22 / 30
第5章
戸惑い
しおりを挟む
綾之助は一日を終えてホテルの部屋に戻ると、ベッドにどすんと横たわり、そこから動けなくなった。
疲れた。月末に文楽劇場で行われる舞踊・邦楽鑑賞会で蓮十郎と踊る曲をおさらいしようと思っていたのに、全然動ける気がしない。
襲名というのは、綾之助が想像していた以上に大変なことのようである。
いままではよくしてくれていた役者連中の中にも、急に綾之助によそよそしくなったものもいて、非常にやりにくい。
そういうあれこれにイライラしていたのが態度に出ていたのだろう。紋司郎に呼び出されて綾之助は叱られた。
綾之助は杜若の芸を取り立ててよく勉強してきたわけでもない。そんな人間が突然杜若の名を襲名するのは、杜若の芸に対しても失礼な行為だと見る人もいる。
やっかみとかではなく、それはある意味では正当な批判なのだから、それはそれとして真摯に受け止めて、今後立花屋の芸を継いでいけるように努力を重ねていかなければいけないというのだ。
それもまあ、もっともではあるので、綾之助は胸までせり上がってくるもやもやを抑えつけて、嫌味に耐え、無視されても憤らず、足袋や草履が突然見当たらなくなっても、ああ、自分がどこか変なところに置き忘れてしまったんやなあ、全然こんなところに置きに来た覚えはないけれど、と思って諦めた。
しかし、一人になれば一気に気が緩み、どっと疲れが押し寄せてくる。
正直、もうつらい。
「あああぁ、思ったよりキツイよおー」
枕にぐりぐりと顔を押し付けながら弱音を吐く。
「しかも紋之は辞めるとか言うし!」
ある意味、綾之助が追い出したようなものではないか。
「なんでこんなことに」
いろいろな人が自分から離れていくようで、とても辛かった。
布団に埋もれていると、携帯電話が鳴った。
正直出たくなかったが、画面を見ると知八からの入電で、出ざるを得なかった。のろのろと携帯を持ち上げて、通話ボタンを押す。
「はい……」
電話の向こうから知八の元気いっぱいの声がした。
「綾、記者会見の日決まったんやってな!」
「え? そうなんですか?」
「あれ? まだ聞いてない?」
「専務が、会見せなあかんな、とは言うてはりましたけど、日は聞いてません」
「五月一日やって! おじい様と専務がしゃべってはった」
「え……けっこうすぐですね」
綾之助は急に目が覚めて、ベッドの上に正座した。
「そりゃそやろー。むしろ七月に間に合わせようと思ったらギリギリの日程ちゃうか」
「はあ」
またどっと疲れが押し寄せてくる。それに向けて、また忙しくなる。
「どうしたん。元気ないね」
「いえ、ちょっと疲れてしまって」
「そうかあ。ごめんな、電話なんかして」
「いえ、とんでもないです。教えてくださってありがとうございました」
しかし、綾之助の声はよほど元気がなかったのだろう。
「綾、大丈夫? 僕に出来ることあったらなんでも言うてな」
知八は綾之助のことを心配して、早めに電話を切った。知八の優しいことばはとてもうれしかった。
やっと少し元気が出て、綾之助は立ち上がり、踊りのおさらいをすることにした。
多分、これから先、一つの失敗も自分には許されない。すべての舞台を完璧にしなければ。
東京での一ヶ月はあっと言う間に過ぎていった。千秋楽を終えて、翌日には大阪に戻り、その日のうちに舞踊・邦楽鑑賞会の舞台稽古があって、次の日には本番だ。
旅の荷を解く暇もない。
文楽劇場での楽屋は、共演する蓮十郎・知八と同室だったが、東京でのメンバーに比べれば格段に気を使わなくて済む相手でほっとした。
「綾ちゃん。ちょっと痩せたんちゃうか」
一ヶ月ぶりに会った蓮十郎がまじまじと綾之助を観察して言った。
「ええ、ちょっと」
実は綾之助はこの一ヶ月で三キロ痩せていた。もともと線が細いので、かなり細って見える。舞台に立った時に見劣りするのではないかと、密かに恐れていた。
「働きすぎちゃうか。二、三日休みもらわなあかんで」
「はい」
はいと返事したが、今が一番忙しい時期でオフをもらうことは難しかった。しばらく思案したあと、蓮十郎が言う。
「綾ちゃん。俺、来月東京でミュージカルに出んねん。見に来てえや」
「ほんまは是非行かせてもらいたいんですけど、うち、来月は大阪でご挨拶回りとか細々と用事があるので、残念ですが東京にはちょっと行く暇がないかと」
「二、三日くらい大丈夫やろ。俺から紋司郎のおじさまには言うたるから。ええからちょっとおいで」
「ええねえ。僕も行きたい!」
「いやいや、知八さんはあかんで」
「なんで!」
「綾ちゃんが気ぃ使いますやん」
「そんなことないよ。ねえ? 綾」
「え、ええ。まあ」
「言わしてますやん、完全に!」
「いや、でも、うち、来月東京っていうのはムリで」
「ええからええから。俺に任せとき」
休みをもらえるとは思わなかったが、蓮十郎の気遣いはうれしかった。知八と蓮十郎のやりとりも屈託なく楽しくて、綾之助は久しぶりに楽しい思いをした。蓮十郎と知八のためにも、そして自分のためにも、小さい舞台とは言え、この舞台も成功させなければいけない。
人気役者の蓮十郎が出るので、鑑賞会はこの手の公演としては異例の客入りを記録した。忙しい合間を縫って練習したかいあって、綾之助も納得のいく踊りができた。優しい先輩と、優しい御曹司。でも、こんな幸せな舞台はそうそうない。
明日は襲名の記者会見だった。
疲れた。月末に文楽劇場で行われる舞踊・邦楽鑑賞会で蓮十郎と踊る曲をおさらいしようと思っていたのに、全然動ける気がしない。
襲名というのは、綾之助が想像していた以上に大変なことのようである。
いままではよくしてくれていた役者連中の中にも、急に綾之助によそよそしくなったものもいて、非常にやりにくい。
そういうあれこれにイライラしていたのが態度に出ていたのだろう。紋司郎に呼び出されて綾之助は叱られた。
綾之助は杜若の芸を取り立ててよく勉強してきたわけでもない。そんな人間が突然杜若の名を襲名するのは、杜若の芸に対しても失礼な行為だと見る人もいる。
やっかみとかではなく、それはある意味では正当な批判なのだから、それはそれとして真摯に受け止めて、今後立花屋の芸を継いでいけるように努力を重ねていかなければいけないというのだ。
それもまあ、もっともではあるので、綾之助は胸までせり上がってくるもやもやを抑えつけて、嫌味に耐え、無視されても憤らず、足袋や草履が突然見当たらなくなっても、ああ、自分がどこか変なところに置き忘れてしまったんやなあ、全然こんなところに置きに来た覚えはないけれど、と思って諦めた。
しかし、一人になれば一気に気が緩み、どっと疲れが押し寄せてくる。
正直、もうつらい。
「あああぁ、思ったよりキツイよおー」
枕にぐりぐりと顔を押し付けながら弱音を吐く。
「しかも紋之は辞めるとか言うし!」
ある意味、綾之助が追い出したようなものではないか。
「なんでこんなことに」
いろいろな人が自分から離れていくようで、とても辛かった。
布団に埋もれていると、携帯電話が鳴った。
正直出たくなかったが、画面を見ると知八からの入電で、出ざるを得なかった。のろのろと携帯を持ち上げて、通話ボタンを押す。
「はい……」
電話の向こうから知八の元気いっぱいの声がした。
「綾、記者会見の日決まったんやってな!」
「え? そうなんですか?」
「あれ? まだ聞いてない?」
「専務が、会見せなあかんな、とは言うてはりましたけど、日は聞いてません」
「五月一日やって! おじい様と専務がしゃべってはった」
「え……けっこうすぐですね」
綾之助は急に目が覚めて、ベッドの上に正座した。
「そりゃそやろー。むしろ七月に間に合わせようと思ったらギリギリの日程ちゃうか」
「はあ」
またどっと疲れが押し寄せてくる。それに向けて、また忙しくなる。
「どうしたん。元気ないね」
「いえ、ちょっと疲れてしまって」
「そうかあ。ごめんな、電話なんかして」
「いえ、とんでもないです。教えてくださってありがとうございました」
しかし、綾之助の声はよほど元気がなかったのだろう。
「綾、大丈夫? 僕に出来ることあったらなんでも言うてな」
知八は綾之助のことを心配して、早めに電話を切った。知八の優しいことばはとてもうれしかった。
やっと少し元気が出て、綾之助は立ち上がり、踊りのおさらいをすることにした。
多分、これから先、一つの失敗も自分には許されない。すべての舞台を完璧にしなければ。
東京での一ヶ月はあっと言う間に過ぎていった。千秋楽を終えて、翌日には大阪に戻り、その日のうちに舞踊・邦楽鑑賞会の舞台稽古があって、次の日には本番だ。
旅の荷を解く暇もない。
文楽劇場での楽屋は、共演する蓮十郎・知八と同室だったが、東京でのメンバーに比べれば格段に気を使わなくて済む相手でほっとした。
「綾ちゃん。ちょっと痩せたんちゃうか」
一ヶ月ぶりに会った蓮十郎がまじまじと綾之助を観察して言った。
「ええ、ちょっと」
実は綾之助はこの一ヶ月で三キロ痩せていた。もともと線が細いので、かなり細って見える。舞台に立った時に見劣りするのではないかと、密かに恐れていた。
「働きすぎちゃうか。二、三日休みもらわなあかんで」
「はい」
はいと返事したが、今が一番忙しい時期でオフをもらうことは難しかった。しばらく思案したあと、蓮十郎が言う。
「綾ちゃん。俺、来月東京でミュージカルに出んねん。見に来てえや」
「ほんまは是非行かせてもらいたいんですけど、うち、来月は大阪でご挨拶回りとか細々と用事があるので、残念ですが東京にはちょっと行く暇がないかと」
「二、三日くらい大丈夫やろ。俺から紋司郎のおじさまには言うたるから。ええからちょっとおいで」
「ええねえ。僕も行きたい!」
「いやいや、知八さんはあかんで」
「なんで!」
「綾ちゃんが気ぃ使いますやん」
「そんなことないよ。ねえ? 綾」
「え、ええ。まあ」
「言わしてますやん、完全に!」
「いや、でも、うち、来月東京っていうのはムリで」
「ええからええから。俺に任せとき」
休みをもらえるとは思わなかったが、蓮十郎の気遣いはうれしかった。知八と蓮十郎のやりとりも屈託なく楽しくて、綾之助は久しぶりに楽しい思いをした。蓮十郎と知八のためにも、そして自分のためにも、小さい舞台とは言え、この舞台も成功させなければいけない。
人気役者の蓮十郎が出るので、鑑賞会はこの手の公演としては異例の客入りを記録した。忙しい合間を縫って練習したかいあって、綾之助も納得のいく踊りができた。優しい先輩と、優しい御曹司。でも、こんな幸せな舞台はそうそうない。
明日は襲名の記者会見だった。
0
あなたにおすすめの小説
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?
perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。
その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。
彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。
……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。
口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。
――「光希、俺はお前が好きだ。」
次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
今日もBL営業カフェで働いています!?
卵丸
BL
ブラック企業の会社に嫌気がさして、退職した沢良宜 篤は給料が高い、男だけのカフェに面接を受けるが「腐男子ですか?」と聞かれて「腐男子ではない」と答えてしまい。改めて、説明文の「BLカフェ」と見てなかったので不採用と思っていたが次の日に採用通知が届き疑心暗鬼で初日バイトに向かうと、店長とBL営業をして腐女子のお客様を喜ばせて!?ノンケBL初心者のバイトと同性愛者の店長のノンケから始まるBLコメディ
※ 不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる