祖父の遺言で崖っぷちの私。クールな年下後輩と契約結婚したら、実は彼の方が私にぞっこんでした。

久遠翠

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第01話「氷の王子からのプロポーズ」

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 初夏の西日がオフィスビルの窓をオレンジ色に染めていた。
 キーボードを叩く音だけが規則正しく響くフロアで、私はディスプレイの企画書から顔を上げる。葉月美桜、二十八歳。広告代理店『アーク・クリエイト』でプランナーとして働き、気づけば六年目になる。恋愛よりも仕事。それが私のポリシーだった。
『美桜、おじい様の遺言のこと、忘れてないでしょうね』
 スマートフォンの画面に浮かんだ母からのメッセージに、私は深いため息を漏らした。忘れるわけがない。
 実家は創業百年の老舗和菓子店『花月庵』。三ヶ月前に他界した祖父の遺言には、こう記されていた。『三十歳の誕生日までに美桜が結婚しない場合、店の経営権は叔父夫婦に譲る』と。
 私の三十歳の誕生日まで、あと一年半を切っている。
『わかってる。でも、相手がいないんだから仕方ないでしょ』
 そう返信しながらも、心は焦りでさざ波を立てていた。店を継ぐ気はないけれど、両親が慈しんできた場所が人手に渡るのは耐えられない。

「葉月さん、お疲れ様です。こちらの資料、確認お願いできますか」

 不意に声をかけられ顔を上げると、デスクの前に一条蓮くんが立っていた。
 すっと通った鼻筋に、涼やかな目元。色素の薄い髪が窓からの光を浴びてきらめいている。入社三年目の彼は、その完璧な容姿と非の打ちどころのない仕事ぶりから、社内で『氷の王子』と呼ばれていた。

「あ、うん。ありがとう。そこに置いといて」

 私は慌ててスマホを伏せ、彼から資料を受け取る。触れた指先は、彼の異名にふさわしくひんやりとしているように感じた。
 感情をどこかに置き忘れてきたかのように、彼は常に無表情だ。雑談には乗らず、飲み会にも参加しない。けれど仕事は誰よりも速く、正確だった。
『完璧すぎて、人間味がないよな』
 同期がそう評するのを聞いたことがある。確かに、彼のプライベートは誰も知らなかった。

「……何かありましたか」

 私がぼんやりと考えていると、彼が不思議そうに首を傾げた。整った顔を間近で見つめられ、心臓が小さく跳ねる。

「ううん、何でもない。資料、ありがとうね」
「いえ」

 彼は小さくうなずき、静かに自分の席へ戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、またため息がこぼれる。あんなに綺麗な人と結婚できるのは、どんな人なのだろう。私とは住む世界が違う。

 その日の帰り道、私は母に勧められたお見合いを断るため、実家に電話をかけていた。

「だから、お見合いなんて急に言われても困るって!」

 駅前の雑踏の中、声が少し大きくなってしまう。
「でも、このままじゃお店が……」
「わかってる! わかってるけど、誰でもいいわけじゃないでしょ!」
 思わず声を荒らげたところで、背後の気配に振り返った。そこにいたのは、同じ方向に帰る途中だったらしい一条くんだった。イヤホンを片方外した彼が、静かな瞳でこちらを見ている。
(まずい、聞かれた……?)
 気まずさに顔が熱くなる。彼は私の視線に気づくと軽く会釈だけして、何も言わずに隣を通り過ぎていった。
 最悪だ。会社の後輩に、結婚に焦る女だと思われたに違いない。私はその場でうなだれた。

 翌日、重い足取りで出社すると、一条くんとはなるべく顔を合わせたくないと思っていたのに、昼休み、給湯室で二人きりになってしまった。
 気まずい沈黙が流れる。何か話すべきか悩んでいると、先に口を開いたのは彼の方だった。

「葉月さん」
「は、はい!」

 裏返った声が出てしまい、恥ずかしさがこみ上げる。彼はそんな私を意に介さず、淡々とした口調で続けた。

「昨日、お話の途中でしたので。失礼かと思いましたが」
「あ、ううん。気にしないで。ちょっと、家のことで……」

 ごまかすように笑う私に、彼はまっすぐな視線を向ける。その瞳は、まるで私の心まで見透かしているかのようだ。

「結婚、お困りなんですか」

 単刀直入な言葉に、息を呑む。やっぱり聞かれていたんだ。私は観念して、正直にうなずいた。

「……まあ、ちょっとね。いろいろと事情があって」
「そうですか」

 彼はそれ以上何も聞いてこなかった。ただ、カップに注いだコーヒーを静かに見つめている。これで話は終わりだろう。そう思った、その時だった。

「もし、よろしければ」

 彼は顔を上げ、私を真正面から見据えた。

「僕と、契約結婚しませんか」
「…………え?」

 時が止まった、と思った。
 給湯室の換気扇の音だけが、やけに大きく響く。私は彼の言葉の意味が理解できず、ただ瞬きを繰り返した。
 今、この氷の王子様は、何と言った? 契約結婚?
 目の前の彼は、冗談を言っているようには到底見えなかった。その真剣な表情に、私の頭は完全にフリーズしてしまう。

「あの、一条くん……?」
「詳しい話は、改めて。今日の終業後、お時間いただけますか」

 彼はそれだけ言うと、コーヒーカップを手に颯爽と給湯室を出ていった。
 一人残された私は、呆然とその場に立ち尽くす。
 頬をつねってみた。痛い。夢じゃない。
 仕事一筋だった私の日常に、とんでもない嵐が吹き荒れようとしていた。
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