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1巻
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しおりを挟む今日はあなたと恋日和
黒い急須へ茶葉を落とし、沸かしたばかりのお湯を注ぐ。
ようやく遠のいた残暑の代わりに、熱いほうじ茶の似合う涼しい風がやって来た。そんな十月初旬の午後、茶葉を蒸らしている間に鼻歌交じりで湯呑を選んでいた私を、リビングにいる母が呼んだ。
「七緒、ちょっとこっち来て」
「なぁに~?」
ああ、芳しい香り。
母の分のお茶も淹れながら返事をする。手にした湯呑は思ったよりも熱い。あまり長い時間持ってはいられなそうだ。そう思った私は急いでリビングに入り、ダイニングテーブルに置いた。
目の前に座っていた母が顔を上げてにんまりと笑う。これは……何かあるときの顔だ。
「どうしたの?」
「ね、七緒。お見合いしてみない?」
「え!」
思わずお気に入りの湯呑を倒しそうになってしまった。
「いいから、そこ座りなさい。お茶、ありがとね。いただきます」
「う、うん」
私が、お見合い? 確かにもうすぐ三十だし、彼氏もいないし、彼氏どころかまだ……処女だし、お見合いでもしなければ今さら出会いなんてないだろうけど――って考えてたら落ち込んできた。
落ち着こうと、ふう、とほうじ茶を冷まし、ひと口啜った。ほっとする温かさが舌の上を滑ってゆく。
「お友達の知り合いの息子さんなんだけどね。お母さん、お友達に〝いい人いないかしら、安永さん〟って訊かれちゃってね~。歳もちょうど良さそうだと思って、七緒のこと話したのよ」
「ふうん」
「まぁ無理にとは言わないけど……でもね、とっても素敵な人なのよ。ちょっと待って」
母は椅子の上に置いてあったバッグに手を入れて、ごそごそと何かを探し始めた。
――お見合いイコール結婚しろ、だよね。これって私に早く実家を出なさいっていう、無言の圧力かな。楽だからって、いつまでも親元でぬくぬくしていたけど、そろそろ潮時なのかもね。
両親と弟夫婦たちの間で二世帯住宅の話も進んでる。さすがにそこに住まわせてもらおうなんて、図々しい考えは持っていなかったけれど。
ちょうどいい温度になった湯呑を両手で包むように握り、澄んだ飴色のお茶を見つめた。
「いいよ、別に。お見合いしても」
「え! あらそう?」
「うん。もう、いい加減家を出なくちゃとは思ってたし、お見合いで結婚が決まれば、それもいいかもね」
「ななちゃん、なんのおはなし?」
遊びに来ていた姪の帆夏が私の顔を覗き込む。父と鬼ごっこでもしていたのか、額からこめかみを通った汗が、つるつるの頬に流れ落ちていた。
「うーんとね、大事なお話だよ」
「だいじなおはなし」
膝の上に乗った帆夏の汗を、ミニタオルで拭いてあげる。ついこの間までは小さい赤ちゃんだったのに、こんなに大きくなって……。私も歳を取るはずよね。
「あったあった。ほら、このお写真見てみて!」
母が差し出したものから、慌てて顔を逸らした。心の準備が……!
