その手で、愛して。ー 空飛ぶイルカの恋物語 ー

ユーリ(佐伯瑠璃)

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その後の二人

ナナの自立とナナ離れ

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 ナナと結婚してからも、俺たちの生活に大きな変化は無かった。ナナにはまだまだ人間の生活は分からない事ばかりだ。姿が子供ではない分、ちょっとでもおかしなことが起こると周りから警戒されてしまう。それでもナナは覚えるのが早かったから、家の中の事は一通り出来るようになった。料理もテレビを見ながら作ったりするんだ。「私、模写は得意だから」と満面の笑みでそう言った。真似をすることに長けている元ブルーインパルスの6番機は、何をするのも楽しいと言ってくれる。それでも、ときどき眉をさげて「私って変なの?」と聞かれると、誰かから心無い事を言われたのだろうと胸が苦しくなる。せめて日常生活が不自由なく過ごせるようにと休みの日はナナにいろんなことを教えた。本当はいつも一緒にいてやりたいけど、そうはいかない現実に俺は苛々していた。

「ナナ。また何か言われたのか」
「漢字、難しいから。いつも間違えてる」
「漢字かぁ。難しいよなぁ、俺だっていまだに読めないやついっぱいあるぞ」
「え、翼も読めない漢字、あるの?」
「あるある。本を読むといいらしいんだけど、俺、好きなジャンルのしか読まないから知識が偏ってるんだよなぁ。ナナは何が好き? 飛行機以外でだぞ」
「うーん。私は、翼が好き」
「それって.....」
「ふふ。翼だよー。私は翼が好きっ」

 ドカッと音がしそうな勢いでナナが俺の胸に飛び込んできた。そう言う意味じゃないんだけど、そんなふうに捉えてくれたことがやっぱり嬉しい。俺はポンポンとナナの背中を叩いて「ありがとう」と返した。
 いつまでもナナにとって俺がいちばんであって欲しい反面、このままじゃいけないという気もしている。自分たちは何も変わらない、けれど結婚をしたことで、周囲の環境は変わってくる。もしも俺たちの間に子供ができたら地域の行事や学校関連が加わる。当然、仕事でいない俺に代わってナナが表に出なければならない。やっぱりこのままじゃ、いけないよな。
 雛鳥のすりこみから始まったような俺たちの関係は、少しづづ変わらなければならない。依存から自立へと促さなければならない。

「ナナ。焦らなくていいんだけど、漢字も少しづつ教えてあげるよ。そうだな、生活で使う漢字から勉強しよう」
「はい。お願いします」

 ナナは嫌な顔ひとつせず、むしろ嬉しそうにこにこ笑顔でそう答えた。

「じゃぁ、食べ物からがいいかな。えっと......」

 こうして時間がある時はナナに漢字だけでなく、いろいろな事を教えた。交通ICカードの使い方や地図アプリの使い方、インフォメーションセンターや交番など街歩きに必要なことから。デートは出来るだけ車を使わずに、公共交通機関を利用した。ナナは驚くほど覚えがよくて、俺の方が教えられることもある。

「翼、こっちじゃなくて、あっちだよ」
「え? あ、本当だ。ナナすげえ、地図見るの俺よりうまい」
「ふふ。頭に入れたら忘れない。それ前と同じだから」

 なるほど、ナナにはT-4時代の能力はそのまま残っているらしい。一度インプットしたらその情報が更新されない限りは間違う事はないようだ。そう言えばときどき機械と会話してるもんな。正しい情報をきちんと伝えれば、ナナが路頭に迷う事はないんだと確認ができた。天気もなんとなく読めるみたいだし。これもあれか、ウェザーチェックフライトの名残か。上空の天気を確認するために、訓練前にランダムで選ばれた機体が単独で空に上がる。それを基に訓練内容を変更したり、場合によっては中止したりする。

「ナナは俺がいなくても大丈夫そうだな」
「うん。大丈夫」
「そっか、安心した」

 大丈夫、かぁ......。
 喜ばしい事なのに、やっぱり俺の心は晴れなかった。



     * * *



 今日、ナナが一人で出かけると言う。休みの俺は駅まで車で送ることになった。本当は平日の人が少ない昼間がいいのかもしれないが、俺の都合で週末にしてもらったんだ。だって俺が仕事をしている時は、何かあってもすぐには飛んでいけないだろう?

「気を付けてな。あ、ICカードのチャージだけど」
「知ってるよ。大丈夫」
「知らない人が声をかけて来たら」
「つばさ」
「ん?」
「大丈夫だよ? 私、もう大丈夫」
「そう、だよな。ごめん」
「じゃあ行ってきます!」

 いつもの笑顔を俺に見せて、ナナは車から降りて行った。その背中が、ちゃんと改札に向かっているのか目で追ってしまう。ナナはもう何も分からないT-4じゃない。立派な人間の大人なんだ。むしろ人間より優秀な部分がたくさんあるから大丈夫だ。そう俺は自分に言い聞かせた。それでも、困った顔で引き返して来やしないかと、駅前の駐車場で30分も待機していたなんてナナには内緒だ。俺は後ろ髪を引かれる思いでその場を離れ、官舎に向けてハンドルを切った。早く迎えに来てって連絡来ないかなとか、俺って本当にナナ離れができてない。

 官舎に戻ると俺はまずコーヒーでも飲もうとキッチンに立った。いつの間にか手助けがいらなくなったこのスペースは、ナナの使いやすい配置に変わっている。最近は「給油の時間だよ」なんて言わなくなった。「ご飯できたよ」って言うようになった。毎日帰ってくるのがとても楽しみで仕方がない。今夜は何を作ってくれているのだろうって、考えるだけで仕事が捗るんだ。つくづく俺って単純。ナナの存在が大きすぎるよなって思う。
 コーヒーを飲んで、ふぅと一息つきながら何気に本棚に目をやると、一冊のノートが落ちそうになっている。元に戻そうと手に取ったそれに俺は釘づけになる。

― ことばのれんしゅうちょう ―
 そう記されていたからだ。

「ナナ、ちゃんと勉強してるんだな」

 どんなふうに、なにを、どうやって覚えているのか気になった。だから俺はその場に座り込んで、一頁から順にそれを捲っていった。

「すげぇ。字も綺麗じゃん。ひらがな、かたかな、漢字もか」

 ナナの覚書のような書き方にも感心しながら見ていると、あるページで手が止まった。

【いろんな読み方】
 昨日 きのう、さくじつ
 明日 あした、あす
 明後日 あさって、みょうごにち
 24時間表記はお昼を過ぎたら一時は13時......ときどき深夜1時を25時という。

 俺は本当に驚いていた。自分がナナに教えたのは一般的な日常会話で使う読み方だけ。なのに、どうやって調べたのか他の読み方まで書いてある。そう言えば最近、本が読めるようになったって喜んでいたな。ずっと小さな子供が読むような絵本を読んでいたんだ。人間の生活が分からないナナには絵があったほうがイメージしやすかったから。

「そっか、ナナは俺が居い時もちゃんと学ぼうとしているんだな。すげえよ」

 そして、その次の頁を捲った俺は、胸が苦しくなった。
 翅 つばさ、翼 つばさ、翔 つばさ
 青井翼。つばさは、翼
 赤いペンで囲って、俺の漢字だけ強調してあった。俺は自分の名前を漢字で教えたことがない。だってナナにはまだ早いかなって。役所への届け出もぜんぶ俺が書いて、ナナには俺の言う通りにサインをさせただけだ。ナナには難しいから、まだ早いから、まだ分からないからって先延ばしにしていた。でも、ナナは俺に教えろとせがむことなく、こうやって自分で......。

「ナナ。俺はっ、本当にバカだな。いつまでも子供の様に扱って、俺がいないとダメだなんて思い込んで。でもナナは、ちゃんと自立しようとしてる」

『私ね、今度は笑われないようにするんだ。つばさを困らせない様にがんばるね』

 ナナの人間としての知識は園児以下かもしれない。人間の常識を知らない。だから時々、小さな子供から「お姉ちゃん変なの」って言われたり、スーパーに買い物に行った時「お嬢さん、大丈夫?」って心配されるらしい。でもナナは、

『みんな、優しいね』

 そう言って、嬉しそうに笑うんだ。中にはバカにして言ったヤツもいるかもしれない。それでもナナはそんなふうに捉える事はなかった。

「くそっ......!」

 なぜか、涙が止まらなかった。
 大事に、大事に囲っていた俺は間違っていたんだ。俺は整備士だから危険はないとは言えない。整備士の前に自衛官だ。有事の際は前線とはいかなくとも、パイロットたちと共に戦う身だ。万が一、俺がこの世から消えてもナナは生きていかなくてはならない。

「ナナ……」

 その時、スマホが振動してメッセージを知らせてきた。ハッとして、アプリを立ち上げる。ナナからだ。

ー カフェに入ったよ。おいしいコーヒーがたくさんあるね。

「なんだよ、楽しそうじゃん」

 ナナ離れ、しないとなぁ……。本音を言えば、ずっと、ずっと、つばさ分からない、つばさ教えて、つばさ、つばさって言ってほしい。俺がいないとダメだって言ってほしい。でも、

ー 帰ったら何をしたか教えてな。
ー はーい!
ー 帰る時間がわかったら連絡して。
ー ラジャー

 いつまでも籠の中の鳥ではいけない。ちゃんと羽を広げて、色んな所へ出かけて、たくさんのものを見て、たくさんの人と触れるべきだ。そしてまた、俺のところに帰ってくればいい。
 俺のこの腕の中がナナの帰る場所だぞ。

「はぁ……俺のほうが完全に依存してるなぁ」

 ぜんっぜん、ナナ離れ、出来ないよ。


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