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【1】 コンフォート・ゾーン
14 なんだかすごく、
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───僕は今日から、新しい『萩原 琴』を始めることにした。
篠口先生が僕を「琴」と呼ぶ代わりに、僕は篠口先生のことを「文哉さん」と呼ぶことにした。プライベートで先生と言われるのは苦手なのだと、教えてくれたから。
夜ご飯の支度は、2人でした。
座ってて、とやっぱり言われたが、無視をして隣に立つ。
冷蔵庫の中は、意外にも綺麗だった。というよりは、単に活用できていないみたいで、あるのは豆腐と卵と、20%引きのシールが貼ってある豚肉100g。消費期限は今日まで。
調味料はいろいろあるが、新しい物もあれば、これいつの?と疑いたくなるような怪しい物もある。
真ん中の棚には、パックに入った2つ入りのショートケーキがあった。こちらは398円。僕は、甘いものが好きらしい。
文哉さんは「肉炒めにするか」と言い、手際よく材料をキッチンテーブルに準備しているなか、僕は米を軽く洗って炊飯器に入れるように指示された。
「できるか?」
「できますよそれくらい。僕を舐めないで」
「そういう言葉は忘れてないのか」
感心したような、驚いたような顔を見せられたが、自分でも無意識に口から出ていた。
もしかしたら、記憶はすんなり元に戻るのかもしれない。
言われたとおり、ボウルに計ったお米を出して、その中に水を入れる。
できるとは言ったが、正直、どんな風にすればいいのか分からない。
とりあえず僕は、隅に置いてあった細長い容器を手に取って逆さまにし、洗剤をそこへ足した。
「あっ」
文哉さんは急に大声を出して、素早く僕の手首を掴んでくる。
ぐっと引き寄せられた僕の体はびくりと跳ねた。
「な、なんですかいきなり」
「……遅かったか」
水色の丸い模様が、米が浸った水の表面にいくつもプカプカと浮かんでいる。
僕はそれと文哉さんの顔を交互に見渡しているうちに、なんとなく察した。
「もしかして、使わない方が良かったですか?」
「これは食器を洗う時だけにしとけ」
洗ってくれ、と言われたからてっきり。
お米をダメにしてしまって怒られると思ったけど、「いいよ」と優しく笑ってくれた。
知ったかぶりをするのは迷惑がかかるのだと勉強した。
素直に「どうしたらいいか教えてください」とお願いすると、文哉さんは口の端を上げて僕の背後にまわった。後ろから抱くようにして、僕の両手に手を添える。
「こんな風に、やさしく混ぜるんだ。濁った水は捨てて、新しい水を足して」
文哉さんの声がすぐそばで聞こえる。
背中のぬくもりも、触れられた手も、まるでそこに熱が溜まっていくようだった。
(なんだかすごく、恥ずかしい)
文哉さんが離れていったあとも、恥ずかしさはしばらく消えなかった。
ぼくは米の入った水をバシャバシャとかき混ぜて、気持ちを紛らわせたのだった。
小さなメモ帳に、覚えたことを記していく。
これから白いページは、たくさんの文字で埋め尽くされていくのだろう。
炊きたての白いご飯と、甘くてしょっぱいようなタレが絡まった野菜炒めは本当に美味しかった。
文哉さんも美味しそうに食べていたから、余計にそう感じたのかもしれない。
その後、一刻も早く部屋の片付けをしたかったけど、今日は早めに就寝することにした。
明日やれることは、明日やればいい。
焦らずゆっくり進むことも人生には必要なのだと、文哉さんは僕の布団を敷きながら言った。
いま僕は、捨て猫なのだ。文哉さんは飼い主。
だから僕は保護されて、面倒を見てもらう必要がある。
そうやって言われて、なんだか腑に落ちた。
捨て猫になったのは自分の意思じゃないから、どうにもならないのだ。とにかく飼い主を信頼して、目の前の一日一日を大事に過ごしていくしかない。
篠口先生が僕を「琴」と呼ぶ代わりに、僕は篠口先生のことを「文哉さん」と呼ぶことにした。プライベートで先生と言われるのは苦手なのだと、教えてくれたから。
夜ご飯の支度は、2人でした。
座ってて、とやっぱり言われたが、無視をして隣に立つ。
冷蔵庫の中は、意外にも綺麗だった。というよりは、単に活用できていないみたいで、あるのは豆腐と卵と、20%引きのシールが貼ってある豚肉100g。消費期限は今日まで。
調味料はいろいろあるが、新しい物もあれば、これいつの?と疑いたくなるような怪しい物もある。
真ん中の棚には、パックに入った2つ入りのショートケーキがあった。こちらは398円。僕は、甘いものが好きらしい。
文哉さんは「肉炒めにするか」と言い、手際よく材料をキッチンテーブルに準備しているなか、僕は米を軽く洗って炊飯器に入れるように指示された。
「できるか?」
「できますよそれくらい。僕を舐めないで」
「そういう言葉は忘れてないのか」
感心したような、驚いたような顔を見せられたが、自分でも無意識に口から出ていた。
もしかしたら、記憶はすんなり元に戻るのかもしれない。
言われたとおり、ボウルに計ったお米を出して、その中に水を入れる。
できるとは言ったが、正直、どんな風にすればいいのか分からない。
とりあえず僕は、隅に置いてあった細長い容器を手に取って逆さまにし、洗剤をそこへ足した。
「あっ」
文哉さんは急に大声を出して、素早く僕の手首を掴んでくる。
ぐっと引き寄せられた僕の体はびくりと跳ねた。
「な、なんですかいきなり」
「……遅かったか」
水色の丸い模様が、米が浸った水の表面にいくつもプカプカと浮かんでいる。
僕はそれと文哉さんの顔を交互に見渡しているうちに、なんとなく察した。
「もしかして、使わない方が良かったですか?」
「これは食器を洗う時だけにしとけ」
洗ってくれ、と言われたからてっきり。
お米をダメにしてしまって怒られると思ったけど、「いいよ」と優しく笑ってくれた。
知ったかぶりをするのは迷惑がかかるのだと勉強した。
素直に「どうしたらいいか教えてください」とお願いすると、文哉さんは口の端を上げて僕の背後にまわった。後ろから抱くようにして、僕の両手に手を添える。
「こんな風に、やさしく混ぜるんだ。濁った水は捨てて、新しい水を足して」
文哉さんの声がすぐそばで聞こえる。
背中のぬくもりも、触れられた手も、まるでそこに熱が溜まっていくようだった。
(なんだかすごく、恥ずかしい)
文哉さんが離れていったあとも、恥ずかしさはしばらく消えなかった。
ぼくは米の入った水をバシャバシャとかき混ぜて、気持ちを紛らわせたのだった。
小さなメモ帳に、覚えたことを記していく。
これから白いページは、たくさんの文字で埋め尽くされていくのだろう。
炊きたての白いご飯と、甘くてしょっぱいようなタレが絡まった野菜炒めは本当に美味しかった。
文哉さんも美味しそうに食べていたから、余計にそう感じたのかもしれない。
その後、一刻も早く部屋の片付けをしたかったけど、今日は早めに就寝することにした。
明日やれることは、明日やればいい。
焦らずゆっくり進むことも人生には必要なのだと、文哉さんは僕の布団を敷きながら言った。
いま僕は、捨て猫なのだ。文哉さんは飼い主。
だから僕は保護されて、面倒を見てもらう必要がある。
そうやって言われて、なんだか腑に落ちた。
捨て猫になったのは自分の意思じゃないから、どうにもならないのだ。とにかく飼い主を信頼して、目の前の一日一日を大事に過ごしていくしかない。
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