「ちょ、ちょっと待って。まだ見たくないから、お母さん持っててよ」
「どれどれ。お、なかなかいいじゃん!」
いつの間にかやって来ていた弟が、細身の母の背後から写真を奪った。大柄で筋肉質の体形と、濃い目の顔は父親そっくりなのに、性格は母親似でノリがいいんだよね。私は見た目が母親似で、性格は慎重派の父に近い。
「やっぱり隆明もそう思う? 結構いいわよねえ」
「へえ、最近は写真屋で撮ったのじゃなくて普通の写真渡すもんなんだな。ほら、時恵も見てみ」
「ほんとだ~! 眼鏡のイケメン男子ですよ、お義姉さん!」
弟のお嫁さんであり、帆夏のママでもある時恵ちゃんが満面の笑みを私に向けた。ショートヘアの似合う、いつも元気で溌剌とした義妹だ。でも今日は、その明るい笑みを素直に受け取ることができなかった。
「ありがとね、時恵ちゃん。でも見たくないの」
「どうしてですか?」
「う~ん、変に期待したくないから、かな。当日までのお楽しみにします」
本当は、お見合いなんて興味がない。
「なるほど。そういう考えもありますね~。でも本当に素敵な感じですよ」
理想を言えば好きな人と恋愛して、それを結婚に繋げたかったな、なんて。この歳で馬鹿げた妄想はいい加減やめたほうがいいのは、わかってるけど。
「この方ね、七緒の写真見て、ひと目で気に入ったらしいわよ」
「え、ちょっと、私に何も言わないで勝手に見せちゃったの?」
「家族旅行のときのをね。だって、こっちだけ見せてもらうわけにはいかないじゃない」
「もう……」
お母さんの行動にあきれつつも、自分の身を振り返った。
好きな人なんて何年もいないし、彼氏がいたのも高校生のときだけ。
大学出てからずっと真面目にコツコツ働いて来たのに、その真面目さが仇になって、会社ではお堅い人に見えるらしかった。可愛げがないって、陰で言われてるのを聞いてしまったこともある。誘われることもなく、誘うこともなく、いつの間にか二十九歳。
夢なんか見たって現実にはほど遠い。最初から諦めていればがっかりすることもない。だから、必要以上に期待するのは、やめたかった。
「あ、お母さん。その人の情報も、お見合いまでいらないからね。名前も、職業も、見た目も、何も教えないで」
笑顔で言う私を見て、母はやれやれと肩を竦めた。帆夏と遊んでいたおもちゃを片付けた父が、母の隣に座る。
「ねえお父さん、いつごろ二世帯住宅建てるの?」
「ん? ああ、そうだなぁ。来年辺りがいいか? 母さん」
「帆夏が幼稚園に入って、落ち着いてからがいいんじゃないの。隆明はどう?」
「それでいいと思うよ。しっかし、とうとう俺もローン持ちか。親子ローン、なあ」
「あら、嫌なの?」
「いえいえ、感謝しております」
おどけたような顔をして、弟が頭を下げた。
帆夏は来年の四月に幼稚園に入るから、園に慣れる期間を考慮しても、家を建てるまであと一年足らずということか。
お見合いで結婚を決めて家を出る。何となく口から出た言葉だけど、家族のためにも本当にこれが一番いいのかもしれない。こんな私を気に入ったなんて奇特な人がいるのなら、恋愛がどうのと贅沢言っている場合じゃない。そこにロマンチックだの、ドラマチックだの、そんなものはいらないはずなんだから。
+ + +
それから三週間が経ち、お見合いの日は今度の日曜日に迫っていた。
「おはよ」
眠い目を擦りながらキッチンへ入ると、そこにいた母が目を丸くして言った。
「おはよって七緒あんた、もう十時過ぎよ」
「有休なんだからいいでしょ~」
コンビニで買っておいたレーズンパンをトースターに入れて温める。コーヒーを淹れている間に、甘い匂いを漂わせたパンを取り出し、お皿にのせた。
今日は木曜日。わざわざ平日のこの日に有休を消化するのにはわけがある。
「そうそう、七緒にこれ、来てたわよ」
ダイニングテーブルでパンにバターを塗る私に、母が差し出した。
「うっ……!」
