21 / 30
第5章
変わる環境
しおりを挟む
「全然大丈夫やったやろ」
大竹宗家からの帰り道、紋司郎が綾之助の肩をぽんと叩いていった。
「はい」
「兄さん、三也さんのこと、心配なんやろなあ」
「はあ…」
「ええなあ。あんたの襲名披露、すんごい豪華やで。大竹宗家と井筒宗家が出るねんで」
「胃が痛くなってきました」
綾之助がそう言うと、紋司郎は声を上げて笑った。
挨拶回りも大事だが、今月の芝居にも真剣に取り組まなければならない。しかし正直、今月は劇場に出勤するのがとても気が重かった。
今月綾之助は他の名題役者と同室の四人部屋であり、うち三人がなんの因果か和泉屋の弟子である。
絶対部屋割りがおかしい。
いや、分かっている。人数の関係でこうなっただけで、別にこの部屋割り自体には悪意はない。多分。
「綾之助さん、ご襲名の内定、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
きれいな笑顔で彼らは口々にお祝いを言う。
「いいですねえ。専務に私のこともよろしく言っておいてくださいね」
完全な嫌味だが、なんとも返事のしようがない。
「でも、綾之助さん、杜若さんとは縁が薄いから、立花屋さんの芸を継ぐっていうのは大変でしょう? 頑張ってくださいね」
杜若の血筋でもなく弟子筋でもないくせに襲名しやがって、という意味である。
言いたいことあったらはっきり言え、と本音を美徳とする奈良人の血が騒いだ。しかしそういうことが許される世界ではない。
「はい。ありがとうございます」
白痴にでもなったつもりで、屈託なく笑ってみせるくらいがせいぜいの意趣返しだった。
「綾之助さん、ちょっと」
部屋の入口の暖簾のあいだから顔を出したのは、綾之助とほぼ同時期に杜若に入門した井筒紋乃である。
この部屋に長々といてもストレスが溜まるだけなので、綾之助はいそいそと紋乃に付いて部屋を出た。
「どないしたん」
自販機でコーヒーを買って、あまり人が来ないスペースまで来た。紋乃はコーヒーをちびちび飲みながら、いつまでも黙り込んでいる。
「うちもそろそろ準備しなあかんねんけど……」
時間を気にして綾之助がそわそわしだしたところで、紋乃が切り出した。
「綾之。お前には先に言うとこうと思って。俺な、お前の襲名披露が終わったら、役者辞める」
「え! なんで?」
「うーん。そろそろ潮時なんやろなと思て」
そう言う紋乃の顔は穏やかだった。
「俺な、今年も旦那に名題昇進試験の推薦貰われへんかった」
「そうか……。でも、別にまだ、そう急ぐこともないんちゃうか。うちらの年で名題下なんてそう珍しいことでもないし」
「まあな。でもお前が言うとちょっと嫌味やで」
言われて綾之助は押し黙った。
「さすがに十年以上やってきたら、自分の技倆も分かる。このまま続けても先はない。それは、ほんまはずっと前から分かってたことやけど、でも俺は芝居が好きやから。でもお前の幹部昇進が決まって思ったんや。俺はこれからお前を妬まんとやっていけるんかなって。腐らんとやってけるかなって。お前の実力はよう分かってるし、変な感情持ちたくない。でも、やっぱり、思うやろ……。なんでこんなに違うんやろって」
綾之助は息が詰まって、喘ぐように小さな声で言った。
「うちは運が良かっただけで、紋乃かて、いつかは」
「ええねん。さっきも言ったけど自分の実力も、お前の実力も俺はよう分かってる。勘違いすんなや。俺はお前が芳沢杜若になるのうれしいねんで。ずっと一緒にやってきたんや。辛い修行を一緒に乗り越えてきた仲間が幹部になるんやから。ただ、そのきれいな気持ちを持ち続けたまま、役者を続けるのは無理や」
「なんで?」
綾之助は、一人置いてかれるような気がして、すがってでも引き止めたくなった。
「分かってくれ」
紋乃は微笑みさえ浮かべて綾之助に言った。
大竹宗家からの帰り道、紋司郎が綾之助の肩をぽんと叩いていった。
「はい」
「兄さん、三也さんのこと、心配なんやろなあ」
「はあ…」
「ええなあ。あんたの襲名披露、すんごい豪華やで。大竹宗家と井筒宗家が出るねんで」
「胃が痛くなってきました」
綾之助がそう言うと、紋司郎は声を上げて笑った。
挨拶回りも大事だが、今月の芝居にも真剣に取り組まなければならない。しかし正直、今月は劇場に出勤するのがとても気が重かった。
今月綾之助は他の名題役者と同室の四人部屋であり、うち三人がなんの因果か和泉屋の弟子である。
絶対部屋割りがおかしい。
いや、分かっている。人数の関係でこうなっただけで、別にこの部屋割り自体には悪意はない。多分。
「綾之助さん、ご襲名の内定、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
