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十六歳の時、スカウトされてアイドルになった。
歌に踊りに映画に、本当に色々なことをさせてもらった。その過程で、とある若手女性映画監督が自分を主演に起用し、それがきっかけで彼女と恋仲となった。
彼女は西洋人とのハーフで、ブロンドの髪に、綺麗な青い瞳を持った、この世の者とは思えないほど美しい人だった。芯が強く、男顔負けの逞しさに惹かれた。
二年程交際し、結婚した。息子も生まれて、絵に描いたような幸せな日々を送った。
そんな日がこれからも続くと、この頃は信じて疑わなかった。
ある日、かねてより考えていた、アイドルを辞めて事務所を立ち上げたいという話を彼女にした。彼女は賛成してくれて、自分はアイドルを辞め、会社を立ち上げた。自分が社長、彼女が副社長だった。
しかしその頃から、彼女は育児を放棄して度々遊びに出掛けるようになった。幼い息子が熱を出しても、ほったらかして愛人のところに行く始末。
我慢できなくなり、数日に及ぶ口論の末、離婚した。
彼女は会社を辞め、彼女の力で回していた会社は、すぐに経営が悪化した。
息子には美味しいものも食べさせてあげられなくなり、おもちゃも買ってあげられなくなった。だが、あの子は何でもないように笑った。お腹空いてないから半分こしよう、お父さんが遊んでくれるからおもちゃはいらないと言った。
辛かったと思う。何もしてあげられなくて、本当に歯がゆい日々が続いた。
それからしばらくして、学生の頃付き合っていた彼女と再会した。彼女は自分を芸能人ではなく一人の人間として見てくれた。縁を戻すのに時間はかからなかった。
そして、その彼女と再婚した。彼女は息子とも仲良くしてくれた。双子の娘も生まれて、次第に会社の経営も回復し、一軒家を購入した。
それから会社が忙しくなり、家に帰る時間が遅くなった。帰る頃にはみんな食事を終えていて、寝ずに待っていてくれる妻と喋りながら、一人遅い夕食を食べるのが普通になった。
子どもたちとはすれ違いの生活になってしまった。自分が家を出てから子どもたちは起きだし、帰ってきてすぐに眠ってしまう。
特に勉強熱心な息子は部屋に籠もりきりで、顔を合わせる機会は格段に減ってしまった。
たまの休日くらいは家族で出かけようと思ったが、息子はいつも「友達と約束がある」と言い、四人で出かけることが多かった。息子が何に喜ぶのかわからず、プレゼントはいつも迷った。息子は甘いものが好きだから、お菓子を買って帰ることが多かった。
息子が中学に上がった頃から、少しずつ避けられているように感じ始めた。思春期だから仕方がない、きっと反抗期なんだと思い、さほど気に留めなかった。
そんな長く状態が続き、高校生になった息子は、夕飯を外で食べてくることが多くなった。
その頃から、鈍感な自分も流石におかしいと思い始めていた。息子が家にいる時間があまりにも短い。
妻に聞けば、「部活が忙しいのよ」と答えた。息子が何の部活に入っていたか、正直なところ覚えていなかったが、そう口にすれば、桃花が「いろんな部活の助っ人をしてるんだよ!」と教えてくれた。確かにそれは忙しいと納得した。
ある日、また一人で夕飯を取り、妻が風呂に入ったとき、部屋に柚葉がやって来た。
柚葉は辺りを警戒するようにこそこそと駆け寄り、泣きそうな声で言った。
「お兄ちゃん、熱出して朝から何も食べてない」
なぜ妻ではなく、柚葉がそれを言うのか、後になって考えれば不思議だったが、その時はそこまで深く考える余裕はなく、急いでコンビニに向かい、おにぎりを二つと、水とリンゴジュースを買って家に戻った。
寝ているかもしれないので、こっそりと息子の部屋に入れば、息子は苦しそうにベッドで眠っていた。
ひどい熱だった。幼い頃、最初の妻がほったらかして出掛けて行った日を思い出した。
起こさないように冷却シートをおでこに貼って、買ってきたものと薬をこっそり置いて去るつもりだったが、息子の「お父さん」と呼ぶ声が聞こえて、急いで駆け寄った。
うっすらと、熱で潤んだ瞳でこちらを見る息子に、「飲み物とご飯と薬を置いとくから、食べられそうだったら食べるんだよ」と言った。息子には聞こえているのかよく分からず、相変わらず虚ろな目をしていた。きっと眠いのだろうと思い、幼い頃のように数回頭を撫でてから、「おやすみ」と声を掛けて部屋を後にした。
翌日、家を出る前に息子の部屋に行くと、眠る息子の顔色はよくなり、空になったおにぎりの包み紙があった。ちゃんと食べてくれたことに安心して、それを捨ててから家を出た。
息子と二人きりで会うのは、これが最後になった。
息子は名門大学に合格し、学業に集中したいから寮で一人暮らしがしたいと言った。妻も納得し、自分は優秀な息子を誇らしく思った。
入舎の日は、どうしても外せない相手との会食があり、見送ることはできなかった。
まさかそれから九年間、息子に会えなくなるなんて思いもしなかった。
大学に行っている間、息子は家に戻ることはなかった。よほど頑張っているんだと思い、勉強の邪魔にならないように、連絡は控えるようにした。誕生日だけはメールを送り、息子もメールを返してくれた。
大学最後の年だけは、誕生日のメールを送り忘れた。忙しかった、といえば言い訳にしかならないが、その分卒業祝いをうんと豪華にしてあげようと思った。
息子が大学を卒業した日、帰ってくるものと思い、プレゼントを用意して待っていた。ネクタイとネクタイピンなんてありきたりなものだけれど、社会人の門出にはやはりこれだと思った。
しかし、息子は帰らなかった。
不思議に思いメールをすれば、エラーになって返って来た。
不安になって電話をかけたが、使われていないというアナウンスが聞こえた。
なぜ。どうして。何かあったのか。
妻と娘二人に、事情を聞いていないか尋ねた。皆聞いていないと言った。
大学付近と、家の周りを車で探し回った。しかし、それらしき姿はない。
何か事件に巻き込まれたんじゃないか。警察に相談するべきか。そう悩みながら家に帰ると、桃花と柚葉に部屋に連れて行かれた。
二人は、黙っててごめんと頭を下げ、本当は事情を知っていると言った。
そして聞かされたのは、妻による息子への虐待だった。
妻は、前の妻と面識があった。二人は非常に仲が悪かったらしい。
その関係で、妻は息子を嫌っていた。特に息子は母親似だったから、余計に彼女を思い起こさせたのだろう。
自分がいないところで、妻は息子に暴力を奮っていた。
食事の用意もしておらず、息子はわずかな小遣いで、朝食と夕食を、学校がなく給食が食べられない日は昼食も、自分で買って、部屋で一人で食べていたという。
家族で出かける日に「友達と約束がある」と言っていたのも嘘で、母親となるべく距離を置くためだった。
熱を出した日も、妻はそれを知っていて放置した。もちろん、あの熱で食事を買いに行けるはずもなく、桃花と柚葉は、兄と関わると母の機嫌が悪くなるから、何も出来なかったと言う。
大学で寮に入ったのも、母親に会わないようにするため。
卒業した後は一人暮らしをすると、母親には話していたらしい。彼女はもちろん了承した。
虐待のことをお父さんに言わないのかと、桃花と柚葉が尋ねたことがあったらしい。息子は、「言ったところで何も変わらない」と言い、話してくると言った二人に、母の機嫌を損ねたら危険だと、口止めしたそうだ。
絶望した。目の前が真っ暗になった。
そんなことは全く知らなかった。気付きもしなかった。だが、思えばおかしなことはいくつもあった。
息子は夏でも長袖を着ていた。元々紫外線に弱いからそのせいだと思っていたし、学校にもそう説明していた。だが本当は、虐待の傷があったのではないか?
頬に叩かれたような痕があった時もある。「友達に叩かれた」と妻は言ったし、息子もそれを否定しなかった。だが本当は、妻に叩かれたものだったのではないか?
冬の寒い日に、玄関先に座っていたこともある。「お父さんの帰りを待ってた」と息子は笑ったが、それも本当は妻に追い出されたからではないか?
家になんか帰ってくるわけがない。自分を痛めつける母がいる家に、そのことに気づきもしない父親がいるところに、帰りたいなんて誰が思う。
自分に一人暮らしの話をしなかったのは、幸せな家庭を信じていた愚かな父親への当てつけなのかもしれない。
どうして気づけなかった。どうして、おかしいと思った時に追究しなかった。
激しい後悔に襲われた。悲しいなんて言葉では表せないほど、心が押しつぶされた。いつの間にか痕跡一つ無くなっていた息子の部屋で、声がかれる程泣いた。
それから、息子を探しに行くことはなかった。あの子がうちにいたくないのなら、無理に連れ戻すわけにはいかない。どこかで元気に暮らしていることを願うしかなかった。
だがいつか突然帰ってくるのではという勝手な希望を抱いて、ベッドだけは購入し直した。
金をせびりにでもいい、悪態を付きにでもいい、どんな理由でもいいから、帰ってきてほしかった。
何も無い部屋にベッド一つというのは、いっそ空っぽより空しく見えた。
妻を責めることはなかった。そんな元気は残されていなかったし、彼女を責めることで桃花と柚葉にまで被害が及ぶかもしれないと思ったら、何もできなかった。
けれど、また会社が不況に陥ったとき、状況が変わった。
目に見えて資産が減り、妻は家を売ろうと言った。
自分は断固拒否した。家だけが、息子と自分を繋ぐ最後の希望に感じたのだ。
連絡先のわからない息子に、引っ越し先を伝える手段はない。もしかしたら、本当に気まぐれを起こした息子がここに帰ってくるかもしれないという希望を、どうしても捨てきれなかった。
妻はヒステリーを起こした。全然帰ってこない息子の方が、今まさに飢えようとしている自分たちより大事なのかと。
自分はただ、謝ることしかできなかった。
結局話し合いでは解決できず、二度目の離婚をした。娘たちは、妻がどうしても連れて行くと言うから、気の済むようにさせた。
結構な借金を抱えたが、何とか会社を立て直すことができ、借金は全て返済できた。
しばらくして、ようやく離婚の傷が癒えてきた頃、岳から「話題のアーティストが出るから」と言われて、事務所のテレビでとある音楽番組を見た。
アーティストが紹介された時、思わず立ち上がった。
息子がいた。
髪の色も目の色も違うが、確かに息子だった。
見間違いではないかと、その場で検索した。その顔は確かに息子そのもので、名前も本名をアルファベット表記したもので、人目も憚らずその場で泣き崩れた。
生きていた。元気にしていた。よかった。本当によかった。
テレビの向こうで歌う息子は、家にいた時より輝いて見えた。切ない歌声が、この上なく胸に響いた。
後から聞いた話によれば、SNSでは随分話題になっていたらしい。ネットに疎すぎて知らなかったが、チェックしておけばよかったと後悔した。
息子のグループは事務所に所属していなかった。すぐに事務所に誘おうと思ったが、岳からどの事務所の誘いも断っているという噂を聞いて、誘うか、やめておくか、非常に悩んだ。
けれど、もう一度息子に会いたい思いが抑えられなかった。
断られてもいい。罵られてもいい。ただ一目、無事な姿を見たかった。
事務所のアーティストが出る番組に、息子たちのグループも出ると知って、テレビ局に同行した。
緊張しながらも、何でもない顔を作り、楽屋の扉をノックした。
出てきたのは息子だった。間近で見て確信する。本当に息子だ。
懐かしくなった。うれしかった。ずっと会いたかった息子が目の前にいる。
衝動のままに抱きしめてしまいたかった。けれど、息子は嫌がるだろうとの懸念が、それをさせなかった。
何と言っていいかわからず立ち尽くしてしまった私に、息子が向けたのは、仮面のような、貼り付けたような笑顔だった。
「はじめまして」
彼はそう言った。
顔も声も息子のものだ。初めてのはずがないのに。
そこで察した。息子にとって、自分は父親ではないのだと。
自分が虐待を受けていることに気付きもしなかった愚かな男を、彼は父親だとは思えないのだと。
彼の中に、自分は存在しないのだと。
だから、他人として接することを決めた。
事務所に誘えば、最初は迷っていたものの、所属すると言ってくれた。
理由はわからない。何か思惑があるのかもしれない。それでもよかった。
契約書に書かれた息子の字を眺める。本当に手書きか疑う程に美しい文字で、確かに息子の本名が書いてある。
涙が出る程嬉しくて、ただの紙が宝物のように思えた。
これが、息子と向き合える最後のチャンスになるかもしれない。
これからは父と息子ではなく、社長と所属タレントとして、彼を全力でサポートしよう。彼の夢を応援しよう。
せめてそれが、息子への償いになると信じた。
歌に踊りに映画に、本当に色々なことをさせてもらった。その過程で、とある若手女性映画監督が自分を主演に起用し、それがきっかけで彼女と恋仲となった。
彼女は西洋人とのハーフで、ブロンドの髪に、綺麗な青い瞳を持った、この世の者とは思えないほど美しい人だった。芯が強く、男顔負けの逞しさに惹かれた。
二年程交際し、結婚した。息子も生まれて、絵に描いたような幸せな日々を送った。
そんな日がこれからも続くと、この頃は信じて疑わなかった。
ある日、かねてより考えていた、アイドルを辞めて事務所を立ち上げたいという話を彼女にした。彼女は賛成してくれて、自分はアイドルを辞め、会社を立ち上げた。自分が社長、彼女が副社長だった。
しかしその頃から、彼女は育児を放棄して度々遊びに出掛けるようになった。幼い息子が熱を出しても、ほったらかして愛人のところに行く始末。
我慢できなくなり、数日に及ぶ口論の末、離婚した。
彼女は会社を辞め、彼女の力で回していた会社は、すぐに経営が悪化した。
息子には美味しいものも食べさせてあげられなくなり、おもちゃも買ってあげられなくなった。だが、あの子は何でもないように笑った。お腹空いてないから半分こしよう、お父さんが遊んでくれるからおもちゃはいらないと言った。
辛かったと思う。何もしてあげられなくて、本当に歯がゆい日々が続いた。
それからしばらくして、学生の頃付き合っていた彼女と再会した。彼女は自分を芸能人ではなく一人の人間として見てくれた。縁を戻すのに時間はかからなかった。
そして、その彼女と再婚した。彼女は息子とも仲良くしてくれた。双子の娘も生まれて、次第に会社の経営も回復し、一軒家を購入した。
それから会社が忙しくなり、家に帰る時間が遅くなった。帰る頃にはみんな食事を終えていて、寝ずに待っていてくれる妻と喋りながら、一人遅い夕食を食べるのが普通になった。
子どもたちとはすれ違いの生活になってしまった。自分が家を出てから子どもたちは起きだし、帰ってきてすぐに眠ってしまう。
特に勉強熱心な息子は部屋に籠もりきりで、顔を合わせる機会は格段に減ってしまった。
たまの休日くらいは家族で出かけようと思ったが、息子はいつも「友達と約束がある」と言い、四人で出かけることが多かった。息子が何に喜ぶのかわからず、プレゼントはいつも迷った。息子は甘いものが好きだから、お菓子を買って帰ることが多かった。
息子が中学に上がった頃から、少しずつ避けられているように感じ始めた。思春期だから仕方がない、きっと反抗期なんだと思い、さほど気に留めなかった。
そんな長く状態が続き、高校生になった息子は、夕飯を外で食べてくることが多くなった。
その頃から、鈍感な自分も流石におかしいと思い始めていた。息子が家にいる時間があまりにも短い。
妻に聞けば、「部活が忙しいのよ」と答えた。息子が何の部活に入っていたか、正直なところ覚えていなかったが、そう口にすれば、桃花が「いろんな部活の助っ人をしてるんだよ!」と教えてくれた。確かにそれは忙しいと納得した。
ある日、また一人で夕飯を取り、妻が風呂に入ったとき、部屋に柚葉がやって来た。
柚葉は辺りを警戒するようにこそこそと駆け寄り、泣きそうな声で言った。
「お兄ちゃん、熱出して朝から何も食べてない」
なぜ妻ではなく、柚葉がそれを言うのか、後になって考えれば不思議だったが、その時はそこまで深く考える余裕はなく、急いでコンビニに向かい、おにぎりを二つと、水とリンゴジュースを買って家に戻った。
寝ているかもしれないので、こっそりと息子の部屋に入れば、息子は苦しそうにベッドで眠っていた。
ひどい熱だった。幼い頃、最初の妻がほったらかして出掛けて行った日を思い出した。
起こさないように冷却シートをおでこに貼って、買ってきたものと薬をこっそり置いて去るつもりだったが、息子の「お父さん」と呼ぶ声が聞こえて、急いで駆け寄った。
うっすらと、熱で潤んだ瞳でこちらを見る息子に、「飲み物とご飯と薬を置いとくから、食べられそうだったら食べるんだよ」と言った。息子には聞こえているのかよく分からず、相変わらず虚ろな目をしていた。きっと眠いのだろうと思い、幼い頃のように数回頭を撫でてから、「おやすみ」と声を掛けて部屋を後にした。
翌日、家を出る前に息子の部屋に行くと、眠る息子の顔色はよくなり、空になったおにぎりの包み紙があった。ちゃんと食べてくれたことに安心して、それを捨ててから家を出た。
息子と二人きりで会うのは、これが最後になった。
息子は名門大学に合格し、学業に集中したいから寮で一人暮らしがしたいと言った。妻も納得し、自分は優秀な息子を誇らしく思った。
入舎の日は、どうしても外せない相手との会食があり、見送ることはできなかった。
まさかそれから九年間、息子に会えなくなるなんて思いもしなかった。
大学に行っている間、息子は家に戻ることはなかった。よほど頑張っているんだと思い、勉強の邪魔にならないように、連絡は控えるようにした。誕生日だけはメールを送り、息子もメールを返してくれた。
大学最後の年だけは、誕生日のメールを送り忘れた。忙しかった、といえば言い訳にしかならないが、その分卒業祝いをうんと豪華にしてあげようと思った。
息子が大学を卒業した日、帰ってくるものと思い、プレゼントを用意して待っていた。ネクタイとネクタイピンなんてありきたりなものだけれど、社会人の門出にはやはりこれだと思った。
しかし、息子は帰らなかった。
不思議に思いメールをすれば、エラーになって返って来た。
不安になって電話をかけたが、使われていないというアナウンスが聞こえた。
なぜ。どうして。何かあったのか。
妻と娘二人に、事情を聞いていないか尋ねた。皆聞いていないと言った。
大学付近と、家の周りを車で探し回った。しかし、それらしき姿はない。
何か事件に巻き込まれたんじゃないか。警察に相談するべきか。そう悩みながら家に帰ると、桃花と柚葉に部屋に連れて行かれた。
二人は、黙っててごめんと頭を下げ、本当は事情を知っていると言った。
そして聞かされたのは、妻による息子への虐待だった。
妻は、前の妻と面識があった。二人は非常に仲が悪かったらしい。
その関係で、妻は息子を嫌っていた。特に息子は母親似だったから、余計に彼女を思い起こさせたのだろう。
自分がいないところで、妻は息子に暴力を奮っていた。
食事の用意もしておらず、息子はわずかな小遣いで、朝食と夕食を、学校がなく給食が食べられない日は昼食も、自分で買って、部屋で一人で食べていたという。
家族で出かける日に「友達と約束がある」と言っていたのも嘘で、母親となるべく距離を置くためだった。
熱を出した日も、妻はそれを知っていて放置した。もちろん、あの熱で食事を買いに行けるはずもなく、桃花と柚葉は、兄と関わると母の機嫌が悪くなるから、何も出来なかったと言う。
大学で寮に入ったのも、母親に会わないようにするため。
卒業した後は一人暮らしをすると、母親には話していたらしい。彼女はもちろん了承した。
虐待のことをお父さんに言わないのかと、桃花と柚葉が尋ねたことがあったらしい。息子は、「言ったところで何も変わらない」と言い、話してくると言った二人に、母の機嫌を損ねたら危険だと、口止めしたそうだ。
絶望した。目の前が真っ暗になった。
そんなことは全く知らなかった。気付きもしなかった。だが、思えばおかしなことはいくつもあった。
息子は夏でも長袖を着ていた。元々紫外線に弱いからそのせいだと思っていたし、学校にもそう説明していた。だが本当は、虐待の傷があったのではないか?
頬に叩かれたような痕があった時もある。「友達に叩かれた」と妻は言ったし、息子もそれを否定しなかった。だが本当は、妻に叩かれたものだったのではないか?
冬の寒い日に、玄関先に座っていたこともある。「お父さんの帰りを待ってた」と息子は笑ったが、それも本当は妻に追い出されたからではないか?
家になんか帰ってくるわけがない。自分を痛めつける母がいる家に、そのことに気づきもしない父親がいるところに、帰りたいなんて誰が思う。
自分に一人暮らしの話をしなかったのは、幸せな家庭を信じていた愚かな父親への当てつけなのかもしれない。
どうして気づけなかった。どうして、おかしいと思った時に追究しなかった。
激しい後悔に襲われた。悲しいなんて言葉では表せないほど、心が押しつぶされた。いつの間にか痕跡一つ無くなっていた息子の部屋で、声がかれる程泣いた。
それから、息子を探しに行くことはなかった。あの子がうちにいたくないのなら、無理に連れ戻すわけにはいかない。どこかで元気に暮らしていることを願うしかなかった。
だがいつか突然帰ってくるのではという勝手な希望を抱いて、ベッドだけは購入し直した。
金をせびりにでもいい、悪態を付きにでもいい、どんな理由でもいいから、帰ってきてほしかった。
何も無い部屋にベッド一つというのは、いっそ空っぽより空しく見えた。
妻を責めることはなかった。そんな元気は残されていなかったし、彼女を責めることで桃花と柚葉にまで被害が及ぶかもしれないと思ったら、何もできなかった。
けれど、また会社が不況に陥ったとき、状況が変わった。
目に見えて資産が減り、妻は家を売ろうと言った。
自分は断固拒否した。家だけが、息子と自分を繋ぐ最後の希望に感じたのだ。
連絡先のわからない息子に、引っ越し先を伝える手段はない。もしかしたら、本当に気まぐれを起こした息子がここに帰ってくるかもしれないという希望を、どうしても捨てきれなかった。
妻はヒステリーを起こした。全然帰ってこない息子の方が、今まさに飢えようとしている自分たちより大事なのかと。
自分はただ、謝ることしかできなかった。
結局話し合いでは解決できず、二度目の離婚をした。娘たちは、妻がどうしても連れて行くと言うから、気の済むようにさせた。
結構な借金を抱えたが、何とか会社を立て直すことができ、借金は全て返済できた。
しばらくして、ようやく離婚の傷が癒えてきた頃、岳から「話題のアーティストが出るから」と言われて、事務所のテレビでとある音楽番組を見た。
アーティストが紹介された時、思わず立ち上がった。
息子がいた。
髪の色も目の色も違うが、確かに息子だった。
見間違いではないかと、その場で検索した。その顔は確かに息子そのもので、名前も本名をアルファベット表記したもので、人目も憚らずその場で泣き崩れた。
生きていた。元気にしていた。よかった。本当によかった。
テレビの向こうで歌う息子は、家にいた時より輝いて見えた。切ない歌声が、この上なく胸に響いた。
後から聞いた話によれば、SNSでは随分話題になっていたらしい。ネットに疎すぎて知らなかったが、チェックしておけばよかったと後悔した。
息子のグループは事務所に所属していなかった。すぐに事務所に誘おうと思ったが、岳からどの事務所の誘いも断っているという噂を聞いて、誘うか、やめておくか、非常に悩んだ。
けれど、もう一度息子に会いたい思いが抑えられなかった。
断られてもいい。罵られてもいい。ただ一目、無事な姿を見たかった。
事務所のアーティストが出る番組に、息子たちのグループも出ると知って、テレビ局に同行した。
緊張しながらも、何でもない顔を作り、楽屋の扉をノックした。
出てきたのは息子だった。間近で見て確信する。本当に息子だ。
懐かしくなった。うれしかった。ずっと会いたかった息子が目の前にいる。
衝動のままに抱きしめてしまいたかった。けれど、息子は嫌がるだろうとの懸念が、それをさせなかった。
何と言っていいかわからず立ち尽くしてしまった私に、息子が向けたのは、仮面のような、貼り付けたような笑顔だった。
「はじめまして」
彼はそう言った。
顔も声も息子のものだ。初めてのはずがないのに。
そこで察した。息子にとって、自分は父親ではないのだと。
自分が虐待を受けていることに気付きもしなかった愚かな男を、彼は父親だとは思えないのだと。
彼の中に、自分は存在しないのだと。
だから、他人として接することを決めた。
事務所に誘えば、最初は迷っていたものの、所属すると言ってくれた。
理由はわからない。何か思惑があるのかもしれない。それでもよかった。
契約書に書かれた息子の字を眺める。本当に手書きか疑う程に美しい文字で、確かに息子の本名が書いてある。
涙が出る程嬉しくて、ただの紙が宝物のように思えた。
これが、息子と向き合える最後のチャンスになるかもしれない。
これからは父と息子ではなく、社長と所属タレントとして、彼を全力でサポートしよう。彼の夢を応援しよう。
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