
だが、真祐にはどうしても気になることがあった。
彼は今夜の穏矢がなにやら思い悩んでいるというか緊張しているというか、とにかくいつもとは違う様子でいるような気がしていた。そしてここにきて…どうやらその理由が店の雰囲気に呑まれているからのものではないらしいということに気付いたのだ。
酒を飲もうかな、と言い出した事だけではない。
何か言いたげにしながらも結局言葉を飲みこんだり、ほんの少しだがいつもより瞬きをする回数が多かったり。
そもそも食事の誘いをしてきたのだって、よくよく考えてみればなにかしらの思惑があったからに違いないと思えてくる。
穏矢が自分から言い出さない限り無理に聞きだそうとすることはよくないだろうと思いつつも、真祐は「なぁ、何かあったのか?」と穏矢にだけ聞こえるよう小声で訊ねた。
「すごく悩んでる…みたいだけど」
すると穏矢は少し俯きながら言った。
「あの…借りてたやつ、持ってくるのを忘れて…」
「あぁ、そういうことか」
「ごめん」
バツが悪そうに言う穏矢。
たしかに、穏矢は仕事のために持ち歩いているいつものカバン以外に何も持ってきておらず、食事の時に返すとしていたはずの寝間着などはどこにも見当たらない。
穏矢はそれを返すつもりで真祐のことを食事に誘ったにもかかわらず肝心のそれを忘れてしまったことを申し訳なく思っているらしかった。
だが、はっきり言ってそんなことは真祐にはどうでもいいことだった。
なにせ彼には穏矢と食事をするということこそが重要であり、寝間着を返してもらう云々というのは二の次三の次だったからだ。
さらに言えば今ここで返してもらわないほうがまた会うための口実になるのでむしろいい、とさえ思えて「いいよ、慌てて返してもらうことはないんだしさ。また今度で」と明るく言う。
「どうしたのかと思えば。ずっとそれを気にしてたのか?」
「……」
「そんなの気にするなよ、すぐ返さなくったっていいんだから。まったく…相変わらず律儀だな」
持ってくると言ったものを忘れてきたことを気にするあたり実に穏矢らしいなと思い、真祐は笑みを浮かべる。
その後すぐ2人の元へと運ばれてきた日本酒は昨年のコンクールで金賞を取ったというものだった。
清水のように透き通ったそれはたしかに2人の希望通りすっきりとしたのみ口でありながらもしっかりと米のうまみが感じられるようで、とても美味しい。
もちろんのこと、料理との相性も抜群だ。
小さく「乾杯。仕事お疲れ様」と交し合って飲んだ一口が喉を滑り落ちていく瞬間の心地良さはまさに至福だった。
…………
「わるいな、会計まで任せて」
「ううん。僕が呼んだんだからこれくらい…」
「ははっ、いつも俺に連れまわされてるんだから俺に払わせたっていいのに」
食事を終えて外に出ると少し冷えた風が2人の頬を撫でていく。
酔うには至らないほどの少量だったとはいえ、飲んだあの日本酒がいつも以上に体をぽかぽかとさせているに違いない。
夜の空気がなんとも心地よく感じられる中、真祐は「じゃ、またな」とお決まりの文句を言って解散しようとした。
「俺はこれから向こうの通りに出てタクシーをひろうつもりなんだけど、途中まで一緒に行くか?」
店の前の静かな細い通りではいくら待ってもタクシーなどが通ることもないだろうと、真祐は腹ごなしがてら大通りに出て帰宅手段を得るつもりでいたのだ。
だが、なんと穏矢はそんな真祐に言った。
「あの…さ」
「うん?」
「…家にあるんだ、返すやつ。今日持ってくるの忘れたやつ」
「あぁそれならまた今度…」
「うち、来ない?」
「……?」
「今日うちに泊まるの、どう」
「………」
「「………」」
真祐は目を丸くした。
「……え」
そのとき真祐の頬がカッと熱くなったのは、あきらかに酒のせいなどではなかった。
ーーーーー
一体何がどうなっているのか、真祐にもまったく訳が分からない。
何がどうなっているのか分からなかったが、しかし気がつくと彼は穏矢の家だというマンションの一室に「あ…お邪魔します」と言いながら上がりこんでいた。
真祐の元を離れた後に引っ越して住み始めたというその部屋は当然見知らぬ間取りだが、なんとなく『穏矢らしさ』が感じられるようなインテリアでまとめられていて、懐かしいような気さえする。
「着替えは…この間僕が借りたやつを着る?返すはずだったやつ。お風呂はすぐに湯が沸くから、そしたら先に入って。その間に寝室の方は…」
穏矢が言っていることのほとんどを真祐は聞いていなかっただろう。いや、聞いてはいたもののすべての文が意味をなさないただの文字の列となって頭の中をそのまま素通りしていっていたのだ。
食事をした店の前で泊まりに来ないかと誘われてからというもの、真祐は自分がどう答えたのか、どうやってここまで来たのかについての記憶が一切なかった。
多分…穏矢が呼び止めたタクシーに同乗してきた、のだろう。タクシー代も、多分穏矢が払っていた(気がする)。『ここが僕の家』と連れてこられたこの部屋は…マンションの何階で…何号室だっただろうか…
