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第59話 サバサバ系の失敗
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朝の事務所は涼しい空調の風と、コピー機の低い駆動音で満ちている。
机の上に積み重なった書類は、旅行前よりもわずかに増えていた。メンバーが現場に出払っている間に、処理しなければならない契約や確認事項は容赦なく溜まる。私はそれを順に並べ替え、要点を確認し、スケジュール表と突き合わせながら処理を進めていく。
「黒宮さん、来週の撮影スタジオの件ですけど――」
スタッフが駆け寄ってくる。
私はすぐに手を止め、視線を合わせた。
「はい、追加照明の件ですね。先方に確認済みです。電源容量も事前にチェック済みなので、問題ありません」
「もう確認してたんですか……!」
驚かれたが、当然だ。段取りを整えておけば、余計な混乱は起きない。旅行中も、メンバーが遊んでいる横でタブレットに目を落とし、必要な返信をいくつか済ませていた。その積み重ねが、今こうして表に出る。
「ありがとうございます。安心しました」
スタッフが去るのを見送り、再び書類に目を落とした。
キーボードを叩く指は止まらない。メールを送り、電話を一本入れ、また別の書類に印鑑を押す。すべては流れるように。
切り替えは早いほうがいい。思い出は美しいが、それに浸り続ければ足を取られるだけだ。
そのとき、ドアがバタンと音を立てて開いた。
「おはようございます!」と元気だけはいい声。佐伯詩織だ。
私は腕時計にちらりと目を落とす。予定より二十分遅い。すでに始業時間を過ぎている。
「……佐伯さん」
「すみませんっ、電車が……いやその、ちょっと寝……」
言い訳が口から滑り出す。周囲のスタッフたちが視線を交わした。
「資料の印刷、お願いしていた分は?」
「えっと……まだでして……今すぐやります!」
慌ててプリンターに駆け込む背中を見送りながら、私は深く息を吐いた。
旅行中、彼女が少し楽しそうにしていたのを思い出す。海辺で笑顔を見せる姿は、メンバーの中に自然と溶け込んでいた。けれどそれはあくまで“非日常”だった。現実に戻れば、彼女の甘さは隠しようがない。
数分後、案の定プリンターが止まった。
「紙詰まり!? ちょっと待ってください!」
焦る声。スタッフの一人が手を貸しに行く。私は作業を止めずにその様子を横目で見る。
――こうなると、結局周囲の手を煩わせる。
電話のベルが鳴る。私は即座に受話器を取り上げた。
「はい、もしもし。……ええ、その件は昨日付で処理済みです。書類は午後までにそちらへ送ります」
落ち着いた声で答えながら、視線の端で佐伯が紙と格闘する姿を捉える。
彼女の存在は、いつも周囲を賑やかにする。だがそれは、必ずしもプラスばかりではない。
昼前、会議が始まった。
メンバーの次のスケジュールを詰める重要な打ち合わせだ。
私は事前に資料をまとめ、要点を短く整理したメモを配っておいた。議論が迷走しないように道筋を作るのも仕事のうちだ。
「黒宮さん、この件はどう思いますか?」
振られれば即座に答える。
「予算面ではA案が妥当です。ただし移動時間がタイトになるので、メンバーの体調を考慮すると調整が必要です」
「なるほど……」
頷く声が広がり、会議はスムーズに進む。
一方で、佐伯の番になると――。
「えっと、その、たぶん大丈夫だと思うんですけど……」
要領を得ない説明が続き、途中で質問が飛ぶと詰まってしまう。資料も揃っていない。
上席のスタッフが眉をひそめた。
「佐伯さん、その“たぶん”じゃ困るんですよ」
場が一瞬、冷える。彼女が視線を落とすのが見えた。
私は何も言わずにノートにメモを取った。助け舟を出せば楽かもしれない。だが、甘やかせば成長はない。会議を滞らせぬよう、残りは私がフォローして進めた。
会議後、廊下で佐伯が私を追いかけてきた。
「黒宮さん……すみません、さっきの」
「謝るのは私じゃなく、会議に出ていた方々へです」
冷静に返す。彼女は口をつぐんだ。
「切り替えが必要です。今いるのは仕事の場です。あなたが足を引っ張れば、メンバーに負担がかかる」
声は抑えたが、言葉ははっきりと。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さく「……はい」と頷いた。
午後、次々と依頼が舞い込む。
新曲のリリース調整、衣装合わせ、雑誌取材の段取り。
私は電話を取りながら同時にメールを打ち、スタッフへ指示を飛ばす。
「黒宮さん、これ確認お願いします!」
「黒宮さん、急ぎで署名が――」
次々と声がかかる。だが私は一つも取りこぼさない。必要なものをすぐに目で追い、判断し、処理する。流れるように。
「さすが黒宮さんですね……」
誰かが小さくつぶやいた。私は軽く会釈し、再び仕事に戻る。誇らしさよりも、ただ当然のことをしている感覚しかなかった。
ふと視線をやれば、佐伯がデスクで小さく肩を落としているのが見えた。
――それもまた現実だ。
非日常の笑顔がどれほど鮮やかでも、日常に立ち戻れば、結果でしか評価されない。
