2 / 5
002
しおりを挟む
平津がゆっくりと、私の前にひざまずいた。
彼の手が伸びて、私のうなじをそっと撫でる。
冷たい酒の香りが指先から伝わり、荒れ狂うミントの情報素を穏やかに沈めていく。
骨を蝕むような痛みが、瞬時に和らいだ。
まるで砂漠で甘い泉を見つけたかのように、私はすぐにエニグマの上着の胸元をつかみ、切迫した声で言った。
「足りない……情報素が足りない!」
平津は淡々と俯きながら私を見下ろす。
その表情は変わらず冷静だが、瞳の奥には濃い感情が渦巻いていた。
「困ったな、坊っちゃん、これだけしかないんだ」
その声は優しく、しかし何か切実なものを含んでいた。
「光希、教えてくれ……俺に何をしてほしいんだ」
頭の中は混乱の極みだ。
どうすればいい?他に何ができるというんだ!
酒の香りは未だにさざ波のようにミントを揺らし、微かに漂う。
マーキング……それに一時標記……。
だが、アルファの本能が警鐘を鳴らす。
本当に後ろ首を噛まれ、より強い情報素を注ぎ込まれるべきなのか?
平津はさらに近づいてくる。
指が肌を撫で、微かな火花を散らすたびに、体の震えが止まらない。
頭の中が、まるで烈酒に溶かされるようにぐらぐらする。
おかしくなりそうだ……情報素が、平津の情報素が必要なんだ!
欲望は、ついに自尊心に勝った。
私は思わず平津のネクタイをつかみ、強く引き寄せた。
彼が手で壁を支えたその瞬間、私は耳元に顔を寄せ、強く噛んだ。
「平津……俺をマーキングしろ!」
腺体が犬歯に貫かれた瞬間、涙が溢れそうになった。
後悔した――!
マーキングがこんなに痛いなんて、誰が知ってるっていうんだ!
私は手を返して平津を殴ろうとしたが、しっかりと手首を押さえられた。
全身を壁に押し付けられ、身動きが取れない。
平津はうつむき、さらに強く噛み込む。
烈酒の香りが、さらに強く襲いかかる。
私は、エニグマの――ほとんど暴虐とも言える情報素を、
強制的に受け入れるしかなかった。
意識はますますぼんやりとし、ほとんど平津の腕の中で溺れ死にそうだった。
どれだけ時間が経っただろう。
ついにマーキングが終わり、私は疲れ果て、全身が震えていた。
平津は私の背中を、そっとさすっている。
一度、また一度――そのたびに、微かに安心する感覚があった。
でも変な感じがする。
私たちは恋人同士なんかじゃない。アフターケアなんて、必要ないはずだ。
押しのけようとしたが、足がもつれてよろめき、転びそうになる。
その瞬間、ぐいと抱き寄せられ、しっかりと抱き上げられた。
ぼんやりとした意識の中、どこかでこの情景を見た覚えがある気がした。
――高校の頃、平津も同じように私を抱きかかえたことがあった。
高校時代、俺と平津は水と油の関係で有名だった。
彼は誰もが認める優等生、俺は反抗的で手のかかる問題児。
平津は俺にちょっかいを出すのが楽しくて仕方ないようだった。サボりも取り締まり、ケンカも止めに入り、初恋さえ邪魔する。トイレに隠れてタバコを吸っても、必ず見つかる。
「班長の義務」なんて口実は信じられなかった。
だってあいつは普段、森下のことなど気にも留めないような冷徹さなのに、俺にだけは執拗に絡んでくる。ただ俺一人にだけ!
