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第4章 ファレンの花
33話
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助け出されたリウと共に、ヴェルは館へ一度戻ってきた。ノアがカイを診ている間に、ヴェルは、部屋の外でリウとシグに頭を下げる。
ザディオス人であり、元は魔導士なのだ、ということを打ち明ければ、少年二人は目を見開いた。
「そう、だったんですね……。農民ぽくないな、とは思っていましたが」
「まさか脱走兵だったとはな。まあ、ザディオスは恐怖政治で軍をまとめていた。ヴェルみたいな奴は、シュリスや、南のナギにもちらほらいるだろう」
「今まで騙してて、本当に申し訳ない。……世話になった」
リウは「え」と不安げにヴェルを見上げる。
「ここを出て、どこへ行くんですか? 村に戻るんですか?」
「そうだな。一度村に戻って、騙してたことをちゃんと謝って……」
すると、たまらずといった様子でシグが口を挟んだ。
「おい。言っておくけどな。村人たちも多分、お前がただの行き倒れじゃないって気付いてたと思うぞ」
「え?」
「当たり前だろ。お前が逃げ出したのは戦争の真っただ中。そんな時、ザディオスの国境線に近い村の近くで、見慣れない奴が身一つで行き倒れてたら、何かワケありだって子どもでも分かる」
村人たちは、一度もヴェルの出自を確かめようとしなかった。まさか本当に、敵国の人間かもしれない、というリスクを抱えたまま、助けてくれたというのか。
ヴェルは困惑を隠しきれないまま、視線を彷徨わせる。
シグとリウは顔を見合わせ、軽く頷いた。
「ヴェル様。きっと殿下も、この館にいて良いと言ってくださると思います。だから……」
しかしヴェルは軽く首を横に振る。
「駄目だ。それこそザディオス人を置いておいたら、城砦の人たちにも不審に思われるかもしれない。俺はもう出て行くよ」
「っ……じゃ、じゃあせめて今夜だけ。今夜だけは泊まって行ってください。夜中に出発したら野盗に襲われますよ!」
リウの申し出に、ヴェルは「でも」と言い掛けるが、リウは「出立するにしても魔力が回復してから! でないと許しません!」と主張した。
ヴェルは困ったように眉根を寄せたが、ややあって小さく頷いた。
客室用の部屋に入れば、先日までカイが使っていたせいか、どことなく例の匂いがした。
ベッドに寝転がり、天井を見上げる。
すっかり、この館の天井の模様も見慣れてしまった。
「……最初は、村を助けるためなら、って思ったのに……」
騙し続ける罪悪感から、身を差し出すくらい当然だと思った。チョーカーを無理やり剥ぎ取られ、どんな凌辱を受けようとも仕方がない、と覚悟をしてこの館に来た。
だが、肝心のカイは手を出すどころか、自分を村に帰すことを一番に考えてくれた。
あれだけの人々に妬まれ、疎まれ、逆恨みをされ。それでもなお、人として誤った道に進もうとはしなかった。毅然と前を向き続けた。
この館でカイを間近で見た時、あまりに美しかったので食い入るように見つめてしまったが、今は、顔立ちの美しさはもとより、彼の心の美しさに惹かれている。
僅かに触れ合った唇を、思わず指先でなぞった。
きっともう、こんな気持ちになる人など、自分の人生には現れない。そんな気がした。
(今夜は色々なことがありすぎて疲れた……)
ヴェルはうつらうつらとしながら、やがて瞼を閉じた。
◇
いつもの夢を見る。
とんでもない悪夢だ。
逃げても逃げても追いつかれ、無理やり実験台に引き戻される。魔力を流し込まれ、激痛に見悶える。怖い。痛い。助けて——
けれど、ふわり、と良い匂いがした。その匂いはなぜか安心できて、悪夢を終わらせてくれた。
匂いの持ち主が誰なのか、もう分かっている。
その持ち主にとって自分は敵側の人間だった。だから、シュリス人だと偽って、一緒に笑い合った。嘘をついてでも、あと少しだけ一緒にいたいと願ってしまった。
最初から叶うはずもない想いだったのに。騙した先で、「好き」と言われた。途方もなく嬉しかった。同時に、目の前が真っ暗になるほどの罪悪感を覚えた。
その言葉は、ちゃんとした相手に取っておかなければならないのに。
その気持ちは、本来、向けられるべき別の相手がいるはずなのに。
(——……俺じゃないって、分かってる)
恋愛なんていう分不相応なものなど、願ったことは一度もなかったのに。
(生まれて初めて。羨ましい、って思っちまったなぁ)
自分以外の「ちゃんとした」誰か。嘘偽りもなく、心からカイを想い、カイに想われる、どこぞのオメガが羨ましくて仕方がないと思ってしまった。
この先、カイが出会うであろうそのオメガは、カイの隣で共に笑い合い、あの良い匂いに包まれて暮していくのだ。
(俺が普通だったら良かったのに)
孤児ではなく。ザディオス軍にも捕らわれず。普通に、シュリスに生まれた魔導士だったなら。まだ少しチャンスがあったのではないかと。そんなどうしようもない事を考えてしまう。
出自は変えられない。自分の過去も変えられない。死んだ人間が戻らないように。もう、全てどうしようもないことなのだ。
(ごめんな……)
カイの人生にとっても汚点だろう。まんまと騙された挙句、毒まで食らいながら死にかけて。好きだなどと告白をしてしまったのだから。
これからカイは、付き人たちに助けられながら、ここで暮らす人々のために責務を果たし続けるのだろう。そのひたむきさに惹かれるオメガはきっと多いはずだ。そんな日々の中で、「あのザディオス人のオメガに騙された」というのも過去になり、記憶から薄れていくだろう。
(次はちゃんと、良いオメガを好きになってくれよ)
カイの未来に、自分はいない。当然だ。最初から、自分がこの館にいたのがおかしかったのだ。
たくさんの苦労をしてきたカイには、幸せになってほしい。ただそれだけを願う。
◇
明け方。まだ陽も昇り切らない時間に、ヴェルはそっとベッドを抜け出した。
魔力は僅かに回復をした。チョーカーは毒の魔力をため込んでしまっているので使えないが、別の魔導具に移すことはできるかもしれない。何にせよ、抑制具なしで出歩くのはさすがに危険だ。
確か、納屋の中に、廃棄用の魔導具がいくつかあった。あれを一つ拝借しよう。
ヴェルは音を立てないようにして玄関扉を開け、外へ出る。
薄暗い空の下、玄関前にいた早起きな鳥が、小さく鳴いて飛び立った。
夏のせいか、早朝でも暖かいくらいだ。自分の故郷とは大違いである。ヴェルはこの二か月間手入れし続けた庭を見渡し、納屋の方へ向かおうとする。
しかしふと、池へと足を向けた。ファレンの花が気になったのだ。早いものが咲いているかもしれない。もし咲いているのであれば、それを一目見てからこの館を離れたい。
足早にアーチをくぐり、池の前でしゃがみこみ、そっと茎に指先を滑らせた。
花の蕾たちは開花寸前だ。このまま陽が出れば一斉に咲くかもしれない。そしてそれはきっと、自分がこの館を去ったタイミングだ。
「……残念」
ヴェルが苦笑して指先からそっとファレンを離した。その時
「何がだ?」
突然背後から声を掛けられ、ヴェルは思わず後ろを振り仰ぐ。
陽の昇っていない薄い群青色の空を背に、カイが佇んでいた。
「カイ……。どうして」
「お前が出て行くのが見えた」
「……起きてたのかよ」
「目が冴えてしまってな」
カイはヴェルの隣に座った。その動作は少しぎこちない。
「調子、まだ悪そうだね」
「まあ、昨日は死にかけだったと思えば雲泥の差だ。改めて、命を助けてくれたことに礼を言う」
「礼なんて……。俺の方こそ、あんたが助けに来てくれなかったら死んでたよ」
ヴェルは気まずそうに俯いた。
「それに、あんたには謝らなくちゃ」
「謝る? 何をだ」
「どの道ノアたちから聞くと思うけど。俺は……っ」
言い掛けた口が、勝手に凍り付く。まだ、カイに良く思われておきたいのか。「騙していたのか」と軽蔑されたくないのか。往生際の悪いことだ。
「俺、は……その……実は……」
言わなければ。言って。そして、きちんと謝らなければ。
唾を一つ飲み込み、吐息のような小さな声で告げた。
「——……ザ、ザディオスの人間で……。だから、あんたの国の、……あんたの守るべき民じゃない」
最初から異分子だったのだ。彼が命をかけて守るべき民の対象外。むしろ、彼が戦場で命を懸けて守ろうとした者たちの敵だ。
カイは僅かに目を見開いた。カイが何かを言うより前に、まるで言い訳のようにして続ける。
「俺は三年前の国境大戦の脱走兵だ。元々孤児だったけど、魔力があって、先生に引き取られて、魔導士として育ててもらった」
出自をべらべら喋って。時間稼ぎでもしているかのようだ。カイの口から、失望したと言われるのが怖い。
「十年前に先生がザディオス軍に殺されて、俺は軍の実験施設に送られたんだ。オメガの持つ魔力の経路は少し特殊で、魔力をため込む性質があるって……。それで、えっと、身体を改造されて……、戦場に、魔力貯蔵庫として送られて……、で、でも、俺は魔力が枯渇して、大型補充ができなくなっちまって……用済みとして殺される前に逃げ出して……」
ぎゅう、と自分の身体を抱き締めた。早く出て行け、と言われる、その瞬間を少しでも引き延ばそうとしている。
「それで、何日も彷徨ってる内にシュリスに迷いこんじゃったみたいで。倒れてたところ、村の人に助けられて……」
「……そういう事情だったのか」
「だ、騙してて本当にごめん。俺、その……ええと……」
何かを言わなければ、と思うのに。もう言葉が上手く紡げず、もう一度掠れた声で「ごめん……」と謝った。
「先ほどから何をそんなに謝っているんだ」
「え?」
「今が戦時中であればお前を捕虜にしなければならないが、戦争は終わった。お前を助けたのは村人たちの好意。お前が俺にわざわざ出自を話す義務もない。そんなに謝ることがあるのか?」
「だって、俺のせいであんたはゴーシェに殺されかけただろ」
「逆だろう。奴らの動機は俺への妬み。これは奴らと俺の問題であり、お前と村は巻き込まれただけだ」
ヴェルは顔を青褪めさせたまま「違う!」と叫ぶ。
「俺のせいだ! 俺が悪いんだ……! 俺のせいで、みんな被害に遭って……ッ!」
声を絞り出すようにして言うヴェルに、カイはちょっと眉根を寄せた。
「わからん。なぜお前はそんなにも自分を責める? 加害者はあくまでもユジムとゴーシェだ。ダオンを始め、兄一派の貴族たちすら手玉に取ってな。……お前に非はない」
「あるよ。俺があの村にいなければ焼かれなかった。俺がこの館にいなければあんたは死にかけることもなかった」
「それはお門違いだ。お前がいようがいまいが、奴らは別の手を使って俺を陥れただろう。逆に、お前がいなければ、俺は近い内にあの毒で殺されていたかもしれん」
「そんなはず……!」
「ない、とは言い切れんぞ。お前はこの世の全ての悪事が自分のせいで起こっているとでも思っているのか」
「でも本当に、俺のせいなんだ。あんたも、村も、先生も……ッ」
カイは「先生?」と聞き返す。そしてすぐに、先ほども同じ単語が出てきたことに思い至った。
「先生、というのは?」
ヴェルは一瞬、なぜそんなことを聞かれるのか分からず不安そうに瞳を揺らしたが、すぐに池の水面へ視線を向けた。
「先生は……。孤児だった俺を助けてくれた人だよ。魔導士で、導医で、……このチョーカーも先生が作ってくれた」
手元のチョーカーを僅かに揺らす。カイも、このチョーカーがかなり上等なものだというのは理解していた。王都でも見かけない精巧な造りだ。
初めてヴェルと出会った時も、ヴェルがヒートだとは一瞬分からなかった。それほどまでにフェロモンを完全に遮断するとは。相当な技術力を持った魔導士だったのだろう。
「ザディオス軍に殺さた、と言っていたな」
ヴェルは「ああ」と、声を震わせながらチョーカーをぎゅうと握りこんだ。
「さっきも言ったけど、軍の連中はオメガの魔導士を狙ってきた。……俺と暮してたせいで、先生は殺されたんだ」
カイはヴェルの様子を見て、ようやく理解した。この、ヴェルの異様なまでの自責は「先生」の死から来ているのだろう。
指が白くなるほど強く握られたヴェルの手をカイは思わず包み込んだ。
「ヴェル。殺したのは軍の人間だったのだろう? お前と、お前の師は平和に暮らしていただけだ。それを壊したのはお前ではない」
ヴェルは怯えたような瞳をカイに向けた。そして泣き出しそうに顔を歪める。
「違う。俺が……、俺のせいで……」
「そう思いたくなるお前を否定はしない。だが、事実として、殺す指示を出した者はいる。お前たちがどれだけ平和を願い、慎ましやかに生きていたとしても、……他者の都合であっさりと壊されてしまう」
カイの手に、僅かに力がこもった。ヴェルはそこでようやく、カイの顔を見る。
カイ自身もそうなのだろう。誰かの利己的な都合で、振り回され、貶められ、殺されかける。そしてそれは自分だけではなく、周りにも影響を及ぼす。
カイは続けた。
「お前の無力感や罪悪感は、俺にも少なからず分かるつもりだ。理不尽な暴力に足が竦み、言葉を発することを恐れる」
「……あんたでも、怖いのか」
「当然だ。だが俺はどのような状況でも、必ず自分で選ぶ。前に進むことも、後退をすることも。黙ることも、発言をすることも。逃げることも、逃げずに立ち向かうことも。全て、俺が選ぶ」
少し迷うように瞼を軽く伏せ、カイは続けた。
「とはいえ、周りは俺を目の敵にする奴が多くてな。……正直、苦しい、と思うことはある」
きっとカイの本音だ。戦場で英雄と敬われ、また、恐れられた黒き獅子は、ずっと孤立無援の中で戦わされてきたのだろう。戦争が終わっても休むことができず、むしろ、戦場での功績が、余計彼を孤独に追いやった。
「でも、あんたにはノアたちがいるだろ?」
「ああ。三人とも本当に心強い。俺にとって気を許せる数少ない人物だ……だが、な」
一瞬、言いにくそうにしたあと、カイは続けた。
「隣にいてほしい、と……。こんなにも手放しがたいと思ったのは、一人だけだ」
言葉を区切り、カイは真っ直ぐにヴェルを見つめる。
「ヴェル。お前さえ許してくれるのであれば、これからも俺の隣にいてほしい」
ヴェルの胸がばくん、と跳ねた。困惑したようにヴェルは眉根を寄せる。
「え……? だ、だから俺はザディオス人で……」
「わかっている。お前としてもシュリスは敵国。複雑な思いはあるだろうが……」
「逆だって! あんたが嫌だろ?」
「ザディオスとは和平条約が結ばれている。今は敵ではない」
ノアと同じようなことを言われ、ヴェルは思わず頭がくらりとしてしまう。
「い、いやいや。でもザディオス人が城砦にいるってなったら、良く思わない人も出るだろうし。ほら、それこそ、兄貴側の貴族に何か言われるんだろ?」
「言われるだろうが、連中は俺が誰と結婚しようが言ってくる。結論ありきだ。まあ、確かに……シュリスの人間と結婚するよりはきつい事を言われそうだが。お前に批判が向かないようにする」
カイはヴェルの手を握ったまま言った。
「以前は、批判が来ることに辟易していた。だから抵抗をせず、穏便に進めることを選んでいた……。しかし今は違う。たとえ批判が来ようとも、お前と共にいられるなら安いものだと感じる」
「……っ、!」
あまりにストレートな物言いに、ヴェルの頬が熱を帯びる。上気した顔を隠すように俯いたヴェルに、カイは畳みかけていく。
「確かに、俺と共にいることでお前にいらぬ苦労をかけるだろう。俺が普通のアルファでなくて申し訳なく思う。……だが昨日、お前に好きだと告げた、あの気持ちに嘘偽りはない。お前も俺を好きだと言ってくれたな。できればお前とつがいになりたい」
「へあ……?」
「お前は美しく、強いオメガだ。一本芯が通っているから、俺以外の選択肢などたくさんあるだろう」
「ちょ……っ」
「それでも俺は、お前に選んでもらいたいと思う」
「ちょ、ちょっとまって……!」
「どうした」
「許容範囲が……っ」
「許容範囲? やはり許してはもらないか」
「ちが、っ、そうじゃなくて……!」
こんなにも明け透けに好意を伝えられることなど生まれて初めてだ。言葉の洪水をおしとどめることができず、言われた先から胸のうちに喜びが溢れて止まらなくなる。
ヴェルは耳まで真っ赤にしたまま、掠れた声で言った。
「う、うれしすぎて、わかんない……」
言い終えるなり、ぎゅう、と目を瞑る。その反応に、カイもつられたように頬をわずかに紅潮させた。
「嬉しい、ということは……、俺は自惚れてもいい、ということか」
ヴェルの顔を覗き込むようにして言えば、ヴェルは困ったように目を瞬かせながら、小さく頷いた。
「……あんたのことが好きなのは、俺も本当だよ。……でも、その、俺とあんたじゃ釣り合わないだろうし……」
「釣り合うかどうかは他人が好き勝手に評価していくもの。こちらの手の届く範疇ではない」
「……即答だな」
「当然だ。問題は、他者の評価ではなく、お前がどうしたいかだ。お前が罪悪感から幸せを避けているのは理解した。だが、それでも俺はお前と幸せになりたいと思う」
罪悪感から幸せを避ける——……的確すぎる言葉に、ヴェルは浅く息を呑んだ。そして狼狽えたようにぽつりと言う。
「俺じゃ、あんたを幸せにできないよ……」
「お前にしてもらおうとは考えていない。お前が俺と幸せになりたいかどうかだと思うが」
「っ……」
言葉に詰まったヴェルの手をカイはそっと持ち上げる。
「お前と話していると、不思議と落ち着く。お前の笑った顔を愛しく思う」
「カイ……」
「暫くこの館に住んでゆっくり考えてもらっても構わない。今ここで、お前をどこかへ行かせてしまうくらいなら、俺はいくらでも待つ。なんならノアのように、もし俺に愛想が尽きたら、俺と離縁してもいい」
カイは苦い顔で「……もちろんしてほしくはないが」と付け加えた。その表情があまりに嫌そうだったので、ヴェルは思わず笑みをこぼしてしまう。
「——……そんなに言って貰えるだけの価値があると思えないけど。でも、ありがとう」
そしてカイの手を握り返した。弾かれたようにカイはヴェルの顔を見る。
ヴェルははにかんだように続けた。
「俺も好きだよ。あんたも、この館も好き。……あんたとつがいになりたいと思う」
カイは目を丸くし、そして表情を綻ばせた。年相応の、青年らしい笑顔にヴェルも微笑んだ。
するとちょうど、東の山から朝日が昇り始めた。庭の木々を起こすかのように、白い陽光が差し込んでいく。
「あ……」
陽光が池を照らし、ヴェルは思わず声を漏らした。
まるで太陽に導かれるようにして、ファレンの蕾たちが開いたのだ。池を囲む花々が、徐々に閉じた花弁を開いていく幻想的な様子を、カイとヴェルは見守る。
ヴェルが「綺麗だな」と零せば、カイも頷いた。
「俺は昔王都に住んでいなかったのでな。とある地方貴族の屋敷で暮らしていた。その庭の池にもファレンがたくさんあって、毎年立派な花を咲かせていた。……だからか、思い出深い花だ」
「へえ。俺も昔、先生に連れて行かれた貴族の屋敷でファレンが咲いてて。それで……」
おや。とヴェルは思う。
当時を回顧する。恩師と一緒に向かった貴族の屋敷。池に咲く花。「ファレンが咲く季節か」と言う恩師の穏やかな声——……そこに一人、小柄な少年がいた気がする。ファレンの咲く池のほとりにしゃがんで、熱心に花を見つめていた。
こちらが声を掛けるより前に、褐色の髪を揺らしながら逃げるようにして去って行ってしまったが。
「いや、まさかな……」
しかしどうにも気になる。何かが引っかかる。
一時期、シュリスとザディオスが停戦状態の時があった。要請があればどこにでも飛んでいく恩師が、万が一、シュリスにも行っていたとしたら。そしてそれに自分も同行していたとしたら。
ヴェルはそろり、とカイを伺う。
「あ。あのさぁ、カイ」
「ん?」
「その貴族の屋敷って、もしかして、庭にでっかい銅像なかった?」
「……あったが」
「獅子の銅像?」
「そうだ」
「しかも……」
「二体あった。池のすぐ横だ」
うわぁっ! とヴェルは弾かれたように叫んだ。
そうだ。今になってようやく思い出した。あの時、小柄な少年の赤みがかった瞳が、やけに綺麗だなと思って、ファレンより先にそちらに見入ってしまったのだ。
「あ、あの時の子だぁ……ッ!」
「何の話だ?」
「本当にノアが言ったとおりだ……! 昔はあんなに小さくてぷにっとしてて可愛かったのに……!」
「は? ノア?」
「今やこんな筋肉おばけに……!」
「だから何の話だ!」
ぎゃあぎゃあと言い合う二人の手は離れず、ファレンの花は陽光を受けながら、次々に美しく咲いていった。
ザディオス人であり、元は魔導士なのだ、ということを打ち明ければ、少年二人は目を見開いた。
「そう、だったんですね……。農民ぽくないな、とは思っていましたが」
「まさか脱走兵だったとはな。まあ、ザディオスは恐怖政治で軍をまとめていた。ヴェルみたいな奴は、シュリスや、南のナギにもちらほらいるだろう」
「今まで騙してて、本当に申し訳ない。……世話になった」
リウは「え」と不安げにヴェルを見上げる。
「ここを出て、どこへ行くんですか? 村に戻るんですか?」
「そうだな。一度村に戻って、騙してたことをちゃんと謝って……」
すると、たまらずといった様子でシグが口を挟んだ。
「おい。言っておくけどな。村人たちも多分、お前がただの行き倒れじゃないって気付いてたと思うぞ」
「え?」
「当たり前だろ。お前が逃げ出したのは戦争の真っただ中。そんな時、ザディオスの国境線に近い村の近くで、見慣れない奴が身一つで行き倒れてたら、何かワケありだって子どもでも分かる」
村人たちは、一度もヴェルの出自を確かめようとしなかった。まさか本当に、敵国の人間かもしれない、というリスクを抱えたまま、助けてくれたというのか。
ヴェルは困惑を隠しきれないまま、視線を彷徨わせる。
シグとリウは顔を見合わせ、軽く頷いた。
「ヴェル様。きっと殿下も、この館にいて良いと言ってくださると思います。だから……」
しかしヴェルは軽く首を横に振る。
「駄目だ。それこそザディオス人を置いておいたら、城砦の人たちにも不審に思われるかもしれない。俺はもう出て行くよ」
「っ……じゃ、じゃあせめて今夜だけ。今夜だけは泊まって行ってください。夜中に出発したら野盗に襲われますよ!」
リウの申し出に、ヴェルは「でも」と言い掛けるが、リウは「出立するにしても魔力が回復してから! でないと許しません!」と主張した。
ヴェルは困ったように眉根を寄せたが、ややあって小さく頷いた。
客室用の部屋に入れば、先日までカイが使っていたせいか、どことなく例の匂いがした。
ベッドに寝転がり、天井を見上げる。
すっかり、この館の天井の模様も見慣れてしまった。
「……最初は、村を助けるためなら、って思ったのに……」
騙し続ける罪悪感から、身を差し出すくらい当然だと思った。チョーカーを無理やり剥ぎ取られ、どんな凌辱を受けようとも仕方がない、と覚悟をしてこの館に来た。
だが、肝心のカイは手を出すどころか、自分を村に帰すことを一番に考えてくれた。
あれだけの人々に妬まれ、疎まれ、逆恨みをされ。それでもなお、人として誤った道に進もうとはしなかった。毅然と前を向き続けた。
この館でカイを間近で見た時、あまりに美しかったので食い入るように見つめてしまったが、今は、顔立ちの美しさはもとより、彼の心の美しさに惹かれている。
僅かに触れ合った唇を、思わず指先でなぞった。
きっともう、こんな気持ちになる人など、自分の人生には現れない。そんな気がした。
(今夜は色々なことがありすぎて疲れた……)
ヴェルはうつらうつらとしながら、やがて瞼を閉じた。
◇
いつもの夢を見る。
とんでもない悪夢だ。
逃げても逃げても追いつかれ、無理やり実験台に引き戻される。魔力を流し込まれ、激痛に見悶える。怖い。痛い。助けて——
けれど、ふわり、と良い匂いがした。その匂いはなぜか安心できて、悪夢を終わらせてくれた。
匂いの持ち主が誰なのか、もう分かっている。
その持ち主にとって自分は敵側の人間だった。だから、シュリス人だと偽って、一緒に笑い合った。嘘をついてでも、あと少しだけ一緒にいたいと願ってしまった。
最初から叶うはずもない想いだったのに。騙した先で、「好き」と言われた。途方もなく嬉しかった。同時に、目の前が真っ暗になるほどの罪悪感を覚えた。
その言葉は、ちゃんとした相手に取っておかなければならないのに。
その気持ちは、本来、向けられるべき別の相手がいるはずなのに。
(——……俺じゃないって、分かってる)
恋愛なんていう分不相応なものなど、願ったことは一度もなかったのに。
(生まれて初めて。羨ましい、って思っちまったなぁ)
自分以外の「ちゃんとした」誰か。嘘偽りもなく、心からカイを想い、カイに想われる、どこぞのオメガが羨ましくて仕方がないと思ってしまった。
この先、カイが出会うであろうそのオメガは、カイの隣で共に笑い合い、あの良い匂いに包まれて暮していくのだ。
(俺が普通だったら良かったのに)
孤児ではなく。ザディオス軍にも捕らわれず。普通に、シュリスに生まれた魔導士だったなら。まだ少しチャンスがあったのではないかと。そんなどうしようもない事を考えてしまう。
出自は変えられない。自分の過去も変えられない。死んだ人間が戻らないように。もう、全てどうしようもないことなのだ。
(ごめんな……)
カイの人生にとっても汚点だろう。まんまと騙された挙句、毒まで食らいながら死にかけて。好きだなどと告白をしてしまったのだから。
これからカイは、付き人たちに助けられながら、ここで暮らす人々のために責務を果たし続けるのだろう。そのひたむきさに惹かれるオメガはきっと多いはずだ。そんな日々の中で、「あのザディオス人のオメガに騙された」というのも過去になり、記憶から薄れていくだろう。
(次はちゃんと、良いオメガを好きになってくれよ)
カイの未来に、自分はいない。当然だ。最初から、自分がこの館にいたのがおかしかったのだ。
たくさんの苦労をしてきたカイには、幸せになってほしい。ただそれだけを願う。
◇
明け方。まだ陽も昇り切らない時間に、ヴェルはそっとベッドを抜け出した。
魔力は僅かに回復をした。チョーカーは毒の魔力をため込んでしまっているので使えないが、別の魔導具に移すことはできるかもしれない。何にせよ、抑制具なしで出歩くのはさすがに危険だ。
確か、納屋の中に、廃棄用の魔導具がいくつかあった。あれを一つ拝借しよう。
ヴェルは音を立てないようにして玄関扉を開け、外へ出る。
薄暗い空の下、玄関前にいた早起きな鳥が、小さく鳴いて飛び立った。
夏のせいか、早朝でも暖かいくらいだ。自分の故郷とは大違いである。ヴェルはこの二か月間手入れし続けた庭を見渡し、納屋の方へ向かおうとする。
しかしふと、池へと足を向けた。ファレンの花が気になったのだ。早いものが咲いているかもしれない。もし咲いているのであれば、それを一目見てからこの館を離れたい。
足早にアーチをくぐり、池の前でしゃがみこみ、そっと茎に指先を滑らせた。
花の蕾たちは開花寸前だ。このまま陽が出れば一斉に咲くかもしれない。そしてそれはきっと、自分がこの館を去ったタイミングだ。
「……残念」
ヴェルが苦笑して指先からそっとファレンを離した。その時
「何がだ?」
突然背後から声を掛けられ、ヴェルは思わず後ろを振り仰ぐ。
陽の昇っていない薄い群青色の空を背に、カイが佇んでいた。
「カイ……。どうして」
「お前が出て行くのが見えた」
「……起きてたのかよ」
「目が冴えてしまってな」
カイはヴェルの隣に座った。その動作は少しぎこちない。
「調子、まだ悪そうだね」
「まあ、昨日は死にかけだったと思えば雲泥の差だ。改めて、命を助けてくれたことに礼を言う」
「礼なんて……。俺の方こそ、あんたが助けに来てくれなかったら死んでたよ」
ヴェルは気まずそうに俯いた。
「それに、あんたには謝らなくちゃ」
「謝る? 何をだ」
「どの道ノアたちから聞くと思うけど。俺は……っ」
言い掛けた口が、勝手に凍り付く。まだ、カイに良く思われておきたいのか。「騙していたのか」と軽蔑されたくないのか。往生際の悪いことだ。
「俺、は……その……実は……」
言わなければ。言って。そして、きちんと謝らなければ。
唾を一つ飲み込み、吐息のような小さな声で告げた。
「——……ザ、ザディオスの人間で……。だから、あんたの国の、……あんたの守るべき民じゃない」
最初から異分子だったのだ。彼が命をかけて守るべき民の対象外。むしろ、彼が戦場で命を懸けて守ろうとした者たちの敵だ。
カイは僅かに目を見開いた。カイが何かを言うより前に、まるで言い訳のようにして続ける。
「俺は三年前の国境大戦の脱走兵だ。元々孤児だったけど、魔力があって、先生に引き取られて、魔導士として育ててもらった」
出自をべらべら喋って。時間稼ぎでもしているかのようだ。カイの口から、失望したと言われるのが怖い。
「十年前に先生がザディオス軍に殺されて、俺は軍の実験施設に送られたんだ。オメガの持つ魔力の経路は少し特殊で、魔力をため込む性質があるって……。それで、えっと、身体を改造されて……、戦場に、魔力貯蔵庫として送られて……、で、でも、俺は魔力が枯渇して、大型補充ができなくなっちまって……用済みとして殺される前に逃げ出して……」
ぎゅう、と自分の身体を抱き締めた。早く出て行け、と言われる、その瞬間を少しでも引き延ばそうとしている。
「それで、何日も彷徨ってる内にシュリスに迷いこんじゃったみたいで。倒れてたところ、村の人に助けられて……」
「……そういう事情だったのか」
「だ、騙してて本当にごめん。俺、その……ええと……」
何かを言わなければ、と思うのに。もう言葉が上手く紡げず、もう一度掠れた声で「ごめん……」と謝った。
「先ほどから何をそんなに謝っているんだ」
「え?」
「今が戦時中であればお前を捕虜にしなければならないが、戦争は終わった。お前を助けたのは村人たちの好意。お前が俺にわざわざ出自を話す義務もない。そんなに謝ることがあるのか?」
「だって、俺のせいであんたはゴーシェに殺されかけただろ」
「逆だろう。奴らの動機は俺への妬み。これは奴らと俺の問題であり、お前と村は巻き込まれただけだ」
ヴェルは顔を青褪めさせたまま「違う!」と叫ぶ。
「俺のせいだ! 俺が悪いんだ……! 俺のせいで、みんな被害に遭って……ッ!」
声を絞り出すようにして言うヴェルに、カイはちょっと眉根を寄せた。
「わからん。なぜお前はそんなにも自分を責める? 加害者はあくまでもユジムとゴーシェだ。ダオンを始め、兄一派の貴族たちすら手玉に取ってな。……お前に非はない」
「あるよ。俺があの村にいなければ焼かれなかった。俺がこの館にいなければあんたは死にかけることもなかった」
「それはお門違いだ。お前がいようがいまいが、奴らは別の手を使って俺を陥れただろう。逆に、お前がいなければ、俺は近い内にあの毒で殺されていたかもしれん」
「そんなはず……!」
「ない、とは言い切れんぞ。お前はこの世の全ての悪事が自分のせいで起こっているとでも思っているのか」
「でも本当に、俺のせいなんだ。あんたも、村も、先生も……ッ」
カイは「先生?」と聞き返す。そしてすぐに、先ほども同じ単語が出てきたことに思い至った。
「先生、というのは?」
ヴェルは一瞬、なぜそんなことを聞かれるのか分からず不安そうに瞳を揺らしたが、すぐに池の水面へ視線を向けた。
「先生は……。孤児だった俺を助けてくれた人だよ。魔導士で、導医で、……このチョーカーも先生が作ってくれた」
手元のチョーカーを僅かに揺らす。カイも、このチョーカーがかなり上等なものだというのは理解していた。王都でも見かけない精巧な造りだ。
初めてヴェルと出会った時も、ヴェルがヒートだとは一瞬分からなかった。それほどまでにフェロモンを完全に遮断するとは。相当な技術力を持った魔導士だったのだろう。
「ザディオス軍に殺さた、と言っていたな」
ヴェルは「ああ」と、声を震わせながらチョーカーをぎゅうと握りこんだ。
「さっきも言ったけど、軍の連中はオメガの魔導士を狙ってきた。……俺と暮してたせいで、先生は殺されたんだ」
カイはヴェルの様子を見て、ようやく理解した。この、ヴェルの異様なまでの自責は「先生」の死から来ているのだろう。
指が白くなるほど強く握られたヴェルの手をカイは思わず包み込んだ。
「ヴェル。殺したのは軍の人間だったのだろう? お前と、お前の師は平和に暮らしていただけだ。それを壊したのはお前ではない」
ヴェルは怯えたような瞳をカイに向けた。そして泣き出しそうに顔を歪める。
「違う。俺が……、俺のせいで……」
「そう思いたくなるお前を否定はしない。だが、事実として、殺す指示を出した者はいる。お前たちがどれだけ平和を願い、慎ましやかに生きていたとしても、……他者の都合であっさりと壊されてしまう」
カイの手に、僅かに力がこもった。ヴェルはそこでようやく、カイの顔を見る。
カイ自身もそうなのだろう。誰かの利己的な都合で、振り回され、貶められ、殺されかける。そしてそれは自分だけではなく、周りにも影響を及ぼす。
カイは続けた。
「お前の無力感や罪悪感は、俺にも少なからず分かるつもりだ。理不尽な暴力に足が竦み、言葉を発することを恐れる」
「……あんたでも、怖いのか」
「当然だ。だが俺はどのような状況でも、必ず自分で選ぶ。前に進むことも、後退をすることも。黙ることも、発言をすることも。逃げることも、逃げずに立ち向かうことも。全て、俺が選ぶ」
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「とはいえ、周りは俺を目の敵にする奴が多くてな。……正直、苦しい、と思うことはある」
きっとカイの本音だ。戦場で英雄と敬われ、また、恐れられた黒き獅子は、ずっと孤立無援の中で戦わされてきたのだろう。戦争が終わっても休むことができず、むしろ、戦場での功績が、余計彼を孤独に追いやった。
「でも、あんたにはノアたちがいるだろ?」
「ああ。三人とも本当に心強い。俺にとって気を許せる数少ない人物だ……だが、な」
一瞬、言いにくそうにしたあと、カイは続けた。
「隣にいてほしい、と……。こんなにも手放しがたいと思ったのは、一人だけだ」
言葉を区切り、カイは真っ直ぐにヴェルを見つめる。
「ヴェル。お前さえ許してくれるのであれば、これからも俺の隣にいてほしい」
ヴェルの胸がばくん、と跳ねた。困惑したようにヴェルは眉根を寄せる。
「え……? だ、だから俺はザディオス人で……」
「わかっている。お前としてもシュリスは敵国。複雑な思いはあるだろうが……」
「逆だって! あんたが嫌だろ?」
「ザディオスとは和平条約が結ばれている。今は敵ではない」
ノアと同じようなことを言われ、ヴェルは思わず頭がくらりとしてしまう。
「い、いやいや。でもザディオス人が城砦にいるってなったら、良く思わない人も出るだろうし。ほら、それこそ、兄貴側の貴族に何か言われるんだろ?」
「言われるだろうが、連中は俺が誰と結婚しようが言ってくる。結論ありきだ。まあ、確かに……シュリスの人間と結婚するよりはきつい事を言われそうだが。お前に批判が向かないようにする」
カイはヴェルの手を握ったまま言った。
「以前は、批判が来ることに辟易していた。だから抵抗をせず、穏便に進めることを選んでいた……。しかし今は違う。たとえ批判が来ようとも、お前と共にいられるなら安いものだと感じる」
「……っ、!」
あまりにストレートな物言いに、ヴェルの頬が熱を帯びる。上気した顔を隠すように俯いたヴェルに、カイは畳みかけていく。
「確かに、俺と共にいることでお前にいらぬ苦労をかけるだろう。俺が普通のアルファでなくて申し訳なく思う。……だが昨日、お前に好きだと告げた、あの気持ちに嘘偽りはない。お前も俺を好きだと言ってくれたな。できればお前とつがいになりたい」
「へあ……?」
「お前は美しく、強いオメガだ。一本芯が通っているから、俺以外の選択肢などたくさんあるだろう」
「ちょ……っ」
「それでも俺は、お前に選んでもらいたいと思う」
「ちょ、ちょっとまって……!」
「どうした」
「許容範囲が……っ」
「許容範囲? やはり許してはもらないか」
「ちが、っ、そうじゃなくて……!」
こんなにも明け透けに好意を伝えられることなど生まれて初めてだ。言葉の洪水をおしとどめることができず、言われた先から胸のうちに喜びが溢れて止まらなくなる。
ヴェルは耳まで真っ赤にしたまま、掠れた声で言った。
「う、うれしすぎて、わかんない……」
言い終えるなり、ぎゅう、と目を瞑る。その反応に、カイもつられたように頬をわずかに紅潮させた。
「嬉しい、ということは……、俺は自惚れてもいい、ということか」
ヴェルの顔を覗き込むようにして言えば、ヴェルは困ったように目を瞬かせながら、小さく頷いた。
「……あんたのことが好きなのは、俺も本当だよ。……でも、その、俺とあんたじゃ釣り合わないだろうし……」
「釣り合うかどうかは他人が好き勝手に評価していくもの。こちらの手の届く範疇ではない」
「……即答だな」
「当然だ。問題は、他者の評価ではなく、お前がどうしたいかだ。お前が罪悪感から幸せを避けているのは理解した。だが、それでも俺はお前と幸せになりたいと思う」
罪悪感から幸せを避ける——……的確すぎる言葉に、ヴェルは浅く息を呑んだ。そして狼狽えたようにぽつりと言う。
「俺じゃ、あんたを幸せにできないよ……」
「お前にしてもらおうとは考えていない。お前が俺と幸せになりたいかどうかだと思うが」
「っ……」
言葉に詰まったヴェルの手をカイはそっと持ち上げる。
「お前と話していると、不思議と落ち着く。お前の笑った顔を愛しく思う」
「カイ……」
「暫くこの館に住んでゆっくり考えてもらっても構わない。今ここで、お前をどこかへ行かせてしまうくらいなら、俺はいくらでも待つ。なんならノアのように、もし俺に愛想が尽きたら、俺と離縁してもいい」
カイは苦い顔で「……もちろんしてほしくはないが」と付け加えた。その表情があまりに嫌そうだったので、ヴェルは思わず笑みをこぼしてしまう。
「——……そんなに言って貰えるだけの価値があると思えないけど。でも、ありがとう」
そしてカイの手を握り返した。弾かれたようにカイはヴェルの顔を見る。
ヴェルははにかんだように続けた。
「俺も好きだよ。あんたも、この館も好き。……あんたとつがいになりたいと思う」
カイは目を丸くし、そして表情を綻ばせた。年相応の、青年らしい笑顔にヴェルも微笑んだ。
するとちょうど、東の山から朝日が昇り始めた。庭の木々を起こすかのように、白い陽光が差し込んでいく。
「あ……」
陽光が池を照らし、ヴェルは思わず声を漏らした。
まるで太陽に導かれるようにして、ファレンの蕾たちが開いたのだ。池を囲む花々が、徐々に閉じた花弁を開いていく幻想的な様子を、カイとヴェルは見守る。
ヴェルが「綺麗だな」と零せば、カイも頷いた。
「俺は昔王都に住んでいなかったのでな。とある地方貴族の屋敷で暮らしていた。その庭の池にもファレンがたくさんあって、毎年立派な花を咲かせていた。……だからか、思い出深い花だ」
「へえ。俺も昔、先生に連れて行かれた貴族の屋敷でファレンが咲いてて。それで……」
おや。とヴェルは思う。
当時を回顧する。恩師と一緒に向かった貴族の屋敷。池に咲く花。「ファレンが咲く季節か」と言う恩師の穏やかな声——……そこに一人、小柄な少年がいた気がする。ファレンの咲く池のほとりにしゃがんで、熱心に花を見つめていた。
こちらが声を掛けるより前に、褐色の髪を揺らしながら逃げるようにして去って行ってしまったが。
「いや、まさかな……」
しかしどうにも気になる。何かが引っかかる。
一時期、シュリスとザディオスが停戦状態の時があった。要請があればどこにでも飛んでいく恩師が、万が一、シュリスにも行っていたとしたら。そしてそれに自分も同行していたとしたら。
ヴェルはそろり、とカイを伺う。
「あ。あのさぁ、カイ」
「ん?」
「その貴族の屋敷って、もしかして、庭にでっかい銅像なかった?」
「……あったが」
「獅子の銅像?」
「そうだ」
「しかも……」
「二体あった。池のすぐ横だ」
うわぁっ! とヴェルは弾かれたように叫んだ。
そうだ。今になってようやく思い出した。あの時、小柄な少年の赤みがかった瞳が、やけに綺麗だなと思って、ファレンより先にそちらに見入ってしまったのだ。
「あ、あの時の子だぁ……ッ!」
「何の話だ?」
「本当にノアが言ったとおりだ……! 昔はあんなに小さくてぷにっとしてて可愛かったのに……!」
「は? ノア?」
「今やこんな筋肉おばけに……!」
「だから何の話だ!」
ぎゃあぎゃあと言い合う二人の手は離れず、ファレンの花は陽光を受けながら、次々に美しく咲いていった。
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