【完結】月の道を辿って、いつかまたあなたに会いたい

水瀬さら

文字の大きさ
2 / 35

2食目 ほろりと崩れる金目鯛の煮つけ(1)

しおりを挟む
 長いトンネルを抜けると、列車の窓から見える景色が鮮やかな青に変わった。
 目指していた駅名が車内アナウンスで流れ、列車はスピードを落としていく。
 潮風が吹く駅のホームに降り立ち、梨花は白い息を吐き出した。
 古びた木造の小さな駅舎。夕暮れの光に照らされた瓦屋根。
 聞こえてくるのは観光地の喧騒ではなく、かすかな風の音と海鳥の鳴き声だけだった。

 都会では、どこにいても誰かの歌声が耳に入った。
 商店街に流れる流行りの曲、カフェやショッピングセンターのBGM、街角のストリートライブ。
 そのどれもが、いまの梨花にとっては胸を突き刺す凶器に思えた。
 もう、ここにはいたくない――。
 そう思って、すべてをあの街に捨ててきたのだ。
 仕事も住まいも、思い出も。
 そして小さなボストンバッグひとつで列車に飛び乗り、この駅に降り立った。
 最後にどうしても見てみたかったから。
 梨花の恋人だった彼――河西かさい悠真ゆうまの生まれ育った海辺の町を。


 駅からゆるい坂道を下っていくと、小さな港のそばに、予約していた『民宿陣内じんない』があった。二階建てのこぢんまりとした宿だ。
 玄関脇では黒と白の毛色のハチワレ猫が、のんびりと毛づくろいをしていた。
 梨花は引き戸を開き、「すみません」と声をかけてみる。
 すると奥からひとりの男が出てきた。
 二十五歳の梨花と同い年くらい……いや、少し年上かもしれない。
 乱れた黒髪に上下ジャージ姿、顔には無精髭が生えていて、梨花の顔を睨むような目つきで見た。
 この宿の人だろうか……。怒っているように思えるのは気のせい?
 ごくんと唾を飲み込んだ梨花の耳に、低い男の声が聞こえる。

「吾妻梨花さん?」
「えっ」
「予約してた吾妻梨花さん? 東京の」
「は、はい……」

 今日はもちろん、仕事を辞めてからほとんど人と会話していなかったせいか、声がかすれる。
 男は面倒くさそうにスリッパを用意すると、「こちらへどうぞ」と言って背中を向けた。

「あ、はい」

 やはり機嫌が悪そうだが、迷惑をかけた覚えはない。予約日は間違えていないし、到着時間だって予定通りだ。
 梨花は慌てて靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。その間にも男はすたすたと廊下を歩きはじめていた。


 案内された二階の部屋は、畳の匂いが心地よい六畳間だった。
 建物は古いがしっかり清掃されているようで、どこも埃ひとつ見当たらない。
 窓の向こうには、夕暮れの海が広がっていた。静かで、寂しくて、でもどこか懐かしく感じる景色。

「予約は六泊でしたよね?」

 男がぶっきらぼうに聞いてきた。

「はい。そうです。日曜日までお世話になります」

 小さく頭を下げた梨花のことを、やっぱり男は睨むように見ている。
 髭を剃って髪を整えれば、わりとイケメンだと思うのに……嫌な感じの人だ。
 この宿を選んだのは間違いだったかもしれない。とはいえ、この町に宿はここ一軒しかなかったので、一週間も予約してしまった。
 早くも後悔しはじめた梨花に男が言う。

「夕食は六時に一階の広間に用意します。風呂も下にあるんで、いつでも勝手にどうぞ。客はおたくだけなんで。では」

 言いたいことを言い終えると、男は背中を向け、さっさと階段を降りていった。
 梨花はしばらくその場に立ち尽くしたあと、小さくため息をついて荷物を置く。そして窓を少し開き、ぼんやりと外を眺めた。
 空が赤く染まり、海も同じ色に染まっている。都会の乾いた風とは違い、吹いてくる潮風は心地よい。

「ここが……悠真の生まれた町」

 声に出したら、胸がぐっと苦しくなった。


 今日は電車で移動しただけなのに、ものすごく疲れてしまった。風呂に入ってぼうっとしている間に夕食の時間になる。

「吾妻さま、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。この宿の女将です。本日はお疲れさまでした。なにもない町ですが、ゆっくりなさっていってくださいませ」

 食事を運んでくれたのは、ハリのある声で話す五十代くらいの女性だった。明るい色のショートヘアで、愛想がよい。先ほどの男とは大違いだ。

「お世話になります」

 梨花がお辞儀をすると、「さあさあ、どうぞ召し上がって」と食事を勧めてくれた。
 和室にある座卓の上には、新鮮そうなお刺身や金目鯛の煮つけなど、港町らしい魚料理が並んでいる。他にも天ぷらや煮物、いくつかの小鉢など、手ごろな宿泊料のわりにとても豪華だ。

「いただきます」

 そう言ったものの、なかなか箸が動かない。絶対おいしいだろうと思うのに、体が食べることを拒否しているのだ。いや、生きることを拒否しているのかもしれない。
 そんな梨花の様子をちらりと見た女将は、にっこり微笑んで言った。

「寂れた町ですけど、お魚はとってもおいしいんですよ。その煮つけ、柔らかく煮込んであるので、よかったら食べてみてくださいね」
「……はい」

 女将が出ていくと、広い座敷には梨花だけがぽつんと残された。さっき男が言っていたように、今日の客は梨花だけらしい。
 静かだった。テレビの音も人の話し声も聞こえない。
 代わりに窓の向こうから、かすかな波音が聞こえてくる。
 そうだ。梨花はこんな場所に来たかったのだ。音楽も歌声も聞こえることのない、ただ風の音や波の音だけが響いているような場所に。

  女将が薦めてくれた金目鯛の煮つけを見下ろす。表面には綺麗な照りが出ていて、甘辛い醤油の香りが鼻先をくすぐる。
 箸を持った手をゆっくりと動かした。魚の煮つけを割り、ほんの少し口に入れる。
 身はふんわりと柔らかく、舌の上でほろりと崩れた。一瞬心の中がほっこりと温まる。
 だけどやっぱり味がしないのだ。悠真がいなくなってからずっと、なにを食べても味がしない。

 梨花の頭に、アパートの狭い部屋の光景が浮かんでくる。
 ふたりで囲んで笑い合った食卓。テレビから流れてくる流行りの曲。窓から吹き込む柔らかい風。
 残りごはんで作ったお茶漬けだって、コンビニのおにぎりやカップ麺だって、ふたりで食べるごはんはなんでもおいしく感じた。

「うっ……」

 吐き気がこみ上げてきて、口元を押さえる。
 せっかく作ってもらったのに。食べなきゃだめなのに。そう思えば思うほど、気持ちが悪くなってくる。
 梨花は箸を置いて深呼吸をした。心を無にして何度かチャレンジしてみたけれど、煮つけと白いごはんをほんの少ししか食べることができなかった。


「ごめんなさい。せっかく作っていただいたのに、こんなに残してしまって」

 女将の前で頭を下げると、優しい声が返ってきた。

「いいんですよ。小食の方もよくいらっしゃいますから、お気になさらず」
「あの……お料理はどなたが作ってくださったんですか?」
「私です。以前は調理担当の者が他にいたんですけど、いまは私が作らせていただいてます」

 やはり。思った通りだ。

「あのお魚、すごく柔らかくて、口の中でほろっと崩れて……心が温まる感じがしました。きっと優しい方が作ってくださったんだろうな、と。それなのに全部食べられなくて、本当に申し訳ありません」

 もう一度頭を下げた梨花の肩を、女将がとんとんと優しく叩いた。

「そんなに頑張らなくていいんですよ。お気づかいは嬉しいですが、お客さまにはお客さまのペースがありますから。ご自分を一番大事にしてあげてください」

 自分を一番大事に……。
 顔を上げると穏やかに微笑む女将の顔が見えた。

「よろしければ、明日からは量を少なめにいたしますね」
「はい。ありがとうございます」
「では、ごゆっくり」

 去っていく女将の背中を見送ると、梨花はひとり階段を上がり、自分の部屋へ戻った。


 部屋の中は静かだった。持ってきた小さなボストンバッグがぽつんと置いてあるだけ。
 窓を開けると冷たい風が吹き込み、穏やかな波の音がした。宿の周りは店もなく、街灯の明かりが点々と寂しげに灯っているだけだ。
 そういえば駅の周辺も、小さな商店が何軒かあるだけだった。この宿に来るまでの道で、コンビニを見かけたこともない。

『俺のいた町、すっげー田舎でさ』

 どこかから、悠真の声が聞こえてくる。

『でも梨花と一緒に行きたいんだ。俺の生まれ育った町だから』

 それから彼はこう言ったのだ。

『梨花に見てほしい景色もあるしね』
「悠真……」

 胸のあたりをセーターの上からつかみ、ぎゅっと唇を噛む。
 どうして? どうして悠真がここにいないの?
 悠真が言ったんじゃない。私と一緒に行きたいって。
 それなのにどうして私をひとりぼっちにするの?
 心臓の鼓動が速くなる。息が詰まって、呼吸が乱れる。
 居ても立ってもいられなくなった梨花は、コートを羽織ると、狭い部屋を飛び出した。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

フッてくれてありがとう

nanahi
恋愛
「子どもができたんだ」 ある冬の25日、突然、彼が私に告げた。 「誰の」 私の短い問いにあなたは、しばらく無言だった。 でも私は知っている。 大学生時代の元カノだ。 「じゃあ。元気で」 彼からは謝罪の一言さえなかった。 下を向き、私はひたすら涙を流した。 それから二年後、私は偶然、元彼と再会する。 過去とは全く変わった私と出会って、元彼はふたたび──

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います <子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。> 両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。 ※ 本編完結済。他視点での話、継続中。 ※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています ※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります

没落貴族か修道女、どちらか選べというのなら

藤田菜
キャラ文芸
愛する息子のテオが連れてきた婚約者は、私の苛立つことばかりする。あの娘の何から何まで気に入らない。けれど夫もテオもあの娘に騙されて、まるで私が悪者扱い──何もかも全て、あの娘が悪いのに。

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

幼馴染を溺愛する旦那様の前からは、もう消えてあげることにします

睡蓮
恋愛
「旦那様、もう幼馴染だけを愛されればいいじゃありませんか。私はいらない存在らしいので、静かにいなくなってあげます」

処理中です...