真祐はそれら一切の記憶が完全に失われていて、まさに『気がついたらそこにいた』という状態だった。
「…聞いてる?」
斜め後ろから声を掛けられた真祐はそこでようやく我に返って「あ、あぁ、聞いてるよ」となんだかよく分からないまま応える。
「もちろん聞いてたよ、聞いてたけど…あの、でも俺はソファでいいからさ…」
「…僕にはベッドで休むように言ってたくせに」
「あっ、いや、だってそれはさ…」
「いいから。君はそっちの寝室で休んで」
「あ…あぁ、うん……」
もはや真祐に拒否権はなく、部屋の主である穏矢に従うほかなかった。
風呂を済ませて髪を乾かした真祐は、それでもまだいまいち状況が掴めないままスマホを手に穏矢に案内されていた寝室の中でなんとか頭をフル回転させる。
いくらか状況は飲み込めてきていたが、しかしそれでもやはりどうしてもこれが現実のこととは思えない真祐。
この状況は、つまりはこの間の豪雨の日に真祐の家に泊まった穏矢とほとんど同じということなのだが、しかしそれとは決定的に違う点があるのだ。
それは真祐はまだ穏矢のことを想っているという点だ。
穏矢がまだ真祐に対して想いを寄せているのかはよく分からないが、とにかく真祐の方は当時と全く変わらない想いを持ち続けているので、その相手の家に上がり込んで夜を明かすということに関してまったく何の関心も抱かずにいるということはできそうになかった。
今夜休むベッドはいつも穏矢が横になっているであろうというベッドなのだから、落ち着かないのも当然だろう。
さらにそれに加えて、彼の落ち着きをなくさせる材料がもう1つあったのだ。
寝室に入ってきてから何気なくサイドテーブルの上に置かれていたものを見た瞬間、真祐は思わず手にしていたスマホを取り落としそうになる。
(あ…あれは…いや、よく見なくてもあれは………)
なんと、そこに置いてあったのはコンドームの箱や、いわゆる『潤滑ゼリー』が充填されたチューブなどだった。
なぜそんなものがそこに置いてあるのかも真祐にはまったく訳が分からなかった。
いや、行為をするときの必需品ではあるため寝室にあること自体は何ら不思議ではないのだが。しかしあまりにもこれ見よがしに置いてあるのだ、それが。
よしんばそれらが穏矢の愛用品(?)だとして…真祐がシャワーを浴びている間にベッドシーツなどを交換した穏矢がこんなに目立つものを片付け忘れるだろうか?
なんにせよ真祐はその品々がどうしても気になってしまって、ベッドの端に腰かけつつそれらをまじまじと観察してしまう。
見たところ、どうやらどれも新品未使用らしい。
コンドームの箱にはビニールがかかったままで開封した痕跡はないし、ゼリーのチューブにも中身を押し出したような痕跡はない。
まさに購入してすぐといったような感じだ。
そしてさらにサイドテーブルの上をよく見た真祐はそれらの傍らにあるポンプ式の容器にも見覚えがあることに気がついた。
その既視感のあるものが何かを、すぐに真祐は理解する。
それはマッサージをする際などに使うオイル(キャリアオイル)であり、真祐が穏矢と行為をしていた当時よく利用していたものだ。
彼らが体を重ねるときにはローションの代わりとしてこういったマッサージ用のオイルをよく使用していたのである。
(な…懐かしいな…ローションだと乾いたりするからってオイルを使うようになったんだった。肌の色艶も良くなるし肌を撫でるのもマッサージには違いないからって…オイルが付いても大丈夫なゴムを探したりもした…)
(…ゴムも当時使ってたのと同じ、だな。パッケージは多少変わってるけど、でも同じやつ……)
(穏矢…まだあれを使ってんのかな…)
いくら新品のものが置いてあるとはいってもそれを穏矢が購入したであろうということに間違いなく、複雑な思いを抱いた真祐はそれ以上サイドテーブルの上を見続けることができなくなって目を逸らした。
なにせ6年半もの時が経っているのだ。
最近になってまた食事を共にするようになったとはいえ、穏矢が誰とどのような時間を過ごしてどんなことをしていたのかなどは知る由もないことだ。
真祐は実際には穏矢と『別れた』という認識でいたわけではなかったものの、世間一般的に言えば交際関係にあったとは言えない状態だったので、穏矢のそうした生活について彼がショックを受けるいわれはない。のだが…。
真祐は妙に胸が苦しくなってきて、気を紛らわせようとベッドのヘッドボードに背を預けて一心にスマホを弄り始めた。
動画を見漁ってみたり、仕事用のメールボックスに新しい通知が来ていないか何度も見てみたり。
だが何をしても鬱屈とした気分が晴れることはなく、彼はもういっそのことさっさと寝てしまおうということに決めて手にしていたスマホをあのいろんなものが置いてあるサイドテーブルとは反対側の自分のそばにあるテーブルの上へ置きかけた。
するとちょうどその時、寝室の扉がノックされた。
「…あの、まだ起きてる?」
「っ!?」
もう少しでスマホが手から離れそうだったその瞬間に寝室の扉の外から声がかけられ、真祐は跳びあがりそうになりながら再びスマホを持ち直す。
慌ててそれまでと同じようにヘッドボードにもたれかかって「あ、あぁ、起きてるよ」と応える真祐。
寝室の扉を開けて入ってきた穏矢だが、真祐は今さっきまで考えていたことのせいでなんとなく穏矢の方を見ることができずに(こういう時って脚はどう伸ばしておくのが自然なんだ…?あぁ…掛け布団を掛けておけばよかったかな…)などと思いながら必死にスマホで動画を見るのに夢中になっているようなふりをした。
視界の端の方にはベッドのそばに近寄ってきている穏矢の姿が映っている。
穏矢は風呂を済ませてきたところなのだろう。寝間着姿だ。
(何をしに…来たんだ?もしかしてサイドテーブルの上の…あの、なんだ…色んなグッズを片づけに来たのか?なら俺はなおさら知らないふりをしてないとダメだよな、うん…)
きっと穏矢はサイドテーブルの上のものを片付け忘れていたことを思い出して気まずい思いをしているに違いない、と考える真祐。
だが穏矢はなんとベッドのそばに立ち、おもむろに言ったのだった。
「ちょっと…話、いい?」
…声のみからでも分かるほどの、なんとも深刻そうなその様子。
どうやら穏矢はサイドテーブルの上のものを片付けに来たわけではなかったようだ。
真祐は思わずスマホを傍らに置いて居ずまいを正した。
「ど…どうしたんだ?なにかあったのか?いきなりそんな、あらたまって…」
「………」
「…?」
妙な静寂によって真祐は(話って…なんだ?俺に話って、なんだよ…?)と余計に緊張しだしてしまう。
すると穏矢は、ベッドに腰かけ…いや、ベッドの上に上がり、なんと真祐の左手を両手で包み込んできたのだった。
「………」
自らの手に触れた細い穏矢の指を凝視し一体何が起こっているのかと状況の理解に努めようとする真祐。
穏矢は言った。
「この間僕が言ったこと…覚えてる?」
「…あの日のこと、後悔してる…って」
キュッと握られた手はその瞬間から真祐の胸を激しく鼓動させていた。
まるで初恋の相手に不意に手を握られた いたいけな少年のようだ。
目ではっきりと見ているのに、握られた感覚があるのに。
どうしてもそれが現実のものとは思えないほど彼の胸は高鳴っていた。
「………」
真祐は何かを言おうとするものの、声にならず、そっと手を握り返すことしかできない。
「ねぇ、真祐…」
『こっちを見てほしい』というように名を呼びかけられ、真祐はゆっくりと顔を上げた。
こうして真正面から瞳を合わせるのもいつぶりのことだっただろうか。
自分のことを真っすぐに見つめて嘘偽りのない気持ちを伝えてくる穏矢のその瞳の美しさが好きでたまらなかったのだと、真祐ははっきりと思い出す。
「後悔してるってのは…それはつまり…俺のことを…」
たしかめるように一言ずつ口にすると、穏矢は困ったようななんとも言えない表情を浮かべて言った。
「だって僕は君のこと…嫌いになって離れたわけじゃ…ないんだよ」
「僕はずっと君のことが、本当に大好きで…嫌いになったことなんて…そんなのただの一度も…」
悲し気で今にも泣きだしてしまいそうな儚さを纏った穏矢を、真祐は衝動的に自らの胸元に引き寄せ、そしてしっかりと抱き締めていた。
ふわりと香る穏矢の香りに誘われるように真祐はすぐそばにある穏矢の肩口に口づける。
寝間着であるスウェット越しでも分かる2人の鼓動と温もりはそれまで損なったことさえ忘れ去っていた精神的な不足を完全に埋めていくようで、自然と胸をいっぱいにする。
穏矢を抱き締めたまま真祐は語りかけた。
「なぁ、穏矢…俺達あまりにも長いこと離れちゃってたな」
「こんなに何年も会わずにいたなんて、ほんと馬鹿なことしたよ…」
「俺だって穏矢のことを想わない日はなかったのに。今でも変わらず、おまえのことが好きなのに」
それはほとんど過去の自分に向けての言葉だっただろう。
『穏矢を傷つけた自分にはもうそのそばにいる資格はない』と思い、何年も心で想うだけだった自分への言葉だ。
穏矢は少し体を離すと、先ほどよりもずっと近くなった距離で再び瞳を合わせた。
「本当に?君もまだ、本当に僕のことを…」
「穏矢こそ。本当にまだ俺のことが好きなのか?」
「……」
言葉で応える代わりに穏矢は真祐に引き寄せられたままの姿勢ではなく、真祐の太ももの上に跨ってきちんと体の前面をくっつけるように抱きついてきた。
より一層伝わるようになった穏矢の体の温もり。
真祐は穏矢の背をゆっくりとさすりながら、困ったように笑って言う。
「まさかとは思うけど、あの日本酒1杯で酔ったわけじゃないよな?」
「あんなくらいじゃ全然…分かってるくせに」
「そうだよな、俺達は日本酒には特に強いんだって話しをしてたよな…」
「まったく…どうしてこんなに細くなっちゃったんだ?【月の兎】で会った時のあの疲れきったような姿、すごく心配したんだぞ」
「うん…」
「朝ご飯はちゃんと食べないとダメだって言っただろ?どうして俺が目を離すと自分に関することをおろそかにしちゃうんだよ、ほんとに…まったく……」
真祐と食事を共にするようになってから多少は調子を取り戻したように見えるものの、しかしやはりまだ穏矢は華奢すぎている。
真祐がもう一度よく顔を眺めようとすると、穏矢も真祐の頬に手を当てて同じようにして見つめてきた。
しっとりと交わす視線。
穏矢のうなじに触れた指先にほんの少しだけ、ごくわずかに力を込める。
すると穏矢は躊躇うことなく顔を近づけて真祐の唇を奪った。
「………」
柔らかな感触を感じるだけの軽い触れ合いから、唇を尖らせての『ちゅっ』という音を立ててする口づけへ。
自然と一回ごとに触れ合っている時間は長くなり、啄むようだったその口づけはやがて薄く開いた唇の隙間から舌を挿し込む深いものへと変わっていった。
久しぶりのその感覚と脳内に直接響くような艶めかしい舌の触れ合う音に、真祐の下ものもたちまち反応してしまうほどだ。
しかし今さっき互いに想いを改めて確認しあったところでのそれはあまりにもバツが悪く、口づけの最中に真祐は「ん…ちょっと、ごめん穏矢…」と静止した。
「俺の…太ももから降りてくれ」
穏矢は真祐の太ももの上に跨って座っているため、このまま真祐が完全に上向かせてしまった場合は穏矢にもそれがつぶさに伝わってしまうのだ。
だが穏矢はそう言われると離れるどころかむしろさらに体を密着させてきた。
「…どうせ、そこのテーブルの上のも見てたんでしょ」
「っ…いや、俺はべつにそんな…」
「そうやって動揺してるのが見たっていうなによりの証拠じゃん。僕は馬鹿じゃない。人が泊まる寝室にあぁいうものを訳もなく置いておくようなことはしない。…分かってるでしょ?」
穏矢の囁くようなその声にごくりと喉を鳴らした真祐。
声がかすれそうになるのを抑え込みながら「じゃあ…あれは、まさか全部……」と口にすると、穏矢は真祐の首に両腕を回して抱きつきながら耳元に囁いた。
「だから…今でも本当に君のことが好きなんだって、言ったじゃん……」
「……抱いて…くれる?僕のこと…」
懇願しているかのようにさえ聞こえるその最後の言葉に駆り立てられ、真祐はそれからすぐに穏矢の首筋へと噛みつくような口づけを浴びせかけ始めたのだった。
≪予約は僕が取るから≫
穏矢からとある料理店のリンクと共にそんなメッセージが送られてきたのは数日前のことだった。
いつも食事の誘いをするのは真祐からのみだったので、穏矢からの突然のそのメッセージにとても驚いた真祐。
もちろん彼にはその誘いを断る考えなど微塵もなく、すぐに≪良さそうなところだな、俺も行ってみたい≫と返信して2人での食事の約束を取り付けた。
≪日にちは任せるよ、俺はいつでも合わせられるしさ≫
≪じゃあ今週末はどう?≫
≪俺は構わないけど…
予約は大丈夫なのか?≫
≪大丈夫≫
≪そうか
なら今週末にしよう≫
≪この間借りたやつもその時返すから≫
≪あぁ、わるいな
却って気を遣わせて≫
≪ううん。
それよりこのお店は近くに駐車場がないから、来るときは電車かタクシーがいいと思う≫
≪分かった。そうするよ≫
≪うん≫
相変わらず端的に交わされるやり取り。
だが真祐はたしかにそこにはそれまでとは違う何かがあると感じていて、週末に決まったその食事の約束をとても楽しみにしていたのだった。
ーーーーーーー
穏矢はインテリアデザインなどの仕事をしているわけだが、時々昔世話になったデザイナーの先輩や建築関係の人にちょっといい店に連れて行ってもらうことがあるらしい。
そうした人達に連れて行ってもらう店というのはどれも先輩達が手掛けたものなどであり、穏矢にとっても今後の仕事の参考になりそうなところばかりだ。
しかし彼はあまり格式張ったような場は得意ではないため自分からそのような店に赴くことはまったくと言っていいほどなく、連れて行ってもらった後に再びそこを訪れることも滅多になかった。
…なかったはず、なのだが。
「ここ…本当にすごくおしゃれなところだな」
カウンター席に案内されてすぐのこと。
少し声を潜めて言う真祐に穏矢は頷いて答える。
「有名なデザイナーさんが手掛けたお店だから」
「そうなのか」
「前に先輩に連れてきてもらった時、また来たいなと思ったところなんだ。料理も美味しくて…紹人に聞いたら昔一緒に働いたことがある人のお店だって言ってた」
「えっ…紹人って本当に色んな人と知り合いなんだな…」
「そうらしいね」
人懐っこい紹人の人脈の広さに改めて驚いていると今晩の品書きについてスタッフが説明をしに来たので、2人はそれ以上話すことなくその説明に耳を傾けた。
そうして始まった食事。
店内は格調高さが窺える落ち着いた雰囲気に満ちていて、いつもの賑やかな声が聞こえてくる半個室とは大違いだ。
そのため真祐はにわかに緊張していた。
もちろん傍目には落ち着いた品のいい大人の男2人がマナーよく食事をしているようにしか見えないだろう。しかしこのような店に行くのが初めてでないとはいえ、内心では『間違った振る舞いをしないように』と常に気を張ってしまうのが真祐という男なのだ。
穏矢も同じように振る舞いに気を遣っているような様子であると気付いていた真祐は、変にあれこれと話して雰囲気を壊してしまうのも良くないだろうと思い、穏矢が時々話すのに合わせて応える以外にはあまり口を開かなかった。
「…ここ、お酒も色々置いてるけど。飲まないの?」
「今日は車じゃないんでしょ」
食事が中盤に差し掛かった頃になって穏矢にそう訊ねられた真祐は「あぁ、まぁお酒なしで味わうのもいいかと思って」と料理と共に供されていた茶を一口飲む。
「このお茶もすごく美味しいしさ。それに俺ばっかり飲んでも、ちょっと、あれだろ」
「あれって?」
「いや…ほらなんていうかさ。ま、とにかく俺はいいよ」
穏矢がこういった席であまり酒を飲むタイプではないことを知っている真祐は飲まない穏矢の隣で自分1人だけが酒を呷るのもいかがなものかと遠慮していたのだが、しかし穏矢は少しの間じっと何か考え込んでから「…やっぱり僕も1杯くらい飲もうかな」と言い出した。
「日本酒…がいいかな、日本酒を少しだけ」
なんと。珍しいこともあるものだ。
バーでならともかくとしても、こうした食事の席で彼が『酒を飲もうかな』などと自ら言い出すことは本当に稀なことであり、真祐も目を丸くする。
だがそんな真祐をよそに穏矢は様々な酒類の銘柄などが書かれた品書きを手にとってなにやら思案し始めていて、真祐もすぐさま「あっ、じゃあ俺も少しだけもらうことにするよ」と一緒になって穏矢の手元を覗き込んだ。
「料理に合いそうなのをどれか…ってすごくたくさん取り扱いがあるんだな」
「おすすめを聞いて、それを1杯ずつもらうことにする?」
「そうだな。そうしようか」
ずらりと並んだ銘柄の表記を一つ一つ確かめることを諦めた2人は早々にスタッフを呼び、すっきりとした飲み心地のものがいいという大まかな好みだけを伝えて後は任せることにした。
その後も進んでいく食事。
創作和食を提供するその店の味は新しいものでありながらも斬新過ぎるということはなく、まさに『和食の良いところを最大限まで引き出し、生かした』といった感じでなかなかのものだ。
これからその味に合う酒も来るというのだから、もう他に言うことはないだろう。
だが、真祐にはどうしても気になることがあった。
彼は今夜の穏矢がなにやら思い悩んでいるというか緊張しているというか、とにかくいつもとは違う様子でいるような気がしていた。そしてここにきて…どうやらその理由が店の雰囲気に呑まれているからのものではないらしいということに気付いたのだ。
酒を飲もうかな、と言い出した事だけではない。
何か言いたげにしながらも結局言葉を飲みこんだり、ほんの少しだがいつもより瞬きをする回数が多かったり。
そもそも食事の誘いをしてきたのだって、よくよく考えてみればなにかしらの思惑があったからに違いないと思えてくる。
穏矢が自分から言い出さない限り無理に聞きだそうとすることはよくないだろうと思いつつも、真祐は「なぁ、何かあったのか?」と穏矢にだけ聞こえるよう小声で訊ねた。
「すごく悩んでる…みたいだけど」
すると穏矢は少し俯きながら言った。
「あの…借りてたやつ、持ってくるのを忘れて…」
「あぁ、そういうことか」
「ごめん」
バツが悪そうに言う穏矢。
たしかに、穏矢は仕事のために持ち歩いているいつものカバン以外に何も持ってきておらず、食事の時に返すとしていたはずの寝間着などはどこにも見当たらない。
穏矢はそれを返すつもりで真祐のことを食事に誘ったにもかかわらず肝心のそれを忘れてしまったことを申し訳なく思っているらしかった。
だが、はっきり言ってそんなことは真祐にはどうでもいいことだった。
なにせ彼には穏矢と食事をするということこそが重要であり、寝間着を返してもらう云々というのは二の次三の次だったからだ。
さらに言えば今ここで返してもらわないほうがまた会うための口実になるのでむしろいい、とさえ思えて「いいよ、慌てて返してもらうことはないんだしさ。また今度で」と明るく言う。
「どうしたのかと思えば。ずっとそれを気にしてたのか?」
「……」
「そんなの気にするなよ、すぐ返さなくったっていいんだから。まったく…相変わらず律儀だな」
持ってくると言ったものを忘れてきたことを気にするあたり実に穏矢らしいなと思い、真祐は笑みを浮かべる。
その後すぐ2人の元へと運ばれてきた日本酒は昨年のコンクールで金賞を取ったというものだった。
清水のように透き通ったそれはたしかに2人の希望通りすっきりとしたのみ口でありながらもしっかりと米のうまみが感じられるようで、とても美味しい。
もちろんのこと、料理との相性も抜群だ。
小さく「乾杯。仕事お疲れ様」と交し合って飲んだ一口が喉を滑り落ちていく瞬間の心地良さはまさに至福だった。
…………
「わるいな、会計まで任せて」
「ううん。僕が呼んだんだからこれくらい…」
「ははっ、いつも俺に連れまわされてるんだから俺に払わせたっていいのに」
食事を終えて外に出ると少し冷えた風が2人の頬を撫でていく。
酔うには至らないほどの少量だったとはいえ、飲んだあの日本酒がいつも以上に体をぽかぽかとさせているに違いない。
夜の空気がなんとも心地よく感じられる中、真祐は「じゃ、またな」とお決まりの文句を言って解散しようとした。
「俺はこれから向こうの通りに出てタクシーをひろうつもりなんだけど、途中まで一緒に行くか?」
店の前の静かな細い通りではいくら待ってもタクシーなどが通ることもないだろうと、真祐は腹ごなしがてら大通りに出て帰宅手段を得るつもりでいたのだ。
だが、なんと穏矢はそんな真祐に言った。
「あの…さ」
「うん?」
「…家にあるんだ、返すやつ。今日持ってくるの忘れたやつ」
「あぁそれならまた今度…」
「うち、来ない?」
「……?」
「今日うちに泊まるの、どう」
「………」
「「………」」
真祐は目を丸くした。
「……え」
そのとき真祐の頬がカッと熱くなったのは、あきらかに酒のせいなどではなかった。
ーーーーー
一体何がどうなっているのか、真祐にもまったく訳が分からない。
何がどうなっているのか分からなかったが、しかし気がつくと彼は穏矢の家だというマンションの一室に「あ…お邪魔します」と言いながら上がりこんでいた。
真祐の元を離れた後に引っ越して住み始めたというその部屋は当然見知らぬ間取りだが、なんとなく『穏矢らしさ』が感じられるようなインテリアでまとめられていて、懐かしいような気さえする。
「着替えは…この間僕が借りたやつを着る?返すはずだったやつ。お風呂はすぐに湯が沸くから、そしたら先に入って。その間に寝室の方は…」
穏矢が言っていることのほとんどを真祐は聞いていなかっただろう。いや、聞いてはいたもののすべての文が意味をなさないただの文字の列となって頭の中をそのまま素通りしていっていたのだ。
食事をした店の前で泊まりに来ないかと誘われてからというもの、真祐は自分がどう答えたのか、どうやってここまで来たのかについての記憶が一切なかった。
多分…穏矢が呼び止めたタクシーに同乗してきた、のだろう。タクシー代も、多分穏矢が払っていた(気がする)。『ここが僕の家』と連れてこられたこの部屋は…マンションの何階で…何号室だっただろうか…
真祐はそれら一切の記憶が完全に失われていて、まさに『気がついたらそこにいた』という状態だった。
「…聞いてる?」
斜め後ろから声を掛けられた真祐はそこでようやく我に返って「あ、あぁ、聞いてるよ」となんだかよく分からないまま応える。
「もちろん聞いてたよ、聞いてたけど…あの、でも俺はソファでいいからさ…」
「…僕にはベッドで休むように言ってたくせに」
「あっ、いや、だってそれはさ…」
「いいから。君はそっちの寝室で休んで」
「あ…あぁ、うん……」
もはや真祐に拒否権はなく、部屋の主である穏矢に従うほかなかった。
風呂を済ませて髪を乾かした真祐は、それでもまだいまいち状況が掴めないままスマホを手に穏矢に案内されていた寝室の中でなんとか頭をフル回転させる。
いくらか状況は飲み込めてきていたが、しかしそれでもやはりどうしてもこれが現実のこととは思えない真祐。
この状況は、つまりはこの間の豪雨の日に真祐の家に泊まった穏矢とほとんど同じということなのだが、しかしそれとは決定的に違う点があるのだ。
それは真祐はまだ穏矢のことを想っているという点だ。
穏矢がまだ真祐に対して想いを寄せているのかはよく分からないが、とにかく真祐の方は当時と全く変わらない想いを持ち続けているので、その相手の家に上がり込んで夜を明かすということに関してまったく何の関心も抱かずにいるということはできそうになかった。
今夜休むベッドはいつも穏矢が横になっているであろうというベッドなのだから、落ち着かないのも当然だろう。
さらにそれに加えて、彼の落ち着きをなくさせる材料がもう1つあったのだ。
寝室に入ってきてから何気なくサイドテーブルの上に置かれていたものを見た瞬間、真祐は思わず手にしていたスマホを取り落としそうになる。
(あ…あれは…いや、よく見なくてもあれは………)
なんと、そこに置いてあったのはコンドームの箱や、いわゆる『潤滑ゼリー』が充填されたチューブなどだった。
なぜそんなものがそこに置いてあるのかも真祐にはまったく訳が分からなかった。
いや、行為をするときの必需品ではあるため寝室にあること自体は何ら不思議ではないのだが。しかしあまりにもこれ見よがしに置いてあるのだ、それが。
よしんばそれらが穏矢の愛用品(?)だとして…真祐がシャワーを浴びている間にベッドシーツなどを交換した穏矢がこんなに目立つものを片付け忘れるだろうか?
