【完結】月の道を辿って、いつかまたあなたに会いたい

水瀬さら

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2食目 ほろりと崩れる金目鯛の煮つけ(2)

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 宿の玄関は開いていたから、靴を履いて外へ出た。まだ七時過ぎだ。少し外出しても大丈夫だろう。
 宿の前の海沿いの道は真っ暗だった。都会ならまだ明るく、人々が賑やかに行き交っている時間なのに。
 車も人も通る気配はなく、あたりは不気味なほど静まり返っている。
 梨花は堤防のそばまで進み、真っ黒な海を眺めた。耳を澄まし、息を深く吸い込む。
 だけど胸が苦しいのは変わらなかった。
 ここまで逃げてもだめなんだ。忘れようとしたって、忘れられない。

 どこからか、悠真の歌う声が聞こえてくる。なにもかも包み込んでくれるような、穏やかで優しい歌声。
 悠真はいつも歌っていた。鼻歌まじりで皿洗いをしたり、テレビや動画を観ながら流行りの歌を歌ってみたり……そして毎晩、ギターの弾き語りをしてくれた悠真に合わせて、梨花も口ずさむのが好きだった。

「悠真……どうしていなくなっちゃったの?」

 暗闇の中で声を漏らす。

「私を残して、どうして……」

 悠真の声が聞こえない世界なんて意味がない。悠真の顔が見えない世界なんて意味がない。悠真のいない世界なんて意味がない。
 だから私も悠真のところへ行きたい。最後に彼の生まれ育った町を見たあとに――そう思って、ここにひとりでやってきたのだ。
 波の音が聞こえた。夜風が梨花の肩にかかる黒い髪をなびかせる。
 でもあと一週間も、こんな思いはしたくない。食事を出されても食べることができず、宿の人に迷惑をかけるだけだ。だったらいっそ、このままここで――。

 堤防に手をかけ、よじ登る。コンクリートの上に膝をつき、前を見る。堤防の向こうはすぐ海だ。
 下を見おろす。真っ暗だ。深いだろうか。冷たいだろうか。落ちたら行けるだろうか、悠真のところへ。
 ひゅうっと冷たい風が吹く。目や鼻の奥がじんじんと痛む。

「悠真……」

 つぶやいて、ゆっくりと立ち上がろうとした、そのときだった。

「なにやってんだよ」

 突然声が聞こえて、びくっと背中が震える。

「あぶねーぞ。そんなとこ登って」

 中腰のまま、おそるおそる振り返る。
 さっき宿にいた不愛想な男が、煙草をふかしながら梨花を見上げていた。

「こんなとこより、もっといいところ連れてってやるから」

 そう言って、男が手を差し出す。

「降りてきな」

 暗闇の中、男の瞳が梨花を見ていた。梨花が戸惑っていると、男は落ち着いた様子で携帯灰皿を取り出し、煙草を消した。そして再び手を差し出してくる。
 梨花はどうしたらいいのかわからず、動けない。すると男の手が伸び、いきなり腕をつかまれた。そのままぐっと引き寄せられる。

「きゃっ……」

 体勢が崩れ、道路のほうへ落ちた梨花の体を男が受け止めた。

「こんなとこで死ぬのはやめてくれ。いろいろ面倒だから」

 気づけば堤防から下り、男に抱きかかえられるような格好になっている。顔を押しつけてしまった黒いダウンジャケットは、少し煙草の匂いがした。
 梨花は我に返り、慌てて体を離す。

「違います。ちょっと景色を見てただけです」
「へぇ……景色をねぇ。真っ暗でなんにも見えないけど?」

 男がバカにしたように鼻で笑って、わざとらしく周りを見まわしている。
 梨花は顔をそむけて、男に尋ねる。

「さっきの……なんなんですか? もっといいところって……」
「ああ。連れてってやるよ、いいところに。ついてきな」

 さっき部屋へ案内してくれたときと同じように、男がすたすたと歩き出す。梨花は一瞬迷ったが、なぜかそのあとを追っていた。
 いいところ、ってどこだろう。でも、いまより少しでもいいところなら、どんなところでも行きたかった。

「あのっ、あなたはあの宿の従業員さんなんですか?」

 すると男が前を見たまま答えた。

「俺は女将の息子。陣内じんない十希也ときや
「息子……さん?」

 あの優しくて愛想のいい女将の息子が、この不愛想な男?

「別に俺は従業員ってわけじゃない。さっきは母親が留守だったから、代わりに仕方なく部屋に案内しただけ」

 梨花の頭がもやもやした。
 客に向かって仕方なくって……それにさっきの態度も最悪だった。
 いくら従業員ではないといっても、客の前に出るからには最低限の応対はするべきだ。

 十希也という男は振り向きもせず、海沿いの道をどんどん進む。手足が長く背の高い十希也を、小柄な梨花は必死に追いかける。
 歩くのが速すぎる。悠真はもっとゆっくり歩いてくれた。
 また悠真のことを思い出し、胸がずきんと痛む。

 十希也が道を曲がって、狭い坂道を上っていく。舗装されていない山道だ。街灯もなくなり、さらに薄暗い。スマホを取り出した十希也が、行き先を光で照らす。
 そこで梨花はハッとして、立ち止まった。
 もしかしてこれ、まずいのでは? 暗闇に連れ込まれて、なにをされるかわからない。
 梨花はぎゅっと両手を握った。
 こんなところまでついてきてしまった自分がバカだった。いくら悠真がいなくなって、なにもかもがどうでもよくなっていたとはいえ、こんなよく知らない男に襲われるなんて絶対にごめんだ。

「なにやってんだよ」

 少し先で十希也が振り返る。

「わ、私、やっぱり帰ります」
「は? ここまで来て?」
「すみません。よ、用事を思い出したので」

 頭を下げてからくるりと振り返り、いま来た道を戻ろうとしたとき――。

「にゃあ」
「え?」

 猫だ。さっき宿の前にいたハチワレ猫がちょこんと座り、目をまん丸くして梨花の顔を見上げている。

「猫ちゃん?」

 暗闇の中で目を凝らして、気がついた。どうやらこの猫は、前足が一本しかないらしい。

「三本足……」

 梨花の頭に忘れかけていた記憶が蘇る。
 以前一度だけ悠真が見せてくれたのだ。田舎にいたときかわいがっていた三本足の猫の写真を。

『こいつ偉いんだよ。足が一本なくて、他の猫たちからのけ者にされても、堂々と生きてる。俺も見習わなきゃなぁって、いつも思ってた』
「この猫が……悠真の見せてくれた猫?」
「にゃおん!」

 返事をするようにひと声鳴くと、ハチワレは短いしっぽをぴんっと立て、三本の足をひょこひょこ動かしながら坂道を上りはじめた。

「え……そっちに行くの?」

 十希也のそばで立ち止まったハチワレが、振り返って梨花を呼ぶように鳴く。

「にゃおーん」
「ついてこいってさ」
「あ、あなたの猫なんですか?」

 梨花の質問には答えず、あいかわらず不愛想なしかめ面で十希也が言う。

「どうすんだよ? 行くのか? 行かないのか?」
「にゃーん」

 ハチワレがふたりの間に入り込み、顔を上げて少し首をかしげる。

「デュオが待ってるぞ」
「デュオ?」
「ああ。こいつの名前」
「にゃん!」

 ハチワレがまた返事をするように鳴いて、再び坂道を上りはじめる。十希也も背中を向けて歩き出す。

「ま、待ってください! 私も行きます!」

 この先になにがあるのかわからないが、どうしてかあの猫のことが気になった。
 それにやっぱり「いいところ」というのも気になる。
 デュオのあとを十希也がついていく。その背中を梨花は急いで追いかけた。
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