【完結】月の道を辿って、いつかまたあなたに会いたい

水瀬さら

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2食目 ほろりと崩れる金目鯛の煮つけ(3)

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 坂はどんどん険しくなっていった。運動不足の梨花は荒い息を吐きながら、ひとりと一匹のあとをついていく。
 デュオは一度も振り返ることなく三本の足でひょこひょこと進み、同じく十希也も進んでいく。梨花は取り残されないように、必死に足を進めた。
 やがて頭の上を覆っていた木々がすっと途切れ、目の前がパッと開けた。

「ここが……頂上?」

 茂みを抜けた小高い丘の上は、展望台のようになっていた。といっても特に整備されている様子はなく、草は伸び放題で荒れ果てている。
 ただ、東屋というのだろうか。屋根の下にベンチがある、古びた休憩スペースがぽつんとあった。以前はここに、住民や観光客が訪れていたのかもしれない。
 呆然と立ち尽くす梨花に、十希也がその東屋から声をかける。

「こっち、来てみろよ」

 言われるままに、梨花は十希也のそばに向かった。

「あ……」

 東屋からは真っ暗な海が見下ろせた。夜空には黄色い満月が浮かんでおり、水面に一筋の光を映している。それは月へ向かってまっすぐ続く一本の道のように見えた。

「月明かりの道……」

 見たこともない幻想的な光景に、ついため息が漏れる。

「綺麗……」

 十希也はこの景色を見せるために、梨花をここまで連れてきてくれたのだろうか。
 そのとき梨花はハッと気づいた。

『梨花に見てほしい景色もあるしね』

 そういえばそのあとに、悠真はこう付け加えていた。

『でもいつも見えるってわけじゃないんだ。満月前後の、雲がなく、波が穏やかな夜にしか見えない光景なんだ』

 まさか。悠真の言っていた景色ってこれのこと?
 しかしすぐに梨花の顔が曇った。
 もしそうだとしても悠真はここにいない。どんなに美しく感動的な景色でも、悠真と一緒でなければ意味がないのだ。

「悠真……」

 梨花の口からその名前が漏れた。と同時に、目の奥が熱くなり、じわりとなにかがあふれ出す。それは梨花の頬を伝わり、ぽろぽろと足元に落ちる。
 三か月前、結婚の約束をしていた二歳年上の恋人を、突然事故で失った。
 その日から今日まで、梨花は一度も涙を流すことがなかった。
 胸が痛くて、息をするのもつらいのに、涙なんて一滴も出なかったのだ。

 病院で動かなくなった彼と対面したときも。
 身寄りのない彼をひとりで寂しく見送ったときも。
 彼のいなくなった部屋に戻ったときも。
 涙なんて出なかった。泣き方なんてわからなかった。
 ただ、どうやったら彼のそばに行けるのか、そればかり考えていた。

「悠真……どうして……」

 声がかすれる。嗚咽が漏れる。涙がとめどもなくあふれ、立っていられずその場にしゃがみ込む。

「どうして私を置いて、ひとりで行っちゃったの……」

 何度も何度も彼に尋ねた。でも返事は返ってこない。返ってくるはずはない。

「私も……早くそこに行きたい……」

 梨花の耳に悠真の歌声が聞こえてくる。月明かりのような優しい歌声。
 膝に顔を押しつけたとき、隣に十希也がしゃがみ込んだ気配がした。

「悠真はそんなこと望んでない」

 十希也の声が耳に響く。

「悠真のところに行ったって、あいつは喜ばない」

 ゆっくりと膝から顔を上げる。十希也はまっすぐ梨花を見ている。

「喜ぶわけねーだろ」

 怒った声でそう言うと、十希也は梨花から目をそらした。

「……悠真のこと、知ってるんですか?」

 かすれた声で尋ねる。十希也が黒い髪をかきながら、ぼそぼそとつぶやいた。

「知ってるよ。俺たちはここで一緒に育った、兄弟みたいなもんだったから」

 一緒に育った、兄弟……。
 悠真の両親は小学生のころ相次いで亡くなり、そのあとは祖母に育てられたという。少年時代にあまりいい思い出はなかったけど、誰よりも仲がよくて、兄弟みたいに育ってきた、同い年の幼なじみがいたと言っていた。
 十希也はもう一度梨花に視線を戻し、こう言った。

「それにあんたのことも知ってる。悠真はよくあんたの話をしてた。自慢するように写真を見せて、今度町に帰ったとき紹介するって。梨花に出会えて、こんな自分でも生きていいんだって思えたって……」

 梨花は口元を手で押さえた。涙だけでなく、叫び声まで上げそうになったから。

「だから」

 十希也の声に力がこもる。

「死にたがりだったあいつを生きる気にさせたあんたが、あいつのあとを追ったって、喜ぶはずはないんだよ」

 梨花はさらに強く口元を押さえた。
 悠真の両親はともに自死だった。ふたりの死を見てきた悠真は、生きる自信を失ってしまった。

『俺も両親みたいになっちゃうんじゃないかって、ずっと思ってた』

 だから祖母も亡くなり、田舎を捨て東京に出てきてからも、生きる気力がなかったのだという。

『でもさ、梨花は褒めてくれたじゃん? こんな俺のこと』

 悠真のたったひとつの趣味は「歌うこと」だった。一時期街角で歌っていたことがある。ただ、夢も希望も持てなかった彼は、歌手になるなど思っていたわけではなく、ただ友だちに誘われてなんとなくやっていただけらしい。
 でもそんな悠真の歌声に惹かれた梨花が、自分から声をかけたのがつき合うきっかけだった。
 いま思えば男の人に声をかけるなんて、信じられないことなのだが……あのとき聴いた悠真の歌声は、母子関係に悩んでいた梨花の心を癒やす、魔法の声だったのだ。

『梨花があのとき褒めてくれたから、俺はもっと生きたいって、はじめて思えたんだよ』
「げほっ……」

 口元からあふれたのは叫び声ではなかった。胃の奥から、さっき食べたものを戻してしまった。

「ご、ごめんなさい……」
「いいよ。全部吐いちゃえよ」

 背中に温かいものが触れた。十希也がさすってくれているのだと気づく。でもそうやって誰かから優しくしてもらうたび、情けない自分が大嫌いになる。

「わ、私は……」

 口元を拭いながら声を振り絞る。

「そんなにすごい人間じゃないんです。救ってくれたのは悠真のほう。悠真と出会えて、私は生きるのが楽になった。だから私は悠真がいないと生きていけないんです」

 自分の気持ちを吐き出すたび、胃が締めつけられる。

「亡くなった人の後を追うなんて、いけないことだってわかってます。そんなことしたって、悠真が喜ばないのもわかってる。事情を知っている会社の人たちも、いつまでも私が悲しんでたら彼も悲しむ、だから彼の分まで頑張って生きてって励ましてくれるけど、その優しさに応えられない。私は弱いから……もう無理なんです」
「無理って言うな」

 涙目で十希也を見る。

「弱くてもいいから、それでも生きろ」

 胃の中のものが逆流して、また口元からあふれた。だけどもう、出てくるのは胃液だけだ。

「ごほっ、げほっ」

 吐き続ける梨花の背中を十希也がさする。その手を振り払うようにして、梨花は叫んだ。

「綺麗ごと言わないでください! みんな他人事だから、そんなふうに言えるんでしょ! 私の気持ちなんてわからないくせに!」

 梨花は両手を握ると、十希也の胸を思い切り叩いた。

「私がどれだけ悠真のことを好きだったか、どれだけ愛してたか、そんな大好きな人がいなくなってどれだけつらいか……息をするのがしんどくて、なにを食べても味がしなくて、毎晩眠れなくて、優しくされればされるほど吐き気がしてくる……その苦しさがあなたにわかるんですか!」
「わかるよ」

 梨花の手が止まる。その手を十希也がつかんでいたから。

「俺はわかる。あんたの気持ち」

 十希也がじっと梨花を見ている。梨花はぽつりとつぶやく。

「悠真の……幼なじみだから?」
「違う」

 十希也は梨花の腕をつかんだまま、その目をじっと見つめる。

「死ぬまで言わないつもりだったけど……あんたが全部吐き出したから俺も言うよ」

 梨花は黙ってその声を聞く。

「俺も好きだった、悠真のこと。幼なじみでも、兄弟でも、親友でもなく……俺は悠真のこと、そういう目で見てたんだよ」

 十希也は一回息を吐き、それからはっきりとした声で告げた。

「だからわかる。俺はあんたの気持ちが誰よりも」

 梨花の力が抜けて、腕がだらりと垂れる。十希也の手が、ゆっくりと梨花から離れる。
 俺も好きだった、悠真のこと――その言葉が頭の中をぐるぐると回り続ける。

「にゃあ」

 デュオがふたりの間にやってきて、顔を上げる。
 十希也がその頭を撫で、静かな声でつぶやいた。

「デュオって名前は悠真がつけたんだ」
「え……」
「野良猫だったこいつは、よそからきた釣り人に釣り糸巻き付けられて、足を切断せざるを得なかった。それを知った悠真が引き取ろうとしたんだけど、ばあさんの家では飼えなくて。うちも客商売で無理だったから、地域猫としてふたりで世話することにしたんだ」
「デュオ……」

 十希也に撫でられ、デュオは気持ちよさそうに目を閉じている。

「ここは、俺と悠真の大事な場所だった」

 黙り込んだ梨花の隣で、十希也が言った。

「嫌なことがあった夜とか、ふたりと一匹でここに来て海を見たり、朝までデュオとじゃれて遊んだり、好きな歌を歌ったりしてた」

 十希也が立ち上がり、目を細めて遠くを見た。梨花も十希也と同じほうを向く。
 月は明るく輝き、水面では月明かりの道が揺れている。
 ここは悠真にとって大事な場所――そのとき梨花は確信した。
 悠真が梨花に見せたかったのは、やっぱりここから見えるこの景色なのだと。

「ここに連れてきてくれて……ありがとうございます」

 涙を拭って十希也の横顔を見る。

「それからごめんなさい。その、叩いたりして……それにせっかく女将さんに作ってもらったお料理を吐いちゃって……」
「そんなのいいよ。気にするな」

 かすかな風が吹き、十希也の声が流れてくる。

「いつから気づいていたんですか? 私が……悠真の彼女だって」

 十希也は前を見たまま答える。

「予約が入ったとき、見覚えのある名前だなって思った。で、顔見たらすぐにわかった。こいつが悠真をナンパして、たぶらかしたやつか、って」
「た、たぶらかしたなんて……」

 すると十希也が、梨花を指さし睨みつけた。

「言っとくけどな。俺はあんたが好きじゃない。はっきり言って大嫌いだ。ただ悠真だったら彼女をここに連れてくるだろうと思って、連れてきてやっただけだ。感謝しろ」

 十希也はそれだけ言うと、顔をそむけた。
 悠真だったら彼女をここに――その言葉が梨花の胸にじんわりと沁み込んだ。
 十希也はそれきりなにもしゃべらなかった。梨花も黙ったまま月の光を眺めた。
 ここで悠真が歌った声はどんな歌だったんだろう、と想像しながら。
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