塩マネージャー vs サバサバ系女子、私が選んだ対抗策は ‘ぶりっ子’ でした

雨宮 叶月

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海から戻ってきた翌日、オフィスの窓から差し込む光は、昨日までの海辺の光景とは違う、都会的で乾いたものだった。
 灰色のビルが立ち並ぶ景色を前にしても、私の中にはまだ潮風の匂いが残っているような気がする。

 「はぁ……」
 デスクに突っ伏した佐伯のため息が、朝から三度目。パソコンの画面はまるで進んでいない。

 「佐伯さん、出社してからまだ一行も書いてないですよね」
 私が書類を片手に冷静に声を掛ける。その声色には淡々と事実を確認するような響きがあった。

 「だってさあ、黒宮さん。あんなきれいな海見ちゃったらさ、仕事なんて……」
 佐伯は未練がましく机の上に置いたスマホを取り上げる。画面には昨日撮った写真。夕暮れの砂浜で全員が笑顔を見せているショットだった。
 「ほら、これ。最高じゃない? 私、この瞬間だけで一年くらい頑張れる気がする」

 私はちらりと画面を見たが、特に表情を崩さない。
 「そうですね。いい写真です。でも、その『一年分のやる気』は、今日から使い始めてください」

 佐伯は「うっ」と言葉を詰まらせ、椅子に沈み込む。
 佐伯は余韻に浸りたいのに、私の切り替えは早すぎる。

 「ほんと、切り替えの化身だよね、黒宮さんって」

 「ただの社会人です」
 さらりと返す私は、もう机に視線を戻し、メールの返信を片付けていた。

 昼休み。
 オフィスの片隅にある休憩スペースでは、メンバーの何人かが差し入れのお菓子を広げていた。

 「これ、昨日の帰りに駅で買ったんです。限定らしいですよ」
 成瀬が小袋を配ると、女子たちが小さく歓声を上げる。
 パッケージには波模様と、どこかで見たようなカモメのイラスト。

 「わー、いいなあ。やっぱ海帰りのお土産って特別感ある」
 佐伯はさっそく一口かじり、口いっぱいに広がる甘さに目を細めた。
 「うん、やっぱ旅のあとって食べ物までおいしく感じるんだよね~」

 「佐伯さん、まだ現実に戻ってきてないですね」
 黒宮はコーヒーを片手に立ったまま様子を見ている。

 「えー、黒宮さんだって楽しかったでしょ? ほら、串焼き食べてるときめっちゃ幸せそうだったじゃん」

 「……あれは食事です。仕事とは切り離して考えるべきものです」
 
「いやいやいや! 顔ゆるんでたから! 写真にも残ってるから!」

 佐伯がスマホを見せようとすると、私は「結構です」と手を掴む。自分の写真は見たくない派だ。
 メンバーたちはそのやりとりに笑いながら、お菓子を摘んでいく。



 午後。
 私は進行表の修正に没頭していた。来週には新しいステージの打ち合わせが控えている。
 「この部分は照明のチェックを追加しておいてください」
 淡々と指示を飛ばし、必要な資料を次々と揃えていく姿は、もう完全に仕事モードだった。

 一方の佐伯は、椅子に座ったまま窓の外を眺めている。
 青空に浮かぶ雲の形が、昨日の入道雲と重なるように見えてしまうのだ。
 「はぁ……夏っていいなあ。もう一回くらい海行けないかな」
 「佐伯さん」
 黒宮が手を止めずに呼びかける。
 「現実に戻るよう努力してください」
 「努力中!」
 そう叫びながら、佐伯は渋々キーボードを叩き始めた。

 
 仕事が一区切りつくと、メンバーの一人が笑いながら言った。
 「でも、なんだかんだで良い思い出になりましたね」

 「うん、ほんと。夏って短いけど濃いな」
 
「写真、グループ共有にあげときますね」

 スマホの画面には、朝に撮った最後の集合写真が映し出される。
 笑顔も驚きも入り混じっていて、どの顔も生き生きしていた。

 佐伯はその写真を見て言った。
 「……やっぱ、あれは最高だったな」
 「そうですね」
 私も写真を見て、小さく頷いた。だが、すぐに視線を画面から外す。


 
 やがて夜、それぞれが帰宅の途につき、オフィスは静かになる。

 佐伯は自宅に戻ると、ソファにごろんと転がった。
 スマホを開けば、アルバムには数えきれないほどの写真や動画。
 波打ち際の風景、屋台での食事、バーベキュー、花火。

 「……あーあ。ほんとに終わっちゃったんだな」
 ぽつりと呟く声は、少しだけ寂しさを帯びていた。

 けれど、その寂しさと同じくらいの温かさが胸に残っている。
 夏の海が見せてくれた景色は、きっと日常に戻っても消えない。

 


 一方そのころ、私は自室のデスクでパソコンに向かっていた。
 次の会議に必要な資料を整理しながら、ほんの一瞬だけ画面の端に表示された写真に視線をやる。
 そこには、昼に共有された集合写真が表示されていた。

 私は小さく息を吐き、すぐにまたタイピングを再開した。
 思い出は、立ち止まる理由ではなく、前に進むための支えなのだ。

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