七日目のはるか

藤谷 郁

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9.フェロモン

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「どうです、神田さん。薬の効果が切れるまで、私のマンションで過ごしませんか。そのほうが何かと便利でしょう」
 これから大学に出勤する真崎は、スーツに着替えながら春花に提案した。
「はあ……」
 少し迷った。
 確かに今は男同士であり、彼と寝起きをともにしても問題ないだろう。洋服や小物を貸してもらえるし、その辺りはとてもありがたい。
 何より独り悶々としているよりは、真崎がいてくれた方が精神的に助かる気がする。

「あと6日間です。あっという間ですよ」
 真崎は身支度を整えると、アウディのキーを弄びながら春花の返事を待つ。
(あっという間……か)
 春花はふっと顔を上げた。
「そうですね。先生さえよければ。ただ……」
「何です?」
「私がソファで寝ますから、先生はちゃんとベッドで寝てください。それは絶対にお願いします」

 真崎はへんてこな表情になるが、クスッと笑い、
「わかりました。それでは神田さん、部屋は勝手に使っていいですから好きなように過ごして下さい。あと、私の仕事は遅くなることがありますので、遠慮せず先に休んでいてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
 明るく笑う春花を見て、真崎も安堵した様子になる。彼は胸ポケットからカードキーを取り出すと、春花に手渡した。
「こちらは合鍵です。使い方はわかりますか」
「あ、はい」
 それを受け取った時、留守をあずかるという責任感が春花の中に芽生えた。
(先生は私を信用して、部屋に泊めてくれるんだ。この恩は、意外と大きいかも)

「では、そういうことで。……行ってきます!」
「あ、ハイ。行ってらっしゃい」
 春花が玄関まで見送ると、真崎は少し照れくさそうな感じで、雨の中を出かけて行った。


 残された春花はしばらくソファに座ってぼんやりした。部屋の中は静かで、水槽のエアポンプの音と、微かな雨音だけが響いている。
 真崎の住まいは飾り気がない。言うなれば研究者のプライベートルームといったところか。
(あの人は40男で、しかも独身の一人暮らし。寝室とか洗面所とか、女の人が出入りしている気配もなく……)
「そうだ」
 春花はポケットからスマートフォンを取り出すと夕子に電話をかけた。彼女には現状について一応報告すべきだろう。今回の件の、重要な関係者なのだから。
 それに、一つ確かめておきたいことがあった。
 
『春花、合コンに参加したんだって?』
 呼び出し音が切れたとたん、夕子のからかう声が聞こえてきた。春花は驚いて、目を丸くする。
「なっ、何でそのことを」
『さっき杉下君達が噂してたもん。真崎先生がイケメンを連れて来るもんだから、一番人気のコを取られたって。もちろん、イケメンっていうのは春花のことだからね。うぷぷ……っ』
「あ……」

 昨夜のメンバーは夕子と同じ大学の学生であり、しかも真崎研究室の仲間であることを今思い出す。
(それにしても、一番人気のコを取られたってことは……志村さんが一番人気なの?)
 あの女達の中でも一番計算高いタイプなのに。それを見抜けない彼らの単純さに春花は呆れ、深いため息をつく。

「そ、それはともかく。実は私、元の身体に戻るまで先生のマンションでお世話になることにしたんだ」
『えっ、真崎先生のマンションに?』
 夕子は意外そうな声を出した。
「それで、念のために聞きたいんだけど。先生はその……ゲイじゃないよね」
『ゲイ? ううん、異性愛者だよ。私の知る限りは』
 いささか心許ない返事だが、とりあえず胸を撫で下ろす。

「普通に女性が好きってことだね」
『だと思うよ。合コンに出席するくらいだし』
 なるほど言われてみれば――と春花は納得するが、別の疑問も湧いてくる。
「でも、それならどうして独身なのかな」
 春花はすぐ、しょうもないことを訊いてしまったと後悔する。プライベートを詮索するなんて失礼だ。
 だが夕子は頓着せず、

『う~ん、どうしてかな。あの方、一度も結婚してないって話だよ。女性に関心はあるんだろうけど、そっち方面の噂はとんと聞かないし。あ、そういえば私も先生を研究者として尊敬してるけど、男性として意識することってないなあ。異性を感じさせないっていうか、男性的な要素が希薄だよね。やっぱり動物の繁殖生理って、異性に発情をアピールするフェロモンがポイントじゃん。その辺の淡泊さが独身でいる理由かもしれないよ?』
「フェ、フェロモンって……」

 夕子のストレートな物言いに春花は頬を赤らめつつ、ちょっと首を傾げる。
 真崎は話し方や物腰が柔らかいので、そう感じるのかもしれないが、男性的な要素が希薄というのは、違う気がする。
 どちらにしろ、真崎はつかみどころのない男性である。ふざけているのか真面目なのかわからない。春花にとって初めて出会うタイプの異性だった。
『じゃあ、また何かあったら連絡してね。彼女とのデートとかも、レポートよろしく』
「うっ、あのねえ……」
『あはは。がんばってね~』

 通話が切れたスマートフォンを見下ろし、春花は頭を抱えた。そうだった。自分は今度、志村とデートするのだった。
 ポケットを探り、真崎から渡されたメモを取り出して日時を確認する。

《 真崎春彦さま。5月14日(日)の午後1時。N港公園内水族館入り口で待っています。ゼッタイに来て下さいね!! 志村梨乃 》

 一方的で強引なメッセージを読み、春花はあらためてげんなりする。
(それにしても、どうして志村さんは私を気に入ったのかな? あの子は一流大学の学生を所望していたはず。背も180cmはなくちゃとか、あれこれ条件を並べていたのに。まったく、何を考えているのやら)
 春花は頭を振ると、メモをポケットに捻じ込んでソファを立った。志村の考えることなんて一生理解できそうにないし、理解したくもない。

「さて、ぼけっとしてても始まらない。しばらくお世話になることだし、掃除でもしようかな」
 一人つぶやくと、腕まくりをした。


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