考えても答えは出ず、結局ひとつの結論に達した――こいつは間違いなく俺のことが大嫌いなんだ。
でも、俺にはあいつの心が全く理解できなかった。
ある試合で、俺は激しくぶつけられ、地面に叩きつけられた。
真っ先に観客席から駆け下りてきたのは平津だった。
彼は俺の脚を抱え、あっさりと抱き上げた。
観客の悲鳴と野次が飛び交う中、平津はそのまま俺を保健室まで運んだ。
腕の力は強く、足取りも確かだ。
俺は少し気まずくなり、彼の胸に顔を埋めて、鼓動を黙って数えるしかなかった。
彼の心臓の音が速すぎる気がして、少しうるさくも感じた。
アルファである俺がお姫様抱っこされるのは恥ずかしかったが、同時に少し感動してもいた。
だって、平津が本当に俺を心配しているように感じたから。
でも、すぐに笑えなくなる。
平和は長くは続かず、またしても彼は因縁をつけに来たのだ。
隣のクラスのオメガがくれたラブレターも、あっさり遮られた。
怒って殴ろうとした俺に、彼は冷たく警告した。
「光希、余計な考えはするな」
淡い恋心は、またもや台無しにされた。
あの試合での“心配”も、たぶん彼の悪趣味だったのだろう。
それ以来、俺は完全に忍耐力を失った。
俺、光希は、今生で平津とは絶対に相容れない――!
パーティー会場を後にした私は、疲れ果て、そのまま一日中眠り続けた。
目が覚めたとき、痛みはすっかり消えていて、身体は驚くほど軽かった。
こんなに爽快なのは初めてだ。
うなじに触れると、そこにはまだ歯型が残っている。
犬猿の仲のあいつにマーキングされたなんて、やっぱり腹が立つ。
……でも、効果がはっきり出ているのは認めざるを得ない。
ミントの情報素はもう暴れもせず、静かに従っていた。
体調が戻ると、またバイクで走りたいという欲求がむくむくと湧き上がってくる。
スマホを取り出して、次のツーリングの計画でも立てようとしたその時、父からのメッセージが目に入った。
【このクソガキ、お前の銀行カードはすべて凍結した。】
【これから一ヶ月、平津について会社経営をしっかり学べ!】
【まだ目が覚めないようなら、お前のあの派手なバイクは全部売り払うからな!】
周囲に漂う俺の怨嗟の気配は、もはや幽霊以上のものだった。
オフィスビルの中、誰一人として俺に近づこうとはしない。
親父の命令で平津の会社に実習に来てから、早くも一週間が過ぎた。
ここ数日、俺はデスクに突っ伏して寝るか、スマホゲームをするかしかしていない。
定時になれば即座に退社し、バイクにまたがってさっさと帰る。
管理職たちも文句は言えない。
連中も皆知っている。俺が森下家の息子で、親の小言に逆らえず形だけ出社している不良息子だということを。
平津はそれを受け入れている。
俺が一緒に働くのを拒んでも、無理強いはしない。ただ秘書に「俺の要求を満たすように」と伝えるだけだ。
平津は忙しい。会議も付き合いも絶えず、顔を合わせることはほとんどない。
覚悟していた「互いに嫌悪しながら顔を合わせる」状況も起こらない。
見なければストレスもない。俺はのんびりと日々を過ごしていた。
のんびりした日々は、長くは続かなかった。
平津のマーキングの効力が、徐々に薄れ始めたからだ。
歯型は次第に消え、うなじの腺がじんじんと熱を帯びてくる。
ミントの情報素は再び暴れ出し、頭痛もますますひどくなった。
俺はオフィスのデスクに突っ伏し、苦しそうに体を丸めるしかなかった。
まどろみの中、誰かがそっと俺のうなじに触れるのを感じた。
触れられたのはほんの一瞬だったが、漂う香りは簡単には消えなかった。
ハッと目を覚ますと、上には一着のコートが掛けられていることに気づく。
サイズは俺のより一回り大きく、かすかに酒の香りがまとわりついていた。
情報素はごくわずかで、俺にしか感知できない程度だ。
振り向くと、隣の席のオメガ社員が慌ててスマホをしまうところだった。
残念ながら音はオフになっておらず、シャッター音が「カシャ」と響いた。
明らかに盗撮だ。
若いオメガは顔を赤らめ、言葉を詰まらせながら説明する。
「坊っちゃん……そのコート、平津様が掛けてあげたんです……!
お二人、あまりにもカップリング感があるので、つい一枚撮ってしまって……気にされるなら今すぐ削除します!」
俺は仕方なく手を振り、気にしないことを伝えた。
盗撮だのカップリングだのを気にしている場合じゃない。
俺は必死で、みっともない姿を見せないように自分を制御していた。
さっきも危うく大勢の前で、中毒患者のように平津のコートにすり寄るところだったのだ。
歯ぎしりせずにはいられない。
平津め、絶対にわざとだ。
俺が再び彼の情報素を欲しているのを、あいつは知っている。
狡猾なハンターめ。
情報素が染み込んだ衣服は、最高の罠だ。
俺は正気でいながら、掛けられた餌に食いつくしかないのだから。
平津のオフィスは、ビルの最上階を丸ごと占有していた。
彼は私の権限を最高レベルに設定し、自由に出入りできるようにしている。
顔認証が成功し、静かな音を立ててドアが開いた。
中では、平津が渋い表情で部下の報告を聞いていた。
働く平津を見るのは、これが初めてだった。
高い地位に就く若きエニグマは、ただそこに立っているだけで圧倒的な存在感を放つ。
完璧に整えられたスーツ、高い鼻梁に掛けられた銀縁の眼鏡。
なんて禁欲的で、なんて冷たい顔だ。
よくもまあ、そんな顔をしていられる。
暴れ出すミントを必死に押さえ込みながら、私は拳を握りしめた。
平津がこちらに気づく。
彼は軽く合図を送り、部下に報告を中断させた。
部下は恭しく頭を下げ、オフィスを出ていく。
「ドン」と音を立て、ドアが閉まる。
密閉された空間に残されたのは、私と平津だけ。
視線を交わした瞬間、背筋をひやりとするような危険な気配を感じた。
——罠だ。
まるで狩人の仕掛けた、逃げ場のない罠に自ら入り込んでしまったかのようだった。
平津は書類を置き、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
一歩近づくごとに、冷たい酒の香りが濃くなる。
呼吸が荒くなり、胸の奥がきしんだ。
「用事か?」
目の前で歩みを止めると、平津は余裕たっぷりに微笑んだ。
この余裕ぶった態度が、昔から大嫌いだ。
だが、頼るしかないのは私の方だ。
「平津、ふざけるな」
私は不快感を押し殺し、力いっぱい彼の胸元を掴んで壁に押し付けた。
「……情報素を貸せ」
平津は抵抗することなく、私がしがみつくのを黙って受け入れた。
そして、わざとらしくネクタイを緩めて見せる。
「光希、これで二度目だな」
彼はゆっくりと私を覗き込み、低く囁いた。
「借りたら返すんだぞ? 覚悟はできてるのか?」
返す?
返すって……何をだ?
空気の中で、烈酒の情報素がますます濃くなる。
かすかな酒の香りが思考を焼き尽くし、理性を奪っていく。
焦燥に駆られ、私は平津の胸にしがみつき、でたらめにうなずいた。
「……返せないわけないだろ……好きにしろ……」
耳元で、平津の低い笑い声が響いた。
その声だけで、膝が崩れ落ちそうになる。
意識が霞む中、誰かに腰を抱えられ、オフィスデスクの方へ連れていかれるのが分かった。
相手は私の手を取り、何かにサインさせる。
だが、ぼやけた視界では何も読めない。
読もうとも思わない。
情報素に干渉された頭では、判断力などとうに消え失せていた。
形式だけのサインを終えると、私は自ら身を翻し、後頸を差し出した。
「……前回は痛かった。今回は……優しく噛んでくれ……」
瞬間、平津の息が荒くなる。
しばらく沈黙したあと、彼はうつむき、私の後頸にそっと唇を寄せた。
その動作は驚くほど慎重で、声はかすれていた。
「約束する。今回は……絶対に痛くしない」
彼の手が伸びて、私のうなじをそっと撫でる。
冷たい酒の香りが指先から伝わり、荒れ狂うミントの情報素を穏やかに沈めていく。
骨を蝕むような痛みが、瞬時に和らいだ。
まるで砂漠で甘い泉を見つけたかのように、私はすぐにエニグマの上着の胸元をつかみ、切迫した声で言った。
「足りない……情報素が足りない!」
平津は淡々と俯きながら私を見下ろす。
その表情は変わらず冷静だが、瞳の奥には濃い感情が渦巻いていた。
「困ったな、坊っちゃん、これだけしかないんだ」
その声は優しく、しかし何か切実なものを含んでいた。
「光希、教えてくれ……俺に何をしてほしいんだ」
頭の中は混乱の極みだ。
どうすればいい?他に何ができるというんだ!
酒の香りは未だにさざ波のようにミントを揺らし、微かに漂う。
マーキング……それに一時標記……。
だが、アルファの本能が警鐘を鳴らす。
本当に後ろ首を噛まれ、より強い情報素を注ぎ込まれるべきなのか?
平津はさらに近づいてくる。
指が肌を撫で、微かな火花を散らすたびに、体の震えが止まらない。
頭の中が、まるで烈酒に溶かされるようにぐらぐらする。
おかしくなりそうだ……情報素が、平津の情報素が必要なんだ!
欲望は、ついに自尊心に勝った。
私は思わず平津のネクタイをつかみ、強く引き寄せた。
彼が手で壁を支えたその瞬間、私は耳元に顔を寄せ、強く噛んだ。
「平津……俺をマーキングしろ!」
腺体が犬歯に貫かれた瞬間、涙が溢れそうになった。
後悔した――!
マーキングがこんなに痛いなんて、誰が知ってるっていうんだ!
私は手を返して平津を殴ろうとしたが、しっかりと手首を押さえられた。
全身を壁に押し付けられ、身動きが取れない。
平津はうつむき、さらに強く噛み込む。
烈酒の香りが、さらに強く襲いかかる。
私は、エニグマの――ほとんど暴虐とも言える情報素を、
強制的に受け入れるしかなかった。
意識はますますぼんやりとし、ほとんど平津の腕の中で溺れ死にそうだった。
どれだけ時間が経っただろう。
ついにマーキングが終わり、私は疲れ果て、全身が震えていた。
平津は私の背中を、そっとさすっている。
一度、また一度――そのたびに、微かに安心する感覚があった。
でも変な感じがする。
私たちは恋人同士なんかじゃない。アフターケアなんて、必要ないはずだ。
押しのけようとしたが、足がもつれてよろめき、転びそうになる。
その瞬間、ぐいと抱き寄せられ、しっかりと抱き上げられた。
ぼんやりとした意識の中、どこかでこの情景を見た覚えがある気がした。
――高校の頃、平津も同じように私を抱きかかえたことがあった。
高校時代、俺と平津は水と油の関係で有名だった。
彼は誰もが認める優等生、俺は反抗的で手のかかる問題児。
平津は俺にちょっかいを出すのが楽しくて仕方ないようだった。サボりも取り締まり、ケンカも止めに入り、初恋さえ邪魔する。トイレに隠れてタバコを吸っても、必ず見つかる。
「班長の義務」なんて口実は信じられなかった。
だってあいつは普段、森下のことなど気にも留めないような冷徹さなのに、俺にだけは執拗に絡んでくる。ただ俺一人にだけ!
考えても答えは出ず、結局ひとつの結論に達した――こいつは間違いなく俺のことが大嫌いなんだ。
でも、俺にはあいつの心が全く理解できなかった。
ある試合で、俺は激しくぶつけられ、地面に叩きつけられた。
真っ先に観客席から駆け下りてきたのは平津だった。
彼は俺の脚を抱え、あっさりと抱き上げた。
観客の悲鳴と野次が飛び交う中、平津はそのまま俺を保健室まで運んだ。
腕の力は強く、足取りも確かだ。
俺は少し気まずくなり、彼の胸に顔を埋めて、鼓動を黙って数えるしかなかった。
彼の心臓の音が速すぎる気がして、少しうるさくも感じた。
アルファである俺がお姫様抱っこされるのは恥ずかしかったが、同時に少し感動してもいた。
だって、平津が本当に俺を心配しているように感じたから。
でも、すぐに笑えなくなる。
平和は長くは続かず、またしても彼は因縁をつけに来たのだ。
隣のクラスのオメガがくれたラブレターも、あっさり遮られた。
怒って殴ろうとした俺に、彼は冷たく警告した。
「光希、余計な考えはするな」
淡い恋心は、またもや台無しにされた。
あの試合での“心配”も、たぶん彼の悪趣味だったのだろう。
それ以来、俺は完全に忍耐力を失った。
俺、光希は、今生で平津とは絶対に相容れない――!
パーティー会場を後にした私は、疲れ果て、そのまま一日中眠り続けた。
目が覚めたとき、痛みはすっかり消えていて、身体は驚くほど軽かった。
こんなに爽快なのは初めてだ。
うなじに触れると、そこにはまだ歯型が残っている。
犬猿の仲のあいつにマーキングされたなんて、やっぱり腹が立つ。
……でも、効果がはっきり出ているのは認めざるを得ない。
ミントの情報素はもう暴れもせず、静かに従っていた。
体調が戻ると、またバイクで走りたいという欲求がむくむくと湧き上がってくる。
スマホを取り出して、次のツーリングの計画でも立てようとしたその時、父からのメッセージが目に入った。
【このクソガキ、お前の銀行カードはすべて凍結した。】
【これから一ヶ月、平津について会社経営をしっかり学べ!】
【まだ目が覚めないようなら、お前のあの派手なバイクは全部売り払うからな!】
周囲に漂う俺の怨嗟の気配は、もはや幽霊以上のものだった。
オフィスビルの中、誰一人として俺に近づこうとはしない。
親父の命令で平津の会社に実習に来てから、早くも一週間が過ぎた。
ここ数日、俺はデスクに突っ伏して寝るか、スマホゲームをするかしかしていない。
定時になれば即座に退社し、バイクにまたがってさっさと帰る。
管理職たちも文句は言えない。
連中も皆知っている。俺が森下家の息子で、親の小言に逆らえず形だけ出社している不良息子だということを。
平津はそれを受け入れている。
俺が一緒に働くのを拒んでも、無理強いはしない。ただ秘書に「俺の要求を満たすように」と伝えるだけだ。
平津は忙しい。会議も付き合いも絶えず、顔を合わせることはほとんどない。
覚悟していた「互いに嫌悪しながら顔を合わせる」状況も起こらない。
見なければストレスもない。俺はのんびりと日々を過ごしていた。
のんびりした日々は、長くは続かなかった。
平津のマーキングの効力が、徐々に薄れ始めたからだ。
歯型は次第に消え、うなじの腺がじんじんと熱を帯びてくる。
ミントの情報素は再び暴れ出し、頭痛もますますひどくなった。
俺はオフィスのデスクに突っ伏し、苦しそうに体を丸めるしかなかった。
まどろみの中、誰かがそっと俺のうなじに触れるのを感じた。
触れられたのはほんの一瞬だったが、漂う香りは簡単には消えなかった。
ハッと目を覚ますと、上には一着のコートが掛けられていることに気づく。
サイズは俺のより一回り大きく、かすかに酒の香りがまとわりついていた。
情報素はごくわずかで、俺にしか感知できない程度だ。
振り向くと、隣の席のオメガ社員が慌ててスマホをしまうところだった。
残念ながら音はオフになっておらず、シャッター音が「カシャ」と響いた。
明らかに盗撮だ。
若いオメガは顔を赤らめ、言葉を詰まらせながら説明する。
「坊っちゃん……そのコート、平津様が掛けてあげたんです……!
お二人、あまりにもカップリング感があるので、つい一枚撮ってしまって……気にされるなら今すぐ削除します!」
俺は仕方なく手を振り、気にしないことを伝えた。
盗撮だのカップリングだのを気にしている場合じゃない。
俺は必死で、みっともない姿を見せないように自分を制御していた。
さっきも危うく大勢の前で、中毒患者のように平津のコートにすり寄るところだったのだ。
歯ぎしりせずにはいられない。
平津め、絶対にわざとだ。
俺が再び彼の情報素を欲しているのを、あいつは知っている。
狡猾なハンターめ。
情報素が染み込んだ衣服は、最高の罠だ。
俺は正気でいながら、掛けられた餌に食いつくしかないのだから。
平津のオフィスは、ビルの最上階を丸ごと占有していた。
彼は私の権限を最高レベルに設定し、自由に出入りできるようにしている。
顔認証が成功し、静かな音を立ててドアが開いた。
中では、平津が渋い表情で部下の報告を聞いていた。
働く平津を見るのは、これが初めてだった。
高い地位に就く若きエニグマは、ただそこに立っているだけで圧倒的な存在感を放つ。
完璧に整えられたスーツ、高い鼻梁に掛けられた銀縁の眼鏡。
なんて禁欲的で、なんて冷たい顔だ。
よくもまあ、そんな顔をしていられる。
暴れ出すミントを必死に押さえ込みながら、私は拳を握りしめた。
平津がこちらに気づく。
彼は軽く合図を送り、部下に報告を中断させた。
部下は恭しく頭を下げ、オフィスを出ていく。
「ドン」と音を立て、ドアが閉まる。
密閉された空間に残されたのは、私と平津だけ。
視線を交わした瞬間、背筋をひやりとするような危険な気配を感じた。
——罠だ。
まるで狩人の仕掛けた、逃げ場のない罠に自ら入り込んでしまったかのようだった。
平津は書類を置き、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
一歩近づくごとに、冷たい酒の香りが濃くなる。
呼吸が荒くなり、胸の奥がきしんだ。
「用事か?」
目の前で歩みを止めると、平津は余裕たっぷりに微笑んだ。
この余裕ぶった態度が、昔から大嫌いだ。
だが、頼るしかないのは私の方だ。
「平津、ふざけるな」
私は不快感を押し殺し、力いっぱい彼の胸元を掴んで壁に押し付けた。
「……情報素を貸せ」
平津は抵抗することなく、私がしがみつくのを黙って受け入れた。
そして、わざとらしくネクタイを緩めて見せる。
「光希、これで二度目だな」
彼はゆっくりと私を覗き込み、低く囁いた。
「借りたら返すんだぞ? 覚悟はできてるのか?」
返す?
返すって……何をだ?
空気の中で、烈酒の情報素がますます濃くなる。
かすかな酒の香りが思考を焼き尽くし、理性を奪っていく。
焦燥に駆られ、私は平津の胸にしがみつき、でたらめにうなずいた。
「……返せないわけないだろ……好きにしろ……」
耳元で、平津の低い笑い声が響いた。
その声だけで、膝が崩れ落ちそうになる。
意識が霞む中、誰かに腰を抱えられ、オフィスデスクの方へ連れていかれるのが分かった。
相手は私の手を取り、何かにサインさせる。
だが、ぼやけた視界では何も読めない。
読もうとも思わない。
情報素に干渉された頭では、判断力などとうに消え失せていた。
形式だけのサインを終えると、私は自ら身を翻し、後頸を差し出した。
「……前回は痛かった。今回は……優しく噛んでくれ……」
瞬間、平津の息が荒くなる。
しばらく沈黙したあと、彼はうつむき、私の後頸にそっと唇を寄せた。
その動作は驚くほど慎重で、声はかすれていた。
「約束する。今回は……絶対に痛くしない」
1
あなたにおすすめの小説
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
罰ゲームって楽しいね♪
あああ
BL
「好きだ…付き合ってくれ。」
おれ七海 直也(ななみ なおや)は
告白された。
クールでかっこいいと言われている
鈴木 海(すずき かい)に、告白、
さ、れ、た。さ、れ、た!のだ。
なのにブスッと不機嫌な顔をしておれの
告白の答えを待つ…。
おれは、わかっていた────これは
罰ゲームだ。
きっと罰ゲームで『男に告白しろ』
とでも言われたのだろう…。
いいよ、なら──楽しんでやろう!!
てめぇの嫌そうなゴミを見ている顔が
こっちは好みなんだよ!どーだ、キモイだろ!
ひょんなことで海とつき合ったおれ…。
だが、それが…とんでもないことになる。
────あぁ、罰ゲームって楽しいね♪
この作品はpixivにも記載されています。
姉の男友達に恋をした僕(番外編更新)
turarin
BL
侯爵家嫡男のポールは姉のユリアが大好き。身体が弱くて小さかったポールは、文武両道で、美しくて優しい一つ年上の姉に、ずっと憧れている。
徐々に体も丈夫になり、少しずつ自分に自信を持てるようになった頃、姉が同級生を家に連れて来た。公爵家の次男マークである。
彼も姉同様、何でも出来て、その上性格までいい、美しい男だ。
一目彼を見た時からポールは彼に惹かれた。初恋だった。
ただマークの傍にいたくて、勉強も頑張り、生徒会に入った。一緒にいる時間が増える。マークもまんざらでもない様子で、ポールを構い倒す。ポールは嬉しくてしかたない。
その様子を苛立たし気に見ているのがポールと同級の親友アンドルー。学力でも剣でも実力が拮抗する2人は一緒に行動することが多い。
そんなある日、転入して来た男爵令嬢にアンドルーがしつこくつきまとわれる。その姿がポールの心に激しい怒りを巻き起こす。自分の心に沸き上がる激しい気持に驚くポール。
時が経ち、マークは遂にユリアにプロポーズをする。ユリアの答えは?
ポールが気になって仕方ないアンドルー。実は、ユリアにもポールにも両方に気持が向いているマーク。初恋のマークと、いつも傍にいてくれるアンドルー。ポールが本当に幸せになるにはどちらを選ぶ?
読んでくださった方ありがとうございます😊
♥もすごく嬉しいです。
不定期ですが番外編更新していきます!
フローブルー
とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。
高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
クズ彼氏にサヨナラして一途な攻めに告白される話
雨宮里玖
BL
密かに好きだった一条と成り行きで恋人同士になった真下。恋人になったはいいが、一条の態度は冷ややかで、真下は耐えきれずにこのことを塔矢に相談する。真下の事を一途に想っていた塔矢は一条に腹を立て、復讐を開始する——。
塔矢(21)攻。大学生&俳優業。一途に真下が好き。
真下(21)受。大学生。一条と恋人同士になるが早くも後悔。
一条廉(21)大学生。モテる。イケメン。真下のクズ彼氏。
彼はオレを推しているらしい
まと
BL
クラスのイケメン男子が、なぜか平凡男子のオレに視線を向けてくる。
どうせ絶対に嫌われているのだと思っていたんだけど...?
きっかけは突然の雨。
ほのぼのした世界観が書きたくて。
4話で完結です(執筆済み)
需要がありそうでしたら続編も書いていこうかなと思っておいます(*^^*)
もし良ければコメントお待ちしております。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
痩せようとか思わねぇの?〜デリカシー0の君は、デブにゾッコン〜
四月一日 真実
BL
ふくよか体型で、自分に自信のない主人公 佐分は、嫌いな陽キャ似鳥と同じクラスになってしまう。
「あんなやつ、誰が好きになるんだよ」と心無い一言を言われたり、「痩せるきねえの?」なんてデリカシーの無い言葉をかけられたり。好きになる要素がない!
__と思っていたが、実は似鳥は、佐分のことが好みどストライクで……
※他サイトにも掲載しています。
もう観念しなよ、呆れた顔の彼に諦めの悪い僕は財布の3万円を机の上に置いた
谷地
BL
お昼寝コース(※2時間)8000円。
就寝コースは、8時間/1万5千円・10時間/2万円・12時間/3万円~お選びいただけます。
お好みのキャストを選んで御予約下さい。はじめてに限り2000円値引きキャンペーン実施中!
液晶の中で光るポップなフォントは安っぽくぴかぴかと光っていた。
完結しました *・゚
2025.5.10 少し修正しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる