【完結】月よりきれい

悠井すみれ

文字の大きさ
18 / 32
三章 想いの値段

6.暴露

しおりを挟む
 ふと気付くと、清吾せいごは神田の界隈をふらふらと歩いていた。いったいいつ、どのようにして錦屋にしきやを辞したのか覚えていないが、信乃しの──信乃だと思っていた女が待つ長屋は、もう目と鼻の先だ。

(あの女は、何者だ? 信乃は──なんだ?)

 通り過ぎる者たちが、怪訝そうな面持ちで清吾を振り向くのが、視界の端に見えた。彼はいったい、どのような顔色をしているのだろう。青褪めているのか、頬に朱を上らせているのか。額から滴る汗が、顎から落ちるような気もしたが。

(分からない……!)

 何も分からなかった。ただ、花びらの形のあざが目に焼き付いて離れない。唐織の、新雪の肌に舞い落ちるようなそれ。信乃──だと思っていた女の、痩せてくすんだ色の肌に張り付くそれ。同じ形に見えた。なぜ、信乃の痣を帯びる女がふたりもいるのか。

 道理で考えれば、そのうちのひとりは偽者なのだ。だが、どちらが? そして、偽者を用意したのは、何者で、何の目的があったのか。

「清吾、どうした。今日の仕事はもう終わったのか?」

 と、さまよううちに、知り合いに行き会ったらしい。彼の顔を覗き込むのが誰だったか──とっさに思い出せないまま、清吾はうわごとのように呟いた。

「いや……信乃、が」

 ふたりいた? 偽者だった? いや、言えるはずがない。言ったところで、理解されるはずがない。

「何だ、女房が心配で帰って来たのか?」
「信乃さんなら、さっきは起きてたけどねえ」

 立ち止まり、言い淀んだ清吾に、もうひとり、ふたりと、心配顔の者たちが近づいて来る。男女の別も年齢も様々な──では、長屋の住人たちだろうか。誰も彼も、顔にもやがかかったようで、区別がつかない。姿のぼやけた幽霊にでも囲まれている気分だった。気味が悪くて、落ち着かない。

(いや……俺の目がおかしいのか?)

 そうかもしれない。彼は、信乃の顔さえ覚えていなかった。痣に頼らなければ見分けることができなくて、だから今、こんなことになっている。

「そうだ……と、話がしたくて。──すまん、通してくれ」

 よろめくように足を踏み出して、清吾は彼を囲んだ人垣をすり抜けた。

      * * *

 戸を開ける音で、女は目覚めたようだった。裏長屋の、昼でも暗い室内に、布団から起き上がろうとする影がもがくのが見て取れた。まだ生きていてくれた、と。これまでならば、この上なく安堵する気配だったはずなのに。今では、誰とも知れない者が家にいるという不安が勝る。

「清吾。早かったね……?」
「信乃」

 喜びと不審が入り交ざった問いかけには答えず、清吾は短く呼んだ。目の前の女ではなく、行方知れずの──今また、行方が知れなくなった──幼馴染の名を。

 雪駄せったを脱ぎ捨てて、女の枕元に駆け寄る。布団をめくり、足に手をかける。寝乱れた襦袢じゅばんを剥がれようとしたところで、女がようやく声を上げ、もがいた。

「なに。どうしたの清吾」

 だが、痩せ枯れた手足では若い男の力にはかなわない。掠れて張りの失せた声もまた、清吾を制止するだけの力はない。

「いや。だめ、やめ──」

 ほんの数秒の間に、清吾は女の右足をさらさせていた。桜の花びらの形のは、行水ぎょうずいや着替えを手伝う折に、もちろん何度も目にしていた。だが、これまでは痣でかもしれない、などとは考えてもいなかった。だが──

(痣に似せた刺青いれずみだ。よくできている……!)

 自然な輪郭といい肌への馴染み具合といい、まったく見事なだった。文字や絵柄と違ってはっきりと誇示するためのものではないし、清吾の目がそれだけ節穴だったからでもあるのだろうが。

 とにかく、これでひとつ、はっきりした。この女は信乃ではないのだ。女の足から離れた清吾の手が、今度はその肩を掴む。やはり枯れ木のように細く、軽くなった身体を激しく揺さぶり、問い質す。

「お前は……誰だ。信乃じゃないのか。あいつを知ってるのか。信乃は、本当の信乃はどうなった!??」
「ごめ、なさ──」

 大声に身体を竦ませながら、女は詫びた。身体からは水気が失せているだろうに、両の目尻から涙の雫が零れ落ちる。

「か、唐織花魁が! 羅生門らしょうもん河岸かしで死ぬのは、浄閑寺じょうかんじ無縁仏むえんぼとけは嫌だろうって。上手くやれば、最期に良い思いができるし……ひ、人助けにも、なるからって」

 女は、清吾の詰問に何ひとつ答えてくれなかった。ただ、言い訳を連ねるだけで。だから清吾が本当に知りたいことは分からないままだ。

(唐織花魁が、信乃なんじゃないのか……? 人助けっていうのは……?)

 清吾に、「信乃」を会わせてやる、ということなのか。だが、ならばどうして、唐織のを見せる必要がある? 一度信じさせておいて、どうして薄氷の平穏を叩き壊したのだろう。

「ご、ごめんなさ──お願、す、捨てないで。放り出さないで……!」

 嗚咽だか咳だが分からない、ひゅうひゅうという息の音の混ざった声で、女は必死に清吾に訴えている。折れそうな指が彼に縋る、思いのほかの強さは、それだけ野垂れ死にが怖いのだろうと察せられた。この女は恐らく彼の問いへの答えを知らないということも。──そもそも、これ以上問い詰めることはできそうにない。

「……信乃」

 結局のところ、彼はここしばらくの間、この女を信乃と呼んで過ごしてきた。偽者と知っても突き放せないていどの情は、すでに湧いている。ほかに呼ぶ名前も、思いつけない。

「清吾。許して。堪忍して。どうか。どうか──」
「……落ち着け。俺も悪かった。もう良い。良いから……!」

 嘘を暴かれて狼狽したことで、女は我を忘れて興奮してしまったようだ。弱り切った身体には、声を上げて泣きわめくのは毒にしかならないだろう。安らぎを奪ってしまった後悔と共に、清吾は女の身体を抱き締め、意味のない慰めを囁き続けた。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

【完結】『江戸めぐり ご馳走道中 ~お香と文吉の東海道味巡り~』

月影 朔
歴史・時代
読めばお腹が減る!食と人情の東海道味巡り、開幕! 自由を求め家を飛び出した、食い道楽で腕っぷし自慢の元武家娘・お香。 料理の知識は確かだが、とある事件で自信を失った気弱な元料理人・文吉。 正反対の二人が偶然出会い、共に旅を始めたのは、天下の街道・東海道! 行く先々の宿場町で二人が出会うのは、その土地ならではの絶品ご当地料理や豊かな食材、そして様々な悩みを抱えた人々。 料理を巡る親子喧嘩、失われた秘伝の味、食材に隠された秘密、旅人たちの些細な揉め事まで―― お香の持ち前の豪快な行動力と、文吉の豊富な食の知識、そして二人の「料理」の力が、人々の閉ざされた心を開き、事件を解決へと導いていきます。時にはお香の隠された剣の腕が炸裂することも…!? 読めば目の前に湯気立つ料理が見えるよう! 香りまで伝わるような鮮やかな料理描写、笑いと涙あふれる人情ドラマ、そして個性豊かなお香と文吉のやり取りに、ページをめくる手が止まらない! 旅の目的は美味しいものを食べること? それとも過去を乗り越えること? 二人の絆はどのように深まっていくのか。そして、それぞれが抱える過去の謎も、旅と共に少しずつ明らかになっていきます。 笑って泣けて、お腹が空く――新たな食時代劇ロードムービー、ここに開幕! さあ、お香と文吉と一緒に、舌と腹で東海道五十三次を旅しましょう!

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...