ペイン・リリーフ

こすもす

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【5】ヒューリスティクス

75 疑う気持ち

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 片方の手で、傘の柄をぎゅっと握りしめる。
 あの時のことを思い出して、心臓がひゅっと縮こまった気がした。

 僕の記憶は、すべてが失われた訳では無かった。
 ふと口から出た言葉、物の名前、なぜこれは分からなくてこれは覚えているのか、という出来事がこれまでに沢山あった。

 病院へ運ばれて、目を覚ました時。
 確かに自分の名前や年齢は分からなかったし、運ばれた時の状況を看護師に説明されても、ピンと来ないものがあった。

 だが僕がどうやって怪我をしたのかは、覚えていた。
 僕は、落とされたのだ。
 誰かに左肩を軽く押されて、この場所から落下した。

「誰に押されたのかは、分からないのかい」
「そこまでは分からないです」
「本当に?」
「はい」

 訝しまれたけど、本当だ。
 他人に肩を押されて後方へ体がふわりと浮き、落下している間、景色がスローモーションで展開されているみたいに時間が長く感じられた。

 病院で目が覚めた時、必死に思い出そうとしたが、覚えていたのはそのシーンだけだった。
 どんな目的でここにいて、誰と一緒にいたのか。
 そういった肝心なことは、綺麗に切り取られてしまっていた。

「琴くんの考えていることを、当ててあげようか」

 言わないで欲しくて、軽く首を横に振る。

「君を落としたのは、私なんじゃないかと疑っている」

 だが構わず口に出されてしまい、僕はますますかぶりを振った。

「そんなことは思ってません」
「そうかな? これまで、1度でもそうは思わなかったかい?」
「それは……」

 全く考えなかったかといえば、嘘になる。

 相澤先生は第1発見者だ。
 階下に倒れていた僕を見つけたと聞いたが、それを証明できる人はいない。先生が嘘を吐いている可能性もある。

 ……待てよ。
 仮にそうだったとしたら、今のこの状況はとてもまずいのではないか。
 人のいい笑みを浮かべている彼の裏の顔は、僕を突き落としたくなるくらいに、僕のことを憎んでいるということになってしまう。

 ぞっとした。
 何も分からないが、今分かることといえば、僕は誰かに殺されそうになるくらいに憎まれている存在だという事実だけだ。

 そんな自分が、怖かった。
 そんなふうにさせるまで、誰かを傷付けていたことを覚えていない自分が。

「相澤先生じゃ、ないですよね?」

 縋るような声を出すと、一瞬、驚いたように目を見開いた相澤先生は、いつも文哉さんがしてくれるみたいに僕の頭を優しく撫でてくれた。
 否定して欲しいのに、先生は僕の質問にはハッキリと応えない。

「……もう1つ、いま君の考えていることを当ててあげようか」

 僕の頭のなかを読み取ろうとしているみたいな目で、相澤先生が穏やかに笑う。

「自分を落としたのが私ではなくて、篠口だったらどうしようって思っているね?」
「あ……」咄嗟に機転が効かずに、黙り込んでしまう。

「いいよ、隠さなくても。篠口と付き合っているんだろう?」
「………っ、……はい」

 恥ずかしくなって、先生の目が見れなくなる。
 さぁさぁと優しく降り注ぐ雨が、僕を撫でている先生の手と腕を濡らしていく。
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