歌舞伎役者に恋をしました。

野咲

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第1章

出会い

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 祇園甲部の夜は更けゆく。
 今日は紋司郎のご贔屓、酒造会社の会長が相模屋一門全員を招いて宴席を設けてくれていた。
「綾之助さん、今日のおかるはほんまに綺麗やったわぁ!」
「ありがとうございます」 
 葦嶋あしじま会長は綾之助のおかるをいたく気に入ったらしく、絶賛していた。
「師弟の勘平とおかる、ほんまに良かった。相模屋の芸を堪能させてもらいました」
「ありがとうございます。親バカというか、師匠バカになりますが、綾之助はなかなかようやってると思います」
 ニコニコと笑って綾之助を褒める紋司郎に、綾之助は面はゆい気持ちになってそっと顔を伏せた。
「どうだった、拓真たくま。綾之助さんのおかるは? 素晴らしかっただろう?」
 葦嶋会長は横に座っていた自分の孫に話しかけた。
 その孫、葦嶋拓真あしじまたくまはまだ大学を卒業したばかりの二四歳だそうで、こういった席に慣れていないのか、どこか居心地悪そうにおとなしく飲んでいた。祖父に声をかけられて、拓真は手に持っていた盃を弄びながら、
「はあ、凄かったです」
 と、遠慮がちに言った。
 ああ、これは少しも凄いと思てないな、と綾之助は思った。芝居は結局見たお客さんのモノだから、拓真にとって綾之助のおかるがあまり良くなかったのならそれが全てである。しかし会心の出来の芝居をいまいちと評価されれば、多少釈然としないのも本当だ。
「いやぁ、すまんねぇ。この子、今日初めて歌舞伎を見たんですわ」
 葦嶋会長がすかさず孫のフォローをした。
「へぇ、そうだったんですか」
 紋司郎は少し驚いた。
「これの父親、私の息子ですが、それの教育方針でね、子どものうちは贅沢な生活はさせたらいかんというて、歌舞伎も花街も大人の遊びだから、お父さんも連れて行かんでください、とこう言われてましたんや。いやぁ、辛かった。今年この子も社会人になったからね、これからはこういったことも嗜まなあかんと説得して、やっと連れてきましたんや」
「まあ、それじゃあ、祇園も初めてでらっしゃる?」
 どこか嬉々として、幸弥が話に割り込んできた。
「はい」
「私、この街は詳しいから、なんでも聞いてくださいね」
 幸弥の勢いに押されて、拓真は戸惑いながら笑みを貼り付けていた。
「アホなこと言いないや。拓真さん、この男には付いていったらあきませんで。ロクなこと教えん」
 紋司郎がやんわりと幸弥を制した。
「まぁ、ひどいこと言いよるわ」
 幸弥はむくれたフリをして、しかしそれ以上は踏み込まない。
 葦嶋会長が今日の紋司郎の演技について語りだして、再び話は流れ出す。
 拓真は自分の話題が終わったのを見て取って、ほっと息をつき、杯を飲み干した。

 今日の芝居は、あんまりおもろなかったんやろか。
 他の人ならいざ知らず、拓真が歌舞伎嫌いでは困る。なぜなら拓真は葦嶋家の嫡男だからだ。彼は未来の葦嶋家の当主、ゆくゆくは相模屋の後援会を引っ張っていってもらわねばならない。
「拓真さん」
 綾之助が声を掛けると、拓真はびっくりしたように顔を上げた。
「正直なところ、今日の芝居どうでした? ここだけの話」
 ちょっと身を寄せて、囁くように言ったら、拓真は思わずといった感じで笑みを漏らした。
「正直なところですか?」
「うん、そう。正直なところ」
 綾之助は、わざと少しくだけたしゃべり方をした。秘密は親しみを感じた相手にしか打ち明けてもらえないものだ。
「正直、私にはちょっと難しかったかな」
 これは、お客さんが婉曲に「面白くなかった」ことを表現する場合の常套句である。全然訳分からんかった。訳分からん私がアホですねん。
「言葉が分かりにくかったです?」
「うーん、それもありますけど、ストーリーがね」
 言いにくそうにしているので、綾之助が助け舟を出す。
「古臭い?」
「古臭いというか…、あのね、あなたの演技がどうこういうんじゃなくてね、俺は単純にあなたがやってた役、あの女の人がキライだな」
 思いがけないことを言われて、綾之助はびっくりした。
「へええ、なんでまた」
「夫の身を立てるためなら、身売りしても平気だっていうのが分かんねえな」
「はー、なるほど」
「武家の女っていうのは、みんなああなんですか?」
 聞かれて綾之助も言葉に詰まる。
「そういうわけやないと思いますが。おかるは、自分のせいで勘平が仇討に加われなくなったという負い目があるんです。今回は五段目と六段目だけやからそのへんが分かりにくいですよね。通しで見たらよう分かるんやけど」
「そうかあ。なんか前後の話が分からないのもあって、不思議な点がいくつもあったんです」
「そうですよね」
 特に今回は大石内蔵助も出てこない、仇討の本筋にはあまり関係のない部分なので余計に意味がわからないだろう。
「正直、ここだけ見さされたら、どこが忠臣蔵やねんてなりますよね」
 綾之助がそう言うと、拓真は思わず吹き出した。
「実はそれ、芝居見てる間中、ずっと思ってたんですよ」

 綾之助の作戦が功を奏して、拓真は綾之助に心を許したようだった。綾之助が歌舞伎の家の出身でないことを知ると興味を惹かれたようで、この世界に入ったきっかけを聞きたがった。
「父に連れられて、小学生の時はじめて歌舞伎を見たんです。演目は『義経千本桜』のすし屋。権太を師匠の紋司郎がやっとりました。愛嬌のある演技でね、今でも忘れられません。すっかり歌舞伎が好きになって、親にねだっては連れてってもろうたんです。中学生になると、お小遣いを何ヶ月分か貯めて、芝居がかかると南座や道頓堀まで一人でよう見に行きました」
「へー」
「私、奈良出身なんですけど、奈良いうのは田舎ながらもなかなか良い土地でして、道頓堀まで三〇分、南座まで一時間もかかりません。でも、学校終わってからやと夜の部の開演に間に合いませんから、たまに勝手に学校早引けしたりして、後で親によう怒られました。そのうち大向うのお兄さんたちと仲良うなって、歌舞伎役者になりたいんや、というようなことを言うたら、旦那の楽屋へ連れて行ってくれたんです」
「それで、お弟子さんになったんですね」
「最初に行ったときは、弟子にしてくれませんでした。まだ中学生やったのもあると思います。『中学卒業しても気ィ変わらんかったらもう一回おいで』と言われて、うちは単純やから、将来弟子にしたるいう意味やと思て、ホンマに卒業するとき会いに行ったんですよ。ほんだら旦那なんて言うたと思います? 『いやー、この子、やんわり断っても通じへん子やわー』て言うたんです。いたいけな一五歳に!」
「あはは。それは可愛そうだね」
「でも今思うと、それだけ弟子にしてくれ言うてくる人間が多かったんでしょうね。そんな中でもうちのことを覚えてくれていたのは、単純に嬉しいことです。うちは旦那の権太を見て歌舞伎が好きになったから、その弟子になれてすごく嬉しかった」
「そうか。僕も見てみたかったな、綾之助さんの将来を決めたその舞台」
 それは待ちに待った、歌舞伎に対するちょっとポジティブな発言だった。
「すし屋じゃないですけど、一月大阪で『義経千本桜』渡海屋・大物浦を演りますよ。竹助さんが知盛を演ります。ああ、でも拓真さんは東京のお人だから、こちらまでなかなかいらっしゃいませんよね」
「僕は今、大阪の食品部門にいるんです」
 葦嶋の会社は創業が関西なので、東京と大阪にそれぞれ本社を置いている。葦嶋にとって大阪の人脈はとても大事なものなので、敢えて息子を大阪に置いているのかもしれなかった。
「まあ、そうなんですか! ほんなら、もし時間があればぜひ」
「それには綾之助さんは出るんですか?」
「ええ、一応出ます。ほんの端役ですが」
「それなら見に行こうかな」
「え? でも、うちはホンマにちょっとしか出ませんよ」
 うぬぼれかもしれないが今の話の流れでは、まるで綾之助を見に来るような口ぶりだったので、綾之助は慌てて言った。
「でも見に行きます」
 楽しそうに杯を傾ける拓真を見てしまっては、綾之助は何も言えなかった。
「えらい仲良しですね」
 ずずいといざりよって、知八が話に入ってきた。
「拓真さん、はじめまして。井筒知八と申します」
「はじめまして」
 営業用の晴れやかな笑顔で知八が言うと、拓真も人懐っこい笑顔で答えた。
「綾之助、拓真さんを独り占めしたらあかんで。拓真さんは人気もんなんやから」
「そうですね。すみません」
「みんな拓真さんと喋りたいんやから。うちのおじいさまもそわそわしてるよ」
 さりげなく拓真を紋司郎の方に誘導する。
「ちょっと、失礼しますね」
 気づいた拓真はさっと立ち上がり、紋司郎の方へと歩いて行ってしまった。それを見送って、知八は甘えるように綾之助の手を引いた。
「なあ、綾。今日夜の部見てたんやろ。僕、どうやった?」
 期待に満ちた声音から、知八が賞賛を求めているのはよくわかった。
「愛らしゅうて、艶と品もあって、素晴らしかったです」
「そやろ。自分でもなかなか良かったんちゃうかと思ってん」
 うれしそうに知八は微笑んだ。
「それも綾が紅貸してくれたおかげや。ありがとうな」
 そう言って、知八は綾之助が貸した紅を返してくれた。
「それから、これはお礼や」
 そう言って知八は小さな紙袋を差し出した。
「え? そんなん、たかが紅を貸したくらいで」
「たかが紅やない。綾之助のおかげでいい演技ができたんやから、ほんの気持ちや。受け取ってえな」
 客のいる場所であまり揉めるわけにもいかないので、綾之助は素直に受け取ることにした。
「えらいすんません。開けてもよろしい?」
「うん。開けて」
 どこかそわそわと、綾之助の様子を伺う知八を微笑ましく思いながら、綾之助は紙袋の封を切った。
「まぁ、かわいい」
 中に入っていたのは、猫のシルエットを小紋に染めた布製のがま口財布だった。
「綾、前四条の店で、これ見てかわいい言うてたやろ」
「そんなん覚えてはったんですか」
「そら覚えてる」
「ありがとうございます」
 知八は綾之助が喜ぶのを見て、満足げだった。

 宴の中心人物である拓真はやはりひっぱりだこで、そのあとは綾之助は拓真と話をすることもなく、やがて宴はお開きとなった。
 さあ帰ろうという段になって、弟子たちの中でおとなしくしていた綾之助の前に、拓真がすうっと歩み寄ってきた。
「綾之助さん。今日はどうもありがとうございました」
 びっくりした綾之助はとっさに返事もできなかった。
「また楽しい話、聞かせてくださいね」
 かろうじて、はい、と綾之助は返事した。兄弟子たちの視線が痛い。こんなことなら、あんなふうに話しかけるんじゃなかった、と後悔するがもう遅い。
 綾之助のいたたまれなさを敏感に察知した知八がまたも間に入って拓真をかっさらっていき、綾之助から引き離してくれた。ほっと胸をなでおろしつつも、これはどうにも面倒くさいことになりそうだな、と綾之助は憂鬱な気分になった。
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