きれいな笑顔で彼らは口々にお祝いを言う。
「いいですねえ。専務に私のこともよろしく言っておいてくださいね」
完全な嫌味だが、なんとも返事のしようがない。
「でも、綾之助さん、杜若さんとは縁が薄いから、立花屋さんの芸を継ぐっていうのは大変でしょう? 頑張ってくださいね」
杜若の血筋でもなく弟子筋でもないくせに襲名しやがって、という意味である。
言いたいことあったらはっきり言え、と本音を美徳とする奈良人の血が騒いだ。しかしそういうことが許される世界ではない。
「はい。ありがとうございます」
白痴にでもなったつもりで、屈託なく笑ってみせるくらいがせいぜいの意趣返しだった。
「綾之助さん、ちょっと」
部屋の入口の暖簾のあいだから顔を出したのは、綾之助とほぼ同時期に杜若に入門した井筒紋乃である。
この部屋に長々といてもストレスが溜まるだけなので、綾之助はいそいそと紋乃に付いて部屋を出た。
「どないしたん」
自販機でコーヒーを買って、あまり人が来ないスペースまで来た。紋乃はコーヒーをちびちび飲みながら、いつまでも黙り込んでいる。
「うちもそろそろ準備しなあかんねんけど……」
時間を気にして綾之助がそわそわしだしたところで、紋乃が切り出した。
「綾之。お前には先に言うとこうと思って。俺な、お前の襲名披露が終わったら、役者辞める」
「え! なんで?」
「うーん。そろそろ潮時なんやろなと思て」
そう言う紋乃の顔は穏やかだった。
「俺な、今年も旦那に名題昇進試験の推薦貰われへんかった」
「そうか……。でも、別にまだ、そう急ぐこともないんちゃうか。うちらの年で名題下なんてそう珍しいことでもないし」
「まあな。でもお前が言うとちょっと嫌味やで」
言われて綾之助は押し黙った。
「さすがに十年以上やってきたら、自分の技倆も分かる。このまま続けても先はない。それは、ほんまはずっと前から分かってたことやけど、でも俺は芝居が好きやから。でもお前の幹部昇進が決まって思ったんや。俺はこれからお前を妬まんとやっていけるんかなって。腐らんとやってけるかなって。お前の実力はよう分かってるし、変な感情持ちたくない。でも、やっぱり、思うやろ……。なんでこんなに違うんやろって」
綾之助は息が詰まって、喘ぐように小さな声で言った。
「うちは運が良かっただけで、紋乃かて、いつかは」
「ええねん。さっきも言ったけど自分の実力も、お前の実力も俺はよう分かってる。勘違いすんなや。俺はお前が芳沢杜若になるのうれしいねんで。ずっと一緒にやってきたんや。辛い修行を一緒に乗り越えてきた仲間が幹部になるんやから。ただ、そのきれいな気持ちを持ち続けたまま、役者を続けるのは無理や」
「なんで?」
綾之助は、一人置いてかれるような気がして、すがってでも引き止めたくなった。
「分かってくれ」
紋乃は微笑みさえ浮かべて綾之助に言った。
0
あなたにおすすめの小説
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
イケメン後輩のスマホを拾ったらロック画が俺でした
天埜鳩愛
BL
☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです!
元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。
持ち主は、顔面国宝の一年生。
なんで俺の写真? なんでロック画?
問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。
頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ!
☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?
perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。
その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。
彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。
……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。
口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。
――「光希、俺はお前が好きだ。」
次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる