名前のないその感情に愛を込めて

にわ冬莉

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第十四話 知らない婚約

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  翌日、職場に着くと、とんでもないことになっていた。

「は?」
 あずさは耳を疑った。
 目の前には別の部署の女性が二人。きつい顔であずさを見つめている。言われた言葉が理解出来ず、聞き返してしまったわけだが……。

「だから、柊さんと婚約してるって本当なんですか?」
 どうやら聞き違いではなかったようだ。しかし、なんでそんな話になっているのか意味が分からない。
「あの、違いますけど」
 そう口にすると、二人のうち一人が、被せるように、
「なんでそんな噓つくんですかっ?」
 と食って掛かる。
「嘘じゃないです。逆に、なんで嘘だって思うんですか?」
 あずさがムッとして答えると、相手が怯んだ。
「お見合いはしました。でも、お断りしました。それがなにか?」
 畳みかけると、二人が困惑したように顔を見合わせる。
「だって……ねぇ?」
「本人が」

 そこまで聞いて頭を抱える。あの男は、人の会社で嘘を吹聴して歩いているのか。

「本当に困ります。いい加減な噂流すのやめていただけますか?」
 あずさは強い口調でそう言い放つ。二人は何度も頭を下げ、自分のフロアへと帰って行った。

「……今のって、吉宮さんの婚約者の話ですか?」
 にゅっと顔を出したのは後藤正真だ。
「やだ、後藤君の耳にまで入ってるの?」
 驚いて聞き返すと、社内はその話で朝から持ち切りですよと言われ軽く絶望する。
「なんか、柊さんって人、うちの会社の女性に複数知り合いがいるみたいですね。吉宮さんとの婚約が決まった、みたいな話を何人かにしてたみたいで……」

 なるほど。それで奥田里美も知っていたということのようだ。
 それにしても、複数いるとは。

「お断りしたのよ」
「でしょうね」
 ふふ、と笑って後藤正真が言った。
「なによその笑い」
「だって、吉宮先輩の好みじゃなさそうだから」
「私の好み?」
 そんな話、正真にしたことはない。勝手なイメージなのだろう。
「吉宮さんには、もっと抜けてる感じの人がいいと思います」
「は? なにそれ」
「吉宮さんが手を取ってぐいぐい引っ張っていくイメージです。私は至って普通です、って顔して、吉宮先輩ってめちゃくちゃ頑固で芯がしっかりしてるから」
「……そう、かなぁ?」
 客観的にそんなことを言われるのは初めてだった。

「お祖父さんの会社だって、先輩がやればいいと思うんですけどね」
 何気ない一言だったのだろう。
 しかし、あずさにはそれがとても強く響いた。

「吉宮さん」
 フロア課長に呼ばれ、顔を向けると、電話の受話器を指し、
「外線、入ってるよ」
 と言われた。
「すみません。どちらからですか?」
 自分のデスクで受話器を取りながら訊ねると、
「ご自宅からみたいだね」
 との返事。
 わざわざ会社に? と携帯を出すと、着信が何件も入っていた。

「もしもし、ごめん、気付かなくてっ」
 慌てて電話に出る。
『ああ、ごめんなさいね。仕事なのはわかってたんだけど……お祖父ちゃんが』
 なにかあったのだとわかった。
「すぐ行くっ。病院はこの前の」
『それが、実家なのよ』
「え?」

 佳子の話によると、朝、立ち上がった時に眩暈を起こし、倒れたのだという。その際、少し頭に傷を負って出血。だが大したことはなく、本人は絶対に医者に行かないと言い張っているとのこと。町の医者に訪問診療をお願いし、傷は見てもらったらしいが。

「もう! すぐそっちに行くから!」
 あずさは受話器を置くと、課長に休暇の申請を出した。正真が『吉宮先輩の分も働いておきますので気兼ねなくどうぞ』と言ってくれたので、少し気持ちが軽くなっていた。
 エレベーターホールで奥田里美に出くわす。
「あれ? 吉宮せん」
「ごめんね里美ちゃん! 私早退するから、あとは後藤君に任せてある!」
 早口で捲し立て、別れた。

 その足で一旦家に戻り、車を取りに行く。運転しながら、大したことがありませんようにと心の中で唱える。
 元気にしていると思い込んでいた祖父も、もう八十だ。本当ならとっくに仕事など引退している年齢。わかっている。結婚して安心させてあげたいという気持ちがないわけではない。しかし、だからといって相手が誰でもいいということにはならないのだ。

 それに……

 雪光のことも気になっていたのだ。
 もしかしたらもう二度と会えないのかもしれない。
 そう思うと、胸が苦しくなる……。

 屋敷に着くと佳子に頼まれていた荷物を持って中へ。
「ああ、お帰り」
 居間でテレビを見ていた佳子が声を掛ける。
「お祖父ちゃんは?」
「寝てるわ。どうしても医者には行かないって言い張るから、もう諦めた」
「でも」
「本人にその気がないなら仕方ないわよ。ごめんなさいね、わざわざ来てもらっちゃって」
「それはいいんだけど……」
 あずさはソファに座ると、佳子に向かって言った。

「……ねぇ、お母さん。今更って思うかもしれないけど、私、お母さんの仕事手伝おうかと思って」
「は?」
 佳子がビックリした顔をする。
 あずさは、車の中で考えていたことを佳子に伝えた。

「結婚が嫌だって言ってるわけじゃない。でも、今慌てて相手を見つけて結婚するのは嫌。それに、私がお母さんの仕事を手伝うことを、まだ始めてもいないのに否定されるのも、お前には無理だ、ってレッテル貼られてるみたいで嫌。私、そんなに頼りない?」
 こんな話を、面と向かって口にするのは初めてだった。あずさの言葉を黙って聞いていた佳子が、溜息を吐く。

「……私はね、あずさ」
 更に一呼吸置いて、話し始める。

「あなたには、私が味わったような苦労をしてほしくないって思ってる。女性の社会進出が謳われ始めた今でさえ、会社のトップが女性だと、舐められるし見下されるのが現状なの。あなたに会社の仕事を任せるのが不安なんじゃないわ。あなたが傷付くのを見たくない。それだけなのよ」
「お母さん」
「でも……そうよね、私のやり方は間違っているのかもしれないわ。あなたの人生なのに、結婚っていう大切な人生の一部を押し付けるような真似、しちゃ駄目よね」
 苦笑いを浮かべる。

「お祖父ちゃんの体のことも、会社のことも、お母さんが一人で背負う必要なんかないんだよ? ねぇ、私もちゃんとここにいるから」
 そう言って佳子の手を握った。母の手を握るなど、何年ぶりだろう、とぼんやり考える。この人は、父が亡くなってからずっと、独りで戦ってきたのだ、と改めて知る。

「嫌ねぇ、いつの間にそんな大人になっちゃったの?」
 目尻に光るものを携え、佳子が笑った。今度は苦笑いではない、本当の笑顔である。
「お祖父ちゃんにも相談してみましょうね」
「うん」
 あずさは大きく頷き、佳子の手を撫でた。
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