名前のないその感情に愛を込めて

にわ冬莉

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第一話 あてのない約束①

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 あの夏を、今でも覚えている――。
 
 風に揺れる葉と踊る木漏れ日。セミの鳴き声につられて迷い込んだ山道。
 山間の開けた場所に突如現れた古びた鳥居と、そこに貼られた半分掠れて見えなくなっているお札。
 切れかかったしめ縄は垂れさがったままゆらゆらと宙を揺蕩い、辺りを不思議な空気が包み込んでいた。
 親から、山に入ると悪い天狗に連れ去られてしまうぞ! と脅されていたことを思い出す。

「ここが、天狗のおうち……?」
 吉宮よしみやあずさは、その寂れた神社の入り口に立ち、呟いた。
「天狗なんかいないよ」
 急に声を掛けられ、ひっ、と小さく声を上げ振り向く。
 しかしそこに立っていたのは天狗などではなく、同じくらいの年の、男の子だった。

「……天狗はいないの?」
 恐る恐る訊ねると、着物姿の男の子はにっこり笑って、
「天狗はね、もっとずっと、山の上に住んでいるから」
 と優しく教えてくれた。
 あずさはその男の子の笑顔がとても優しく感じられ、胸を撫で下ろす。
「あなたも天狗じゃないのね。でも、着物なんか着てるから天狗が化けてるのかと思っちゃった」
「僕が? まさか!」
 とんでもない、といった風に手をばたつかせる。

「私、吉宮よしみやあずさ。あなた誰? この辺の子?」
 山の麓には、母方の実家がある。毎年夏にはこの場所に来ていたが、この寂れた神社も、男の子も、あずさの記憶の中には、なかった。
「僕の名前は雪光ゆきみつ。……ねぇ、ここが禁足地だって知ってるの?」
「きんそくち?」
 初めて聞く言葉に、あずさが首を傾げる。八歳のあずさにとっては、なんだか大人の言葉みたいに聞こえる響きだ。

「ここは人間が足を踏み入れちゃいけない場所だ。早くお帰り」
 そんなことを言う雪光だって子供じゃないか、と、あずさは口をへの字に曲げる。
「雪光君だってここにいるじゃない」
 腰に手を当て抗議すると、雪光は困った顔で小さく溜息をついた。
「僕はいいんだ。いい、というか、仕方ないんだ。あずさは駄目なんだよ。だから、」
 名前を呼び捨てにされ、なんだか急に照れてしまう。母親や祖父にしか呼び捨てなんかされたことがないのだ。こんなに年の近い、しかも男の子に名前呼び。

「なっ、なんで私は駄目ではいいのよっ」
 動揺しながらも呼び捨てで返す。しかし、雪光の方は呼び捨てられても全く動じる様子はなく、淡々とした様子で、
「僕は……帰る場所がないから」
 と言うのだった。
「え? 迷子なのっ?」
「そういうわけじゃ……いや、もしかしたらそうなのかもしれない」
 目を伏せる雪光は、なんだかとても儚く、悲しそうに見えた。

「じゃあさっ」
 あずさはひときわ大きな声を上げると、雪光の手を握る。
「私がお友達になってあげる! おうちも、一緒に探してあげるよ!」
 あずさとしては、事件を解決する探偵にでもなったかのような気持ちで言ったのだ。しかし雪光はあずさの言葉を聞き、ひどく落ち込んだように顔を曇らせる。

「ごめんね、あずさ。僕はあずさと友達にはなれないし、探してもらっても家は見つからない。だからもう、早く帰って」
 くるりと背を向ける。
「な、なんでそんなこと言うのっ?」
 せっかくお友達になると宣言したのに、それを否定されたあずさは腹が立つより先に悲しくなってしまった。人には親切にしなさい、誰とでも仲良くしなさい、と言われて育ってきたのだ。

「僕、もう行かなきゃ。あずさ、ここに来たことは大人には内緒だよ?」
 背を向けたまま言う雪光に、あずさは、
「また会える? ここに来たらまた、」
 友達になることを拒否されたのに、何故か、どうしても突き放すことが出来なかった。

「……いつか、もしかしたら」
 小さな声でそう言うと、雪光は鳥居の向こう側へと走って行ってしまった。ザッザッという草を踏む音と、セミの鳴き声。絣の着物が遠ざかってゆく。生ぬるい、風。不確定な指切りのない約束……。

 そしてそれきり、その夏も、次の夏も、その次の夏も、あずさと雪光が出会うことはなかったのだ──。

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