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第5章
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綾之助にとっては久しぶりの東京である。
拓真のいる大阪から遠ざかったことで、綾之助はホッとしていた。このひと月の間は、紋司郎に拓真に会えとせっつかれることもないだろう。そう綾之助はのんびり構えていた。
それが楽観的すぎるということを思い知らされたのは、すぐのことだった。
「綾之助。今な、拓真さん東京に出張で来てはるらしいで。昨日葦嶋会長が教えてくれはりました」
「は、そうなんですか」
ある日、紋司郎の楽屋に行ったら、紋司郎は開口一番そう言った。
「お願いして、明日一緒にお食事させていただくことにしたから、あなたも来なさいね」
「え……」
「え、ってなんやのん」
「……分かりました」
綾之助はものすごく気が重かった。しかし、紋司郎に逆らうことはできない。
新橋の料亭に来た拓真は体にきれいに沿った、シワ一つないシルクのスーツを着ていた。ものすごく品がいい。でも、なんばのデパートで見たしわの寄ったスーツのほうが好きやな、と綾之助は思った。今日も仕事やったはずやけど、着替えてきはったんやろか。もったいないな。
「まあまあ拓真さん。今日はありがとうございます」
紋司郎に上座を勧められて、拓真は明らかに戸惑っていた。
「今日はどうしても、拓真さんにお伝えしておかなければならないことがあるんです」
紋司郎がとても楽しそうにそう言って笑う。
「はあ。なんでしょう」
拓真は怪訝そうだ。
「実はこの度、ここにおります綾之助が芳沢杜若を襲名することになりました」
「それは……おめでとうございます」
あ、多分あんまり分かってはらへんな。綾之助は思った。芳沢杜若という名前を聞くのも初めてかも知れない。
「綾之助は幹部俳優になります」
「へえ! すごいですね、おめでとうございます」
にこにこと笑ってお祝いを述べてくれた。
「ですから、綾之助は相模屋を離れることになります」
「はあ」
拓真の顔色が変わった。拓真はあくまで相模屋のご贔屓だ。相模屋を差し置いて立花屋に入れ込むことはできない。そのことは拓真もわかっているのだろう。
「そうか。そうなんですね」
ゆっくりと、紋司郎の言ったことをもう一度噛みしめるように拓真はうなずいた。
ショックを受けてはるんやろか。
そう気づいたときに、その拓真の気持ちをどこか喜んでいる自分に気づいて、綾之助は驚いた。
「拓真さんは、綾之助のことを認めてくれてはるから、」
紋司郎はそこまで言って、すこし言い淀んだ。
「これは、ホントに、もしよかったらの話なんですけれど」
「はい」
拓真は何を言われるのか見当もつかないようだ。
「拓真さん。綾之助の、つまり芳沢杜若の後援会に入られませんか?」
拓真は即答せず、黙って俯いていた。
「僕は、歌舞伎というものも見はじめたばかりですし、そもそも、こういったしきたりにも詳しくない。なんとも返事がしがたいです。しかし、そもそも祖父が、それを許しはしないと思います」
「そこは私の責任でなんとかするつもりです」
紋司郎が力強くそう言った。
「しかし……」
困った拓真は、言葉を無くしていた。
「一度お考えいただけますか?」
紋司郎の真剣さに、拓真もうなずくしか無かったのだろう。
「分かりました。僕も少しそれについては考えるところがあったので、一度考えてみます」
考えるところって、なんだろう。
綾之助は、拓真の考えが全然分からなくて、もやもやした。
あとは他愛もない話をして、お開きとなった。
「綾之助。お送りしてきなさい」
紋司郎がそう言うイントネーションで綾之助は理解した。もうひと押しして来いっちゅうことやな。しかし、これ以上しつこくするのも逆効果のような気もする。
「はい」
表立って紋司郎に逆らえない綾之助は渋々そう答えて、拓真と一緒にタクシーに乗った。
タクシーに乗っている間、二人は無言だった。気まずいが、ホテルまでの辛抱だ。実際には何もしゃべってすらいないけれど、紋司郎には一応もうひと押ししておきました、と嘘の報告をしておけばいいだろう、と綾之助は思っていた。
タクシーがホテルにつく。やっとこの気まずい空間が終わると思って、綾之助はほっとしたのだが、その思惑は外れた。
「一杯飲みませんか」
拓真が一言、ポツリとそう言ったのだ。
綾之助はすこし迷ったが、結局拓真についていった。
拓真のいる大阪から遠ざかったことで、綾之助はホッとしていた。このひと月の間は、紋司郎に拓真に会えとせっつかれることもないだろう。そう綾之助はのんびり構えていた。
それが楽観的すぎるということを思い知らされたのは、すぐのことだった。
「綾之助。今な、拓真さん東京に出張で来てはるらしいで。昨日葦嶋会長が教えてくれはりました」
「は、そうなんですか」
ある日、紋司郎の楽屋に行ったら、紋司郎は開口一番そう言った。
「お願いして、明日一緒にお食事させていただくことにしたから、あなたも来なさいね」
「え……」
「え、ってなんやのん」
「……分かりました」
綾之助はものすごく気が重かった。しかし、紋司郎に逆らうことはできない。
新橋の料亭に来た拓真は体にきれいに沿った、シワ一つないシルクのスーツを着ていた。ものすごく品がいい。でも、なんばのデパートで見たしわの寄ったスーツのほうが好きやな、と綾之助は思った。今日も仕事やったはずやけど、着替えてきはったんやろか。もったいないな。
「まあまあ拓真さん。今日はありがとうございます」
紋司郎に上座を勧められて、拓真は明らかに戸惑っていた。
「今日はどうしても、拓真さんにお伝えしておかなければならないことがあるんです」
紋司郎がとても楽しそうにそう言って笑う。
「はあ。なんでしょう」
拓真は怪訝そうだ。
「実はこの度、ここにおります綾之助が芳沢杜若を襲名することになりました」
「それは……おめでとうございます」
あ、多分あんまり分かってはらへんな。綾之助は思った。芳沢杜若という名前を聞くのも初めてかも知れない。
「綾之助は幹部俳優になります」
「へえ! すごいですね、おめでとうございます」
にこにこと笑ってお祝いを述べてくれた。
「ですから、綾之助は相模屋を離れることになります」
「はあ」
拓真の顔色が変わった。拓真はあくまで相模屋のご贔屓だ。相模屋を差し置いて立花屋に入れ込むことはできない。そのことは拓真もわかっているのだろう。
「そうか。そうなんですね」
ゆっくりと、紋司郎の言ったことをもう一度噛みしめるように拓真はうなずいた。
ショックを受けてはるんやろか。
そう気づいたときに、その拓真の気持ちをどこか喜んでいる自分に気づいて、綾之助は驚いた。
「拓真さんは、綾之助のことを認めてくれてはるから、」
紋司郎はそこまで言って、すこし言い淀んだ。
「これは、ホントに、もしよかったらの話なんですけれど」
「はい」
拓真は何を言われるのか見当もつかないようだ。
「拓真さん。綾之助の、つまり芳沢杜若の後援会に入られませんか?」
拓真は即答せず、黙って俯いていた。
「僕は、歌舞伎というものも見はじめたばかりですし、そもそも、こういったしきたりにも詳しくない。なんとも返事がしがたいです。しかし、そもそも祖父が、それを許しはしないと思います」
「そこは私の責任でなんとかするつもりです」
紋司郎が力強くそう言った。
「しかし……」
困った拓真は、言葉を無くしていた。
「一度お考えいただけますか?」
紋司郎の真剣さに、拓真もうなずくしか無かったのだろう。
「分かりました。僕も少しそれについては考えるところがあったので、一度考えてみます」
考えるところって、なんだろう。
綾之助は、拓真の考えが全然分からなくて、もやもやした。
あとは他愛もない話をして、お開きとなった。
「綾之助。お送りしてきなさい」
紋司郎がそう言うイントネーションで綾之助は理解した。もうひと押しして来いっちゅうことやな。しかし、これ以上しつこくするのも逆効果のような気もする。
「はい」
表立って紋司郎に逆らえない綾之助は渋々そう答えて、拓真と一緒にタクシーに乗った。
タクシーに乗っている間、二人は無言だった。気まずいが、ホテルまでの辛抱だ。実際には何もしゃべってすらいないけれど、紋司郎には一応もうひと押ししておきました、と嘘の報告をしておけばいいだろう、と綾之助は思っていた。
タクシーがホテルにつく。やっとこの気まずい空間が終わると思って、綾之助はほっとしたのだが、その思惑は外れた。
「一杯飲みませんか」
拓真が一言、ポツリとそう言ったのだ。
綾之助はすこし迷ったが、結局拓真についていった。
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