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episode 03. 告白

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 脱いだスプリングコートをたたんで、仁寿は「ふぅーっ」と大きく息を吐いた。全速力で走るなんて、高校の体育祭以来じゃないかと思う。深呼吸で息を整えて、仁寿が運転席で固まっている彩を見た。

「彩さん、喘息出てるの?」
「いえ、出てませんけど」

 そう即答する彩は、今の今まであんなに驚いた表情をしていたのに、もういつものクールな顔に戻っている。突き放すような冷たい視線が、正直つらい。しかし、ここで引き下がらないのが仁寿だ。

「大丈夫? ……みたいだね。じゃぁ、帰ろ」
「あの、藤崎先生。降りてもらえます? わたし、予定があって急いでるんです」

「やだ」

 二人きりの車内で、お互いの胸中が拮抗きっこうしている。彩はこういう面倒な事がとても嫌いだった。だから彼氏など作らずに、体が欲しい時だけ男を求めるのだ。
 どうしたものかと困惑する。こうしている間に、貴重な時間が消費されていく。睡眠不足も相まって、心が爆発してしまいそうだった。

「彩さん」

 初めて仁寿に告白されたのは、昨年の今頃だった。
 恋愛をする気がない彩は、好きだと言われても応える事ができないとはっきり断った。だが彼は、諦めるどころか全く気持ちを隠さなくなった。告白以来、言葉では言わないが、見つめる目や態度で鬱陶しいくらい好きだと言って来る。

 職場での彩は、極めて冷静だ。
 ここは仕事をする場だと平然と割り切って、全く仁寿を相手にしない。そのうち彼の熱も冷めるだろうと思っている。
 ただ、こうして病院の外まで追いかけられたのは初めてで、彩は今、その対処に困り果てているところだ。

「ほら、彩さん。早く行かないと、日勤上がりの看護師さんたちが来ちゃうよ。僕と二人でこんな事してるのを見られたら、あっという間に変な噂が広がって厄介じゃない?」

 別にやましい事はしていない。だが、確かに彼の言う通りだ。事実無根の噂が広がりでもしたらと、考えるだけで面倒臭い。
 彼が素直に車を降りてくれたら、何の問題もないのだが。

 彩が手詰まりの状態で考えていると、助手席のシートベルトを締める音がした。彩は信じられないものを見る様に、助手席でにこやかにほほ笑んでいる男を凝視した。どうやら、車を降りる気はないらしい。
 ため息を吐いて、ブレーキペダルを強く踏み込む。そして、エンジンスターターを押してエンジンがかかると、装飾のない極めて質素な車内に、軽快なピアノジャズが流れ始めた。

「彩さん、ジャズを聴くんだね。しかもこれって古典的なピアノジャズだ。趣味が良いね」

 そう言って仁寿は、バッグから500mlのペットボトルを取り出して、からからに乾いた喉を一気に潤した。

「それで、どこで先生を降ろせば良いんですか?」
「彩さんち」

 もういいや、と彩は諦めて車を発車させた。駐車場から通りに出て、病院と真逆の方向に走る。とにかく、この強引でしつこい男を自宅へ連れ帰るつもりは毛頭ない。

 仁寿が入局した時、彩は何かの書類に彼の住所を転記した事があった。それを思い出して、その住所の方へ向かう事にする。引っ越したなんて話は聞いていないから、多分その住所で合っているはずだ。
 医局秘書なんてストレスだらけの割に合わない仕事だと思っていたが、今だけはやってて良かったと心底思える。

「その、彩さんの予定って何なの?」
「バーに行くんです」

 へぇ、と仁寿はうなずきながら、運転する彩の横顔を見る。
 もう少しでメガネのレンズに届きそうな長いまつ毛が、くっきりとした二重からきれいな曲線を描いて上に伸びている。通った鼻筋に艶めく唇。その下で、小さな顎が顔を締めくくる。そして、控えめな化粧が一層、彩の美を引き出していた。

 ――彩さん、本当にきれいだなぁ。それに、仕草が可愛い。

 フロントガラスから見える空は、まるでフリップブックに描かれた絵のようだった。車の進む速さでめくられるそのフリップブックは、実に滑らかに雲の動きを表現し、夕映えの薄紅色に輝くその輪郭を写実している。

「僕も行きたいな」
「だめです」
「即答しないでよ。僕の事、そんなに嫌い?」

 助手席で、仁寿はがっくりと肩を落としてあからさまに落胆してみせる。

「先生がどうの、じゃなくて。相手を探すから、一緒だと困るんです」
「相手って何の?」

 信号が赤に変わり、ゆっくりと車が止まった。会話が途切れた静かな車内で、ジャズは軽快なリズムを保ったまま次の曲へ進む。仁寿は答えを待ちながら、再びペットボトルのお茶を飲んだ。


「セックスの」


「ブッ、ゲホッ、ゴホッ、ゲホッ」

 仁寿の喉元を下りるお茶が、道を誤って吸気きゅうきと共に気管に落ちた。引っ掛かったお茶に、仁寿は激しくむせ込む。
 彩の方は至って冷静で、特に仁寿を気遣う事もなく、信号が変わるとまた車を走らせた。助手席の男は、ペットボトルの蓋を閉めながら、顔を真っ赤にしてむせている。
 片側三車線の通りを走っていると、むせ込みの間に仁寿が言った。

「……そこっ、さ、せつ」
「え?」

 胸をさすりながら、仁寿が右手で左に曲がれと指図する。気付くと、彼の住所に程近い所まで来ていた。この男をいつまでも乗せておく訳にはいかない。彩は指示通りに、その角を左折した。

 落ち着いた仁寿は、それから一切口を開かなくなった。
 彩はそれを、ふしだらな女だと軽蔑されたと思った。車内に流れるジャズの調べが、この重苦しい空気から何とか二人を救済していた。

「そこのマンション。駐車場はこっち」
「ここで止まりますから、降りてください」

「やだ」
「いい加減にしてください」

 彩は我慢の限界だった。
 ここ数ヶ月、残業の日々で息抜きが全く出来ていない。そして、またあの不眠に襲われている。だから今日は、全てを解消するために定時で職場から逃げて来たのだ。それがなぜ、この男の我がままに付き合わされなくてはならないのか。

 彩は車を路肩に止めてハザードをける。そして「早く」と、仁寿を追い出そうとした。



「好きだよ、彩さん」




「僕の気持ちは、ずっと変わってない」



 路肩に止まった車内に、軽快なジャズが流れ続ける。それに紛れてリズムを刻むハザードの音が、メトロノームのように彩の鼓動と同調する。
 助手席を見ると、いつもにこやかな仁寿が、真剣な目を彩に向けていた。その目に引き込まれて、彩は降りてと言えなくなった。

「とりあえず、そっちの駐車場に停めてよ」

 彩はハザードを消して車を動かした。そして、言われた通りに駐車してエンジンを止める。
 シートベルトを外して、助手席の仁寿が先に車を降りた。

「彩さんも」

 長身をかがめてそう言うと、仁寿は荷物を取ってドアを閉めた。妙な雰囲気の中、彩は車を降りて、叱られた子供みたいに黙って仁寿の後に続く。そして意味もなく、男の影を踏まないように避けながらついて行った。

 築年数の浅そうな、そのきれいなマンションのエントランスで、仁寿はバッグの中から鍵を取り出してオートロックを解除する。そして、入ってすぐの、たくさん並んだポストの前に立って、その内の一つを開けて中から郵便物を取り出した。
 ポストには部屋番号が打ってあり、彼が開けたそれには「807」と書かれていた。

「こっち」

 二人で乗るエレベーターの中が、これまた気まずい。何で仁寿のペースに乗っているのか分からない。はっきり突き放して帰れば良かった。いつもはそうできるのに、今の彩にはそれが出来なかった。
 八階でエレベーターが止まる。どうやら一番南側の部屋が仁寿の住処のようだ。音がこだまする廊下を二人は無言で歩いた。

「どうぞ」
「……お邪魔します」

 パンプスを脱いで玄関の端に揃える。そして、南に面した二十畳ほどのリビングに案内された。必要な家電と家具しかない殺風景なその部屋を、彩はぐるりと見回した。

「適当に座って」
「はい」

 仁寿は荷物を持って、一度リビングを出て行った。彩はソファーに座って邪魔にならない所にバッグとたたんだストールを置く。目の前には、テーブルとその先にテレビとオーディオがあるだけだ。
 左を向くと、出窓から先ほどよりも暗くなった夕焼けが見える。
 暫くその夕焼けを眺めていると、後ろの方から物音がして、カウンターキッチンに仁寿が立っていた。

「彩さんは、ブラックコーヒーが良いんだよね?」
「え、ええ。よくご存じで]
「うん。僕は彩さん承知のストーカーだから」

 ――でも、バーにセックスの相手を探しに行ってるなんて知らなかったな。


 ――いや、そんな事するようにはとても見えないけど。


 程なくして、キッチンからコーヒーをドリップする香ばしい香りが漂って来た。心身ともに癒してくれるアロマの様なこの香りは好きだ。だが、彩は今、コーヒーよりもハイボールを呑みたい。
 はい、と仁寿が淹れたてのコーヒーを持って来た。

「ところで、彩さんはセックスが好きなの?」

 どうも、と彩は差し出されたコーヒーカップを受け取る。仁寿が彩の隣に腰を下ろした。ソファーに、男の体重が深く沈む。両手で包み込んだカップの中でコーヒーが波立って、彩はテーブルにカップを置いた。

「好きと言うか、薬なんです。不眠の」
「何、それ。どう言う事?」
「話すと長くなるので、話しません」

 彩はカットソーの袖を少しずらして、腕時計を確認する。時刻は午後六時半を過ぎていた。

 ――ああ、わたしの貴重な息抜きの時間が……。

 ――もう、彩さんは。何で時間を見るんだよ!

 横に座っている男が体を寄せて来た。彩が横に逃げようとすると、それを遮るように仁寿の左腕が彩の腰に回る。そして、彩の顎が掴まれた。

「はい、彩さん。ちょっとだけ、下顎拳上かがくきょじょうっ!」
「ええっ?……むっ、んんっ」

 可愛らしい童顔が近付いて、その唇が、初めて彩の唇に重なった。
 強く吸い付いて、チュッと音を立ててすぐに離れる。目を閉じる間もなかった。
 彩が顔をしかめると、仁寿はにっこりといつもの優しい笑顔を浮かべた。

「ねぇ、彩さん。今夜は僕とセックスしよう」


「先生。わたしの事、軽い女だと思ってません? セックスの相手を探すなんて言ったから」
「思ってないよ」
「じゃあ、何で」


「僕はね、六年も彩さんを想ってるんだよ」


 仁寿の右手が彩の顎を放して背中に回る。体を引き寄せる力に、彩は抵抗した。
彩は知っている。仁寿が十八の時から彩に片思いをしている事を。だから今日、自分の秘密を告白したのだ。もうこれ以上、自分に気持ちを向けて傷付いて欲しくないから。

「このたった三秒のキスに辿り着くまでに六年かかった。納得いかないんだ。僕を差し置いて、どうして行きずりの男が彩さんとセックスするの?」
「ちょっと、ちょっと待って下さい、先生」
「彩さんがそういう事をしてるって知ったから、僕はもう我慢しない」

 ――諦めてくれると思ったのに……。

 ――効果、なし!

 彩が黙っていると、隙をついて仁寿がその体を丸ごと腕の中に抱きしめた。
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