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要らないと言われたので
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式場に鳴り響く拍手と笑い声が、どこか遠くの世界の出来事のように感じられた。白い薔薇で飾られたチャペル、厳かな音楽、溢れる祝福の言葉。そのすべてが兄のために用意された舞台。
兄の純白のタキシード姿は確かに見栄えがした。隣に立つ花嫁も、育ちの良さと品の良さをそのまま絵にしたような女性で、誰がどう見ても「完璧な結婚」だった。
だが、俺には、祝う気持ちなど微塵もなかった。
会場の後方、親族席の中でもさらに端の席に座らされた俺は、目の前の祝宴が自分とは無関係なものだという現実を改めて突きつけられていた。
「初孫はやっぱり違うねぇ。うちの誇りだよ」
祖母がそう言ってにこにこ笑いながら隣の親族に話すのが聞こえる。その隣で祖父がうんうんと頷く。
「隆も兄さんを見習ってほしいもんだな」
そうぼそりと呟きこちらをいやみったらしい目で見てきた。その言葉に俺の胸がざらりと凍る。
…見習え? 俺が? あの兄を?
兄はいつだって恵まれていた。両親に、祖父母に、親族に、ありとあらゆる周りの大人たちに期待され、称賛され、甘やかされて生きてきた。
一方、俺はどうだった?
「黙って座ってろ」「お前にはまだ早い」「兄さんの邪魔をするな」
それが俺に向けられてきた“教育”だった。兄が塾に通えば、「お前は必要ないだろ」と言われ、大学に進学したいと言えば「その程度の成績なら奨学金でなんとかしろ」と返された。
実際、俺は奨学金を借りて大学に進学した。バイトで学費を補い、試験勉強は深夜のファミレスでこなした。誰にも頼らず、誰にも感謝されずに。
それでも俺は、俺なりに生きてきた。
「お前と同じ血が通っているなんて、それだけが俺の汚点だよ」
兄にそう言われたことを、今でも忘れない。
「お前なんて要らないんだからさ。頼むから兄弟面しないでくれよ」
あの時の笑顔。優越と軽蔑が入り混じったあの表情は、俺の中に深く沈殿している。
兄の結婚式で、俺が“その他の親族”扱いなのは当然だった。注がれるシャンパンも、運ばれる料理も、俺にはただの作り物のように味気なかった。
祝福の言葉を述べる親族、無邪気にはしゃぐ親戚の子どもたち、目を細めて泣いている母。その中で、ただ一人、俺は座っていた。空気のように、存在しないものとして。
「まぁ、でも良かったじゃないか。隆くんだって、兄さんの晴れ姿見れたんだし」
誰ともなく放たれたその言葉に、俺は乾いた笑みを浮かべた。
……ああ、そうだな。見届けたさ。この家族の「幸せな完成形」とやらを。そこに俺は要らなかった。
もう、十分だ。
この日を境に、俺は実家に戻ることをやめた。盆も正月も帰らず、連絡も取らない。そうしても、誰からも何の連絡も来なかった。きっと彼らにとって、俺は最初から「いなかった」ことになっているのだろう。
それなら、ちょうどいい。俺も、これ以上、あの家族と関わるつもりはなかった。
「休み、どこか行くの? 実家とか?」
職場の休憩室で同僚が無邪気にそう訊いてきた。紙コップのコーヒーを両手で持ちながら、屈託のない笑顔をこちらに向けている。
「いや、特に予定ないっすよ。適当にダラダラして終わりですね」
俺は笑ってそう返した。心の奥から絞り出すような、薄っぺらい愛想笑いで。
「えーもったいない! うちなんて帰ったら太るからな~、母親が張り切ってめっちゃ作るんですよ」
「いいっすね、そういうの」
コーヒーの苦味が、喉をひりつかせる。
……誰もが、実家が“帰る場所”だと思っている。
あたたかくて、やさしくて、甘えられて。年末年始やお盆にはみんなで集まって、食卓を囲んで、他愛もない話をする。そんな「当たり前」が、この世には確かに存在するのだと、思い知らされる。
けれど、俺にとって“実家”は、ただの生まれた場所だ。居場所ではないし、戻る意味もない。心のどこかで、「もう関係ない」と何度も繰り返して、自分を納得させてきた。
だから。
その着信を見た瞬間、心臓が一瞬だけ嫌な鼓動を打った。
母、だった。数年ぶりの着信履歴。胸の奥がじくじくと疼く。
兄が病気になったのだという。病名ははっきり覚えていない。ドナーが必要なのだと、早口でまくしたてるように母は言った。
「親戚にも当たったけど、誰も適合しなくて……あんたしか、もういないのよ」
他に何か、聞こえていただろうか。母の声は、俺の耳に届く前に、何か別の感情に押し潰されて消えていった。
——あんたしか、もういない。
そうか。つまり、俺の存在は「最後の手段」だったわけだ。それまでは思い出しもしなかった。いや、忘れていたのかもしれないな、俺のことなんて。
検査を受けるように言われた。こちらの都合も聞かれず、すでに日程は組まれていた。まるで俺の意志など、始めから存在していないかのように。
電話を切った後、しばらくの間、俺は何もできなかった。
スマホを見つめながら、ぼんやりと過去の記憶が浮かんでは消えた。兄に罵られ、嘲られ、否定され続けた日々。
「お前なんて要らない」
「兄弟面するな」
そう俺を蔑み、笑いながら言った兄の顔。それを聞いても、誰も助けてくれなかった。見て見ぬふりをした両親の背中。
そんな人間のために、自分の体を差し出す?
命を助けるために、自分の一部をくれてやる?
ありえない。
だけど、もし適合しなかったら、今度は「役立たず」だと罵られるのだろう。俺の中には、どう転んでも責められる未来しか見えなかった。
悩んだ。
心が重く、息が詰まるような感覚に包まれながら、それでも俺は決めた。
検査には行かない。
関わらない。
二度と戻らない。
代わりに、メッセージを一通だけ送った。
「俺と同じ血が通っていることを、兄は常々不満に思っていたようですし、俺の体の一部が体内に入ることなど、兄は望んでいないでしょう。そもそも『お前なんて要らない』と言われておりますので。」
送信後すぐに着信拒否に設定し、連絡先もすべて変えた。もう、あの人たちと関わりたくなかった。
罪悪感はなかった。ただ、これ以上、俺の人生に土足で踏み込んでほしくなかった。
「俺の人生は、俺のものだ。俺の体だって」
一人、部屋で呟いた。
◆
それは、なんの前触れもなく、静かに届いた。
「隆……お前の兄貴、死んだらしいよ」
地元の高校時代の友人からのメッセージだった。変えた連絡先を教えていた数少ない地元に残る友人だ。一瞬、何のことか理解できなかった。けれど、じわりと意味が染み出してきて、胸の奥が凍った。
そうか。
兄は、死んだらしい。
あの電話から、何の続報もなかった。それもそうか、あの家族には新しい連絡先を伝えなかったからだ。それでも俺の友人関係を把握していれば連絡を取る手段はあっただろうが。
兄の死。俺が検査を拒否したからか、それとも他の誰かに望みを繋いでいたのか――いや、きっと本当に、誰も適合しなかったのだろう。
そして、時間切れだった。
けれど、俺の中にある感情は、驚きでも悲しみでもなかった。
ただ、静かだった。報せを受けたときの職場の休憩室は、いつもと変わらないざわめきに包まれていた。誰かが笑っていた。誰かが愚痴を言っていた。世界は何一つ変わっていない。
ただ一つ、あの“優秀な兄”とやらが、この世からいなくなったというだけだ。
数日後、また別の友人から連絡が来た。兄の葬儀が行われたという。その場で両親が取り乱して、親戚や近所の人たちに俺の悪口を叫んでいたらしい。
「全部、あいつのせいだ!」
「自分だけ逃げやがって!」
「冷たい、血も涙もないやつだ!」
「兄弟なのに、助けもしないで……!」
そう言って泣き崩れながら、周囲の人間に俺の“非道”を喧伝していたという。
滑稽だ。いまさら、何を言っているのか。
あれだけ「いらない」「迷惑だ」と否定してきたくせに。手のひらを返して、都合が悪くなれば“家族”を名乗るのか。
哀れだった。
線香を上げる気もなかったし、墓の場所すら興味がない。
「兄弟なんだから」と言われる筋合いは、もうどこにもない。
ずっと、いらないと言ってきたのは、そっちじゃないか。
それなのに今さら、俺に悲しみを強要するなんて滑稽だ。
一部の親族や近所の人たちの中には、さすがに親の言動に眉をひそめた者もいたらしい。「そこまで言うのは酷い」「もう成人した子どもにすがるのは違う」と。俺に対しての幼少期からの扱いに疑問を抱いていた親族もいたらしい。
当たり前だ。
あれだけ兄にだけ偏った扱いをしておきながら、弟が反発したら「裏切り者」扱い。
世間体が大事な田舎では、すぐに噂は広がる。
「長男ばかり可愛がってたよね」「弟さん、ずっと影が薄かったもん」
そんな声も出てきたと聞く。ああ、そうか。これが、“ざまぁ”ってやつか。今さら何をどう取り繕っても、兄は戻らない。俺はこれからも変わらず、自分の人生を生きていくだけだ。
ただひとつ。
あの人たちは、俺の中の“家族”という概念を、すべて破壊してくれた。
だからこそ、俺は強くなれた。もう二度と、誰にも縛られない。誰のためにも、涙なんか流さない。
だって、俺は——最初から「要らない」と言われていたのだから。
どこか心の荷が降りた気分で職場近くの喫茶店で、コーヒーを飲んでいた。窓際の席から差し込む春の光はやわらかく、目に優しい。通りを行き交う人々の顔に、ふと目をやる。
どこかの家族だろうか。小さな子供を連れた三人組が楽しそうに歩いていた。彼らが育むのは、きっと俺の知らなかった「家庭」という名の温もりなのだろう。
それを羨ましいと思わなくなったのは、きっと、俺がようやく過去を手放したからだ。
兄の死から数ヶ月が経った。世間の熱も冷め、田舎の噂好きたちの興味は次の標的へと移っていった。両親からは一切連絡がない。もはや俺のことなど知ろうともしないだろう。
だがそれでいい。
「家族」であることを盾にして人を傷つけ、自分たちの都合でだけ繋がりを求めるような存在に俺は価値を見出せない。
いまの俺には、ほんの少しずつ築き上げてきた「日常」がある。苦労して入った大学、奨学金を返済しながらも地道に働く職場、笑い合える数人の同僚。
誰かの代わりでもない。誰かの期待に応えるためでもない。
自分のために生きている実感が、ここにはある。
スマホの通知が鳴った。職場の後輩からだった。
「飲み会、忘れないでくださいね! 十九時時に集合です!」
くだらないことで笑い合える仲間がいる。気を遣うことはあっても、傷つけ合う関係じゃない。家族なんかじゃなくても、温もりはちゃんと他にある。
俺はスマホをポケットにしまい、最後のコーヒーを飲み干した。店を出ると、風が頬を撫でた。春の匂いがする。
これからもきっと、ふとした瞬間にあの家族を思い出すことはあるだろう。あの家の冷たい空気。兄の言葉。何もしてくれなかった親たちの背中。
でも、もう過去に振り回されることはない。
あの時、あの人たちは俺に言った。
「お前なんて要らない」と。
だから俺は、選んだのだ。“要らないと言われた人生”を、自分の手で選び直すことを。
もう振り返らない。
「俺もお前達なんて要らないさ」
兄の純白のタキシード姿は確かに見栄えがした。隣に立つ花嫁も、育ちの良さと品の良さをそのまま絵にしたような女性で、誰がどう見ても「完璧な結婚」だった。
だが、俺には、祝う気持ちなど微塵もなかった。
会場の後方、親族席の中でもさらに端の席に座らされた俺は、目の前の祝宴が自分とは無関係なものだという現実を改めて突きつけられていた。
「初孫はやっぱり違うねぇ。うちの誇りだよ」
祖母がそう言ってにこにこ笑いながら隣の親族に話すのが聞こえる。その隣で祖父がうんうんと頷く。
「隆も兄さんを見習ってほしいもんだな」
そうぼそりと呟きこちらをいやみったらしい目で見てきた。その言葉に俺の胸がざらりと凍る。
…見習え? 俺が? あの兄を?
兄はいつだって恵まれていた。両親に、祖父母に、親族に、ありとあらゆる周りの大人たちに期待され、称賛され、甘やかされて生きてきた。
一方、俺はどうだった?
「黙って座ってろ」「お前にはまだ早い」「兄さんの邪魔をするな」
それが俺に向けられてきた“教育”だった。兄が塾に通えば、「お前は必要ないだろ」と言われ、大学に進学したいと言えば「その程度の成績なら奨学金でなんとかしろ」と返された。
実際、俺は奨学金を借りて大学に進学した。バイトで学費を補い、試験勉強は深夜のファミレスでこなした。誰にも頼らず、誰にも感謝されずに。
それでも俺は、俺なりに生きてきた。
「お前と同じ血が通っているなんて、それだけが俺の汚点だよ」
兄にそう言われたことを、今でも忘れない。
「お前なんて要らないんだからさ。頼むから兄弟面しないでくれよ」
あの時の笑顔。優越と軽蔑が入り混じったあの表情は、俺の中に深く沈殿している。
兄の結婚式で、俺が“その他の親族”扱いなのは当然だった。注がれるシャンパンも、運ばれる料理も、俺にはただの作り物のように味気なかった。
祝福の言葉を述べる親族、無邪気にはしゃぐ親戚の子どもたち、目を細めて泣いている母。その中で、ただ一人、俺は座っていた。空気のように、存在しないものとして。
「まぁ、でも良かったじゃないか。隆くんだって、兄さんの晴れ姿見れたんだし」
誰ともなく放たれたその言葉に、俺は乾いた笑みを浮かべた。
……ああ、そうだな。見届けたさ。この家族の「幸せな完成形」とやらを。そこに俺は要らなかった。
もう、十分だ。
この日を境に、俺は実家に戻ることをやめた。盆も正月も帰らず、連絡も取らない。そうしても、誰からも何の連絡も来なかった。きっと彼らにとって、俺は最初から「いなかった」ことになっているのだろう。
それなら、ちょうどいい。俺も、これ以上、あの家族と関わるつもりはなかった。
「休み、どこか行くの? 実家とか?」
職場の休憩室で同僚が無邪気にそう訊いてきた。紙コップのコーヒーを両手で持ちながら、屈託のない笑顔をこちらに向けている。
「いや、特に予定ないっすよ。適当にダラダラして終わりですね」
俺は笑ってそう返した。心の奥から絞り出すような、薄っぺらい愛想笑いで。
「えーもったいない! うちなんて帰ったら太るからな~、母親が張り切ってめっちゃ作るんですよ」
「いいっすね、そういうの」
コーヒーの苦味が、喉をひりつかせる。
……誰もが、実家が“帰る場所”だと思っている。
あたたかくて、やさしくて、甘えられて。年末年始やお盆にはみんなで集まって、食卓を囲んで、他愛もない話をする。そんな「当たり前」が、この世には確かに存在するのだと、思い知らされる。
けれど、俺にとって“実家”は、ただの生まれた場所だ。居場所ではないし、戻る意味もない。心のどこかで、「もう関係ない」と何度も繰り返して、自分を納得させてきた。
だから。
その着信を見た瞬間、心臓が一瞬だけ嫌な鼓動を打った。
母、だった。数年ぶりの着信履歴。胸の奥がじくじくと疼く。
兄が病気になったのだという。病名ははっきり覚えていない。ドナーが必要なのだと、早口でまくしたてるように母は言った。
「親戚にも当たったけど、誰も適合しなくて……あんたしか、もういないのよ」
他に何か、聞こえていただろうか。母の声は、俺の耳に届く前に、何か別の感情に押し潰されて消えていった。
——あんたしか、もういない。
そうか。つまり、俺の存在は「最後の手段」だったわけだ。それまでは思い出しもしなかった。いや、忘れていたのかもしれないな、俺のことなんて。
検査を受けるように言われた。こちらの都合も聞かれず、すでに日程は組まれていた。まるで俺の意志など、始めから存在していないかのように。
電話を切った後、しばらくの間、俺は何もできなかった。
スマホを見つめながら、ぼんやりと過去の記憶が浮かんでは消えた。兄に罵られ、嘲られ、否定され続けた日々。
「お前なんて要らない」
「兄弟面するな」
そう俺を蔑み、笑いながら言った兄の顔。それを聞いても、誰も助けてくれなかった。見て見ぬふりをした両親の背中。
そんな人間のために、自分の体を差し出す?
命を助けるために、自分の一部をくれてやる?
ありえない。
だけど、もし適合しなかったら、今度は「役立たず」だと罵られるのだろう。俺の中には、どう転んでも責められる未来しか見えなかった。
悩んだ。
心が重く、息が詰まるような感覚に包まれながら、それでも俺は決めた。
検査には行かない。
関わらない。
二度と戻らない。
代わりに、メッセージを一通だけ送った。
「俺と同じ血が通っていることを、兄は常々不満に思っていたようですし、俺の体の一部が体内に入ることなど、兄は望んでいないでしょう。そもそも『お前なんて要らない』と言われておりますので。」
送信後すぐに着信拒否に設定し、連絡先もすべて変えた。もう、あの人たちと関わりたくなかった。
罪悪感はなかった。ただ、これ以上、俺の人生に土足で踏み込んでほしくなかった。
「俺の人生は、俺のものだ。俺の体だって」
一人、部屋で呟いた。
◆
それは、なんの前触れもなく、静かに届いた。
「隆……お前の兄貴、死んだらしいよ」
地元の高校時代の友人からのメッセージだった。変えた連絡先を教えていた数少ない地元に残る友人だ。一瞬、何のことか理解できなかった。けれど、じわりと意味が染み出してきて、胸の奥が凍った。
そうか。
兄は、死んだらしい。
あの電話から、何の続報もなかった。それもそうか、あの家族には新しい連絡先を伝えなかったからだ。それでも俺の友人関係を把握していれば連絡を取る手段はあっただろうが。
兄の死。俺が検査を拒否したからか、それとも他の誰かに望みを繋いでいたのか――いや、きっと本当に、誰も適合しなかったのだろう。
そして、時間切れだった。
けれど、俺の中にある感情は、驚きでも悲しみでもなかった。
ただ、静かだった。報せを受けたときの職場の休憩室は、いつもと変わらないざわめきに包まれていた。誰かが笑っていた。誰かが愚痴を言っていた。世界は何一つ変わっていない。
ただ一つ、あの“優秀な兄”とやらが、この世からいなくなったというだけだ。
数日後、また別の友人から連絡が来た。兄の葬儀が行われたという。その場で両親が取り乱して、親戚や近所の人たちに俺の悪口を叫んでいたらしい。
「全部、あいつのせいだ!」
「自分だけ逃げやがって!」
「冷たい、血も涙もないやつだ!」
「兄弟なのに、助けもしないで……!」
そう言って泣き崩れながら、周囲の人間に俺の“非道”を喧伝していたという。
滑稽だ。いまさら、何を言っているのか。
あれだけ「いらない」「迷惑だ」と否定してきたくせに。手のひらを返して、都合が悪くなれば“家族”を名乗るのか。
哀れだった。
線香を上げる気もなかったし、墓の場所すら興味がない。
「兄弟なんだから」と言われる筋合いは、もうどこにもない。
ずっと、いらないと言ってきたのは、そっちじゃないか。
それなのに今さら、俺に悲しみを強要するなんて滑稽だ。
一部の親族や近所の人たちの中には、さすがに親の言動に眉をひそめた者もいたらしい。「そこまで言うのは酷い」「もう成人した子どもにすがるのは違う」と。俺に対しての幼少期からの扱いに疑問を抱いていた親族もいたらしい。
当たり前だ。
あれだけ兄にだけ偏った扱いをしておきながら、弟が反発したら「裏切り者」扱い。
世間体が大事な田舎では、すぐに噂は広がる。
「長男ばかり可愛がってたよね」「弟さん、ずっと影が薄かったもん」
そんな声も出てきたと聞く。ああ、そうか。これが、“ざまぁ”ってやつか。今さら何をどう取り繕っても、兄は戻らない。俺はこれからも変わらず、自分の人生を生きていくだけだ。
ただひとつ。
あの人たちは、俺の中の“家族”という概念を、すべて破壊してくれた。
だからこそ、俺は強くなれた。もう二度と、誰にも縛られない。誰のためにも、涙なんか流さない。
だって、俺は——最初から「要らない」と言われていたのだから。
どこか心の荷が降りた気分で職場近くの喫茶店で、コーヒーを飲んでいた。窓際の席から差し込む春の光はやわらかく、目に優しい。通りを行き交う人々の顔に、ふと目をやる。
どこかの家族だろうか。小さな子供を連れた三人組が楽しそうに歩いていた。彼らが育むのは、きっと俺の知らなかった「家庭」という名の温もりなのだろう。
それを羨ましいと思わなくなったのは、きっと、俺がようやく過去を手放したからだ。
兄の死から数ヶ月が経った。世間の熱も冷め、田舎の噂好きたちの興味は次の標的へと移っていった。両親からは一切連絡がない。もはや俺のことなど知ろうともしないだろう。
だがそれでいい。
「家族」であることを盾にして人を傷つけ、自分たちの都合でだけ繋がりを求めるような存在に俺は価値を見出せない。
いまの俺には、ほんの少しずつ築き上げてきた「日常」がある。苦労して入った大学、奨学金を返済しながらも地道に働く職場、笑い合える数人の同僚。
誰かの代わりでもない。誰かの期待に応えるためでもない。
自分のために生きている実感が、ここにはある。
スマホの通知が鳴った。職場の後輩からだった。
「飲み会、忘れないでくださいね! 十九時時に集合です!」
くだらないことで笑い合える仲間がいる。気を遣うことはあっても、傷つけ合う関係じゃない。家族なんかじゃなくても、温もりはちゃんと他にある。
俺はスマホをポケットにしまい、最後のコーヒーを飲み干した。店を出ると、風が頬を撫でた。春の匂いがする。
これからもきっと、ふとした瞬間にあの家族を思い出すことはあるだろう。あの家の冷たい空気。兄の言葉。何もしてくれなかった親たちの背中。
でも、もう過去に振り回されることはない。
あの時、あの人たちは俺に言った。
「お前なんて要らない」と。
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もう振り返らない。
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