76 / 113
【5】ヒューリスティクス
75 疑う気持ち
しおりを挟む
片方の手で、傘の柄をぎゅっと握りしめる。
あの時のことを思い出して、心臓がひゅっと縮こまった気がした。
僕の記憶は、すべてが失われた訳では無かった。
ふと口から出た言葉、物の名前、なぜこれは分からなくてこれは覚えているのか、という出来事がこれまでに沢山あった。
病院へ運ばれて、目を覚ました時。
確かに自分の名前や年齢は分からなかったし、運ばれた時の状況を看護師に説明されても、ピンと来ないものがあった。
だが僕がどうやって怪我をしたのかは、覚えていた。
僕は、落とされたのだ。
誰かに左肩を軽く押されて、この場所から落下した。
「誰に押されたのかは、分からないのかい」
「そこまでは分からないです」
「本当に?」
「はい」
訝しまれたけど、本当だ。
他人に肩を押されて後方へ体がふわりと浮き、落下している間、景色がスローモーションで展開されているみたいに時間が長く感じられた。
病院で目が覚めた時、必死に思い出そうとしたが、覚えていたのはそのシーンだけだった。
どんな目的でここにいて、誰と一緒にいたのか。
そういった肝心なことは、綺麗に切り取られてしまっていた。
「琴くんの考えていることを、当ててあげようか」
言わないで欲しくて、軽く首を横に振る。
「君を落としたのは、私なんじゃないかと疑っている」
だが構わず口に出されてしまい、僕はますますかぶりを振った。
「そんなことは思ってません」
「そうかな? これまで、1度でもそうは思わなかったかい?」
「それは……」
全く考えなかったかといえば、嘘になる。
相澤先生は第1発見者だ。
階下に倒れていた僕を見つけたと聞いたが、それを証明できる人はいない。先生が嘘を吐いている可能性もある。
……待てよ。
仮にそうだったとしたら、今のこの状況はとてもまずいのではないか。
人のいい笑みを浮かべている彼の裏の顔は、僕を突き落としたくなるくらいに、僕のことを憎んでいるということになってしまう。
ぞっとした。
何も分からないが、今分かることといえば、僕は誰かに殺されそうになるくらいに憎まれている存在だという事実だけだ。
そんな自分が、怖かった。
そんなふうにさせるまで、誰かを傷付けていたことを覚えていない自分が。
「相澤先生じゃ、ないですよね?」
縋るような声を出すと、一瞬、驚いたように目を見開いた相澤先生は、いつも文哉さんがしてくれるみたいに僕の頭を優しく撫でてくれた。
否定して欲しいのに、先生は僕の質問にはハッキリと応えない。
「……もう1つ、いま君の考えていることを当ててあげようか」
僕の頭のなかを読み取ろうとしているみたいな目で、相澤先生が穏やかに笑う。
「自分を落としたのが私ではなくて、篠口だったらどうしようって思っているね?」
「あ……」咄嗟に機転が効かずに、黙り込んでしまう。
「いいよ、隠さなくても。篠口と付き合っているんだろう?」
「………っ、……はい」
恥ずかしくなって、先生の目が見れなくなる。
さぁさぁと優しく降り注ぐ雨が、僕を撫でている先生の手と腕を濡らしていく。
あの時のことを思い出して、心臓がひゅっと縮こまった気がした。
僕の記憶は、すべてが失われた訳では無かった。
ふと口から出た言葉、物の名前、なぜこれは分からなくてこれは覚えているのか、という出来事がこれまでに沢山あった。
病院へ運ばれて、目を覚ました時。
確かに自分の名前や年齢は分からなかったし、運ばれた時の状況を看護師に説明されても、ピンと来ないものがあった。
だが僕がどうやって怪我をしたのかは、覚えていた。
僕は、落とされたのだ。
誰かに左肩を軽く押されて、この場所から落下した。
「誰に押されたのかは、分からないのかい」
「そこまでは分からないです」
「本当に?」
「はい」
訝しまれたけど、本当だ。
他人に肩を押されて後方へ体がふわりと浮き、落下している間、景色がスローモーションで展開されているみたいに時間が長く感じられた。
病院で目が覚めた時、必死に思い出そうとしたが、覚えていたのはそのシーンだけだった。
どんな目的でここにいて、誰と一緒にいたのか。
そういった肝心なことは、綺麗に切り取られてしまっていた。
「琴くんの考えていることを、当ててあげようか」
言わないで欲しくて、軽く首を横に振る。
「君を落としたのは、私なんじゃないかと疑っている」
だが構わず口に出されてしまい、僕はますますかぶりを振った。
「そんなことは思ってません」
「そうかな? これまで、1度でもそうは思わなかったかい?」
「それは……」
全く考えなかったかといえば、嘘になる。
相澤先生は第1発見者だ。
階下に倒れていた僕を見つけたと聞いたが、それを証明できる人はいない。先生が嘘を吐いている可能性もある。
……待てよ。
仮にそうだったとしたら、今のこの状況はとてもまずいのではないか。
人のいい笑みを浮かべている彼の裏の顔は、僕を突き落としたくなるくらいに、僕のことを憎んでいるということになってしまう。
ぞっとした。
何も分からないが、今分かることといえば、僕は誰かに殺されそうになるくらいに憎まれている存在だという事実だけだ。
そんな自分が、怖かった。
そんなふうにさせるまで、誰かを傷付けていたことを覚えていない自分が。
「相澤先生じゃ、ないですよね?」
縋るような声を出すと、一瞬、驚いたように目を見開いた相澤先生は、いつも文哉さんがしてくれるみたいに僕の頭を優しく撫でてくれた。
否定して欲しいのに、先生は僕の質問にはハッキリと応えない。
「……もう1つ、いま君の考えていることを当ててあげようか」
僕の頭のなかを読み取ろうとしているみたいな目で、相澤先生が穏やかに笑う。
「自分を落としたのが私ではなくて、篠口だったらどうしようって思っているね?」
「あ……」咄嗟に機転が効かずに、黙り込んでしまう。
「いいよ、隠さなくても。篠口と付き合っているんだろう?」
「………っ、……はい」
恥ずかしくなって、先生の目が見れなくなる。
さぁさぁと優しく降り注ぐ雨が、僕を撫でている先生の手と腕を濡らしていく。
0
あなたにおすすめの小説
イケメン後輩のスマホを拾ったらロック画が俺でした
天埜鳩愛
BL
☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです!
元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。
持ち主は、顔面国宝の一年生。
なんで俺の写真? なんでロック画?
問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。
頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ!
☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
メビウスの輪を超えて 【カフェのマスター・アルファ×全てを失った少年・オメガ。 君の心を、私は温めてあげられるんだろうか】
大波小波
BL
梅ヶ谷 早紀(うめがや さき)は、18歳のオメガ少年だ。
愛らしい抜群のルックスに加え、素直で朗らか。
大人に背伸びしたがる、ちょっぴり生意気な一面も持っている。
裕福な家庭に生まれ、なに不自由なく育った彼は、学園の人気者だった。
ある日、早紀は友人たちと気まぐれに入った『カフェ・メビウス』で、マスターの弓月 衛(ゆづき まもる)と出会う。
32歳と、早紀より一回り以上も年上の衛は、落ち着いた雰囲気を持つ大人のアルファ男性だ。
どこかミステリアスな彼をもっと知りたい早紀は、それから毎日のようにメビウスに通うようになった。
ところが早紀の父・紀明(のりあき)が、重役たちの背信により取締役の座から降ろされてしまう。
高額の借金まで背負わされた父は、借金取りの手から早紀を隠すため、彼を衛に託した。
『私は、早紀を信頼のおける人間に、預けたいのです。隠しておきたいのです』
『再びお会いした時には、早紀くんの淹れたコーヒーが出せるようにしておきます』
あの笑顔を、失くしたくない。
伸びやかなあの心を、壊したくない。
衛は、その一心で覚悟を決めたのだ。
ひとつ屋根の下に住むことになった、アルファの衛とオメガの早紀。
波乱含みの同棲生活が、有無を言わさず始まった……!
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
学校一のイケメンとひとつ屋根の下
おもちDX
BL
高校二年生の瑞は、母親の再婚で連れ子の同級生と家族になるらしい。顔合わせの時、そこにいたのはボソボソと喋る陰気な男の子。しかしよくよく名前を聞いてみれば、学校一のイケメンと名高い逢坂だった!
学校との激しいギャップに驚きつつも距離を縮めようとする瑞だが、逢坂からの印象は最悪なようで……?
キラキライケメンなのに家ではジメジメ!?なギャップ男子 × 地味グループ所属の能天気な男の子
立場の全く違う二人が家族となり、やがて特別な感情が芽生えるラブストーリー。
全年齢
箱庭の子ども〜世話焼き侍従と訳あり王子〜
真木もぐ
BL
「他人に触られるのも、そばに寄られるのも嫌だ。……怖い」
現代ヨーロッパの小国。王子として生まれながら、接触恐怖症のため身分を隠して生活するエリオットの元へ、王宮から侍従がやって来る。ロイヤルウェディングを控えた兄から、特別な役割で式に出て欲しいとの誘いだった。
無理だと断り、招待状を運んできた侍従を追い返すのだが、この侍従、己の出世にはエリオットが必要だと言って譲らない。
しかし散らかり放題の部屋を見た侍従が、説得より先に掃除を始めたことから、二人の関係は思わぬ方向へ転がり始める。
おいおい、ロイヤルウエディングどこ行った?
世話焼き侍従×ワケあり王子の恋物語。
※は性描写のほか、注意が必要な表現を含みます。
この小説は、投稿サイト「ムーンライトノベルズ」「エブリスタ」「カクヨム」で掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる