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20食目 甘辛ごちそうすき焼き(1)
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その日の午後は疲れ果ててしまい、芙美が敷いてくれた布団に横になっていたら、いつの間にか眠ってしまった。
強い風の音で目を覚ますと、もう外が薄暗くなっている。足をそっと動かしてみたら、芙美が冷やして、テーピングまでしてくれたおかげか、ずいぶん痛みが楽になっていた。怪我をした客のために、芙美は応急処置の仕方を習っていたのだという。
「よかった……」
でもこれ以上ふたりに迷惑をかけるわけにはいかない。明日には宿を出なければ。
そう思ったら、なんだか胸の奥がつきんと痛んだ。
「梨花さん」
部屋の襖の向こうで芙美の声がした。
「はい」
「いま入っても大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
布団の上に起き上がって答えると、芙美が顔を出し、にっこり微笑んだ。
「足の痛みはどうですか?」
「だいぶよくなりました」
「それはよかったです」
芙美が梨花のそばに腰を下ろす。
「まだ雨はひどいですか?」
「いえ、雨は上がりました。風は強いですけど。ただ……」
芙美は少し眉をひそめて言った。
「明日いっぱい電車は動かないそうです。道路もまだ通行止めで。お帰りになるのは難しいかもしれません」
「そうですか……」
この町は陸の孤島となってしまっているようだ。困ったことなのに、どこかホッとしている自分がいる。
どうしてだろう。まだここにいたいと思っているのだろうか。
梨花の頭に、さっき聞いた十希也の言葉が浮かぶ。
『俺はあんたに死んでほしくないんだよ。あんたが死んだら、俺ひとりになっちまう』
こんな自分でも、必要とされているのだろうか。
それに芙美も言ってくれた。
『あなたがいなくなったら悲しむ人がいるってことを忘れないで』
そんなことを言われたのは、生まれてはじめてだ。
梨花は胸に手を当てる。
だけどいつまでもここにいるわけにはいかない。
帰る日までに決めなければ。悠真のいない、自分の未来を――。
「あの、芙美さん。明日も泊まらせていただいてもいいでしょうか?」
「それはもちろん。電車が動くまでここにいていいんですよ」
「ありがとうございます」
ぎゅっと手を握りしめた梨花に、芙美が声をかける。
「梨花さん、今夜のお食事も、三人で食べてもよろしいですか?」
「もちろんです!」
芙美が幸せそうに微笑んだ。
「では食事の支度ができたら、また声をかけますね」
一時間後、梨花は芙美に連れられていつもの広間に向かった。そこに用意されていたのは、卓上コンロの上で湯気を立てている黒い鍋。
「わぁ、すき焼きですか」
「ええ、以前宿泊されたお客さまがお肉をたくさん送ってくださったので」
「えっ、お肉を?」
「主人の料理をものすごく気に入ってくださったお客さまで、お肉屋さんを営んでいる方なんですよ。おいしいものを食べさせてもらったお礼にって、主人が亡くなったいまでも、時々送ってくださるんです」
そこまでしてくれるお客さんがいるなんて……この宿の主人はよっぽどおいしい料理を作ってくれる人だったのだろう。
梨花は以前聞いた十希也の言葉を思い出す。
『親父のことは尊敬してたし、子どものころは親父みたいになりたいと思っていたけど、いざ跡継ぎとか言われるとまったく自信ねぇし』
父親が立派だったからこそ、十希也のプレッシャーも大きくなってしまったのではないだろうか。
梨花はちらりと自分の席を見る。隣にはすでに十希也が座っていて、芙美の話を聞いていたのかいないのか、鍋の中に野菜を入れていた。
「いい匂いですね」
梨花はそう言って席に着く。
鍋からは甘辛いすき焼きの香りが漂ってくる。梨花がうっとりとした顔をしたら、目の前になにかが現れた。
「ほら。取ってやったから食え」
十希也が乱暴に差し出してきた器には、溶き卵と大きな肉が入っていた。
「あ、ありがとうございます」
「客からもらった高級肉なんだから、ありがたく食えよ」
「十希也! そんなこと言ったら食べにくくなるじゃないの」
「そっちが先に言ったくせに」
怒った芙美を無視して、十希也は自分の分も器に取った。そして梨花に向かって言う。
「あとは自分で取れよ」
「はい」
「じゃあ……」
十希也が両手をパチンと合わせた。
「いただきます」
その声に合わせるように、梨花と芙美も口を開いた。
「い、いただきます」
「いただきます」
三人そろって箸を取る。
とろんとした卵を絡めた肉をひと口食べると、舌の上でとろけた。こんなに柔らかい肉を食べたのははじめてかもしれない。
「このお肉、すごく柔らかくておいしいです!」
「ほんとおいしいわ」
「うん、うまい。客に出すのはもったいなかったな」
「十希也!」
三人で口々に言いながら、鍋に手を伸ばす。
最初は少し遠慮していた梨花だったが、十希也に「早く食わないと俺が全部食っちまうぞ」と言われ、次々と器に取った。長ネギ、しいたけ、春菊、焼き豆腐にしらたき……どれもこってりとした甘辛い割り下が染み込んでいて、思わずため息がこぼれる。
「やっぱりお鍋は大勢で食べるほうがおいしいわね」
芙美の言葉に梨花もうなずく。
デュオも部屋に入れてもらえたのか、隅でごはんを食べている。
すき焼きの締めに、十希也がうどんを入れてくれた。柔らかくなるまで煮込んで食べたら、甘辛い煮汁と絡み合って、再びため息が漏れた。
強い風の音で目を覚ますと、もう外が薄暗くなっている。足をそっと動かしてみたら、芙美が冷やして、テーピングまでしてくれたおかげか、ずいぶん痛みが楽になっていた。怪我をした客のために、芙美は応急処置の仕方を習っていたのだという。
「よかった……」
でもこれ以上ふたりに迷惑をかけるわけにはいかない。明日には宿を出なければ。
そう思ったら、なんだか胸の奥がつきんと痛んだ。
「梨花さん」
部屋の襖の向こうで芙美の声がした。
「はい」
「いま入っても大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
布団の上に起き上がって答えると、芙美が顔を出し、にっこり微笑んだ。
「足の痛みはどうですか?」
「だいぶよくなりました」
「それはよかったです」
芙美が梨花のそばに腰を下ろす。
「まだ雨はひどいですか?」
「いえ、雨は上がりました。風は強いですけど。ただ……」
芙美は少し眉をひそめて言った。
「明日いっぱい電車は動かないそうです。道路もまだ通行止めで。お帰りになるのは難しいかもしれません」
「そうですか……」
この町は陸の孤島となってしまっているようだ。困ったことなのに、どこかホッとしている自分がいる。
どうしてだろう。まだここにいたいと思っているのだろうか。
梨花の頭に、さっき聞いた十希也の言葉が浮かぶ。
『俺はあんたに死んでほしくないんだよ。あんたが死んだら、俺ひとりになっちまう』
こんな自分でも、必要とされているのだろうか。
それに芙美も言ってくれた。
『あなたがいなくなったら悲しむ人がいるってことを忘れないで』
そんなことを言われたのは、生まれてはじめてだ。
梨花は胸に手を当てる。
だけどいつまでもここにいるわけにはいかない。
帰る日までに決めなければ。悠真のいない、自分の未来を――。
「あの、芙美さん。明日も泊まらせていただいてもいいでしょうか?」
「それはもちろん。電車が動くまでここにいていいんですよ」
「ありがとうございます」
ぎゅっと手を握りしめた梨花に、芙美が声をかける。
「梨花さん、今夜のお食事も、三人で食べてもよろしいですか?」
「もちろんです!」
芙美が幸せそうに微笑んだ。
「では食事の支度ができたら、また声をかけますね」
一時間後、梨花は芙美に連れられていつもの広間に向かった。そこに用意されていたのは、卓上コンロの上で湯気を立てている黒い鍋。
「わぁ、すき焼きですか」
「ええ、以前宿泊されたお客さまがお肉をたくさん送ってくださったので」
「えっ、お肉を?」
「主人の料理をものすごく気に入ってくださったお客さまで、お肉屋さんを営んでいる方なんですよ。おいしいものを食べさせてもらったお礼にって、主人が亡くなったいまでも、時々送ってくださるんです」
そこまでしてくれるお客さんがいるなんて……この宿の主人はよっぽどおいしい料理を作ってくれる人だったのだろう。
梨花は以前聞いた十希也の言葉を思い出す。
『親父のことは尊敬してたし、子どものころは親父みたいになりたいと思っていたけど、いざ跡継ぎとか言われるとまったく自信ねぇし』
父親が立派だったからこそ、十希也のプレッシャーも大きくなってしまったのではないだろうか。
梨花はちらりと自分の席を見る。隣にはすでに十希也が座っていて、芙美の話を聞いていたのかいないのか、鍋の中に野菜を入れていた。
「いい匂いですね」
梨花はそう言って席に着く。
鍋からは甘辛いすき焼きの香りが漂ってくる。梨花がうっとりとした顔をしたら、目の前になにかが現れた。
「ほら。取ってやったから食え」
十希也が乱暴に差し出してきた器には、溶き卵と大きな肉が入っていた。
「あ、ありがとうございます」
「客からもらった高級肉なんだから、ありがたく食えよ」
「十希也! そんなこと言ったら食べにくくなるじゃないの」
「そっちが先に言ったくせに」
怒った芙美を無視して、十希也は自分の分も器に取った。そして梨花に向かって言う。
「あとは自分で取れよ」
「はい」
「じゃあ……」
十希也が両手をパチンと合わせた。
「いただきます」
その声に合わせるように、梨花と芙美も口を開いた。
「い、いただきます」
「いただきます」
三人そろって箸を取る。
とろんとした卵を絡めた肉をひと口食べると、舌の上でとろけた。こんなに柔らかい肉を食べたのははじめてかもしれない。
「このお肉、すごく柔らかくておいしいです!」
「ほんとおいしいわ」
「うん、うまい。客に出すのはもったいなかったな」
「十希也!」
三人で口々に言いながら、鍋に手を伸ばす。
最初は少し遠慮していた梨花だったが、十希也に「早く食わないと俺が全部食っちまうぞ」と言われ、次々と器に取った。長ネギ、しいたけ、春菊、焼き豆腐にしらたき……どれもこってりとした甘辛い割り下が染み込んでいて、思わずため息がこぼれる。
「やっぱりお鍋は大勢で食べるほうがおいしいわね」
芙美の言葉に梨花もうなずく。
デュオも部屋に入れてもらえたのか、隅でごはんを食べている。
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