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【5】ヒューリスティクス
76 誰を信じるか
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「もし落としたのが篠口だと発覚した場合、琴くんはどうするつもりだい?」
驚くことを言われて、傘を持っている手にますます力がこもってしまう。
どうしてそんなことを、と、先生を見上げる。
いま自分はどんな表情をしているのか分からなかった。泣きたいのか、怒りたいのか。
「もし、だからね。篠口が落としたとは限らない」
冷静な口調で付け加えられた瞬間、ある疑惑が沸いた。
この人、真実を知っているんじゃないか。
聞いたところで、教えて貰えないだろうけど。
何も答えられないでいると、僕の頭から手が離れていった。
「分からないというのは、結構怖い。君はいつかノートにそう書いていたね。私もそう思うよ。だからこそ、分からないことは知りたいと望むのだけどね、琴くん。無理に知る必要は無いんじゃないか。確かに君に怪我を負わせ、記憶まで奪った相手がいるという事実は許されることではないけれど、知らなくてもいいことなんて世の中には沢山あるんだ」
教科書を読み上げるみたいにスラスラと言う先生に、違和感を持った。
「先生は、知っているんですか? 誰が僕を落としたのか」
「知っていると言ったら、君は教えてほしいと思うかい?」
また背筋が寒くなった。
僕は『その人』に、何をしてしまったのだろう。
謝罪をして、簡単に許されるようなことなのだろうか。
呑気にバイトや恋愛をして、呑気にラーメンを食べていて、いいのだろうか。
長い間、足が固定されてしまったように、そこから動けなかった。
相澤先生がくしゃみをし、「冷えるから、そろそろ行こう」と促してくれなかったら、ずっとその場に立ち尽くしていたと思う。
階段を下り、また助手席に乗り込む。
エンジンを掛けると、先生はナビに僕の家の住所を入れて発車させた。今度こそ、家に送ってくれるようだった。
車内では、ほとんど無言だった。
僕は相澤先生の方は見ずに、窓の外の流れる景色と雨粒を眺める。
文哉さん、仕事切り上げて、うちに来てくれないかな───
無性に会いたくなった。
会って、抱きしめてほしい。
この、ぽっかりと穴があいたような心を柔らかく包み込んで欲しかった。
「すまない。辛い思いをさせるつもりじゃなかったんだ」
家の前に到着した時に、心配そうな声で言われた。
僕は努めて明るい声を出す。
「いいえ、大丈夫です! 送ってもらって、ありがとうございました!」
「いいよ。あぁそうだ。誕生日は、篠口と2人で過ごしなさい。付き合っているのなら、そうするのは当然だ」
「え……でも」
「私からは今度、個別にお祝いさせてもらうよ」
「……分かりました」
交際していることを知って気を遣ってくれたのだろうが、なんだか素直に喜べなかった。
頭を下げ、雨が中に入り込まぬよう素早く外に出ようとした時、ふいに腕を引っ張られた。
「琴くん」
そのまま、鼻先が触れてしまいそうな距離で見つめられる。
いつになく真剣な鋭い眼差しと、細かく震えている唇に、僕はまた不安になった。
「篠口のことは、あまり信用しない方がいい」
僕が呆然としているうちに、相澤先生は続けた。
「彼とは、別れなさい。そうすれば彼は守れるし、いつか、そうしておいて良かったと思える日が来るから」
驚くことを言われて、傘を持っている手にますます力がこもってしまう。
どうしてそんなことを、と、先生を見上げる。
いま自分はどんな表情をしているのか分からなかった。泣きたいのか、怒りたいのか。
「もし、だからね。篠口が落としたとは限らない」
冷静な口調で付け加えられた瞬間、ある疑惑が沸いた。
この人、真実を知っているんじゃないか。
聞いたところで、教えて貰えないだろうけど。
何も答えられないでいると、僕の頭から手が離れていった。
「分からないというのは、結構怖い。君はいつかノートにそう書いていたね。私もそう思うよ。だからこそ、分からないことは知りたいと望むのだけどね、琴くん。無理に知る必要は無いんじゃないか。確かに君に怪我を負わせ、記憶まで奪った相手がいるという事実は許されることではないけれど、知らなくてもいいことなんて世の中には沢山あるんだ」
教科書を読み上げるみたいにスラスラと言う先生に、違和感を持った。
「先生は、知っているんですか? 誰が僕を落としたのか」
「知っていると言ったら、君は教えてほしいと思うかい?」
また背筋が寒くなった。
僕は『その人』に、何をしてしまったのだろう。
謝罪をして、簡単に許されるようなことなのだろうか。
呑気にバイトや恋愛をして、呑気にラーメンを食べていて、いいのだろうか。
長い間、足が固定されてしまったように、そこから動けなかった。
相澤先生がくしゃみをし、「冷えるから、そろそろ行こう」と促してくれなかったら、ずっとその場に立ち尽くしていたと思う。
階段を下り、また助手席に乗り込む。
エンジンを掛けると、先生はナビに僕の家の住所を入れて発車させた。今度こそ、家に送ってくれるようだった。
車内では、ほとんど無言だった。
僕は相澤先生の方は見ずに、窓の外の流れる景色と雨粒を眺める。
文哉さん、仕事切り上げて、うちに来てくれないかな───
無性に会いたくなった。
会って、抱きしめてほしい。
この、ぽっかりと穴があいたような心を柔らかく包み込んで欲しかった。
「すまない。辛い思いをさせるつもりじゃなかったんだ」
家の前に到着した時に、心配そうな声で言われた。
僕は努めて明るい声を出す。
「いいえ、大丈夫です! 送ってもらって、ありがとうございました!」
「いいよ。あぁそうだ。誕生日は、篠口と2人で過ごしなさい。付き合っているのなら、そうするのは当然だ」
「え……でも」
「私からは今度、個別にお祝いさせてもらうよ」
「……分かりました」
交際していることを知って気を遣ってくれたのだろうが、なんだか素直に喜べなかった。
頭を下げ、雨が中に入り込まぬよう素早く外に出ようとした時、ふいに腕を引っ張られた。
「琴くん」
そのまま、鼻先が触れてしまいそうな距離で見つめられる。
いつになく真剣な鋭い眼差しと、細かく震えている唇に、僕はまた不安になった。
「篠口のことは、あまり信用しない方がいい」
僕が呆然としているうちに、相澤先生は続けた。
「彼とは、別れなさい。そうすれば彼は守れるし、いつか、そうしておいて良かったと思える日が来るから」
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