1 / 20
第一話 あてのない約束①
しおりを挟む
あの夏を、今でも覚えている――。
風に揺れる葉と踊る木漏れ日。セミの鳴き声につられて迷い込んだ山道。
山間の開けた場所に突如現れた古びた鳥居と、そこに貼られた半分掠れて見えなくなっているお札。
切れかかったしめ縄は垂れさがったままゆらゆらと宙を揺蕩い、辺りを不思議な空気が包み込んでいた。
親から、山に入ると悪い天狗に連れ去られてしまうぞ! と脅されていたことを思い出す。
「ここが、天狗のおうち……?」
吉宮あずさは、その寂れた神社の入り口に立ち、呟いた。
「天狗なんかいないよ」
急に声を掛けられ、ひっ、と小さく声を上げ振り向く。
しかしそこに立っていたのは天狗などではなく、同じくらいの年の、男の子だった。
「……天狗はいないの?」
恐る恐る訊ねると、着物姿の男の子はにっこり笑って、
「天狗はね、もっとずっと、山の上に住んでいるから」
と優しく教えてくれた。
あずさはその男の子の笑顔がとても優しく感じられ、胸を撫で下ろす。
「あなたも天狗じゃないのね。でも、着物なんか着てるから天狗が化けてるのかと思っちゃった」
「僕が? まさか!」
とんでもない、といった風に手をばたつかせる。
「私、吉宮あずさ。あなた誰? この辺の子?」
山の麓には、母方の実家がある。毎年夏にはこの場所に来ていたが、この寂れた神社も、男の子も、あずさの記憶の中には、なかった。
「僕の名前は雪光。……ねぇ、ここが禁足地だって知ってるの?」
「きんそくち?」
初めて聞く言葉に、あずさが首を傾げる。八歳のあずさにとっては、なんだか大人の言葉みたいに聞こえる響きだ。
「ここは人間が足を踏み入れちゃいけない場所だ。早くお帰り」
そんなことを言う雪光だって子供じゃないか、と、あずさは口をへの字に曲げる。
「雪光君だってここにいるじゃない」
腰に手を当て抗議すると、雪光は困った顔で小さく溜息をついた。
「僕はいいんだ。いい、というか、仕方ないんだ。あずさは駄目なんだよ。だから、」
名前を呼び捨てにされ、なんだか急に照れてしまう。母親や祖父にしか呼び捨てなんかされたことがないのだ。こんなに年の近い、しかも男の子に名前呼び。
「なっ、なんで私は駄目で雪光はいいのよっ」
動揺しながらも呼び捨てで返す。しかし、雪光の方は呼び捨てられても全く動じる様子はなく、淡々とした様子で、
「僕は……帰る場所がないから」
と言うのだった。
「え? 迷子なのっ?」
「そういうわけじゃ……いや、もしかしたらそうなのかもしれない」
目を伏せる雪光は、なんだかとても儚く、悲しそうに見えた。
「じゃあさっ」
あずさはひときわ大きな声を上げると、雪光の手を握る。
「私がお友達になってあげる! おうちも、一緒に探してあげるよ!」
あずさとしては、事件を解決する探偵にでもなったかのような気持ちで言ったのだ。しかし雪光はあずさの言葉を聞き、ひどく落ち込んだように顔を曇らせる。
「ごめんね、あずさ。僕はあずさと友達にはなれないし、探してもらっても家は見つからない。だからもう、早く帰って」
くるりと背を向ける。
「な、なんでそんなこと言うのっ?」
せっかくお友達になると宣言したのに、それを否定されたあずさは腹が立つより先に悲しくなってしまった。人には親切にしなさい、誰とでも仲良くしなさい、と言われて育ってきたのだ。
「僕、もう行かなきゃ。あずさ、ここに来たことは大人には内緒だよ?」
背を向けたまま言う雪光に、あずさは、
「また会える? ここに来たらまた、」
友達になることを拒否されたのに、何故か、どうしても突き放すことが出来なかった。
「……いつか、もしかしたら」
小さな声でそう言うと、雪光は鳥居の向こう側へと走って行ってしまった。ザッザッという草を踏む音と、セミの鳴き声。絣の着物が遠ざかってゆく。生ぬるい、風。不確定な指切りのない約束……。
そしてそれきり、その夏も、次の夏も、その次の夏も、あずさと雪光が出会うことはなかったのだ──。
風に揺れる葉と踊る木漏れ日。セミの鳴き声につられて迷い込んだ山道。
山間の開けた場所に突如現れた古びた鳥居と、そこに貼られた半分掠れて見えなくなっているお札。
切れかかったしめ縄は垂れさがったままゆらゆらと宙を揺蕩い、辺りを不思議な空気が包み込んでいた。
親から、山に入ると悪い天狗に連れ去られてしまうぞ! と脅されていたことを思い出す。
「ここが、天狗のおうち……?」
吉宮あずさは、その寂れた神社の入り口に立ち、呟いた。
「天狗なんかいないよ」
急に声を掛けられ、ひっ、と小さく声を上げ振り向く。
しかしそこに立っていたのは天狗などではなく、同じくらいの年の、男の子だった。
「……天狗はいないの?」
恐る恐る訊ねると、着物姿の男の子はにっこり笑って、
「天狗はね、もっとずっと、山の上に住んでいるから」
と優しく教えてくれた。
あずさはその男の子の笑顔がとても優しく感じられ、胸を撫で下ろす。
「あなたも天狗じゃないのね。でも、着物なんか着てるから天狗が化けてるのかと思っちゃった」
「僕が? まさか!」
とんでもない、といった風に手をばたつかせる。
「私、吉宮あずさ。あなた誰? この辺の子?」
山の麓には、母方の実家がある。毎年夏にはこの場所に来ていたが、この寂れた神社も、男の子も、あずさの記憶の中には、なかった。
「僕の名前は雪光。……ねぇ、ここが禁足地だって知ってるの?」
「きんそくち?」
初めて聞く言葉に、あずさが首を傾げる。八歳のあずさにとっては、なんだか大人の言葉みたいに聞こえる響きだ。
「ここは人間が足を踏み入れちゃいけない場所だ。早くお帰り」
そんなことを言う雪光だって子供じゃないか、と、あずさは口をへの字に曲げる。
「雪光君だってここにいるじゃない」
腰に手を当て抗議すると、雪光は困った顔で小さく溜息をついた。
「僕はいいんだ。いい、というか、仕方ないんだ。あずさは駄目なんだよ。だから、」
名前を呼び捨てにされ、なんだか急に照れてしまう。母親や祖父にしか呼び捨てなんかされたことがないのだ。こんなに年の近い、しかも男の子に名前呼び。
「なっ、なんで私は駄目で雪光はいいのよっ」
動揺しながらも呼び捨てで返す。しかし、雪光の方は呼び捨てられても全く動じる様子はなく、淡々とした様子で、
「僕は……帰る場所がないから」
と言うのだった。
「え? 迷子なのっ?」
「そういうわけじゃ……いや、もしかしたらそうなのかもしれない」
目を伏せる雪光は、なんだかとても儚く、悲しそうに見えた。
「じゃあさっ」
あずさはひときわ大きな声を上げると、雪光の手を握る。
「私がお友達になってあげる! おうちも、一緒に探してあげるよ!」
あずさとしては、事件を解決する探偵にでもなったかのような気持ちで言ったのだ。しかし雪光はあずさの言葉を聞き、ひどく落ち込んだように顔を曇らせる。
「ごめんね、あずさ。僕はあずさと友達にはなれないし、探してもらっても家は見つからない。だからもう、早く帰って」
くるりと背を向ける。
「な、なんでそんなこと言うのっ?」
せっかくお友達になると宣言したのに、それを否定されたあずさは腹が立つより先に悲しくなってしまった。人には親切にしなさい、誰とでも仲良くしなさい、と言われて育ってきたのだ。
「僕、もう行かなきゃ。あずさ、ここに来たことは大人には内緒だよ?」
背を向けたまま言う雪光に、あずさは、
「また会える? ここに来たらまた、」
友達になることを拒否されたのに、何故か、どうしても突き放すことが出来なかった。
「……いつか、もしかしたら」
小さな声でそう言うと、雪光は鳥居の向こう側へと走って行ってしまった。ザッザッという草を踏む音と、セミの鳴き声。絣の着物が遠ざかってゆく。生ぬるい、風。不確定な指切りのない約束……。
そしてそれきり、その夏も、次の夏も、その次の夏も、あずさと雪光が出会うことはなかったのだ──。
66
あなたにおすすめの小説
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる