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【6】カバートアグレッション
90 不甲斐なさ
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遠くを見ていた相澤先生が急に、僕を見つめたかと思ったら、自嘲気味にニコリと笑った。
「……琴」
「えっ?」
「って、呼んでたんだ、君のこと。信じてもらえないかもしれないが、琴は私の、1番のお気に入りだったよ。私が仕事の話をすると、初めて海を見た無垢な子供みたいに『すげー』なんて言ったりね。見た目は派手でガサツなところがあったが、君はどこか、今までの男とは違う魅力があった。
不思議だね。特別、何かを君にしてもらってるわけじゃないのに、一緒にいたくなるんだ。だから他の男とは遊ばなかったんだよ。1年半、琴だけだった。あぁ、文哉と遊園地に行っただろう。そこへは私とも行ったことがあるんだよ。観覧車の写真を、一緒に撮ったんだ」
その言葉に、体がゾクッとなる。
自分はそんな覚えがないのに、この人の頭の中には僕の知らない琴がいるという事実が、怖いと思った。
そんな時に、俯いて何かを考え込んでから、先生が顔を上げた。
「だから琴には唯一、本当の気持ちが伝えられたんだ。表では女性と付き合って、裏では男性と遊んでいるのが、たまに疲れてしまう時があるんだってね」
「え……」
一瞬、何を言われたのか分からなくて頭がフリーズする。
要するに、僕は不倫を容認した上で、この人と付き合っていたということか。
「君だけは、私を肯定してくれたよ。いいんだ、俺には甘えていいからって……見た目によらず、健気なところもあったな。朝、私のために焼きたてのパンを買ってきてくれたり、私の誕生日にはお祝いをしてあげると言ってくれたり……まぁそれが原因で、結果こんなことになってしまったのだけどね」
泣きたいのか焦っているのか、自分のいまの感情がどんなものなのかを掴めずにいる。
「琴が記憶を失った日は、私の誕生日だったんだ」
僕はまた、先生の言葉に静かに耳を傾けた。
その日の前日、僕と先生は電話で話したのだという。
お祝いしたいという僕の申し出を、仕事で忙しいからと、適当に理由をつけて断ったらしい。
本当は、香織さんとの先約があったからだった。
「あの日、彼女と食事をする約束をしていた。今後について話し合う予定だった。駅で待ち合わせをして、彼女と歩いている最中に事件は起きた。何の前触れもなく、君が、やってきたんだ」
冷蔵庫に入っていた、ショートケーキ。
生クリームが苦手な文哉さんが「勿体ないから」と言って完食していたあれが、相澤先生のために用意していたものだったなんて、思いもよらなかった。
相澤先生が、手すりを指先でトントンと軽く叩く。
「ここを上っていたらね、後ろから急に呼び止められたんだ。振り返って君と目が合った瞬間、心臓が飛び跳ねたよ。一気に冷や汗が出てきて、早く逃げたいのに、何も知らない香織は『お知り合い?』なんて呑気に笑っていて。その後、君が彼女に何を言ったのか、なんとなく想像が付くかい?」
必死にその時の琴を想像しようとするが、そうする前に事細かに教えてくれた。
「全部、バラしてしまった。香織と私が結婚したことはフェイクだったことも、私と幾度も体を重ねてきたことも。私は目眩がしたよ。必死に守りぬいてきた自分の立場がガラガラと崩れていって、一瞬にして塵になった。香織に『違うんだ』と言い訳をすればするほど、君の目は殺気立っていくし、どうしようもなくなった。君が彼女に1歩近付いたその時に、彼女が手を前に突き出したんだ。ほんの少し、その肩に触れただけだ。嘘じゃない。君を落とそうと思って落としたんじゃないんだ」
悲しそうな顔をされると、何も言えなくなる。
故意に落とされたのか、そうじゃないのかなんて、どちらでも良かった。それよりも、僕が不倫をしていた事実のほうが重大な気がした。
どうして、既婚者だと知っていたのに関係を続けていたのだろう。
考えると不甲斐なさでいっぱいで、お腹の中が焼けてしまいそうだった。
「……琴」
「えっ?」
「って、呼んでたんだ、君のこと。信じてもらえないかもしれないが、琴は私の、1番のお気に入りだったよ。私が仕事の話をすると、初めて海を見た無垢な子供みたいに『すげー』なんて言ったりね。見た目は派手でガサツなところがあったが、君はどこか、今までの男とは違う魅力があった。
不思議だね。特別、何かを君にしてもらってるわけじゃないのに、一緒にいたくなるんだ。だから他の男とは遊ばなかったんだよ。1年半、琴だけだった。あぁ、文哉と遊園地に行っただろう。そこへは私とも行ったことがあるんだよ。観覧車の写真を、一緒に撮ったんだ」
その言葉に、体がゾクッとなる。
自分はそんな覚えがないのに、この人の頭の中には僕の知らない琴がいるという事実が、怖いと思った。
そんな時に、俯いて何かを考え込んでから、先生が顔を上げた。
「だから琴には唯一、本当の気持ちが伝えられたんだ。表では女性と付き合って、裏では男性と遊んでいるのが、たまに疲れてしまう時があるんだってね」
「え……」
一瞬、何を言われたのか分からなくて頭がフリーズする。
要するに、僕は不倫を容認した上で、この人と付き合っていたということか。
「君だけは、私を肯定してくれたよ。いいんだ、俺には甘えていいからって……見た目によらず、健気なところもあったな。朝、私のために焼きたてのパンを買ってきてくれたり、私の誕生日にはお祝いをしてあげると言ってくれたり……まぁそれが原因で、結果こんなことになってしまったのだけどね」
泣きたいのか焦っているのか、自分のいまの感情がどんなものなのかを掴めずにいる。
「琴が記憶を失った日は、私の誕生日だったんだ」
僕はまた、先生の言葉に静かに耳を傾けた。
その日の前日、僕と先生は電話で話したのだという。
お祝いしたいという僕の申し出を、仕事で忙しいからと、適当に理由をつけて断ったらしい。
本当は、香織さんとの先約があったからだった。
「あの日、彼女と食事をする約束をしていた。今後について話し合う予定だった。駅で待ち合わせをして、彼女と歩いている最中に事件は起きた。何の前触れもなく、君が、やってきたんだ」
冷蔵庫に入っていた、ショートケーキ。
生クリームが苦手な文哉さんが「勿体ないから」と言って完食していたあれが、相澤先生のために用意していたものだったなんて、思いもよらなかった。
相澤先生が、手すりを指先でトントンと軽く叩く。
「ここを上っていたらね、後ろから急に呼び止められたんだ。振り返って君と目が合った瞬間、心臓が飛び跳ねたよ。一気に冷や汗が出てきて、早く逃げたいのに、何も知らない香織は『お知り合い?』なんて呑気に笑っていて。その後、君が彼女に何を言ったのか、なんとなく想像が付くかい?」
必死にその時の琴を想像しようとするが、そうする前に事細かに教えてくれた。
「全部、バラしてしまった。香織と私が結婚したことはフェイクだったことも、私と幾度も体を重ねてきたことも。私は目眩がしたよ。必死に守りぬいてきた自分の立場がガラガラと崩れていって、一瞬にして塵になった。香織に『違うんだ』と言い訳をすればするほど、君の目は殺気立っていくし、どうしようもなくなった。君が彼女に1歩近付いたその時に、彼女が手を前に突き出したんだ。ほんの少し、その肩に触れただけだ。嘘じゃない。君を落とそうと思って落としたんじゃないんだ」
悲しそうな顔をされると、何も言えなくなる。
故意に落とされたのか、そうじゃないのかなんて、どちらでも良かった。それよりも、僕が不倫をしていた事実のほうが重大な気がした。
どうして、既婚者だと知っていたのに関係を続けていたのだろう。
考えると不甲斐なさでいっぱいで、お腹の中が焼けてしまいそうだった。
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