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五章 まこと、ひとつ
5.日本堤の狂騒
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八月某日、唐織花魁の身請けの当日。
大川から分かれる山谷掘に築かれた日本堤は賑わっていた。そもそも吉原通いの客目当ての水茶屋が並ぶ界隈ではあるが、今日に限っては男だけでなく女子供も押し寄せて、堤防から人が溢れんばかりになっている。ちょうど、水辺の涼気が恋しい残暑の時期でもあり、納涼がてら物見遊山に足を伸ばす者が多いのだろう。
清吾が声をかけた釣り船の船頭も、この活況にご満悦のようだった。
「兄さんも、唐織花魁が目当てですかい」
「ああ」
「陸地からじゃ、ろくに見えないでしょうからねえ。この時間にこれだけの繁盛ぶりは、花魁様々ですよ」
「ああ、そうなんだろうな」
山谷堀には、花魁の行列を水上から見ようという肚だろう、さほど大きくもない堀には、彼ら以外にも大小の船が舳先を並べていた。どこの料理屋が出したのか、中には屋形船まであって、細長く不安定な猪牙船などは、ひっくり返りかかって客が悲鳴を上げていたりもする。船を求める客が多い分、今日は船を借りる相場も急騰しているそうで、船頭の上機嫌も、つまりはそれが理由なのだろう。
船がひしめく、とまでは行かずとも、川面がかなり込み合う中を器用に進路を取りながら、船頭は世間話に興じる。
「そろそろ、大門を出るころですかねえ。錦屋では、昨夜は総仕舞の盛大な宴が夜通し続いたって話ですよ。芸者にも幇間にも、向こう何軒だかの見世にもご祝儀が出て、そりゃあ華やかだったって」
「それも、和泉屋の持ちなのかな?」
「そりゃあ、もちろん。唐織花魁ほどでなくても、当分は和泉屋さんも崇め奉られるんじゃないですかねえ」
いつか、花魁行列を眺めた時に耳に入った噂話が、現実のものになったらしい。好き勝手かつ大げさな世間の期待というか想像に応えてくれるほど、和泉屋は裕福なのか──あるいは唐織への想いを金で示そうとしているのか。
(あんたは、無粋な男だと言っていたが……)
あの強かな女のこと、その評でさえ手管のひとつかもしれないから油断ならない。案外、和泉屋の財力や甲斐性に満足しているのだとしたら、清吾は余計なことをしようとしていることになるが。
(まあ、俺は、俺が思ったようにやるだけだ)
清吾が改めて肚を括った時──日本堤が、人の歓声で揺らいだ。人の列が乱れて、堤防からこぼれ落ちんばかりに膨らみ、騒めく。
「来た、のか……!?」
唐織の行列が、衣紋坂を抜けて日本堤に至ったのか。清吾の言外の意を汲んで、船頭は大きく頷いた。
「でしょうね。さ、場所取りをしますよ」
陸の上と同様、山谷堀もがぜん、慌ただしくなった。ゆったりと漂っていた船たちが、いっせいに堤を目指し始めたのだ。波立つ川面に、揺れる船。落ちた者も出たのか、高い水音も上がる。
そんな中、清吾を乗せた船の船頭は、腕は確かなようだった。危なげなく船を操り、ちょうど水茶屋が途切れたところに陣取って、得意げに胸を張る。
「ここで待ちましょうや。ちょっと遠いかもしれませんが、まあ様子は分かるでしょう」
「ありがとうよ。でも、もう少し近づけてもらえるか?」
「土手の高さがあるでしょう。かえって見辛くなりませんかね?」
船頭が訝しげに尋ねるのも道理、山谷堀から見上げる日本堤は、十尺(三メートル)ほどの高さはありそうだった。近寄るほどに、視界に入るのは土手の土肌ばかりになるだろうが──
「良いんだ。行ってくれ」
清吾の頭にあるのは、ひと息で土手に飛び移って駆け上がれるかどうか、だけだった。
(無理じゃない、はずだ……!)
何しろ彼は大工なのだから。若さも体力も身の軽さも折り紙付きだ。躊躇うことさえ、しなければ。
「はあ」
清吾が上の空なのに気付いたのだろうか、船頭は腑に落ちていない表情ながらも土手近くまで船を寄せてくれた。行列が見辛くなったことが残念なのかもしれない。
(まあ、良いだろう? これから良いものを目の前で見物できるんだから、さ)
瓦版になっているくらいだから、船頭も花魁の情人の噂は知っているだろう。まさか、その噂の当人──という訳では、実際にはないのがややこしいのだが──を乗せているとは思うまい。
土手から聞こえる歓声やどよめきが近づくことで、清吾は唐織の行列が近づいてきているのを知った。野次馬が花魁に手を触れようとでもしたのか、咎める声や諍いめいたやり取りも川面に届く。そこに、行列を先導しているらしい幇間の囃す声も聞こえて、まるで祭りのような浮かれた空気が漂う。いや、全盛の花魁の身請けに、もしかしたら噂の情人が現れるかも、という期待が加わった、確かにこれは滅多にない祭りなのだろう。
行列を待つのに焦れたのか、船頭がそわそわと弾んだ呟きを漏らした。
「花魁は、駕籠に乗せられてるはずですよ。傍から見えるように、両側を開けて、ねえ」
「花魁行列とは違うんだな。衣装は見せないのか」
「そりゃ、着飾ってはいるんでしょうが。もう花魁は花魁じゃなくて、和泉屋さんのものですからねえ」
手持無沙汰ではなく緊張を紛らわせるため、それに、少しでも情報を得るために清吾が尋ねたのだとは、船頭はもちろん気付いていない。彼の真意にも、彼が密かに身体の重心を前に動かして、跳躍に備えていることも。教えられることが嬉しいのか、勝手に口を緩めてくれる。
「今回は、だいぶ行列の人数も多いそうですよ。見世の者の見送りだけじゃなくて、用心棒が、ってことで。ほら、例の噂! あれのお陰で、こんな人出に──」
「──来た」
船頭の言葉を遮って、清吾は短く呟いた。
土手に連なる人の背の間に、駕籠の棒と、それに付き従う新造たちの簪の煌めきが、見えた。人の歓声はいよいよ高まり、歌舞伎役者の大向こうさながらに、唐織や和泉屋の名が口々に叫ばれる。
いよいよ高まる祭りの熱が、清吾にも乗り移る。酔った時のように血が滾り、ふわふわとした高揚が全身を包む。その熱に任せて、叫び──跳ぶ。
「行くぞ、唐織!」
最初の一歩は、船の上。だから思いのほかに不安定で清吾の身体は危うく傾いだ。だが、確かな地に足をつけた次の一歩からは、思い描いた通りの動きができた。跳躍の勢いを殺さぬまま、土手を駆け上がり、野次馬の背を押しぬけて。
「主は──」
そうして、清吾は駕籠の前に立っていた。目を丸くした唐織が、目と鼻の先だった。
大川から分かれる山谷掘に築かれた日本堤は賑わっていた。そもそも吉原通いの客目当ての水茶屋が並ぶ界隈ではあるが、今日に限っては男だけでなく女子供も押し寄せて、堤防から人が溢れんばかりになっている。ちょうど、水辺の涼気が恋しい残暑の時期でもあり、納涼がてら物見遊山に足を伸ばす者が多いのだろう。
清吾が声をかけた釣り船の船頭も、この活況にご満悦のようだった。
「兄さんも、唐織花魁が目当てですかい」
「ああ」
「陸地からじゃ、ろくに見えないでしょうからねえ。この時間にこれだけの繁盛ぶりは、花魁様々ですよ」
「ああ、そうなんだろうな」
山谷堀には、花魁の行列を水上から見ようという肚だろう、さほど大きくもない堀には、彼ら以外にも大小の船が舳先を並べていた。どこの料理屋が出したのか、中には屋形船まであって、細長く不安定な猪牙船などは、ひっくり返りかかって客が悲鳴を上げていたりもする。船を求める客が多い分、今日は船を借りる相場も急騰しているそうで、船頭の上機嫌も、つまりはそれが理由なのだろう。
船がひしめく、とまでは行かずとも、川面がかなり込み合う中を器用に進路を取りながら、船頭は世間話に興じる。
「そろそろ、大門を出るころですかねえ。錦屋では、昨夜は総仕舞の盛大な宴が夜通し続いたって話ですよ。芸者にも幇間にも、向こう何軒だかの見世にもご祝儀が出て、そりゃあ華やかだったって」
「それも、和泉屋の持ちなのかな?」
「そりゃあ、もちろん。唐織花魁ほどでなくても、当分は和泉屋さんも崇め奉られるんじゃないですかねえ」
いつか、花魁行列を眺めた時に耳に入った噂話が、現実のものになったらしい。好き勝手かつ大げさな世間の期待というか想像に応えてくれるほど、和泉屋は裕福なのか──あるいは唐織への想いを金で示そうとしているのか。
(あんたは、無粋な男だと言っていたが……)
あの強かな女のこと、その評でさえ手管のひとつかもしれないから油断ならない。案外、和泉屋の財力や甲斐性に満足しているのだとしたら、清吾は余計なことをしようとしていることになるが。
(まあ、俺は、俺が思ったようにやるだけだ)
清吾が改めて肚を括った時──日本堤が、人の歓声で揺らいだ。人の列が乱れて、堤防からこぼれ落ちんばかりに膨らみ、騒めく。
「来た、のか……!?」
唐織の行列が、衣紋坂を抜けて日本堤に至ったのか。清吾の言外の意を汲んで、船頭は大きく頷いた。
「でしょうね。さ、場所取りをしますよ」
陸の上と同様、山谷堀もがぜん、慌ただしくなった。ゆったりと漂っていた船たちが、いっせいに堤を目指し始めたのだ。波立つ川面に、揺れる船。落ちた者も出たのか、高い水音も上がる。
そんな中、清吾を乗せた船の船頭は、腕は確かなようだった。危なげなく船を操り、ちょうど水茶屋が途切れたところに陣取って、得意げに胸を張る。
「ここで待ちましょうや。ちょっと遠いかもしれませんが、まあ様子は分かるでしょう」
「ありがとうよ。でも、もう少し近づけてもらえるか?」
「土手の高さがあるでしょう。かえって見辛くなりませんかね?」
船頭が訝しげに尋ねるのも道理、山谷堀から見上げる日本堤は、十尺(三メートル)ほどの高さはありそうだった。近寄るほどに、視界に入るのは土手の土肌ばかりになるだろうが──
「良いんだ。行ってくれ」
清吾の頭にあるのは、ひと息で土手に飛び移って駆け上がれるかどうか、だけだった。
(無理じゃない、はずだ……!)
何しろ彼は大工なのだから。若さも体力も身の軽さも折り紙付きだ。躊躇うことさえ、しなければ。
「はあ」
清吾が上の空なのに気付いたのだろうか、船頭は腑に落ちていない表情ながらも土手近くまで船を寄せてくれた。行列が見辛くなったことが残念なのかもしれない。
(まあ、良いだろう? これから良いものを目の前で見物できるんだから、さ)
瓦版になっているくらいだから、船頭も花魁の情人の噂は知っているだろう。まさか、その噂の当人──という訳では、実際にはないのがややこしいのだが──を乗せているとは思うまい。
土手から聞こえる歓声やどよめきが近づくことで、清吾は唐織の行列が近づいてきているのを知った。野次馬が花魁に手を触れようとでもしたのか、咎める声や諍いめいたやり取りも川面に届く。そこに、行列を先導しているらしい幇間の囃す声も聞こえて、まるで祭りのような浮かれた空気が漂う。いや、全盛の花魁の身請けに、もしかしたら噂の情人が現れるかも、という期待が加わった、確かにこれは滅多にない祭りなのだろう。
行列を待つのに焦れたのか、船頭がそわそわと弾んだ呟きを漏らした。
「花魁は、駕籠に乗せられてるはずですよ。傍から見えるように、両側を開けて、ねえ」
「花魁行列とは違うんだな。衣装は見せないのか」
「そりゃ、着飾ってはいるんでしょうが。もう花魁は花魁じゃなくて、和泉屋さんのものですからねえ」
手持無沙汰ではなく緊張を紛らわせるため、それに、少しでも情報を得るために清吾が尋ねたのだとは、船頭はもちろん気付いていない。彼の真意にも、彼が密かに身体の重心を前に動かして、跳躍に備えていることも。教えられることが嬉しいのか、勝手に口を緩めてくれる。
「今回は、だいぶ行列の人数も多いそうですよ。見世の者の見送りだけじゃなくて、用心棒が、ってことで。ほら、例の噂! あれのお陰で、こんな人出に──」
「──来た」
船頭の言葉を遮って、清吾は短く呟いた。
土手に連なる人の背の間に、駕籠の棒と、それに付き従う新造たちの簪の煌めきが、見えた。人の歓声はいよいよ高まり、歌舞伎役者の大向こうさながらに、唐織や和泉屋の名が口々に叫ばれる。
いよいよ高まる祭りの熱が、清吾にも乗り移る。酔った時のように血が滾り、ふわふわとした高揚が全身を包む。その熱に任せて、叫び──跳ぶ。
「行くぞ、唐織!」
最初の一歩は、船の上。だから思いのほかに不安定で清吾の身体は危うく傾いだ。だが、確かな地に足をつけた次の一歩からは、思い描いた通りの動きができた。跳躍の勢いを殺さぬまま、土手を駆け上がり、野次馬の背を押しぬけて。
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