上 下
3 / 26

episode 02. 研修医 藤崎仁寿

しおりを挟む
 父親は透析の専門医、母親は小児科医と言う、両親共に医者の家庭に生まれた藤崎ふじさき仁寿じんじゅは、名だたる国立大学の医学部を首席で卒業した。
 医学部付属病院の医局は、てっきり彼が入局して来るものだと思っていたし、そう期待していた。だが、仁寿が前期臨床研修先に選んだのは、誰も想定し得なかった地方の中規模病院だった。

 180センチの細身に、その年齢よりも少し幼く見える整った童顔の、かっこいいと言うよりは可愛い顔。くせ毛がくるっとした黒い髪。そして、顎にちょびっとだけ見える無精ひげ。物腰の柔らかい話し方がたまらない。
 昨年の四月、入局するや否や、彼はたちまち若い看護師たちの熱い視線を浴びることになった。いや、実は医学生の時から既に目を付けられていたのだが。
 歓迎会だ何だと称した飲み会に必ず誘われる仁寿だったが、皆と楽しく呑んだ後は二次会などには行かず必ず帰る。それを皆はいつも悔しがったが、同時にすごく好感を持った。

「両親医者だって」
「うへーっ、サラブレッド!」

「藤崎先生、彼女いるのかな」
「いない訳がない!」

「一人暮らしかな」
「同棲してたりして!」

 看護師たちは皆、躍起になって仁寿という男を分析した。有名な国立大学医学部出身、両親が医者、医学部を出るための借金ゼロ。すらっとした背丈、甘い顔。とどめに、母性本能をくすぐられる様な柔らかな話し方。悪い所は無いのか、この男。
 とにかく高性能ハイスペックな二十四歳、独身男。それが分析結果である。

 そうして、一年があっという間に過ぎる。

 病棟で指導医に付いて胸腔穿刺きょうくうせんしを終えた仁寿は、一息ついて書類を書こうと医局に戻った。医者たちは皆、検査だの読影だの、はたまた外来の診察だので出払っている。
 医局の給茶機でコーヒーを淹れる。
 仁寿が医局の中央に置かれたソファーに深く座ると、正面で唸りながら体制表を見ている医局秘書が目に入った。
 彼女はまん丸メガネを指で上げながら、一人で何やらつぶやいている。

「あぁ、だめ。丸井先生はこの時間、二件続けてI.Cが入ってるんだった。和田先生も気管支鏡だし……、だめかぁ。どうしよう、どうしても四階の病棟医がいないなぁ」

 どうやら彼女は、医者の体制の組み直しと言う、難解なパズルを解いている最中らしい。
 今日の彩は、事務員の制服ではなくて私服で仕事をしていた。どこかに出かける仕事があったのだろう。彼女の服はとても趣味が良い、と仁寿は思う。
 柄のない単色の服。ナチュラルで個性的。体の線を強調しない品の良さ。彼が彩に特別な感情を抱いている事を差し引いても、彩のセンスは仁寿の好みに合致する。

 仁寿はコーヒーカップを片手に立ち上がって、彩のそばへ寄った。彩はそばに来た仁寿にかまわず、体制表を指差しながら考え込んでいる。

「ねぇ、彩さん」

 二人きりの時、仁寿は決まって彩を名前で呼ぶ。それも甘えるような声で。

「何ですか、藤崎先生」
「そこ、僕が病棟医しても良いよ。八時半から十時までで良いんだよね?」

 殺気立っていた彩の表情が、途端に華やいだ笑顔に変わった。彼女が体制を組みあぐねているその日は、当直明けで本当はちょっと休みたい。しかし、彩のために自己を犠牲にして、仁寿は優しく解決策を提示する。

 ――その日一緒に当直に入る先生、誰だっけ。まぁ、良いか。

「本当ですか? やったー! すごく助かります」
「そお? 僕、彩さんの役に立てた?」
「はい。とっても助かりました。ありがとうございます、藤崎先生」

 医学生の時はもっと親しげに「藤崎君」と呼んでくれていた。それなのに今は、壁で隔てるかの様に他人行儀だ。

 ――そう、他人なんだけど。他人なんだけどさ!


「ピピピ……」

 紺色のスクラブの上から羽織った白衣のポケットで、仁寿のPHSが鳴る。

「はい。研修医、藤崎です。……はい、分かりました。すぐ行きます」

「病棟からですか?」
「うん、血ガス採ってだって。行って来るね」
「あ。じゃ、そのコーヒーカップ、わたしが洗いましょうか?」
「うん、ありがとう」

 湯気立つコーヒーが半分以上も残っているカップを渡しながら、仁寿が彩の手を握る。

「早く行って下さい」
「うん」

「離して下さい」
「うん」

 仁寿がこんな事をしたって、彩は顔色一つ変えない。すり抜ける様に逃げた彼女の手が、すごく冷酷だった。一分にも満たないわずかな時間で仁寿の心は傷付いて、でも、彩を追いかけたくなる。

 ――さて仕事、仕事。

 いざ病棟に上がると、採血以外にもいろいろと頼まれる羽目になった。看護師の愚痴に付き合いながら、依頼された事を全てやり終えた時、時計は「17:00」を表示していた。それから追加で処方を頼まれて、結局、仁寿が医局に戻った時には彩はもういなかった。
 夕日でも眺めようと窓辺に立つと、歩道を歩く彩が見えた。
 青いストールを羽織る姿が可愛らしい。クールな彩に青色はよく似合う。仁寿は彩から目を離さない。
 スマートフォンを見ながら歩く彼女に、内心で危ないと注意する。

 ――まったく彩さんは。

 彩のする事の全てが微笑ましくて、仁寿の顔は無意識ににやけてしまう。

 仁寿は将来的に、呼吸器内科へ進みたいと思っている。
 一時期、小児科のアレルギー専門への道も考えたが、採血で泣く子供の声に尋常じゃなく心が痛む自分に気付いて、小児科医には向いていないと自覚した。
 なぜ呼吸器内科、小児アレルギーなのか。それは、彩が喘息を持っているからだ。

 医学部に入学して最初の夏、十八歳の仁寿は彩に一目惚れした。まだ社会人になり立て三ヶ月の、初々しい彩に。

 それからずっと、仁寿は彼女を作らずに六年を過ごしている。言い寄られてもぐっと堪えてきた。若い男子らしく、当然女性に興味がある。性欲もちゃんとある。
 仁寿の中にあるそれらは全て、彩に向いている。彩でなくては満たされないのを分かっているからこそ、仁寿は他の女性で代用したりせずに一人マスターベーションをするのだ。
 嘘。何回か誘惑に負けた事がある。多分、許される程度、だと思う。

 ――ただのむっつりじゃないか、僕。……悲しいなぁ。

 外を歩く彩が口元に手を当てている。遠くて詳細に見えないが、喘息かも知れない。そう思ったら居ても立ってもいられなくなって、仁寿は急いで帰り支度を始める。

 ――定時過ぎてるし、仕事は一応片付いた。よし、今日は捕まえよう。

「僕、帰ります」
「あっ、お疲れ様」

 医局の奥から和田の声がしたが、仁寿は「お疲れ様でした」と言うのも忘れて医局を出た。医者にタイムカードはない。朝も夜も、日曜も祝日も、医者には無い。

 そして、全力疾走の末に彩の車の助手席へ乗り込んだ、という次第である。
しおりを挟む