そして新しい資料を開き、ペンを走らせた。
夏の余韻は終わった。
今ここで必要なのは、私の手で整えられた日常なのだから。
机の上に積み重なった書類は、旅行前よりもわずかに増えていた。メンバーが現場に出払っている間に、処理しなければならない契約や確認事項は容赦なく溜まる。私はそれを順に並べ替え、要点を確認し、スケジュール表と突き合わせながら処理を進めていく。
「黒宮さん、来週の撮影スタジオの件ですけど――」
スタッフが駆け寄ってくる。
私はすぐに手を止め、視線を合わせた。
「はい、追加照明の件ですね。先方に確認済みです。電源容量も事前にチェック済みなので、問題ありません」
「もう確認してたんですか……!」
驚かれたが、当然だ。段取りを整えておけば、余計な混乱は起きない。旅行中も、メンバーが遊んでいる横でタブレットに目を落とし、必要な返信をいくつか済ませていた。その積み重ねが、今こうして表に出る。
「ありがとうございます。安心しました」
スタッフが去るのを見送り、再び書類に目を落とした。
キーボードを叩く指は止まらない。メールを送り、電話を一本入れ、また別の書類に印鑑を押す。すべては流れるように。
切り替えは早いほうがいい。思い出は美しいが、それに浸り続ければ足を取られるだけだ。
そのとき、ドアがバタンと音を立てて開いた。
「おはようございます!」と元気だけはいい声。佐伯詩織だ。
私は腕時計にちらりと目を落とす。予定より二十分遅い。すでに始業時間を過ぎている。
「……佐伯さん」
「すみませんっ、電車が……いやその、ちょっと寝……」
言い訳が口から滑り出す。周囲のスタッフたちが視線を交わした。
「資料の印刷、お願いしていた分は?」
「えっと……まだでして……今すぐやります!」
慌ててプリンターに駆け込む背中を見送りながら、私は深く息を吐いた。
旅行中、彼女が少し楽しそうにしていたのを思い出す。海辺で笑顔を見せる姿は、メンバーの中に自然と溶け込んでいた。けれどそれはあくまで“非日常”だった。現実に戻れば、彼女の甘さは隠しようがない。
数分後、案の定プリンターが止まった。
「紙詰まり!? ちょっと待ってください!」
焦る声。スタッフの一人が手を貸しに行く。私は作業を止めずにその様子を横目で見る。
――こうなると、結局周囲の手を煩わせる。
電話のベルが鳴る。私は即座に受話器を取り上げた。
「はい、もしもし。……ええ、その件は昨日付で処理済みです。書類は午後までにそちらへ送ります」
落ち着いた声で答えながら、視線の端で佐伯が紙と格闘する姿を捉える。
彼女の存在は、いつも周囲を賑やかにする。だがそれは、必ずしもプラスばかりではない。
昼前、会議が始まった。
メンバーの次のスケジュールを詰める重要な打ち合わせだ。
私は事前に資料をまとめ、要点を短く整理したメモを配っておいた。議論が迷走しないように道筋を作るのも仕事のうちだ。
「黒宮さん、この件はどう思いますか?」
振られれば即座に答える。
「予算面ではA案が妥当です。ただし移動時間がタイトになるので、メンバーの体調を考慮すると調整が必要です」
「なるほど……」
頷く声が広がり、会議はスムーズに進む。
一方で、佐伯の番になると――。
「えっと、その、たぶん大丈夫だと思うんですけど……」
要領を得ない説明が続き、途中で質問が飛ぶと詰まってしまう。資料も揃っていない。
上席のスタッフが眉をひそめた。
「佐伯さん、その“たぶん”じゃ困るんですよ」
場が一瞬、冷える。彼女が視線を落とすのが見えた。
私は何も言わずにノートにメモを取った。助け舟を出せば楽かもしれない。だが、甘やかせば成長はない。会議を滞らせぬよう、残りは私がフォローして進めた。
会議後、廊下で佐伯が私を追いかけてきた。
「黒宮さん……すみません、さっきの」
「謝るのは私じゃなく、会議に出ていた方々へです」
冷静に返す。彼女は口をつぐんだ。
「切り替えが必要です。今いるのは仕事の場です。あなたが足を引っ張れば、メンバーに負担がかかる」
声は抑えたが、言葉ははっきりと。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さく「……はい」と頷いた。
午後、次々と依頼が舞い込む。
新曲のリリース調整、衣装合わせ、雑誌取材の段取り。
私は電話を取りながら同時にメールを打ち、スタッフへ指示を飛ばす。
「黒宮さん、これ確認お願いします!」
「黒宮さん、急ぎで署名が――」
次々と声がかかる。だが私は一つも取りこぼさない。必要なものをすぐに目で追い、判断し、処理する。流れるように。
「さすが黒宮さんですね……」
誰かが小さくつぶやいた。私は軽く会釈し、再び仕事に戻る。誇らしさよりも、ただ当然のことをしている感覚しかなかった。
ふと視線をやれば、佐伯がデスクで小さく肩を落としているのが見えた。
――それもまた現実だ。
非日常の笑顔がどれほど鮮やかでも、日常に立ち戻れば、結果でしか評価されない。
そして新しい資料を開き、ペンを走らせた。
夏の余韻は終わった。
今ここで必要なのは、私の手で整えられた日常なのだから。
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