冬空の木漏れ日

わしお

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プリンを食べ終え、未だテレビに目を向ける二人に、翔は神妙な面持ちで話しかけた。

「あの……」

二人は同時に振り向いた。翔の顔を見て、一瞬驚いた顔をする。
何かを察してくれたのか、恭哉さんはテレビのボリュームを下げ、電源を切る。
社長はいつもの優しい笑顔を向けた。

「どうしたんだい?」
「えっと……。大したことじゃないんですけど……」

翔は負けそうになる心をぐっと抑え、努めて平然と言葉を紡ぐ。

「オレ、そろそろちゃんと家探ししますね」

社長と恭哉さんは、きょとんと目を丸くした。
報告するほどのことでもないだろう。社長には厚意で部屋を貸してもらっていただけで、本当はもっと早く家を探して出て行くべきだった。

けれどここは居心地が良くて、ついずるずると居座ってしまった。
もう少し会社に馴染むまで、もう少しメンバーと仲良くなるまで、もう少し仕事ができるようになるまで、色々な言い訳をして、見ないふりを続けてきた。

しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。恭哉さんが戻ってくるなら、二人の時間を大切にするなら、翔はいない方がいいだろう。
所詮翔は部外者だ。二人の悩みを聞いたからって、気持ちを共有したからって、家族ではないのだ。
最初から、長居するつもりではなかった。すぐに新しい家を見つけて出て行くつもりだった。

きっと社長もそのつもりだったはずだ。こんな報告をされても、「まだ探してなかったのか」と思われるだけだろう。
けれど、宣言しなければ動けない気がした。社長と恭哉さんの傍は本当に居心地が良くて、これ以上ここにいたら、今よりもっと出て行きたくなくなってしまう気がする。

出て行かなければ。優しい二人は、本心では出て行ってほしいと思っていても何も言わないだろう。
迷惑をかける前に、嫌な思いをさせる前に、ここを立ち去らなければ。

社長はきょとんとした顔のまま、小さく首を傾げた。

「どうして?この家は居心地が悪いかい?」

予想外の答えに、翔の方が動揺する。どうしてと聞かれるなんて思っていなかった。
恭哉さんは少し目を伏せて、感情の無い声を発する。

「俺に気を遣ってるなら、回復したら向こうに戻るけど」
「違う!」

翔はほとんど反射で叫んだ。思いのほか大きい声が出て、自分でも驚いてしまった。
恭哉さんと社長も驚いたようで、目をぱちくりさせている。
翔は少し申し訳ない気持ちになりつつ、なるべく落ち着いて話しはじめる。

「本当は、もっと早く家を探すつもりだったんです。いつまでも社長の厚意に甘えるわけにもいかないので……。でも、すごく居心地が良くて、ここから出勤するのが日常になって、出て行かなきゃいけないってことから、目を背けてたんです」
「ならいいじゃないか、ここにいれば」

社長のあっさりとした声に、翔は驚いて顔を上げる。
社長はいつも通り、にこにこと微笑んでいた。

「私は翔くんがいてくれて嬉しいよ。もちろん、翔くんが出て行きたいのなら止めないけど、そうじゃないなら、ここにいればいい」

社長の言葉に嘘があるとは思っていないが、だからといって「じゃあここにいます」と言えるわけもなく、翔は俯きがちに反論する。

「でも……。オレがいたら、邪魔じゃないですか?せっかく、また家族で過ごせるのに」
「じゃあ、もし翔くんが実家に戻ることになったとして、恭哉も一緒に暮らすことになったら、邪魔だと思う?」
「大歓迎です」

自分でも驚くほど食い気味で答えてしまった。恭哉さんなら母も喜ぶだろう。面食いだから。
翔も、恭哉さんと一緒にいられたら嬉しい。優しいし、傍にいると不思議と落ち着く。

しかしそれは恭哉さんが最強のルックスと気が察しのいい性格をしているからで、どちらも持たない翔には当てはまらない。

「恭哉さんは、優しいし気が利くし、見た目もかっこいいし、歓迎されて当然だと思います。でも、オレは馬鹿でドジで間抜けで、仕事はできないし、顔は平凡以下だし、背低いし、面白いことも言えないし、冗談通じないし、空気読めないし、喜ばれる要素なんて無いじゃないですか」

恋人どころか友達もまともにできたことがない自分と、一緒にいたいと思ってくれる人なんているはずがない。そんなことはもうわかっている。翔が一緒にいたいと思っていても、相手にとってはそうではない。

いつもそうだった。クラスで仲がいいと思っていた人も、翔がいじめられたらあっさりと手の平を返した。受け入れてくれたと思っていた同居人には追い出され、姉弟のように育った幼馴染はあっさり他の人と結婚してしまった。

社長と恭哉さんはまだ出会って二か月だから新鮮かもしれないが、きっとすぐに翔への興味を無くすだろう。

そう思ってわかった。自分は、いらないと言われるのが怖いのだ。
怖いから、そうなる前に自分から離れようと思ったのだ。そうすれば、傷は浅くて済むから。

本音を言えばまだここにいたい。けれど、いつかいらないと言われるくらいなら。

そのまま黙ってしまった翔に、社長は困ったように腕を組み、恭哉さんは呆れたようにため息をつき、頬杖をついた。
面倒臭いと思われただろうか。一緒にいたくないと、思われただろうか。

「翔は俺を過大評価しすぎだな」

予想していなかった恭哉さんの言葉に、「へ?」と間抜けな声をあげてしまう。

「あと、自分を過小評価しすぎだ」

そう言って、恭哉さんは翔を真っ直ぐ見るように座り直した。

「翔は俺を優しいって言ってくれるけど、全然そんなことはない。初対面の時の態度の悪さ忘れたのか?」

すっかり忘れていたが、最初の恭哉さんはすごく怖かった。社長はピンときていないようで、首をかしげている。
だがそれは翔が余計なことを言って、恭哉さんの気分を害してしまったからだ。元はといえば翔が悪い。
恭哉さんは話を続ける。

「俺からすれば、翔は優しくて、真っ直ぐで、何事にも一生懸命で、家事も一通りできる。ドジは否定しないけど馬鹿ではないし、仕事も普通にできてると思う。気が利かないと思ったこともない。俺は何度も翔に助けられてるよ」

どうしてそこまで言ってくれるのだろう。どうして、翔を引き止めるようなことを言うのか。
ここにいていいと、勘違いしてしまいそうになる。

「オレ、本当に一緒にいても楽しくないよ?いつか絶対邪魔になるぞ?」
「楽しいよ、翔といるのは。いつかのことは知らないけど、今の俺は、翔と一緒にいたいと思ってる」

そう。いつかのことはわからない。
今はそう思ってくれても、いつかは。

「いつか、いらないって、邪魔だって、思うよ。みんなそうだった。最初は一緒にいてくれる。優しくしてくれる。でも、そのうち嫌になるんだ。つまんない、とろい、楽しくないって、離れてくんだ。そんなのやだよ。恭哉さんからそんなこと言われたくない。そんなこと言われたら、オレ……」

じわじわと、目頭が熱くなる。
あっという間に視界が歪んで、頬を温かいものが伝う。
それは翔の顎を伝って、フローリングの床に落ちた。

想像ですら耐えられなかった。恭哉さんから、邪魔だと、出て行ってくれと言われるのが。
今まで経験した何よりも辛くて、心が握りつぶされるように痛んだ。
友人に裏切られるより、職場をクビになるより、好きな子が結婚してしまうことより、同居人に追い出されることより。
何よりも、まだ言われてもいない恭哉さんの言葉に、身を引き裂かれるような痛みを覚えた。

そうしてやっと気づいた。数日前から感じていた、不思議な感情の正体に。

(オレ、恭哉さんが好きなのか……)

守りたい。傷ついてほしくない。笑ってほしい。幸せでいてほしい。
そう思ったのは、恭哉さんの心の傷を知ったからだけではなくて、不幸な境遇に同情したわけでもなくて。

ただ純粋に、恋をしていた。

切ない歌声に、この世のものではないかのような美しい姿に、冬の空のように透き通った、無垢な心に。
どうしようもなく惹かれていた。無意識の中で、この人を求めていた。

歪んだ視界の中で、恭哉さんが立ち上がる。今しがた想像した拒絶の言葉を聞くのが怖くて、耐えるように目を瞑る。

けれど、そんな未来は訪れなかった。
翔の体が、ふわりと温かさに包まれる。

ゆっくりと目を開けば、翔の体は恭哉さんに優しく抱きしめられていた。

「……俺さ、翔と暮らせるの、ちょっと楽しみだったんだ。朝いつまでも起きてこない俺を翔が起こしに来てくれるとか、一緒に夕飯の準備するとか、テレビ見ながら一緒にプリン食べるとか、そんな生活ができたら幸せだろうと思った。翔がいなかったら、俺はお父さんと向き合えなかった。家族の絆がテーマの歌詞なんて、書けるわけないって諦めたと思う。家庭環境のことを話したのは翔が初めてじゃない。でも、正面からぶつかってきてくれたのは翔だけだ。きつい態度を取っても歩み寄ろうとしてくれた。俺の悩みに、俺以上に心を痛めてくれた。嬉しかったんだよ。本当に。翔のおかげで、俺がどれだけ救われたか」

恭哉さんの腕に、少しだけ力がこもる。顔を上げても、翔の位置から恭哉さんの顔は見えなくて、どんな表情をしているかはわからない。

「翔が作ってくれたご飯、美味しかったよ。飲みながら話したときも楽しかった。本気で怒って、間違いに気づかせてくれて、一緒に泣いてくれて、本当に嬉しかった。ずっと家を出てた俺が言っていいことかわからないけど、ここにいてよ。納得できないなら俺のせいにしていい。俺の我儘に付き合ってると思えばいい。……俺だって、翔に「出て行く」なんて言われたくなかったよ」

恭哉さんの声音はいつもより少し乱暴で、必死に冷静になろうとしているようだった。
本当に、ここにいていいのだろうか。本当に、いてほしいと思ってくれているのだろうか。

恭哉さんの顔が見たくて、体をそっと離す。
その表情は少し怒っていて、泣いているようにも見えた。

「オレ、ここにいていいのか?邪魔じゃないか?目障りじゃないか?」

恭哉さんは、少し目を細めて微笑んだ。

「だから、そう言ってるだろ」

翔の視界が、またじんわりと歪んでいく。
衝動のままに恭哉さんに抱き着けば、思いのほか強い力で抱き返された。

好きな人に求められている。傍にいさせてもらえる。
嬉しさで涙が止まらない。こんなに幸せでいいのだろうか。

もしかしたら、翔が想像したように、いつか拒絶される日が来るかもしれない。
それでも、今だけは。

翔たちの様子を黙って見守っていた社長は、嬉しそうにふっと微笑んだ。

「いやぁ……。愛だねぇ」

その言葉に、翔の肩が過剰に跳ね上がる。
一瞬で涙は引っ込み、顔に熱が集まっていく。
頭から火が出そうなくらい熱くなり、慌てて体を離した。

「いや!これは、その」

咄嗟に言い訳が出てこない。しかしよく考えれば、社長が恋愛の意味で言ったわけではない可能性は十分にある。
そうだ、きっと親愛の意味だ。

「そう!親愛!だよな、恭哉さ……」

ただの翔の勘違い、そう思って恭哉さんを見てみれば、恭哉さんは翔と同じように顔を赤くして、口元を手で覆っていた。

「えっと……?」

社長は「ははっ」と笑って、椅子から立ち上がった。

「じゃあ、私は先にお風呂をいただこうかな。恭哉、そういうことは逃げるより、当たって砕けろだよ。二度も砕けた私が言うことじゃないけどね」

どうぞごゆっくり。そう言って、社長はリビングから出て行った。

翔はわけがわからなくて、社長が出て行った扉をぽかんと口を開けたまま見つめた。
恭哉さんの方を振り返ると、先程と同じ体勢のまま、恥ずかしそうに目を伏せていた。

「あの、恭哉さん……?」

翔が声を掛ければ、恭哉さんは眼球だけを翔の方へ向けて、大きなため息をついた。

「親愛……。うん。普通はそう思うよな」

恭哉さんは視線を外し、青い瞳が悲し気に揺れる。
何か傷つけるようなことを言ってしまっただろうか。そう思って翔は不安になったが、声を掛ける前に、恭哉さんは翔に向き直った。
その瞳は真剣で、しかしどこか不安そうだった。

「あの、さ。もし、俺がこれから言うことを、気持ち悪いとか不快だと思ったら、遠慮なく殴っていいし、出て行っても追わないから」
「え……」

さっきはここにいてと言ってくれたのに、どうして。
そう思った翔の不安が伝わったのか、恭哉さんは「出て行ってほしいわけじゃないからな」と付け加えた。

一体何を言おうとしているのか。そこまで翔の考えが変わる可能性のあることなのか。
不安に胸がざわつく。何を言われても殴ることはない自信はあるが、拒絶の言葉が来るのではないかという懸念に、無意識に拳を握りしめる。

恭哉さんは一度深呼吸をして、翔の目を真っ直ぐに見た。

「翔のことが好きなんだ。親愛じゃなくて、恋愛として」
「………え」

一瞬、何を言われたかわからなかった。
好き?恭哉さんが、誰を?恋愛として?

「えっと……。誰が、誰を?」
「俺が、翔を」
「恭哉さんが、オレを?恋、愛……?」

なかなか理解を示さない翔に、「だから」と恭哉さんは頭を搔く。

「俺が、翔を、恋愛対象として好きなんだ。だから、その………。嫌じゃなければ、付き合って、ほしい、な、って……」

だんだんと語尾が小さくなり、最後の方はほとんど聞き取れない声量だった。

翔はようやく言葉の意味を理解して、鼓動が跳ねあがる。
恭哉さんは恥ずかしそうに顔を赤らめ、くるりと翔に背を向けた。

「ごめん。変なこと言った。忘れて」

そう言って出て行こうとした恭哉さんの手首を、翔は反射的に掴んだ。
恭哉さんは驚いたように振り返り、足を止める。
その手は微かに震えていて、冷やかしでもなく、恭哉さんが覚悟を決めて言葉を口にしたのだとわかった。

「オレ、も……」

喉が震えて、上手く声が出せない。
それでも、どれだけ不格好でも、伝えなければならない。
翔が言えなかったことを、恭哉さんは勇気を振り絞って伝えてくれたのだから。

翔は無理矢理顔を上げて、不安げに揺れる青い瞳を真っ直ぐに見た。

「オレも、恭哉さんが好きだよ!その、ちゃんと、そういう意味で……」

思った以上に恥ずかしくて、どんどん声が小さくなってしまった。顔から火が出そうだ。
恭哉さんの瞳が大きく見開かれる。澄んだ空に映る翔の姿は、随分不格好で情けなかった。

「……本当、に?無理してないか?」

信じられない様子の恭哉さんに、翔は情けない顔のままうなずいた。
恭哉さんの眉が、安心したようにみるみる下がっていく。
そのまま流れるように、どちらからともなく互いの体を抱きしめた。
翔はまだ少し緊張しながら、夢ではないと確認するように、恭哉さんの背中に回す腕に力を込める。

「恭哉さん」
「恭哉でいい」
「……恭哉」

応えるように、耳元で「翔」と囁かれる。
その優しい声が、暖かな温もりが、夢ではないのだと伝えてくる。

嬉しくて、愛しくて、何度も「恭哉」と呼びかける。
恭哉はその度に、「翔」と優しく呼んでくれる。

なんとも贅沢で、幸せな時間だった。
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