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十八話
しおりを挟む数日後の昼下がり、外はどんよりとした曇天で今にも雨が降り出しそうな天気だった。
何日か前までの心地よい天気は跡形もなく消え去り、風が吹くたびに鳥肌がたってしまう。冬物のはんてんを引っ張り出してしまったくらいだ。
彗は紫苑に乳をやりながら、縁側で空を見上げていたジオに声をかける。
「今日、降りそうだな。お前の弟は大丈夫だろうか」
「そうだなぁ......無事来れるといいんだが」
ジオは眉を下げ、いつもよりも少し低い声を響かせながら灰色の空を見つめた。
彗がこの里にきてから一年ほどたって道が整備され、今までとは比べ物にならないほど他の地域と行き来しやすくなったが、それでも天気が悪くなれば危険は伴う。
山の中で雨に降られてしまえば最悪のことだってあり得る。
口に乳首を含んだままうつらうつらし始めた紫苑を見つめ不安になっているとジオが近くに寄ってきた。
「彗、大丈夫だよ。まだ雨も降っていないし、そろそろ着く頃だろう」
ジオはそう言って彗の頭に手を置く。自分も弟の事が気がかりなはずなのに、彗の不安を感じ取ったのか、ジオは穏やかに笑顔を向けてくる。
その手の温かさを感じると、心が凪いでいった。
「そうだな」
ジオの手にぐりぐりと頭を擦り付けて、庭で遊び回る陽心の声に耳を傾ける。
ジオも同じように庭でどろんこになって遊んでいる陽心を見て、口角を上げた。
「すごい汚れてるな」
「風呂に入れないと……」
彗は深くため息を吐き、着物の衿を直すとジオに紫苑を渡し、縁側から陽心のいる庭へと下りる。
庭で思うがまま自由に遊んでいた陽心は、彗が近づいてきたのを見て不満気に下唇を突き出した。
遊びの時間が終わるのを感じ取っているのだろう。
「陽心、おいで。もう終わりだよ」
「やだぁ!まだあそぶ!!」
逃げ回ろうとする陽心を捕まえて、抱き上げる。
着物に泥が着いてしまったが仕方がない。
このわんぱく坊主をきれいにするのが、彗の最優先の仕事だ。
暴れて逃げようとする陽心を小脇に抱え、紫苑を寝かしつけるジオに声を掛ける。
「陽心を風呂に入れてくる」
「わかった。よろしく。陽心、ちゃんとかかの言うこと聞くんだぞ」
「やだぁ!!じおぉ!!まだあそぶぅ!!」
陽心は体を捻りながらジオの方へと手を伸ばし、彗の腕の中から逃げ出そうとする。
最近では彗よりジオに縋れば、甘やかして貰える確率が高い事を覚えてきていて大変だ。
陽心を甘やかさないよう目に力を込めて視線を送ると、彗の内心を察したのかジオは小さく頷き「おう、風呂入ってこい」と笑顔で言い放った。
ジオに裏切られた陽心はほっぺをぷくりと膨らませ大騒ぎしていたが、彗はしっかりと胸に抱き、陽心を風呂場へと連行する。
ジオの弟が来るから早めに風呂を用意していたのが役立った。
泥だらけの着物を脱がせ、陽心の体を清めていく。
するとさっきまで不満げに突き出されていた下唇はだんだんとなりを潜め、陽心の可愛らしい山形の唇には笑顔が戻り始めた。
「あったかぁい」
手についた泥をお湯で洗い流すと、陽心は蕩けるような笑顔を見せてくれる。どうやら機嫌がなおってきたようだ。彗とは違って気持ちの切り替えが早くてありがたい。
「あったかい?よかった」
「あのさぁ、なんできょうはおふろはやいのぉ?」
「今日はジオの弟が来るんだよ。だから綺麗にして出迎えないと」
「おとーと......」
「そう、弟」
「ようしん、お兄ちゃんだからジオのおとーととなかよくする」
どうやらジオの弟も自分の弟と同じようにややこだと思っているらしい。
陽心の勘違いに肩から力が抜ける。ここ数日はジオの弟が来ることに少し緊張していたけれど、陽心のお陰で少し気が楽になった。
「ふふ......そうだな、仲良くするんだぞ」
陽心の鼻の上の泥を拭い桃色になった頬を撫でると、高い笑い声が風呂場に響く。
その笑い声に釣られるように彗も笑顔を浮かべた。
手早く陽心を上から下まで綺麗に洗い終え座敷に戻ると、紫苑を寝かしつけたジオがどこかにいく準備をしていた。
陽心を腕の中から下ろしジオの元へ向かう。陽心は一目散に紫苑の隣へ走り、じっと弟の寝顔を眺め始めた。頼むから起こしてくれるなよと思って見つめていたがひとまずは大丈夫そうだった。
「ちょっと辻のところまで見に行ってくるよ。陽心と紫苑を頼む」
「わかった。温かくしていけよ。今日は冷えるぞ」
ジオを送り出し、紫苑にちょっかいを出し始めていた陽心を抱き布団の隣に腰を下ろすと、落ち着いていた心臓が少しだけ鼓動を強くする。
緊張を誤魔化すように陽心を抱きしめると、鈴の音のような可愛らしい声が胸元から聞こえてくる。
「かか、おむねがどくどくうごいてるねぇ」
「そうだな。かか、ちょっと緊張してるみたい」
「なんでぇ?」
「ジオの弟と会うの初めてだから。かか、あんまりおしゃべり得意じゃないだろう?ちゃんとこんにちはってできるか不安なんだ」
「そおなの?でも、かかだいじょぶだよっ。陽心がなかよくできるようにしてあげるからね」
本当に、この社交性は誰に似たんだろうか。愛おしくてたまらなくなり、柔らかな頬ににっこりと満面の笑みを浮かべる陽心を強く抱きしめた。
「ありがとう。陽心がいるから、大丈夫そうだ」
くるくると彗の顔の周りではねる癖毛に口付けて笑うと、陽心も嬉しそうな声を上げる。
ケラケラと笑う陽心の唇に指を押し当てて、紫苑が起きないよう静かにさせてから二人だけの時間をしっかりと堪能する。
二人でお手玉をしたり、陽心のおしゃべりを聞いたりしていたら時間はあっという間に過ぎていった。
ジオの帰宅を待つ間に、外は雨が降り始めたようで家の瓦や木の壁に雨が弾けていく音がする。
ジオは傘を持っていっただろうか。障子の向こう側に灰色の光が滲む。
陽心にせがまれて作った赤いお手玉が色の失せた部屋で軽やかに、鮮やかに舞う。
「あっ」
五十にようやく辿りつきそうになった時、彗の手からころりとお手玉が逃げ出していった。それと同時に玄関の引き戸が開かれる音がする。おそらくジオが帰ってきたのだろう。もしかしたら弟も一緒かもしれない。
「ジオかえってきた?」
「そうかもな。お出迎えに行こうか」
「うんっ」
両手を彗に伸ばしてきた陽心を抱き上げる。ずいぶん重くなって、最近は抱き上げる時、勝手に「よいしょ」と声が出てしまうくらいだ。彗の「よいしょ」を聞き、陽心はくすくすと笑う。
紫苑はぐっすりと眠っていたので、陽心だけを連れて玄関へと向かう。
玄関に近づくと、ジオが誰かと話している声が聞こえてきた。
外の灰色の光を背中に纏っているせいで、その声の主の顔はよく見えない。
ジオは穏やかな口調で、後ろに続く男に話しかける。
「遠かっただろう。狭い家だけどゆっくりしていけよ」
「いえ。ありがとうございます」
平坦で感情が乗っていない声が聞こえてくる。その瞬間、彗の体に何か冷たいものが流れるような感覚が走った。
聞き覚えのある声。けれど最後に聞いた時よりも低くなった声。最後に聞いたあの日から、一度も忘れなかった声。
気のせいだと、勘違いだと思っても一度似ていると思ってしまえば、心臓が激しく暴れ始める。
頸からはじっとりと汗が吹き出し、背中を伝う。陽心の温もりと重さがどこか遠くなっていくような気がした。
廊下に立ちすくみ少しも動かなくなった彗を、陽心が不思議そうな顔で見上げてきた。
「かかぁ?」
彗の耳には、甘く朧げな陽心の声も幕を張ったように届かない。
けれど、彗以外の世界はいつもと同じ働きをしていて、陽心の声に、ジオが振り向く。
「お、丁度よかった。彗、これが俺の弟」
紹介された男が、一瞬たじろぐような動きを見せてから一歩ずつ進み家の中へと入ってくる。
光の中から現れた男の姿に、彗の世界は時を止めた。
「陽蘭、これが俺の夫の彗だ」
ジオの口から放たれた人の名が彗の鼓膜に、体に、心臓に響き渡った。
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