57 / 76
戻る日常
しおりを挟む
海から戻ってきた翌日、オフィスの窓から差し込む光は、昨日までの海辺の光景とは違う、都会的で乾いたものだった。
灰色のビルが立ち並ぶ景色を前にしても、私の中にはまだ潮風の匂いが残っているような気がする。
「はぁ……」
デスクに突っ伏した佐伯のため息が、朝から三度目。パソコンの画面はまるで進んでいない。
「佐伯さん、出社してからまだ一行も書いてないですよね」
私が書類を片手に冷静に声を掛ける。その声色には淡々と事実を確認するような響きがあった。
「だってさあ、黒宮さん。あんなきれいな海見ちゃったらさ、仕事なんて……」
佐伯は未練がましく机の上に置いたスマホを取り上げる。画面には昨日撮った写真。夕暮れの砂浜で全員が笑顔を見せているショットだった。
「ほら、これ。最高じゃない? 私、この瞬間だけで一年くらい頑張れる気がする」
私はちらりと画面を見たが、特に表情を崩さない。
「そうですね。いい写真です。でも、その『一年分のやる気』は、今日から使い始めてください」
佐伯は「うっ」と言葉を詰まらせ、椅子に沈み込む。
佐伯は余韻に浸りたいのに、私の切り替えは早すぎる。
「ほんと、切り替えの化身だよね、黒宮さんって」
「ただの社会人です」
さらりと返す私は、もう机に視線を戻し、メールの返信を片付けていた。
昼休み。
オフィスの片隅にある休憩スペースでは、メンバーの何人かが差し入れのお菓子を広げていた。
「これ、昨日の帰りに駅で買ったんです。限定らしいですよ」
成瀬が小袋を配ると、女子たちが小さく歓声を上げる。
パッケージには波模様と、どこかで見たようなカモメのイラスト。
「わー、いいなあ。やっぱ海帰りのお土産って特別感ある」
佐伯はさっそく一口かじり、口いっぱいに広がる甘さに目を細めた。
「うん、やっぱ旅のあとって食べ物までおいしく感じるんだよね~」
「佐伯さん、まだ現実に戻ってきてないですね」
黒宮はコーヒーを片手に立ったまま様子を見ている。
「えー、黒宮さんだって楽しかったでしょ? ほら、串焼き食べてるときめっちゃ幸せそうだったじゃん」
「……あれは食事です。仕事とは切り離して考えるべきものです」
「いやいやいや! 顔ゆるんでたから! 写真にも残ってるから!」
佐伯がスマホを見せようとすると、私は「結構です」と手を掴む。自分の写真は見たくない派だ。
メンバーたちはそのやりとりに笑いながら、お菓子を摘んでいく。
午後。
私は進行表の修正に没頭していた。来週には新しいステージの打ち合わせが控えている。
「この部分は照明のチェックを追加しておいてください」
淡々と指示を飛ばし、必要な資料を次々と揃えていく姿は、もう完全に仕事モードだった。
一方の佐伯は、椅子に座ったまま窓の外を眺めている。
青空に浮かぶ雲の形が、昨日の入道雲と重なるように見えてしまうのだ。
「はぁ……夏っていいなあ。もう一回くらい海行けないかな」
「佐伯さん」
黒宮が手を止めずに呼びかける。
「現実に戻るよう努力してください」
「努力中!」
そう叫びながら、佐伯は渋々キーボードを叩き始めた。
仕事が一区切りつくと、メンバーの一人が笑いながら言った。
「でも、なんだかんだで良い思い出になりましたね」
「うん、ほんと。夏って短いけど濃いな」
「写真、グループ共有にあげときますね」
スマホの画面には、朝に撮った最後の集合写真が映し出される。
笑顔も驚きも入り混じっていて、どの顔も生き生きしていた。
佐伯はその写真を見て言った。
「……やっぱ、あれは最高だったな」
「そうですね」
私も写真を見て、小さく頷いた。だが、すぐに視線を画面から外す。
やがて夜、それぞれが帰宅の途につき、オフィスは静かになる。
佐伯は自宅に戻ると、ソファにごろんと転がった。
スマホを開けば、アルバムには数えきれないほどの写真や動画。
波打ち際の風景、屋台での食事、バーベキュー、花火。
「……あーあ。ほんとに終わっちゃったんだな」
ぽつりと呟く声は、少しだけ寂しさを帯びていた。
けれど、その寂しさと同じくらいの温かさが胸に残っている。
夏の海が見せてくれた景色は、きっと日常に戻っても消えない。
一方そのころ、私は自室のデスクでパソコンに向かっていた。
次の会議に必要な資料を整理しながら、ほんの一瞬だけ画面の端に表示された写真に視線をやる。
そこには、昼に共有された集合写真が表示されていた。
私は小さく息を吐き、すぐにまたタイピングを再開した。
思い出は、立ち止まる理由ではなく、前に進むための支えなのだ。
灰色のビルが立ち並ぶ景色を前にしても、私の中にはまだ潮風の匂いが残っているような気がする。
「はぁ……」
デスクに突っ伏した佐伯のため息が、朝から三度目。パソコンの画面はまるで進んでいない。
「佐伯さん、出社してからまだ一行も書いてないですよね」
私が書類を片手に冷静に声を掛ける。その声色には淡々と事実を確認するような響きがあった。
「だってさあ、黒宮さん。あんなきれいな海見ちゃったらさ、仕事なんて……」
佐伯は未練がましく机の上に置いたスマホを取り上げる。画面には昨日撮った写真。夕暮れの砂浜で全員が笑顔を見せているショットだった。
「ほら、これ。最高じゃない? 私、この瞬間だけで一年くらい頑張れる気がする」
私はちらりと画面を見たが、特に表情を崩さない。
「そうですね。いい写真です。でも、その『一年分のやる気』は、今日から使い始めてください」
佐伯は「うっ」と言葉を詰まらせ、椅子に沈み込む。
佐伯は余韻に浸りたいのに、私の切り替えは早すぎる。
「ほんと、切り替えの化身だよね、黒宮さんって」
「ただの社会人です」
さらりと返す私は、もう机に視線を戻し、メールの返信を片付けていた。
昼休み。
オフィスの片隅にある休憩スペースでは、メンバーの何人かが差し入れのお菓子を広げていた。
「これ、昨日の帰りに駅で買ったんです。限定らしいですよ」
成瀬が小袋を配ると、女子たちが小さく歓声を上げる。
パッケージには波模様と、どこかで見たようなカモメのイラスト。
「わー、いいなあ。やっぱ海帰りのお土産って特別感ある」
佐伯はさっそく一口かじり、口いっぱいに広がる甘さに目を細めた。
「うん、やっぱ旅のあとって食べ物までおいしく感じるんだよね~」
「佐伯さん、まだ現実に戻ってきてないですね」
黒宮はコーヒーを片手に立ったまま様子を見ている。
「えー、黒宮さんだって楽しかったでしょ? ほら、串焼き食べてるときめっちゃ幸せそうだったじゃん」
「……あれは食事です。仕事とは切り離して考えるべきものです」
「いやいやいや! 顔ゆるんでたから! 写真にも残ってるから!」
佐伯がスマホを見せようとすると、私は「結構です」と手を掴む。自分の写真は見たくない派だ。
メンバーたちはそのやりとりに笑いながら、お菓子を摘んでいく。
午後。
私は進行表の修正に没頭していた。来週には新しいステージの打ち合わせが控えている。
「この部分は照明のチェックを追加しておいてください」
淡々と指示を飛ばし、必要な資料を次々と揃えていく姿は、もう完全に仕事モードだった。
一方の佐伯は、椅子に座ったまま窓の外を眺めている。
青空に浮かぶ雲の形が、昨日の入道雲と重なるように見えてしまうのだ。
「はぁ……夏っていいなあ。もう一回くらい海行けないかな」
「佐伯さん」
黒宮が手を止めずに呼びかける。
「現実に戻るよう努力してください」
「努力中!」
そう叫びながら、佐伯は渋々キーボードを叩き始めた。
仕事が一区切りつくと、メンバーの一人が笑いながら言った。
「でも、なんだかんだで良い思い出になりましたね」
「うん、ほんと。夏って短いけど濃いな」
「写真、グループ共有にあげときますね」
スマホの画面には、朝に撮った最後の集合写真が映し出される。
笑顔も驚きも入り混じっていて、どの顔も生き生きしていた。
佐伯はその写真を見て言った。
「……やっぱ、あれは最高だったな」
「そうですね」
私も写真を見て、小さく頷いた。だが、すぐに視線を画面から外す。
やがて夜、それぞれが帰宅の途につき、オフィスは静かになる。
佐伯は自宅に戻ると、ソファにごろんと転がった。
スマホを開けば、アルバムには数えきれないほどの写真や動画。
波打ち際の風景、屋台での食事、バーベキュー、花火。
「……あーあ。ほんとに終わっちゃったんだな」
ぽつりと呟く声は、少しだけ寂しさを帯びていた。
けれど、その寂しさと同じくらいの温かさが胸に残っている。
夏の海が見せてくれた景色は、きっと日常に戻っても消えない。
一方そのころ、私は自室のデスクでパソコンに向かっていた。
次の会議に必要な資料を整理しながら、ほんの一瞬だけ画面の端に表示された写真に視線をやる。
そこには、昼に共有された集合写真が表示されていた。
私は小さく息を吐き、すぐにまたタイピングを再開した。
思い出は、立ち止まる理由ではなく、前に進むための支えなのだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
大丈夫のその先は…
水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。
新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。
バレないように、バレないように。
「大丈夫だよ」
すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる