佐藤と朝霧とおうちごはん

藍 雨音(アイ アオト)

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71 荒れた手

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もりもり食う朝霧を眺めていたはずなのに、かくりと視界が揺れた。
なんでだよ、俺は泳いでねえのに。
カメラ持ってうろうろしていただけで、こんな疲れているんだろうか。

「お前、疲れてねえの」
「何が」
「あんなにずっと泳いでたのに」
「……? 普段と変わりない」

何のことかと首を傾げられ、気が付いた。
そうか……朝霧、これを毎日やってんだもんな。

「すごいな、お前は」
「別に……」

素直に感心して褒めると、ふいっと視線を逸らしてそそくさ食器を片付けた。照れたのか。そしてどうやら、もう食い終わったらしい。

「確かにあんだけ運動したら、エネルギーがいるよな……」

むしろ、こいつがこの量なら、俺はもっと少なくてもイケそうな気がする。
小さくあくびして、洗い物は明日することに決めた。

そして、この眠いような、まだ寝るにはもったいないような、そんな気分を昇華すべくこたつへ潜り込む。
ああ、幸せ。
やはり、こたつは帰宅直後にONにしておくに限る。

ほのかに温かい気がする天板に、べったり体を預けてぼうっとしていると、朝霧も入って来た。
じっと視線を注がれている気がして顔を上げると、ガチリと目が合う。

「……なんだよ」

結構な近距離から、相変わらず真っ直ぐ俺を見る。こういうとこは、全然照れないのな。俺の方が、落ち着かないわ。

ふいに伸びてきた手にぴくっと反応してしまい、朝霧がちょっと苦笑した。
だけど、その手は俺の頭を撫でただけ。
いや、それはそれで何なんだよ。

今日、朝霧がやたらコレをするのは、多分宮城さんの真似だ。それは分かってるんだけど。なんで今。

「……ナオ」
「だから、何――え」

お前、今。
なんだよ、あらためて。な、なんか……気恥ずかしいだろ!
戸惑うオレをじっと見つめたまま、朝霧がもう一度呼んだ。

「ナオ、俺が呼んだらダメか?」
「やっ、別に……呼び方なんてどうでもいいけど。ずっと苗字呼びだったじゃねえか。なんで、急に」

落ち着かない。
なんでそんなこと言い出したんだ。

「平田さんはいいのか」
「なんで平田さん?」
「ナオって呼んでいた」
「えっ? そうだっけ?」

不機嫌な顔で頷いた朝霧に、きょとんとした。
よくよく思い返してみれば……そうか、確かに呼ばれていたような。
ああいうキャラだし、俺、部署内では『ナオくん』で通ってるから気付かなかったわ。なんせ『佐藤』はよく被るから。

「いや、でも呼び捨ててはいなかっただろ?」
「会ったばかりだと言った」
「そうだけど」
「俺は、会ったばかりじゃないから」

だから、呼び捨てで許されるってマウントを取ってるのか。
吹き出したら、睨まれた。
お前……時々負けん気強すぎて馬鹿みたいだぞ。だから、全方位に対抗心燃やすんじゃねえよ。

「お前が、恥ずかしくないならいいけど。呼び慣れないだろ」
「呼び慣れればいい」
「あ、でも呼び捨てると女に思われるから、職場では却下」
「ナオがいい」
「ダメ。呼び捨てたいなら、佐藤の方にしろ」

不貞腐れている。わかりやすく、不満を顔に出している。
お前、無表情はどこへやったんだよ。

「……じゃあ、職場以外ならいいのか」
「まあ、いいけど」
「そうか」

……納得したのか。けど良かったな、俺をそう呼ぶのって家族くらいだから。
だから、お前だけだな。

あ――。
不用意に浮かんだその言葉に、がつんと鼓動が跳ねた。
馬鹿じゃないのか、俺。朝霧はそんなこと言ってねえのに。
情けなくて、恥ずかしくて、バレないように視線を下げた。

天板に置かれた朝霧の手が、ちょうど視界に入る。
爪の短い、大きな手。
塩素なのか、手入れをしないからなのか、散々荒れた手。
この手が肌を撫でると、ガサガサして――

また、余計なことを……!
カッと頬が熱を持った気がして、紛らわせるように目の前の手を掴んだ。
思いのほかびくっと跳ねた朝霧に気をよくして、その手を開かせる。

「お前、手ぇ荒れてるよな。手入れとかしねえの?」
「……手入れ?」
「ハンドクリームとか、あるだろ?」
「知らん」

は? 塗らないとかじゃなくて、もしや知らない?

「ずっと水に浸かってんのに、手入れしなきゃそりゃ、がっさがさになるわ!」
「男の手だ、そういうものだろう」
「違うわ!」

白魚のような手を目指す必要はねえけど、荒れてたら普通にイヤだろ。洗ったら沁みるし。
撮影の時にどうしても手を写す必要が出たりするから、俺も多少気を付けてる。
だって、あんまり汚い手だとそっちに目が行くだろ。

「俺だって大して気使ってるわけじゃねえけど、ひび割れたりしない程度にはケアするぞ。荒れてんなって気がついたら、ハンドクリーム塗ったりさ」
「へえ?」

朝霧がオレの手を捕まえ、まじまじと検分を始めた。

「すべすべしてる」
「いや……そこまでじゃ――ッ」

じりじり甲を滑った手が、袖口から僅かに侵入した。
そして、なぞるように手首の内側へまわる。
ぞく、と痺れるような震えが来て、思わず唇を結んだ。

なんか、なんか……お前、ちょっと変な触り方してねえ?
そっと手を引こうとしたけど、許されなかった。

「手の平も、塗るのか」
「そう……だけど」

俺が、おかしいのか? 
ぞわぞわする。
朝霧のカサついた指が、焦らすように手相をなぞり、大きな手が時折り丹念に手の平を撫でる。
1本1本、丁寧に指を握り込み、爪を辿り、撫でおろす。
揉み込んで、握り込んで、好き放題に弄ぶ。

別に、怒るようなことをしていない。
だって、さっき俺だって朝霧の手を触ったし。
何て言えばいいか分からない。
だけど、だけど、これ、ダメだ。朝霧が触れれば触れるほど、感覚が鋭敏になっていく気がする。
ぞわぞわが、どんどんひどくなって、堪らず身を捩った。

「ッ、朝霧……ストップ。それ、やめろ」
「どれ?」
「ど、どれって……あッ」

カリリ、と手のひらを掻かれて身体が跳ねた。
思わず口元を押さえる。

「これか」

朝霧が、にや、と笑って俺を見る。
大いに動揺して、ますます身体が熱い。手だって、きっと熱い。

「違……! いや、合ってる、けど! それだけじゃ……いいから、離せ!」
「痛い?」
「痛いわけじゃねえけど」
「じゃあ、何だ」

何、何って……これ、なんて言えばいいんだ。

「手の平は神経が……何だったか」
「あ、そうだ、それだよ! 手の平は神経が集まってんの!」
「そうだな、敏感なんだな」
「そう!」

我が意を得たり、と取り返せない手を引っ張りながら頷いた。

「そうか。敏感な部分を撫でられるのが、恥ずかしい?」
「そう! ……そ、そう……?」

勢いよく頷いてから、うん? と首を傾げた。
なんか、違うんじゃねえ? その言い方、なんか嫌じゃねえ?

混乱している俺を見て、朝霧は吹き出して笑ったのだった。

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