なんにせよ真祐はその品々がどうしても気になってしまって、ベッドの端に腰かけつつそれらをまじまじと観察してしまう。
見たところ、どうやらどれも新品未使用らしい。
コンドームの箱にはビニールがかかったままで開封した痕跡はないし、ゼリーのチューブにも中身を押し出したような痕跡はない。
まさに購入してすぐといったような感じだ。
そしてさらにサイドテーブルの上をよく見た真祐はそれらの傍らにあるポンプ式の容器にも見覚えがあることに気がついた。
その既視感のあるものが何かを、すぐに真祐は理解する。
それはマッサージをする際などに使うオイル(キャリアオイル)であり、真祐が穏矢と行為をしていた当時よく利用していたものだ。
彼らが体を重ねるときにはローションの代わりとしてこういったマッサージ用のオイルをよく使用していたのである。
(な…懐かしいな…ローションだと乾いたりするからってオイルを使うようになったんだった。肌の色艶も良くなるし肌を撫でるのもマッサージには違いないからって…オイルが付いても大丈夫なゴムを探したりもした…)
(…ゴムも当時使ってたのと同じ、だな。パッケージは多少変わってるけど、でも同じやつ……)
(穏矢…まだあれを使ってんのかな…)
いくら新品のものが置いてあるとはいってもそれを穏矢が購入したであろうということに間違いなく、複雑な思いを抱いた真祐はそれ以上サイドテーブルの上を見続けることができなくなって目を逸らした。
なにせ6年半もの時が経っているのだ。
最近になってまた食事を共にするようになったとはいえ、穏矢が誰とどのような時間を過ごしてどんなことをしていたのかなどは知る由もないことだ。
真祐は実際には穏矢と『別れた』という認識でいたわけではなかったものの、世間一般的に言えば交際関係にあったとは言えない状態だったので、穏矢のそうした生活について彼がショックを受けるいわれはない。のだが…。
真祐は妙に胸が苦しくなってきて、気を紛らわせようとベッドのヘッドボードに背を預けて一心にスマホを弄り始めた。
動画を見漁ってみたり、仕事用のメールボックスに新しい通知が来ていないか何度も見てみたり。
だが何をしても鬱屈とした気分が晴れることはなく、彼はもういっそのことさっさと寝てしまおうということに決めて手にしていたスマホをあのいろんなものが置いてあるサイドテーブルとは反対側の自分のそばにあるテーブルの上へ置きかけた。
するとちょうどその時、寝室の扉がノックされた。
「…あの、まだ起きてる?」
「っ!?」
もう少しでスマホが手から離れそうだったその瞬間に寝室の扉の外から声がかけられ、真祐は跳びあがりそうになりながら再びスマホを持ち直す。
慌ててそれまでと同じようにヘッドボードにもたれかかって「あ、あぁ、起きてるよ」と応える真祐。
寝室の扉を開けて入ってきた穏矢だが、真祐は今さっきまで考えていたことのせいでなんとなく穏矢の方を見ることができずに(こういう時って脚はどう伸ばしておくのが自然なんだ…?あぁ…掛け布団を掛けておけばよかったかな…)などと思いながら必死にスマホで動画を見るのに夢中になっているようなふりをした。
視界の端の方にはベッドのそばに近寄ってきている穏矢の姿が映っている。
穏矢は風呂を済ませてきたところなのだろう。寝間着姿だ。
(何をしに…来たんだ?もしかしてサイドテーブルの上の…あの、なんだ…色んなグッズを片づけに来たのか?なら俺はなおさら知らないふりをしてないとダメだよな、うん…)
きっと穏矢はサイドテーブルの上のものを片付け忘れていたことを思い出して気まずい思いをしているに違いない、と考える真祐。
だが穏矢はなんとベッドのそばに立ち、おもむろに言ったのだった。
「ちょっと…話、いい?」
…声のみからでも分かるほどの、なんとも深刻そうなその様子。
どうやら穏矢はサイドテーブルの上のものを片付けに来たわけではなかったようだ。
真祐は思わずスマホを傍らに置いて居ずまいを正した。
「ど…どうしたんだ?なにかあったのか?いきなりそんな、あらたまって…」
「………」
「…?」
妙な静寂によって真祐は(話って…なんだ?俺に話って、なんだよ…?)と余計に緊張しだしてしまう。
すると穏矢は、ベッドに腰かけ…いや、ベッドの上に上がり、なんと真祐の左手を両手で包み込んできたのだった。
「………」
自らの手に触れた細い穏矢の指を凝視し一体何が起こっているのかと状況の理解に努めようとする真祐。
穏矢は言った。
「この間僕が言ったこと…覚えてる?」
「…あの日のこと、後悔してる…って」
キュッと握られた手はその瞬間から真祐の胸を激しく鼓動させていた。
まるで初恋の相手に不意に手を握られた いたいけな少年のようだ。
目ではっきりと見ているのに、握られた感覚があるのに。
どうしてもそれが現実のものとは思えないほど彼の胸は高鳴っていた。
「………」
真祐は何かを言おうとするものの、声にならず、そっと手を握り返すことしかできない。
「ねぇ、真祐…」
『こっちを見てほしい』というように名を呼びかけられ、真祐はゆっくりと顔を上げた。
こうして真正面から瞳を合わせるのもいつぶりのことだっただろうか。
自分のことを真っすぐに見つめて嘘偽りのない気持ちを伝えてくる穏矢のその瞳の美しさが好きでたまらなかったのだと、真祐ははっきりと思い出す。
「後悔してるってのは…それはつまり…俺のことを…」
たしかめるように一言ずつ口にすると、穏矢は困ったようななんとも言えない表情を浮かべて言った。
「だって僕は君のこと…嫌いになって離れたわけじゃ…ないんだよ」
「僕はずっと君のことが、本当に大好きで…嫌いになったことなんて…そんなのただの一度も…」
悲し気で今にも泣きだしてしまいそうな儚さを纏った穏矢を、真祐は衝動的に自らの胸元に引き寄せ、そしてしっかりと抱き締めていた。
ふわりと香る穏矢の香りに誘われるように真祐はすぐそばにある穏矢の肩口に口づける。
寝間着であるスウェット越しでも分かる2人の鼓動と温もりはそれまで損なったことさえ忘れ去っていた精神的な不足を完全に埋めていくようで、自然と胸をいっぱいにする。
穏矢を抱き締めたまま真祐は語りかけた。
「なぁ、穏矢…俺達あまりにも長いこと離れちゃってたな」
「こんなに何年も会わずにいたなんて、ほんと馬鹿なことしたよ…」
「俺だって穏矢のことを想わない日はなかったのに。今でも変わらず、おまえのことが好きなのに」
それはほとんど過去の自分に向けての言葉だっただろう。
『穏矢を傷つけた自分にはもうそのそばにいる資格はない』と思い、何年も心で想うだけだった自分への言葉だ。
穏矢は少し体を離すと、先ほどよりもずっと近くなった距離で再び瞳を合わせた。
「本当に?君もまだ、本当に僕のことを…」
「穏矢こそ。本当にまだ俺のことが好きなのか?」
「……」
言葉で応える代わりに穏矢は真祐に引き寄せられたままの姿勢ではなく、真祐の太ももの上に跨ってきちんと体の前面をくっつけるように抱きついてきた。
より一層伝わるようになった穏矢の体の温もり。
真祐は穏矢の背をゆっくりとさすりながら、困ったように笑って言う。
「まさかとは思うけど、あの日本酒1杯で酔ったわけじゃないよな?」
「あんなくらいじゃ全然…分かってるくせに」
「そうだよな、俺達は日本酒には特に強いんだって話しをしてたよな…」
「まったく…どうしてこんなに細くなっちゃったんだ?【月の兎】で会った時のあの疲れきったような姿、すごく心配したんだぞ」
「うん…」
「朝ご飯はちゃんと食べないとダメだって言っただろ?どうして俺が目を離すと自分に関することをおろそかにしちゃうんだよ、ほんとに…まったく……」
真祐と食事を共にするようになってから多少は調子を取り戻したように見えるものの、しかしやはりまだ穏矢は華奢すぎている。
真祐がもう一度よく顔を眺めようとすると、穏矢も真祐の頬に手を当てて同じようにして見つめてきた。
しっとりと交わす視線。
穏矢のうなじに触れた指先にほんの少しだけ、ごくわずかに力を込める。
すると穏矢は躊躇うことなく顔を近づけて真祐の唇を奪った。
「………」
柔らかな感触を感じるだけの軽い触れ合いから、唇を尖らせての『ちゅっ』という音を立ててする口づけへ。
自然と一回ごとに触れ合っている時間は長くなり、啄むようだったその口づけはやがて薄く開いた唇の隙間から舌を挿し込む深いものへと変わっていった。
久しぶりのその感覚と脳内に直接響くような艶めかしい舌の触れ合う音に、真祐の下ものもたちまち反応してしまうほどだ。
しかし今さっき互いに想いを改めて確認しあったところでのそれはあまりにもバツが悪く、口づけの最中に真祐は「ん…ちょっと、ごめん穏矢…」と静止した。
「俺の…太ももから降りてくれ」
穏矢は真祐の太ももの上に跨って座っているため、このまま真祐が完全に上向かせてしまった場合は穏矢にもそれがつぶさに伝わってしまうのだ。
だが穏矢はそう言われると離れるどころかむしろさらに体を密着させてきた。
「…どうせ、そこのテーブルの上のも見てたんでしょ」
「っ…いや、俺はべつにそんな…」
「そうやって動揺してるのが見たっていうなによりの証拠じゃん。僕は馬鹿じゃない。人が泊まる寝室にあぁいうものを訳もなく置いておくようなことはしない。…分かってるでしょ?」
穏矢の囁くようなその声にごくりと喉を鳴らした真祐。
声がかすれそうになるのを抑え込みながら「じゃあ…あれは、まさか全部……」と口にすると、穏矢は真祐の首に両腕を回して抱きつきながら耳元に囁いた。
「だから…今でも本当に君のことが好きなんだって、言ったじゃん……」
「……抱いて…くれる?僕のこと…」
懇願しているかのようにさえ聞こえるその最後の言葉に駆り立てられ、真祐はそれからすぐに穏矢の首筋へと噛みつくような口づけを浴びせかけ始めたのだった。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる