七日目のはるか

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
1 / 24

1.謎の実験

しおりを挟む
【一週間だけ男になる薬】

 そう表書きされた白い封筒を目の前に差し出された。

「中身は極秘なの。誰にも内緒ね、絶対の秘密ね」
 工科大の学生である夕子ゆうこが、ヒソヒソ声で春花はるかに言う。
「極秘も何も、ズバリと書いてあるじゃないの」
 おかしくなって笑った。

 よく晴れた5月の昼下がり――
 春花は自分が通うM女子大学の食堂で、高校時代からの親友である夕子とランチを食べている。彼女は他大学の学生だが、時々こんなふうに春花を訪ねてくる。そして、怪しげな実験をすすめるのだ。

 頭はいいけれど、発想が普通ではない。夕子は生粋のリケジョであり、かなりエキセントリックな女の子だった。
「とにかくすごい薬なのよ。ねえねえ、詳しいこと聞きたい?」
 オレンジフレームの眼鏡の奥には、好奇心に満ちた目が輝いている。
 春花はその目が嫌いではない。
 なぜなら、周りの女達が異性に向けるような、ギラついたものではないからだ。野心という意味では同じかもしれないが、いやらしさがないぶん純粋な気がする。

「ねえってば。聞きたいでしょ、春花」
 夕子はカレーライスの皿越しに身を乗り出している。
「聞いてもわからないと思うけどなあ」
 本当にいつもいつも理解できないのだ。これには春花も困ってしまう。
「じゃ、簡単に説明するね」
 10分ほどの説明を受けたが、結局何の話かほとんど謎だった。

 夕子は大学で、理学博士のナントカ先生の研究室に籍を置いている。分子生物学を勉強していると言われても、春花には異世界の話だった。
 要するに、今回持参した薬は、その先生の知り合いの、遺伝子工学専門の某工学博士が調合したものだそうな。
 その工学博士は、先生がまとめた『性転換をする生き物』についてのレポートを読んで、アイデアをひらめかせたらしい。

 ややこしい話である。

 で、ナントカ先生は現在、生き物に対する環境ホルモンの影響を研究しているそうで、夕子は著書を持参していた。
 春花は見せてもらったが、理解不可能な内容だった。いくら理科が苦手とはいえ、情けないほど何ひとつ理解できない。
真崎まさき教授は素晴らしい。当たり前のことは言わないの。発想が普通じゃないのよね!」
 それなら夕子と同類だ。春花は噴き出しそうになる。

 例えば――

 彼女が先月持参したのは脱毛薬。手足のムダ毛が消えてなくなると言う代物だ。先々月は視力が回復する薬。にがりのような味の液体が1回量350ccも入ったビンを渡された。
 他にも、肌が真白になる薬、心が穏やかになる薬、足が速くなる薬など、よく考えるときわどく危ないものばかり。

 春花はそのうちひとつも試していない。
 まだ死にたくないからだ。

 どうも夕子は、そのナントカ……真崎先生から、悪い意味で影響を受けている。
 先生の写真を見たことがあるが、好奇心旺盛な、いたずらっ子のような目をしていた。
 春花は近々、夕子の両親に忠告するつもりでいる。一度、先生に抗議するべきですよ――と。
 このままでは、学費の無駄使いになってしまうからだ。

「今回も駄目?」
 夕子はすがる様な目で春花を見ている。
(この子、友達いないんだろうなあ)
 春花は同情を禁じえないが、でもやっぱりまだ死にたくない。

「だから、いつも言ってるでしょ。自分の体で実験しなさい」
「う~ん、春花の方が適役なんだよね」
「何で」
「だって、頑丈だし、健康だし、良い意味で単純だし」
「アンタねえ」
 春花は食べ終わった食器を手に立ち上がると、夕子を促した。
「もう午後の講義が始まるのよ。夕子も戻らないと」


  二人は食堂を出ると、中庭を歩いた。初夏の太陽が頭の上で輝いている。
「それにしても、春花は体育大に進むと思ってたのになあ。どうして文系なんだろ」
 夕子は体格の良い春花の全身を眺めながら、いかにも残念そうに言う。
「はは……文系では人体実験に適したこの体がもったいないかもね」
 春花は自嘲気味に笑う。確かに夕子が評価したとおり、自分は頑丈で、健康で、(良い意味かどうか知らないが)単純だ。

「しかし、女子大って女ばっかりだねえ」
「そりゃそうだよ」
「うちのキャンパスとはえらい違いだわ。女子なんて数えるほどしかいないもん」
 夕子が背負うリュックのポケットから、さっきの白い封筒がはみ出ている。春花はふと思い立ち、それを素早く抜き取った。

(これをあんたのご両親に見せて、マッドサイエンティスト的大学生活を暴露してあげるわ)
 
 春花はほくそ笑むと、
「じゃあね、真崎先生によろしく!」
 夕子の背をドンと押して、講義棟へと駆けていった。

 夕子はその逞しい後姿を見送り、
「ホント、いいデータが取れそうな体だわね~」
 背中をさすりながら、真顔で呟いていた。
しおりを挟む