【完結】月よりきれい

悠井すみれ

文字の大きさ
30 / 32
五章 まこと、ひとつ

6.月よりきれい

しおりを挟む
 驚愕をあらわにした唐織からおりの表情を見て、清吾せいごは思わずくすりと笑った。

(なんだ、やっぱりお呼びじゃなかったか)

 もちろん分かっていたことではあったが、この女は彼が現れて攫い出す、などとは期待してもいなかった。一方で、彼を噂でおびき寄せて「それほどに求められるほどの女」として評判を高めようとしていた訳でもなかったのだろう。

 それほどに夢見がちではなく、それほどに悪辣でもない──案外に普通の女なのだな、などと思えば怒るだろうか。

 土手下から突如現れた闖入者ちんにゅうしゃに、和泉いずみ屋の雇った用心棒とやらは呆気に取られて動けないようだった。代わりに、いち早く清吾と唐織の駕籠かごの間に割って入ったのは──

ぬしは……っ! あれほど言われておきながら、姉さんにつきまとって……っ」

 振袖新造ふりそでしんぞうの、さらさだった。叫ぶような声と、鋭く清吾を睨む眼差しに加えて、激しく翻る色鮮やかな振袖が、少女の怒りと焦りを示しているようだった。その剣幕は、自分でも訳の分からない衝動に突き動かされ、高揚に酔う清吾には何らの効き目もなかったが。

(咄嗟によく口が回るもんだ)

 さらさは、清吾が一方的に唐織につきまとっているのだ、と野次馬に宣言したのだ。断じて、噂になっているような想い合う間柄ではない、と。姉の評判を思ういじらしさ、そのために効果的な言い回しを思いつく機転、いずれも大したものだと思う。これなら唐織花魁の名は、次代も安泰だろう。

「騒がせてわりいな。ただ、姉さんに言い忘れたことがあるんだ。ちょっと退いてくんな」
「何を──」

 さすがに次の言葉が見つからないらしいさらさの肩が震える。相手の怒りを煽るのは承知で、清吾は少女の腕を掴んで引き寄せると、駕籠を覗き込んだ。さらさを盾に、唐織と話す時間を稼ぐはらだった。

「く、来るな……!」

 清吾の狼藉を恐れたのか、駕籠の前をいていたひとりが腰を抜かし、後ろのもうひとりは務めを放り出して逃げ出した。不格好に傾いだ駕籠の中、姿勢を崩して眉を顰めて──それでも唐織は、美しかった。清吾を睨む眼差しも、気丈に紡ぎ出す声も。

「さらさを離しなんし。主とはもう最後と言いんした」
「ああ。晴れの日に邪魔して悪いと思ってる。本当に」

 唐織と視線を合わせるため、清吾はその場に膝をついた。引きずられてくずおれたさらさが、小さく悲鳴を上げる。気の毒にも申し訳なくも思うが、今は堪えてもらうほかない。

「どうしても言いたいことがあったんだ」
「恨み言でありんすか。やはりわちきが気に喰わぬ、許せぬと……? 主が愚かであったと、認めていなんしたのに……!」

 唇を歪めて声を震わせる唐織は、なじられることを恐れているのだろうか。この女にそのような弱さがあるのは意外なことだった。その脆さがこの女の素顔なのか──あるいは彼だから特別なのか、と思い上がりかけて。けれど、清吾はすぐに心中で首を振った。

(「信乃しの」のことだと思ってるんだろうなあ)

 信乃の名を負わされた哀れな女の余命がいくばくもないことは、唐織も承知していただろうから。「信乃」の死を看取った後で清吾の気が変わったとでも考えたのだろう。ならばこの女は、思いのほかに優しく情が深いのかもしれない。

「何をしている、捕まえろ! 叩き殺せ……!」
「お、お待ちを! さらさもうちの大事な娘で──」

 ともあれ、考えている余裕はなかった。声高く言い争う気配は、和泉屋と、錦屋にしきや楼主ろうしゅだろう。さらさに傷を負わせてでも清吾を捕まえる、と。思い切られる前にを済ませてしまわなくては。

 清吾は、ぐいと身を乗り出すと、唐織の耳元に口を寄せた。そして、囁く。

「あんたは月よりきれいだ」

 唐織の目が、よりいっそう大きく見開かれるのが眩しかった。野次馬も、吉原よしわらの者たちも、周囲の野次馬どもの喧騒がうるさくて、彼の声を聞いた者は唐織以外にいないだろう。ふたりの秘密、を押し付けたのが愉快で、清吾は声高く笑っていた。

「俺にもあんたにも、まことはなかったが! それでも、今のは本当だ! あとはそっちで、煮るなり焼くなり好きにしてくれ!」

 高らかに宣言しながら立ち上がり、さらさを突き放す。人質を手放す機を窺っていたのだろう、すかさず、清吾を狙った棒や拳が前後左右から襲い掛かった。身を屈めてかわしながら、強く思う。

(嘘だけで生きていくのは、辛いだろう……!?)

 先代の唐織だって、好いた男と結ばれた訳ではなかったのだ。それでも、たった一夜のみそかの月をよすがに身請けに臨んだのだ。清吾の言葉など、本心であるという以外には何の価値もないのだろうが──だが、嘘も偽りも含まれてはいない。

(あんたは嘘吐きで強かで信用できなくて──でも、本当にきれい、なんだよ)

 花魁として絢爛に装った時も。妖しい笑みで彼を惑わせた時も。姉花魁への想いを吐露して、表情をひび割れさせていた時でさえ。みそかの月が見えたとしても、その美しさに敵うはずがない。清吾は心からそう思った。それを伝えたかったのだ。

「この、馬の骨があ……っ」

 と、視界が激しく揺らいだ。否、揺らいだのは頭だ。棒で、側頭部を殴られた。そう気付いた時には、さらに続けざまに痛みと衝撃が彼を襲っている。

「ぐ──」

 清吾を狙う者は多く、人垣によって逃げ場は狭い。一度体勢を崩すと、彼は良い的でしかなかった。腕を上げて頭を庇うと、なぜか目の前が赤い。血が流れて目に入ったのか、とぼんやりと思う。

「わ、来るな──」
「きゃあっ」

 無辜の者を殴る訳にはいくまい、と踏んで野次馬のほうへ倒れ込むと、血塗れの清吾を避けて人垣が割れた。あるいは、とばっちりで打たれることを恐れたのか。とにかく──清吾がよろめいた先には、地面がなかった。先ほど駆け上がったばかりの堤防を、今度は転がり落ちるのだ。

 十尺の高さを落ちた分、清吾が上げた水音は、船から落ちた物見客が上げたそれよりもずっと大きかった。

      * * *

 清吾の口から、大きな泡が漏れた。同時に肺が締め付けられて胸と頭が痛む。殴られた痛みとは違う、空気を欲する身体が上げる、より切実な悲鳴だった。水に落ちて上下左右も不確かな焦りと苦しさに、四肢が暴れる。

(上──駄目だ……!)

 水面を求めていた腕に硬いものが触れて、清吾の焦燥はさらに強まった。唐織の行列の見物に、山谷堀には船が密集していた。顔を出そうにも、どう泳げば船の間を見つけられるのか分からない。瞬きしたところで視界は暗く濁り、目が痛むだけだった。

(いっそ距離を取れば……箕輪みのわのほうにでも流れれば……)

 離れたところで浮上すれば、追手を逃れられるかもしれない。そう、頭で考えたところで実行できるかは分からなかったが。

(俺は、馬鹿な真似をしたのか……?)

 先の見えない恐怖が水底から忍び寄り、清吾を捕らえるようだった。なぜ、唐織に会おうなどと考えてしまったのだろう。彼は、晴れの日を台無しにしただけではなかっただろうか。彼が伝えようとした言葉など、あの女には何の意味もないのではないか。鬱陶しがられるか気味悪がられるか、迷惑千万でしかなかったか。

(でも! そうだとしても……!)

 やはり後悔はなかった。伝えたいから伝えた。きれいだと思ったからそのままを告げた。彼にも、まことを貫くことができた。そう思うことができた。だから──これで良かったのだ。

 もがきながら、溺れるように泳ぐうちに、船の群れを抜けることができたのだろうか。清吾の目の前に光が射した。どうにか上らしきほうに顔を向けると、揺らめく水と口から漏れる泡の向こうに太陽が鈍く輝いていた。目をく眩しさとは遠い、朧なその円環は、むしろ夜空にこそ似合いそうな控えめな光を放っているように見えた。

(あれは俺のみそかの月か……?)

 ぼんやりとした疑問に答える者はなく、答えを見つけるいとまもなく。清吾の思考も肉体も、水に流されていった。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

【完結】『江戸めぐり ご馳走道中 ~お香と文吉の東海道味巡り~』

月影 朔
歴史・時代
読めばお腹が減る!食と人情の東海道味巡り、開幕! 自由を求め家を飛び出した、食い道楽で腕っぷし自慢の元武家娘・お香。 料理の知識は確かだが、とある事件で自信を失った気弱な元料理人・文吉。 正反対の二人が偶然出会い、共に旅を始めたのは、天下の街道・東海道! 行く先々の宿場町で二人が出会うのは、その土地ならではの絶品ご当地料理や豊かな食材、そして様々な悩みを抱えた人々。 料理を巡る親子喧嘩、失われた秘伝の味、食材に隠された秘密、旅人たちの些細な揉め事まで―― お香の持ち前の豪快な行動力と、文吉の豊富な食の知識、そして二人の「料理」の力が、人々の閉ざされた心を開き、事件を解決へと導いていきます。時にはお香の隠された剣の腕が炸裂することも…!? 読めば目の前に湯気立つ料理が見えるよう! 香りまで伝わるような鮮やかな料理描写、笑いと涙あふれる人情ドラマ、そして個性豊かなお香と文吉のやり取りに、ページをめくる手が止まらない! 旅の目的は美味しいものを食べること? それとも過去を乗り越えること? 二人の絆はどのように深まっていくのか。そして、それぞれが抱える過去の謎も、旅と共に少しずつ明らかになっていきます。 笑って泣けて、お腹が空く――新たな食時代劇ロードムービー、ここに開幕! さあ、お香と文吉と一緒に、舌と腹で東海道五十三次を旅しましょう!

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...