手渡されたハガキを見て、頬張ったパンを喉に詰まらせそうになった。幸せそうな笑顔で写る大学時代からの友人と、彼女の大きなお腹に手を当てて、これまた幸せそうにしている男性の写真。二人の周りにハートがいくつも飛び交っている。
「それ、さっちゃんでしょう。よくうちに遊びに来ていた」
「うん」
「結婚したのねえ」
「おめでた婚で入籍済み。結婚式は赤ちゃんも一緒に来年の予定です、か」
ハガキに書かれた文章を棒読みする。それにしてもいつの間に……。これでとうとうあの頃の仲のいい友人の中で、独身は私一人になってしまったというわけね。
「おめでたいわね~。あんたも早くそうなるといいのに」
悪気のない言葉なんだろうけど、今の私には相当キツイ。ちぎったレーズンパンの上に、融けた黄色いバターが染み込んでいく。とてもおいしそうなのに、続きを食べる気持ちが萎えた。
「お母さん、私これからでかけるから」
「帰りは遅いの? 夕飯は?」
「わかんないけど多分遅くなる。夕飯はいらないよ」
「もしかして着物着ていくの?」
「まぁね」
「いい趣味よね~。最近流行ってるんでしょ、着物女子。そういうところを日曜日にしっかり相手の方にアピールしなさいよ」
ソファに座った母がリモコンで番組を替えながら笑った。小さくため息を吐いて、パンを残したお皿とコーヒーカップを片付ける。もったいないことしてしまった、けど。
私だって友人の幸せは嬉しいよ? でも……ハガキを目にしたと同時に大きな焦りと少しの苛立ちを覚えて、嬉しさが萎んでしまった自分が情けなかった。やっぱり好きな人と恋愛して結婚をするというのは羨ましい。
嫌な気持ちを振り払うように急いで自室へ戻り、クローゼットを開けた。着物を収納するために買った桐のチェストの浅い引き出しを、手前に引く。桐のいい匂いに、ささくれ立った心が慰められた。
半年前にカルチャースクールへ通って、三か月後には何とか着られるようになった和服。お気に入りの着物を着てどこかへでかけてみたくて、鎌倉を訪れたのは六月下旬の梅雨の最中だった。なぜ鎌倉かというと……着物で歩いても違和感のない街だと思ったから。家から割と近いし、お寺巡りが好きな私の、憧れの場所だからということもある。
一度目は、ほんの一時間ほど歩き回っただけで満足し、すぐに帰宅した。
二度目に着物で訪れたのは、その翌週の七月初め。梅雨明け間近の晴れた日で、思いがけない猛暑だった。ひどい暑さと着慣れない着物に気分が悪くなり、それに着崩れも起きて、その外出は大失敗。後悔した私は、夏の間は着物でおでかけするのはやめた。そして涼しくなるのを待って、有休を取ったというわけだ。比較的空いていて過ごしやすかったという理由から、一度目、二度目と同じ木曜日に。
「そういえばあのとき、手帖を失くしたんだっけ」
あまりの暑さに余程ぼんやりしていたのか、どこに置いて来たのかもわからない革の手帖。個人情報は書いていなかったから変な心配はないけれど、お気に入りを失くしてしまったのは残念だった。
そんなことを思い出しつつ、引き出しから、買ってからまだ一度も袖を通していない紬をそっと取り出す。その重みとしっとりした手触り、秋らしい綺麗な色に自然と頬が緩んでしまう。早く着たかったんだもの。嬉しくてたまらない。
気分が悪くなっても大丈夫なように、今日は簡単な着替えを持って行くことにした。くるりと丸めた肌触りのいいニットワンピース、ウールのショール、半分に折り畳める柔らかなパンプスとカラータイツ、一応予備の眼鏡も。これらを風呂敷に包んで紙袋へ入れる。結構な荷物だけど、いいのいいの。備えあれば憂いなしなんだから。もしものときは着替えて、この袋へ着物を入れて持ち帰ればいい。
からし色の着物に撫子色の帯を合わせる。蝶の形のブローチを帯留めにした桃色の帯締め。長い前髪は編み込みにして、後ろ髪をねじってひとつにまとめ、撫子の形をした簪を挿した。眼鏡はやめてコンタクトに。メイクはしっかりめに。目の詰まったあけびのかごバッグに、手拭いで作ったあずま袋を入れて、持ち物の中身が見えないようにした。
クローゼットの扉に付いている鏡の前に立つ。
「うん、いいんじゃない?」
眼鏡を外し着物を着て、いつもと違うメイクと髪形にする。たったこれだけのことで、つまらない日常と冴えない自分が、くるりと一八〇度姿を変えて目の前に現れてくれるのが楽しかった。
リビングにいる母へ声をかける。
「行ってくるね」
「その着物の色いいわねぇ。綺麗よ、七緒。雰囲気変わるわよね~! ナンパとかされちゃうんじゃない? お見合い控えてるんだから、ついて行っちゃ駄目よ」
「ないない」
大げさなんだから。廊下に戻る私に母もついてきた。
「ねぇ七緒。日曜日のお見合いは振袖着て行ったらどう?」
「そ、そんなの相手の人にドン引きされるに決まってるでしょ! 私の歳考えてよ」
「振袖は未婚女性の正装なんだから別に何歳で着たって構わないのよ。一応二十代なんだし、まだまだイケるって」
「振袖が似合うような華やかな人なら何歳で着たっていいだろうけど、地味な私には無理」
靴箱から草履を出して玄関に揃えた。
「誰かと一緒なの?」
「……うん、着物友達とね。いってきます」
「気を付けてね~。いってらっしゃい」
誰かと一緒なんて嘘。でも一人だなんて言ったら、母にあれこれ詮索されそうで、それが何となく嫌だった。
とにかく、お見合いをして万が一にも上手く行ったら、着物を着て気ままにでかけるという贅沢な自由はなくなってしまうかもしれないんだし、今のうちに楽しんでおかなくては。
外は十月の下旬らしい爽やかな秋晴れ。陽は暖かく、風もない。着物でお散歩するには絶好の日和だ。
横浜駅から横須賀線に乗り、鎌倉駅で降りる。駅前はたくさんの人で、ごった返していた。時計は午後一時を過ぎたところ。
バスターミナルを出発した金沢八景方面のバスは、鶴岡八幡宮の手前を右へ曲がり、突き当たりの白い萩が咲き乱れる宝戒寺前を左折する。金沢街道を進むバスに揺られて十分ほど経った頃、到着した浄明寺バス停で降りた。初めて訪れる浄妙寺は、のんびりできるお茶室があるらしく、以前から楽しみにしていた場所だった。そういえば、どうしてバス停とお寺の名前の漢字が違うんだろう。あとで調べてみようかな。
大きな桜の木の葉が色づき始めていた。その先にある浄妙寺の山門をくぐって入山料を払う。すっきりと手入れされた境内に、本堂が現れた。高さのある縁側に年配の女性が二人仲よく座り、端では猫が気持ち良さそうに丸くなっている。
お賽銭を入れ手を合わせ、本堂左脇からお茶室「喜泉庵」へ向かった。
入り口で代金を支払い、履き物を脱ぐ。余計なものが一切ない、設えの美しい茶室へ足を踏み入れた。緋毛氈に正座をし、手にしていたかごと紙袋を横に置いて、障子の開け放たれた向こうに広がる枯山水の庭を見つめる。
庭に向かって座っている、ご夫婦。私のあとからお茶室を訪れた人の足音。趣のある静かな佇まいに自然と背筋が伸びる。やはり平日に訪れてよかった。
しばらくして私の前に干菓子が運ばれてきた。口に入れた途端、舌の上でふわっとほどける。上品な甘さを楽しんでから、お抹茶のお茶碗を手にしたとき、ふと誰かの視線を感じて顔を上げた。
振り向くと、斜め後ろの少し離れた場所に一人の男性が座っている。こちらを見ていたその人と目が合った。私よりも年下に見える彼は、珍しいことに和服を着ていた。若い着物男子を、この辺りで見かけたのは初めて。
その人が私に向けて、ほんのわずかだけれど微笑んだ。途端に心臓が大きく音を立て、視線を外すことができなくなる。奥二重の少し大きな目、すっきりとした顔立ちに、ふんわりとしたショートの黒髪。……すごく好みのタイプかも。
「わぁ、きれ~い」
入って来た若いカップルの声にはっとした私は、男性から顔を逸らして前を向き、手元のお茶碗に視線を戻した。きめ細かく泡立てられたお抹茶から湯気が立ち昇っている。口に付けたお茶碗を傾けると、舌に絡まったお抹茶の香りが鼻を抜けていった。
とてもおいしい。ひと呼吸おいてから、ふた口目を飲む。庭を見ていた夫婦が縁側を去る。自由な雰囲気だし、特別なお作法を知らなくても大丈夫だから、緊張せずに落ち着けるはずなのに。なぜか私の意識は、まだ斜め後ろを向いたまま。
どうしてあの男性は和服を着ているんだろう。私と同じように一人で来ているんだろうか。
近くに座ったカップルは意外にも静かにお茶を楽しんでいる。葉のざわめく音が茶室を通り過ぎた。
飲み終わったお茶碗の端を拭き、立ち上がって誰もいない縁側へ移動する。正座をして、目の前の見事な枯山水にため息を吐いたとき、ぎし、と板を踏む音が響いた。そちらを向くと、さっきの和服の彼が縁側の左端で何かへ耳を寄せている。
確かあれは水琴窟だった、と思う。水滴の落ちる音が反響して美しい音色を奏でるのを聞くことができるとか。ガイドブックに書いてあったから、ここへ来たら私も聞いてみようと思っていたのに、すっかり忘れてた。
彼の姿に、再び胸が高鳴る。やや細身の体つきを表しているような羽織の肩の線が、何とも言えない色気を感じさせた。どうしよう、目が離せない。
そちらを見つめていると、また彼と目が合ってしまった。なぜかその人はこちらへ近付いてくる。別に何をしたわけではないけれど何となく気まずくて、顔を伏せて静かな足音を聞いた。
「お先に失礼しました。どうぞ」
「え?」
顔を上げると、すぐそばで私を見下ろす彼がいた。
「いい音でしたよ」
穏やかな声と、目尻を下げた優しげな微笑みに囚われて、時が止まったようだった。何か言わなくちゃ……
「あ、……はい。すみません」
「いえ」
答えたその人は、喜泉庵を出て行った。
――なんて、素敵な人なの。
一度認めたら、止まらなくなった。和服がとてもよく似合っていた。歩き方も堂々としていて、彼の衣擦れの音が耳に心地よかった。何より……笑顔が印象的だった。
ひと目惚れの経験なんてない。慎重すぎて、好きな人すらなかなかできなかったくらいなのに……。こんなふうに思ったのは初めてだから、自分の気持ちに戸惑ってしまう。
結局、水琴窟を聞いてすぐに、私もお茶室をあとにした。あの人、もうお寺を出て行ってしまっただろうか。彼を探して早足で進む。飛び石につまずきそうになりながら、本堂の脇を通り過ぎようとしたとき――見つけた。
彼は本堂の縁側に座って、遠くを見ていた。全身に緊張が走る。烏が鳴いたと同時にこちらに気付いた彼に軽く会釈をして、逃げるようにそこを去った。
お一人ですかなんて、大胆なことを訊く勇気があればよかったのに。でも、迷惑かもしれないという思いが先に立って、とてもじゃないけど無理だった。和服を着て見た目だけは変身しても、結局中身までは変われないってこと。
はぁ……何だか変に疲れてしまった。早くバスに乗って鎌倉駅まで戻ろう。
金沢街道を向こう側へ渡り、鎌倉方面のバス停に並ぶ。
あの人、まだ本堂の縁側に座って遠くを見つめているのかな。そんなことを考えていたそのとき、通りの向こう側を、思い描いていた彼が歩いて来るのが見えた。途端に鼓動が速まる。
同じバスに乗るんだったらどうしよう……って、どうもしないか。バス停を通り過ぎて竹林の見事な報国寺に行くのかもしれない。だからといって、そこについて行ったら……ストーカーよね。うん、わかってる。
本当はいろいろ考えているクセに、彼のことなど微塵も気にしていない素振りで、私はかごバッグからスマホを取り出し眺めた。バスが近付く音が聞こえる。並んでいる人について歩き、彼の姿を確認することなくバスに乗った。
後ろの空席に座って顔を上げると、予想に反して、彼も同じバスに乗り込んで来ていた。こちらを見るでもなく優先席の前に立ち、吊革につかまって窓の外へ顔を向けている。どうしよう……。だからどうもしないってば……!
あとから乗ってきた女性グループが、彼を見るなり目配せしたり、何度も彼を振り向いている。
誰が見ても……素敵だよね。
たった十分ほどの時間が、とても長く思えた。
終点の鎌倉駅のバスターミナルに着いた。彼は、さり気なく、そばにいたお年寄の大きな荷物を持ってあげながら、バスから降りた。順番に私も降りる。このあと、どこに行くんだろう。立ち止まって信玄袋に手を入れ、何かを探している彼の横を通り過ぎた。もちろん声なんてかけてもらえないし、自分からかけることもできない。
緑色の車体が可愛らしい江ノ電に乗って、長谷駅に到着した。
この駅は、平日とは思えないほど混雑していた。お店が並ぶ長谷通り沿いを歩いて鎌倉大仏で有名な高徳院へ行く。夏に訪れたときは深い土と緑の匂いが強かったこの近辺も、今は秋風の香りが漂うばかり。お土産屋さんの横を通り過ぎて、拝観受付に並ぶ人を見た私の心臓が再び大きく跳ねた。
「あ……」
さっきの、あの人!
後ずさりながら、そちらを見つめていると、彼が振り向いた。一瞬目が合ったけれど自分から逸らしてしまった。彼のあとを追って来たと、変な誤解をされたら困る、なんて思って。
それにしても……彼も鎌倉から江ノ電に乗って、そして長谷駅で降りたってこと? 人が多かったから、全然気付かなかった。
ぎこちない動きで私も拝観受付へ進む。彼はもちろん私のことなど気にせずにそこを離れ、大仏様のほうへ行ってしまった。ホッとしつつも、少しだけがっかりしている自分がいた。もしかして今度こそ喜泉庵のときみたいに声をかけてくれるかもしれない、なんて淡い期待をしていたらしい。そんな自分が恥ずかしい。
ついさっき出逢ったばかりの、たったひと言交わしただけの人に一人で赤くなったり、そわそわしたり緊張したり、胸を撫で下ろしたりして、私ってば単純すぎる。でも、古都鎌倉で、お気に入りの着物を着て、いつもと違う日常の中、あんな人と一緒にこの辺りを巡れたらきっと楽しいだろうな、なんて思ってしまったんだよね。
高徳院の境内では、様々な葉が秋の色を纏い始めていた。大きくて立派な大仏様の前の賽銭箱へ小銭を投げ入れ、手を合わせた。大仏様の後ろには雲ひとつない抜けるような青空。余計な気持ちが洗われるようだ。左側から回り込んで進み、大わらじのある方へ向きを変えた、そのとき。
急ぎ足で目の前に現れた人に、ぶつかりそうになった。
「お、っと」
「あ!」
よろめいた私の腕を取った、その人は――
「すみません、大丈夫ですか?」
「は、はい」
またもや……。わざとじゃないのに再び彼に近付いてしまった。彼の紺色の羽織の袖と私の着物の袖が触れ合っている。知らん顔するわけにもいかないし、何か言ったほうがいいんだよね。
迷っている私に、彼が苦笑しながら言った。
「さっきから、よく会いますね。浄妙寺でご一緒したの、覚えてますか?」
「ええ」
腕を離したその人を間近で見上げる。私よりも十五センチくらい背が高い感じがした。顔も首筋も肩も、全体的にすっきりとした容姿で、近くで見るとますます……好み。
「お仕事か何かのご用事で鎌倉に?」
目が合った私に、彼が尋ねた。
「いえ、そういうわけではないんです。観光というか、この辺りが好きなので散策に」
「そうなんですか。僕も好きなんですよ、この辺」
秋の午後は控え目な光を優しく投げて、地面に頼りない影を作っていた。
「もしよかったら一緒に回りませんか」
「え」
「お一人ですよね?」
信じられない彼の問い掛けに、小さな声で「一人です」と返事をするのが精一杯だった。
私と、一緒に? 湧き上がる嬉しさを抑えられない。
でも、懸命に、冷静になるのよと言いきかせる。
何考えてるの。さっき見かけたばかりの名前も知らない人に対して、こんな気持ちを持つなんて――
「僕もなんですよ。好きなところが似てそうだし、どうですか? 和服を着た者同士で鎌倉巡り」
でも、私。
「……はい……お願い、します」
戸惑う心と裏腹に、当たり前のように頷いてた。
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