歌舞伎役者に恋をしました。

野咲

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第5章

戸惑い

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 綾之助は一日を終えてホテルの部屋に戻ると、ベッドにどすんと横たわり、そこから動けなくなった。
 疲れた。月末に文楽劇場で行われる舞踊・邦楽鑑賞会で蓮十郎と踊る曲をおさらいしようと思っていたのに、全然動ける気がしない。

 襲名というのは、綾之助が想像していた以上に大変なことのようである。
 いままではよくしてくれていた役者連中の中にも、急に綾之助によそよそしくなったものもいて、非常にやりにくい。
 そういうあれこれにイライラしていたのが態度に出ていたのだろう。紋司郎に呼び出されて綾之助は叱られた。
 綾之助は杜若の芸を取り立ててよく勉強してきたわけでもない。そんな人間が突然杜若の名を襲名するのは、杜若の芸に対しても失礼な行為だと見る人もいる。
 やっかみとかではなく、それはある意味では正当な批判なのだから、それはそれとして真摯に受け止めて、今後立花屋の芸を継いでいけるように努力を重ねていかなければいけないというのだ。
 それもまあ、もっともではあるので、綾之助は胸までせり上がってくるもやもやを抑えつけて、嫌味に耐え、無視されても憤らず、足袋や草履が突然見当たらなくなっても、ああ、自分がどこか変なところに置き忘れてしまったんやなあ、全然こんなところに置きに来た覚えはないけれど、と思って諦めた。
 しかし、一人になれば一気に気が緩み、どっと疲れが押し寄せてくる。
 正直、もうつらい。
「あああぁ、思ったよりキツイよおー」
 枕にぐりぐりと顔を押し付けながら弱音を吐く。
「しかも紋之は辞めるとか言うし!」
 ある意味、綾之助が追い出したようなものではないか。
「なんでこんなことに」
 いろいろな人が自分から離れていくようで、とても辛かった。

 布団に埋もれていると、携帯電話が鳴った。
 正直出たくなかったが、画面を見ると知八からの入電で、出ざるを得なかった。のろのろと携帯を持ち上げて、通話ボタンを押す。
「はい……」
 電話の向こうから知八の元気いっぱいの声がした。
「綾、記者会見の日決まったんやってな!」
「え? そうなんですか?」
「あれ? まだ聞いてない?」
「専務が、会見せなあかんな、とは言うてはりましたけど、日は聞いてません」
「五月一日やって! おじい様と専務がしゃべってはった」
「え……けっこうすぐですね」
 綾之助は急に目が覚めて、ベッドの上に正座した。
「そりゃそやろー。むしろ七月に間に合わせようと思ったらギリギリの日程ちゃうか」
「はあ」
 またどっと疲れが押し寄せてくる。それに向けて、また忙しくなる。
「どうしたん。元気ないね」
「いえ、ちょっと疲れてしまって」
「そうかあ。ごめんな、電話なんかして」
「いえ、とんでもないです。教えてくださってありがとうございました」
 しかし、綾之助の声はよほど元気がなかったのだろう。
「綾、大丈夫? 僕に出来ることあったらなんでも言うてな」
 知八は綾之助のことを心配して、早めに電話を切った。知八の優しいことばはとてもうれしかった。
 やっと少し元気が出て、綾之助は立ち上がり、踊りのおさらいをすることにした。
 多分、これから先、一つの失敗も自分には許されない。すべての舞台を完璧にしなければ。

 東京での一ヶ月はあっと言う間に過ぎていった。千秋楽を終えて、翌日には大阪に戻り、その日のうちに舞踊・邦楽鑑賞会の舞台稽古があって、次の日には本番だ。
 旅の荷を解く暇もない。
 文楽劇場での楽屋は、共演する蓮十郎・知八と同室だったが、東京でのメンバーに比べれば格段に気を使わなくて済む相手でほっとした。
「綾ちゃん。ちょっと痩せたんちゃうか」
 一ヶ月ぶりに会った蓮十郎がまじまじと綾之助を観察して言った。
「ええ、ちょっと」
 実は綾之助はこの一ヶ月で三キロ痩せていた。もともと線が細いので、かなり細って見える。舞台に立った時に見劣りするのではないかと、密かに恐れていた。
「働きすぎちゃうか。二、三日休みもらわなあかんで」
「はい」
 はいと返事したが、今が一番忙しい時期でオフをもらうことは難しかった。しばらく思案したあと、蓮十郎が言う。
「綾ちゃん。俺、来月東京でミュージカルに出んねん。見に来てえや」
「ほんまは是非行かせてもらいたいんですけど、うち、来月は大阪でご挨拶回りとか細々と用事があるので、残念ですが東京にはちょっと行く暇がないかと」
「二、三日くらい大丈夫やろ。俺から紋司郎のおじさまには言うたるから。ええからちょっとおいで」
「ええねえ。僕も行きたい!」
「いやいや、知八さんはあかんで」
「なんで!」
「綾ちゃんが気ぃ使いますやん」
「そんなことないよ。ねえ? 綾」
「え、ええ。まあ」
「言わしてますやん、完全に!」
「いや、でも、うち、来月東京っていうのはムリで」
「ええからええから。俺に任せとき」
 休みをもらえるとは思わなかったが、蓮十郎の気遣いはうれしかった。知八と蓮十郎のやりとりも屈託なく楽しくて、綾之助は久しぶりに楽しい思いをした。蓮十郎と知八のためにも、そして自分のためにも、小さい舞台とは言え、この舞台も成功させなければいけない。

 人気役者の蓮十郎が出るので、鑑賞会はこの手の公演としては異例の客入りを記録した。忙しい合間を縫って練習したかいあって、綾之助も納得のいく踊りができた。優しい先輩と、優しい御曹司。でも、こんな幸せな舞台はそうそうない。
 明日は襲名の記者会見だった。
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