七日目のはるか

藤谷 郁

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12.初めての感情

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 その夜。
 春花は真崎が作ってくれたカレーライスを食べながら、水族館デートについて細かに報告した。彼は興味深げに耳を傾けている。
「それはそれは、充実の一日でしたねえ」
「ええ、私にも予想外の展開でした。結局、志村さんの気持ちに応えられず、傷つけてしまったのがアレなんですけど」
 真崎は少し考えるふうに顎を撫でてから、私見を述べた。
「さほどのダメージはないと思われます。もともと彼女が好きなのは、『真崎春彦』ではなく『神田春花』。つまり、女性のあなたなのですから」

 大盛りカレーをきれいに平らげると、春花は「ごちそうさまでした」と、手を合わせた。
「でも、そこがよく分からないんです。志村さんは大学で、顔を合わせれば合コンに誘ってきました。それも、私を女らしく変身させて男の子の反応を見たいとかなんとか、おかしなことばかり。そんな彼女が私に好意を持っていたなんて、びっくりですよ」
 首を傾げる春花に、真崎は笑みを浮かべる。
「合コン云々は口実でしょう。志村さんはただ、あなたに関わりたいだけです。アプローチの方法が幼いですが、立派な恋心といえます」
「恋心……って、彼女はレズビアンなんでしょうか。それとも、バイセクシャル?」

 やや興奮気味の春花に、真崎はデザートをすすめる。くし形にカットしたオレンジの、たっぷりと果汁を含む切り口が瑞々しい。
「私は専門家ではないので断言できないけれど、広義では同性愛に入るかもしれませんねえ。しかし、同性に好意を抱くというのは、よくある話です。志村さんの場合、その想いが人より強いというだけで」
「なるほど。そう言われると、理解できるような」
 女子高などで、かっこいい先輩に憧れる女の子みたいなものか。春花自身、そんな魅力が自分にあるとは思えないのだが。

「好かれて悪い気はしませんが……でも、ホントに意外でした」
「恋は異なもの、味なもの。男女に限らず、意外な人が意外な想いを抱いているものです」
 真崎の口調には、妙に実感がこもっている。
 春花が不思議そうに見返すと、彼はふいに立ち上がって窓辺へと歩いた。窓を開けてバルコニーに出ようとしている。
「どうかしたのですか?」
 春花が訊くと彼は振り返り、胸ポケットから小箱を取り出してみせた。
「煙草を吸われるのですか」
「たま~にね、吸いたくなるのです」
 真崎はバルコニーに出ると、後ろ手で窓を閉めた。二脚置いてある椅子の片方に腰掛けると、煙草に火を点ける。

 春花は一人でオレンジを食べていたが、どうも味気ない。話し相手が不在のテーブルは、物足りなかった。
「おじゃましてもいいですか」
 窓をそっと開けて、バルコニーを覗いた。
「ああ、構いませんよ。ちょうど吸い終わったところです」
 真崎の足もとに水を張ったバケツが置かれ、短くなったタバコが一本、放り込んであった。
 春花は外履きを借りて、幾何学模様のタイルで装飾されたバルコニーに下りる。

「お隣が空室なので、副流煙を気にせず吸えるので助かります」
「そういえば、静かですね」
 二十五階建てマンションの最上階には、部屋が二戸並んでいる。どちらも専有面積が広く、眺めの良いルーフバルコニー付きだ。
 隣が空室となると、最上階に住むのは真崎のみ。贅沢だけど、ある意味孤独な環境で、彼は日々過ごしている。
「風が気持ちいいですよ。どうぞ、遠慮なく座って」
「あ、はい。お借りします」
 向かいの椅子に腰をおろすと、みしっと軋む音がしてびっくりする。
「ふふっ……大丈夫。古い椅子ですが、座ったくらいで壊れやしません」
  真崎は可笑しそうに笑った。

「参ったなあ。ほんと、ごつくなっちゃって」
 春花はシャツの袖をまくり、力こぶを作った。逞しい腕をさするその仕草に、真崎は目を細める。
「あなたは、武道の経験者ですね」
「ええ、空手です。もう引退しましたけど」
「私も学生時代にやっていました」
「えっ、先生もですか?」
 とても意外な情報だった。春花は思わず、真崎の全身を眺め回す。
「そういえば、結構骨太ですね」
「はい、体力には自信がありますよ。私の職業生活のモットーは健康第一ですから」

 理系大学の先生は実験や研究で忙しく、フィールドワークに出かけたりもするのだろう。なるほど健康第一である。
「でしたら、煙草はおやめになったほうが……」
  春花が言いかけると、真崎はためらわず首を横に振った。
 「私の煙草は、とある理由でどうしても必要な一本なのです。やめるわけにはいきません」
 「どんな理由です?」
 「聞かないほうがいいですよ」
 「?」
 春花はそれ以上、煙草についてコメントしなかった。
 真崎陽平という人物は、柔軟に見えて案外頑固者のようだ。自分の考え方をしっかりと持っているから、他人の意見に妥協しない。
 短い付き合いでも、何となく分かりかけてきた。細いようで実は頑丈な顎の線が、彼の男性らしさを物語っている。

「ところで春花さん。今後、志村さんから合コンに誘われたらどうします」
「どうって、何がですか」
「参加しますか」
 思わぬ話題を振られて、春花は動揺する。個人的な興味ではなく学者としての好奇心だろうが、あまりいい気分ではない。
「参加しませんよ。まったく関心ないです」
 つっけんどんな返事になった。真崎は少し気まずそうに笑うと、
「すみません、変なことを訊いてしまって」
 春花から視線を逸らし、足元のバケツに目を落とす。さっきの吸殻がぽつんと浮かんでいた。

「それにしても、あと3日間ですね。あなたが男性でいるのは」
 しみじみと呟く真崎の言葉に、春花はそうだったと思い出す。この身体でいるのは、あと3日なのだ。つまり、変身後4日も過ぎたということ。
「一週間なんて、あっという間ですね。だんだん違和感がなくなってきたというか……男でいることがしっくりきそうで怖いです」
「余裕が出てきた証拠ですね。春花さん、あなたは本当にシンプルでいい」
 真崎は愉快そうに笑うと、椅子を立ってバルコニーの手すりから街を見渡した。

(あれ……今、『春花さん』って言った? いつから名前で呼ばれてたっけ)

 あまりにも自然な響きなので、気が付かなかった。この身体と同じくらい、真崎にも馴染んでいるようだ。
 春花も立ち上がり、彼の隣に並んだ。
「きれいですね」
「ええ。夜の街もいいものです」
 遠くに山影、空に星。眼下にきらめくのは人工の星々。春花のアパートから見える景色とは、まったく異なる世界がそこにあった。

 真崎の横顔を覗き見て、春花は思う。
 高層マンションの一室に独りで住み、独りで生活する、ちょっと風変わりな先生。穏やかで柔軟で、意外と頑固者。何が起ころうと動じない強さを感じる。
 雲のように掴みどころのない人だけど、一緒にいるとなぜか心地が良い。
 男性に対して、こんな感情を持つのは初めてな気がする。

 残りの3日間を、大切に過ごそう。この人の傍で――

 どうしてかそんな思いが胸をよぎり、春花は一人うろたえるのだった。



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