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締め切り二日前。まだ作詞は仕上がっていなかった。
この日は午前中に音楽イベントの収録、午後は事務所の地下にあるスタジオで、次のライブの向けての練習をすることになっている。今日を乗り越えれば、久しぶりの二連休だ。
翔はいつものように、りっちゃんと真人さん、耕平さんとクロユリさんの順に迎えに行き、恭哉さんのマンションの前に車を停めた。
エントランスのインターホンを鳴らし、恭哉さんの応答を待つ。
しかし、待てども待てども、返事は来なかった。
「あれ……?」
部屋番号を間違えたかと思い、もう一度鳴らすが、結果は同じだ。
どうしたのだろう。たまたまトイレに行っているだけだろうか。
しかし、最近の恭哉さんの様子を思い返すと、どうしても嫌な方向に思考が流れてしまう。
駄目もとでもう一度インターホンを鳴らすが、やはり出ない。
嫌な汗が首筋を伝う。どうしよう。どうしたらいい。
感情ばかりが先走って、冷静な判断ができない。
焦っていると、耕平さんが車から下りてきた。翔の様子を不審に思ったのだろう。
「恭哉出ない?」
そう聞かれて、翔はうなずく。耕平さんはやっぱりという様子で、ポケットからキーケースを取り出した。
その中には、恭哉さんの家の鍵も入っていて、耕平さんは慣れた仕草でオートロックを解除した。
「え、合鍵ですか?」
「うん。お互いの家に行くことも多いから、交換したんだ」
耕平さんと恭哉さんは、高校からの友人で、それぞれ作曲、作詞を担当することもあり、お互いを「相棒」と呼ぶ。合鍵を渡すほどの信頼関係があっても納得だ。
焦る様子もなく建物に入っていく耕平さんに、翔は慌ててついて行った。
エレベーターで六階に上がり、一応部屋のインターホンを鳴らすが、やはり返事はない。
耕平さんは手早く鍵を開け、少々乱暴にドアを開けた。
「恭哉―、いるかー?」
「恭哉さーん!」
呼びかけながら、恭哉さんが主に生活をする一番奥の部屋に向かう。いるとしたら、そこが一番可能性が高いからだ。
耕平さんが扉を開け、翔は隙間から中を覗き見る。
一瞬、翔は息を飲んだ。
恭哉さんは、床にうつ伏せに倒れていた。
「恭哉さん!!」
耕平さんを押しのけるようにして、慌てて恭哉さんに駆け寄る。
近くで見る顔は蒼白で、血が通っていないように見えた。
どうしていいかわからず狼狽えるが、耕平さんはすぐに恭哉さんの手首を軽く握った。
「……脈はある。大丈夫だよ」
そう言われて、少し力が抜ける。最悪の事態には至っていないようだ。
翔が息をついた直後、恭哉さんの長い睫毛が震えて、ゆっくりと瞼が開いた。
「恭哉さん!」
気が付いたことに安心して声を上げるが、恭哉さんは翔たちに気づいていないようだった。コンタクトレンズの入っていない空色の瞳が、ゆっくりとあたりを見回す。
その瞳が、翔を捉えて動きを止める。瞼が大きく開かれ、恭哉さんは勢いよく体を起こした。
「うわっ!」
翔は驚いて、声を上げて咄嗟に体を後ろに引いた。しかし、恭哉さんの体がふらついたのを見て、無理矢理身を乗り出し、抱きとめた。
「急に動くな。大丈夫か?」
耕平さんが恭哉さんに声を掛けるが、帰ってきたのはその問いに対する返事ではなかった。
「今何時?」
翔からは顔が見えないが、その声音は明らかに焦っていて、自分の体調よりも、仕事に穴を開けてしまったのではないかという不安が見て取れた。
耕平さんが時刻を伝えれば、恭哉さんは翔の体を支えに立ち上がり、ふらふらと歩き出す。
「ごめん。すぐ支度する」
そう言って、洗面所に向かった。コンタクトレンズを入れるのだろう。
「駄目だ恭哉さん!」
翔はそう言いながら、慌てて恭哉さんを追いかけた。
「今日は休んで、病院行こう?オレが先方に謝るから……」
「駄目だ」
翔の必死の訴えは、酷く冷たい声に遮られた。
翔が委縮すると、歩いて来た耕平さんが、呆れたようにため息をつく。
「仕事に穴開けたくないのはわかるけど、そんな体調で行って現場で倒れたらどうする。そっちの方が迷惑だろ」
「現場で倒れたことないだろ」
耕平さんが冷静に恭哉さんを諭すが、恭哉さんは同じく冷静な声音で反論する。
恭哉さんはコンタクトレンズを入れ終わり、洗面所の入り口を塞ぐように立った翔たちを押しのけ、奥の部屋に戻る。
翔が慌てて追いかければ、恭哉さんはクローゼットからコートを乱暴に引っ張り出すところだった。
「恭哉さん!駄目だってば!」
止めなければという勢いで、恭哉さんに抱き着いた。
以前泣きながら抱き合った時より細く感じる腰を、行かせるまいと力を込めて抱きしめる。
しかし、恭哉さんが止まる気配はない。
「離せ、翔」
「嫌だ!絶対駄目!!」
離してはいけない。行かせたら恭哉さんは絶対に無理をする。
しばらくそのまま引きずられたが、やがて恭哉さんは立ち止まり、諦めたようにため息をついた。
「……翔」
優しく、落ち着いた声音でそう呼ばれ、翔は顔を上げる。
恭哉さんは困ったような顔をしていた。
「そんなに心配しなくても、ちゃんと病院行ってるし、薬も飲んだよ。副作用で眠いだけ」
「でも……」
病院に行っていれば、薬を飲めば治るわけではないし、休まなくていい理由にはならない。そもそも、薬を飲まなければいけないような状態なら休んだ方がいい。
そう言おうとするが、恭哉さんの目は「わかってる」と言っている気がした。
恭哉さんは翔の腕からするりと抜けて、翔の手を取った。
「今日の仕事が終わったら、真っ直ぐ帰ってちゃんと休むから。行かせて」
お願い。そう、迷子の子犬のような目で言われて、翔は何も言えなくなる。
そんな悲しそうな目で訴えられたら、こっちが悪いことをしているようではないか。
翔は助けを求めるように耕平さんを見るが、耕平さんはすでに諦めたようで、恭哉さんのギターを担いでいる。
翔は覚悟を決めるように、恭哉さんの手を強く握り返した。
「……わかった。でも、午後の練習は休めよ!絶対だからな!」
翔がそう言うと、恭哉さんはふっと表情を緩ませた。
時間がないので、急いで家を出て車に乗る。「どうしたの?」と聞いたりっちゃんに、恭哉さんは「ごめん、寝坊」と答えた。
それが嘘であろうことは、多分みんな気付いていた。しかしそれ以上何も聞かなかった。
時間ギリギリに現場に着き、謝りながら楽屋に向かう。いつもは余裕をもって来るからか、それともギリギリとはいえ時間に間に合っているからか、誰にも咎められることはなかった。
撮影の間、恭哉さんはいつも通りに見えた。今朝倒れていたのが嘘ではないかと思うほど。
それでも、翔の不安は消えなかった。今にも緊張の糸が切れてしまうんじゃないか、急に倒れてしまうんじゃないかと、不安で仕方がなかった。
結局、その心配は杞憂に終わった。撮影は滞りなく、普段通り完璧に終了した。
すぐにでも恭哉さんを家に送り届けたかったが、撮影場所からは事務所の方が近く、先に他の四人と楽器をそこで降ろすことになった。恭哉さんは練習に参加せず帰るという話はしたが、五人揃っていなくても練習はしたいと、りっちゃん、真人さん、クロユリさんが言い、恭哉さん以外の四人は予定通り事務所の地下スタジオで練習することになったのだ。
車の中で、恭哉さんは目を閉じて眠ろうとしていた。しかし何が原因なのか、眠れない様子だった。
なるべく早く恭哉さんを休ませたいという翔の思いが届いたのか、ほとんど信号に引っ掛かることなく、思いのほか早く事務所に到着した。
恭哉さんに車で待つか尋ねると、少し車に酔ったから降りると言うので、全員でスタジオに向かった。乗り物酔いをしたときは外で酸素を吸った方がいいのではとも思ったが、人目があるから避けた方がいいという判断だろう。
急いでいたせいで運転が荒くなってしまったかと少々落ち込んだが、耕平さんがこっそり「体調悪い時は酔いやすいんだよ。翔の運転は丁寧だった」と慰めてくれた。
スタジオに入り、翔はりっちゃんとドラムを組み立てた。他のメンバーも、各々自分の楽器を調整している。
恭哉さんは、スタジオの隅で腕を組んで立っていた。座った方がいいと言ったが、断られてしまった。「座ったら寝そうだから」らしい。
寝たら担いで運ぶのにと一瞬思ったが、翔の体格では恭哉さんは運べないかもしれないと考え直した。恭哉さんは筋肉も脂肪もそんなになさそうだが、180cm以上ある大人を持ち上げられるほど翔に筋肉がない。
楽器を組み立て終わり、一旦お昼を食べてから練習しようという話になった。
じゃあその間に恭哉さんを家に送り届けようと、翔が発言しようとした、その時だった。
「う゛っ!」
嘔吐くような声が、スタジオの隅から聞こえた。
慌てて振り向くと、俯いた恭哉さんが、右手を口元に当てていた。
「恭哉さん!」
翔が駆け寄り、顔を覗き込む。その顔は蒼白で、今にも吐きそうなのを堪えている様子だった。
やっぱり、朝の段階で無理にでも止めるべきだった。激しい後悔が翔を襲った。
「かけるっち、ちょっとどいて!」
後ろから声を掛けられ、翔がその言葉を認識する前に押しのけられた。
りっちゃんがビニール袋を持って、恭哉さんの前に立った。
「きょうちゃん、吐いていいよ。大丈夫だから」
りっちゃんが優しく声を掛けるが、恭哉さんは反応を示さない。周りの声を聴く余裕もないのだろう。
狼狽える翔に、りっちゃんが冷静に声を掛ける。
「かけるっち、どこか横になって休める場所ない?」
急に聞かれて一瞬戸惑ったが、案外答えはすぐに思いついた。
「事務所のソファなら……。確認してきます!」
事務所には応接用のソファがある。あそこなら休めると思ったが、来客中の可能性を考えるといきなり連れて行くわけにはいかない。
翔は急いでスタジオの重い扉を開け、階段に向かった。エレベーターもあるが、走れば階段の方が早い。
一段飛ばしで駆け上がり、雑にノックして事務所に駆け込んだ。
「すみません!ソファ、使っていいですか!」
事務所にいた社長、松木さん、碓氷さん、畑中さんが、一斉に翔を見る。明らかに急いでいる翔の様子に、全員手を止めた。
「大丈夫だけど、どうして?」
松木さんが不思議そうに首を傾ける。急いで戻らなければならないため、翔はなるべく簡潔に伝えようと言葉を探す。
「恭哉さんが、倒れて……」
そこまで言ったところで、社長がガタリと音を立てて立ち上がった。
焦りを抑えるような顔で、足早に翔に近づいてくる。
「恭哉はどこに?」
「地下のスタジオです!」
社長は翔の横を抜け、階段を駆け下りる。翔も慌てて社長を追いかけた。
この日は午前中に音楽イベントの収録、午後は事務所の地下にあるスタジオで、次のライブの向けての練習をすることになっている。今日を乗り越えれば、久しぶりの二連休だ。
翔はいつものように、りっちゃんと真人さん、耕平さんとクロユリさんの順に迎えに行き、恭哉さんのマンションの前に車を停めた。
エントランスのインターホンを鳴らし、恭哉さんの応答を待つ。
しかし、待てども待てども、返事は来なかった。
「あれ……?」
部屋番号を間違えたかと思い、もう一度鳴らすが、結果は同じだ。
どうしたのだろう。たまたまトイレに行っているだけだろうか。
しかし、最近の恭哉さんの様子を思い返すと、どうしても嫌な方向に思考が流れてしまう。
駄目もとでもう一度インターホンを鳴らすが、やはり出ない。
嫌な汗が首筋を伝う。どうしよう。どうしたらいい。
感情ばかりが先走って、冷静な判断ができない。
焦っていると、耕平さんが車から下りてきた。翔の様子を不審に思ったのだろう。
「恭哉出ない?」
そう聞かれて、翔はうなずく。耕平さんはやっぱりという様子で、ポケットからキーケースを取り出した。
その中には、恭哉さんの家の鍵も入っていて、耕平さんは慣れた仕草でオートロックを解除した。
「え、合鍵ですか?」
「うん。お互いの家に行くことも多いから、交換したんだ」
耕平さんと恭哉さんは、高校からの友人で、それぞれ作曲、作詞を担当することもあり、お互いを「相棒」と呼ぶ。合鍵を渡すほどの信頼関係があっても納得だ。
焦る様子もなく建物に入っていく耕平さんに、翔は慌ててついて行った。
エレベーターで六階に上がり、一応部屋のインターホンを鳴らすが、やはり返事はない。
耕平さんは手早く鍵を開け、少々乱暴にドアを開けた。
「恭哉―、いるかー?」
「恭哉さーん!」
呼びかけながら、恭哉さんが主に生活をする一番奥の部屋に向かう。いるとしたら、そこが一番可能性が高いからだ。
耕平さんが扉を開け、翔は隙間から中を覗き見る。
一瞬、翔は息を飲んだ。
恭哉さんは、床にうつ伏せに倒れていた。
「恭哉さん!!」
耕平さんを押しのけるようにして、慌てて恭哉さんに駆け寄る。
近くで見る顔は蒼白で、血が通っていないように見えた。
どうしていいかわからず狼狽えるが、耕平さんはすぐに恭哉さんの手首を軽く握った。
「……脈はある。大丈夫だよ」
そう言われて、少し力が抜ける。最悪の事態には至っていないようだ。
翔が息をついた直後、恭哉さんの長い睫毛が震えて、ゆっくりと瞼が開いた。
「恭哉さん!」
気が付いたことに安心して声を上げるが、恭哉さんは翔たちに気づいていないようだった。コンタクトレンズの入っていない空色の瞳が、ゆっくりとあたりを見回す。
その瞳が、翔を捉えて動きを止める。瞼が大きく開かれ、恭哉さんは勢いよく体を起こした。
「うわっ!」
翔は驚いて、声を上げて咄嗟に体を後ろに引いた。しかし、恭哉さんの体がふらついたのを見て、無理矢理身を乗り出し、抱きとめた。
「急に動くな。大丈夫か?」
耕平さんが恭哉さんに声を掛けるが、帰ってきたのはその問いに対する返事ではなかった。
「今何時?」
翔からは顔が見えないが、その声音は明らかに焦っていて、自分の体調よりも、仕事に穴を開けてしまったのではないかという不安が見て取れた。
耕平さんが時刻を伝えれば、恭哉さんは翔の体を支えに立ち上がり、ふらふらと歩き出す。
「ごめん。すぐ支度する」
そう言って、洗面所に向かった。コンタクトレンズを入れるのだろう。
「駄目だ恭哉さん!」
翔はそう言いながら、慌てて恭哉さんを追いかけた。
「今日は休んで、病院行こう?オレが先方に謝るから……」
「駄目だ」
翔の必死の訴えは、酷く冷たい声に遮られた。
翔が委縮すると、歩いて来た耕平さんが、呆れたようにため息をつく。
「仕事に穴開けたくないのはわかるけど、そんな体調で行って現場で倒れたらどうする。そっちの方が迷惑だろ」
「現場で倒れたことないだろ」
耕平さんが冷静に恭哉さんを諭すが、恭哉さんは同じく冷静な声音で反論する。
恭哉さんはコンタクトレンズを入れ終わり、洗面所の入り口を塞ぐように立った翔たちを押しのけ、奥の部屋に戻る。
翔が慌てて追いかければ、恭哉さんはクローゼットからコートを乱暴に引っ張り出すところだった。
「恭哉さん!駄目だってば!」
止めなければという勢いで、恭哉さんに抱き着いた。
以前泣きながら抱き合った時より細く感じる腰を、行かせるまいと力を込めて抱きしめる。
しかし、恭哉さんが止まる気配はない。
「離せ、翔」
「嫌だ!絶対駄目!!」
離してはいけない。行かせたら恭哉さんは絶対に無理をする。
しばらくそのまま引きずられたが、やがて恭哉さんは立ち止まり、諦めたようにため息をついた。
「……翔」
優しく、落ち着いた声音でそう呼ばれ、翔は顔を上げる。
恭哉さんは困ったような顔をしていた。
「そんなに心配しなくても、ちゃんと病院行ってるし、薬も飲んだよ。副作用で眠いだけ」
「でも……」
病院に行っていれば、薬を飲めば治るわけではないし、休まなくていい理由にはならない。そもそも、薬を飲まなければいけないような状態なら休んだ方がいい。
そう言おうとするが、恭哉さんの目は「わかってる」と言っている気がした。
恭哉さんは翔の腕からするりと抜けて、翔の手を取った。
「今日の仕事が終わったら、真っ直ぐ帰ってちゃんと休むから。行かせて」
お願い。そう、迷子の子犬のような目で言われて、翔は何も言えなくなる。
そんな悲しそうな目で訴えられたら、こっちが悪いことをしているようではないか。
翔は助けを求めるように耕平さんを見るが、耕平さんはすでに諦めたようで、恭哉さんのギターを担いでいる。
翔は覚悟を決めるように、恭哉さんの手を強く握り返した。
「……わかった。でも、午後の練習は休めよ!絶対だからな!」
翔がそう言うと、恭哉さんはふっと表情を緩ませた。
時間がないので、急いで家を出て車に乗る。「どうしたの?」と聞いたりっちゃんに、恭哉さんは「ごめん、寝坊」と答えた。
それが嘘であろうことは、多分みんな気付いていた。しかしそれ以上何も聞かなかった。
時間ギリギリに現場に着き、謝りながら楽屋に向かう。いつもは余裕をもって来るからか、それともギリギリとはいえ時間に間に合っているからか、誰にも咎められることはなかった。
撮影の間、恭哉さんはいつも通りに見えた。今朝倒れていたのが嘘ではないかと思うほど。
それでも、翔の不安は消えなかった。今にも緊張の糸が切れてしまうんじゃないか、急に倒れてしまうんじゃないかと、不安で仕方がなかった。
結局、その心配は杞憂に終わった。撮影は滞りなく、普段通り完璧に終了した。
すぐにでも恭哉さんを家に送り届けたかったが、撮影場所からは事務所の方が近く、先に他の四人と楽器をそこで降ろすことになった。恭哉さんは練習に参加せず帰るという話はしたが、五人揃っていなくても練習はしたいと、りっちゃん、真人さん、クロユリさんが言い、恭哉さん以外の四人は予定通り事務所の地下スタジオで練習することになったのだ。
車の中で、恭哉さんは目を閉じて眠ろうとしていた。しかし何が原因なのか、眠れない様子だった。
なるべく早く恭哉さんを休ませたいという翔の思いが届いたのか、ほとんど信号に引っ掛かることなく、思いのほか早く事務所に到着した。
恭哉さんに車で待つか尋ねると、少し車に酔ったから降りると言うので、全員でスタジオに向かった。乗り物酔いをしたときは外で酸素を吸った方がいいのではとも思ったが、人目があるから避けた方がいいという判断だろう。
急いでいたせいで運転が荒くなってしまったかと少々落ち込んだが、耕平さんがこっそり「体調悪い時は酔いやすいんだよ。翔の運転は丁寧だった」と慰めてくれた。
スタジオに入り、翔はりっちゃんとドラムを組み立てた。他のメンバーも、各々自分の楽器を調整している。
恭哉さんは、スタジオの隅で腕を組んで立っていた。座った方がいいと言ったが、断られてしまった。「座ったら寝そうだから」らしい。
寝たら担いで運ぶのにと一瞬思ったが、翔の体格では恭哉さんは運べないかもしれないと考え直した。恭哉さんは筋肉も脂肪もそんなになさそうだが、180cm以上ある大人を持ち上げられるほど翔に筋肉がない。
楽器を組み立て終わり、一旦お昼を食べてから練習しようという話になった。
じゃあその間に恭哉さんを家に送り届けようと、翔が発言しようとした、その時だった。
「う゛っ!」
嘔吐くような声が、スタジオの隅から聞こえた。
慌てて振り向くと、俯いた恭哉さんが、右手を口元に当てていた。
「恭哉さん!」
翔が駆け寄り、顔を覗き込む。その顔は蒼白で、今にも吐きそうなのを堪えている様子だった。
やっぱり、朝の段階で無理にでも止めるべきだった。激しい後悔が翔を襲った。
「かけるっち、ちょっとどいて!」
後ろから声を掛けられ、翔がその言葉を認識する前に押しのけられた。
りっちゃんがビニール袋を持って、恭哉さんの前に立った。
「きょうちゃん、吐いていいよ。大丈夫だから」
りっちゃんが優しく声を掛けるが、恭哉さんは反応を示さない。周りの声を聴く余裕もないのだろう。
狼狽える翔に、りっちゃんが冷静に声を掛ける。
「かけるっち、どこか横になって休める場所ない?」
急に聞かれて一瞬戸惑ったが、案外答えはすぐに思いついた。
「事務所のソファなら……。確認してきます!」
事務所には応接用のソファがある。あそこなら休めると思ったが、来客中の可能性を考えるといきなり連れて行くわけにはいかない。
翔は急いでスタジオの重い扉を開け、階段に向かった。エレベーターもあるが、走れば階段の方が早い。
一段飛ばしで駆け上がり、雑にノックして事務所に駆け込んだ。
「すみません!ソファ、使っていいですか!」
事務所にいた社長、松木さん、碓氷さん、畑中さんが、一斉に翔を見る。明らかに急いでいる翔の様子に、全員手を止めた。
「大丈夫だけど、どうして?」
松木さんが不思議そうに首を傾ける。急いで戻らなければならないため、翔はなるべく簡潔に伝えようと言葉を探す。
「恭哉さんが、倒れて……」
そこまで言ったところで、社長がガタリと音を立てて立ち上がった。
焦りを抑えるような顔で、足早に翔に近づいてくる。
「恭哉はどこに?」
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社長は翔の横を抜け、階段を駆け下りる。翔も慌てて社長を追いかけた。
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