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第八章
豚骨ラーメンと女占い師と私。
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灰色の迷宮から出た後、いつもの露店通りに訪れていた。
夕食を食べたら、今日はもう早々に床に就くつもりでいた。今のところ体に疲労や違和感はないが、初めてのダンジョン探索で舞い上がり、変なテンションになってしまって、自覚できていない可能性だってある。冒険者は体が資本なだけに、体調管理を疎かにすることはできない。魔人になった経緯が経緯だけになおさらだ。
お腹がグーグーと不満の声を上げた。
朝から灰色の迷宮に潜っていたおかげで、まともな物を口にしていなかった。こういうところは魔人になっても、変わらないらしい。露店通りで食した物が災いして、酷い目に合ったというのに……。
う~~ん、明日に備えて何か精が付いて、なるべく美味しい物が食べたいけど。勿論、安全第一な物でね。でも、今だったら多少な物でも平気なのかもしらないな。自動回復や状態異常耐性のスキルなんてものが付いている訳だし、まあ、実際にチャレンジしてみようとは一切思わないけど。
露店通りを見渡す限り、望みの物は多々あるように思える。
だが、問題はそれがテイクアウトできるかだ。
唐突の質問だが、マスクマンのプロレスラーがマスクを着けたままで、十二分に食事を取ることができるだろうか? まあ、マスクの形状によってはできなくもないが、一般的には食事をする為に、マスクを外して口を表に出す必要があるだろう。少なくてもスーパース〇ロングマ〇ーン辺りは、確実に無理な筈だ。
つまり何が言いたいのかと言うと、現在、強化外殻にて顔を覆っているフェイスカバーを、オープンにしなければ食事が取れないということだ。しかし、それは同時に大勢の人が行き交う露店通りにて、極悪目玉おやじの素顔を晒すことでもある。
はなしてそんなことをしても、大丈夫だろうか?
残念ながら、答えはアウトだ。
そんなことをすれば、極悪目玉おやじの素顔を目にした人たちに、魔物と勘違いされて、トラブルになるのが容易に想像できる。直ぐに衛兵が飛んで来て、食事をするどころの騒ぎではないだろう。
従って極悪目玉おやじになってしまったからには、どうしても人目の付かないところで食事を取らなければならないのだ。
一応、タカハの街で部屋を借りて、自炊することも頭をよぎったが、冒険者家業がまだまだ先行き不透明の為、腰を据えることを考えるのは、時期早々な気がする。
結果、食事はテイクアウトできる物に限られてしまうのだが、困ったことに意外とこれが少ない。露店通りの店の多くが、テイクアウトすることを想定しておらず、その場で食事を取る形なのだ。
それもある意味当然かもしれない。そもそもテイクアウトする為には、その料理に適した持ち帰り用の器が必要になる。現代日本にはそういった代物を豊富に見受けられたが、逆にこの世界、少なくともタカハの街では、とんと見た覚えがない。
無論、単に技術不足の問題で、そういった器が製造できない点もあるだろうが、恐らくその主たる原因は、電子レンジのような温めることができる代物が、一般的に存在しないからだと思われる。
せっかくの美味しい料理も、冷めてしまえば台無しだ。勿論、冷めても美味しい料理は存在するが、往々にして冷めた料理よりも、温かい料理の方が美味しい。だから店頭で熱々の料理を食事することが当然であって、テイクアウトする感覚そのものがまったく無いのだろう。
どうしようかな~? 昨日と同じく串焼きにでもするか? アレなら簡単にテイクアウトできるし……。でもなぁ、アレはアレで人ごみの中を、串焼きを直に持って宿まで帰らなきゃならないんだよなぁ。いやぁ、それってどうなの? 鎧ずくめのローブを羽織ったおっさんが、串焼きを手に持って歩く姿って、中々シュールな光景だと思うのだけど……。
何か適当な物がないかと探しながら、露店通りをブラブラと歩く。
しかしあれだなぁ、このまま当分テイクアウトするってことは、多分店も限られてくるだろうし、同じ物ばかり食うことになるだろうな。あ゙~そうすると店の人に顔覚えられちまう? 嫌だなぁ、それ。
陰キャを自認している身としては、店の人に顔を覚えられるのを、絶対に避けたいところである。そもそも陰キャ=コミュ障なのだ。常連だからと話しかけてくるなんて、もってのほか。話しかけられたところで、こっちはなんの上手い返しもできないし、気の利いた話もできない。そればかりか、上手くコミュニケーションが取れなかったことを自虐して、勝手に落ち込んでしまう。それが陰キャという生き物なのだ。
それと、個人的には「ヤバーい! あの人また来てるよ。他に行くお店無いのかな?」「どうせこれでしょ! バカみたいにこればっかり! 飽きるって感覚が無いんだろうね!」「しかもいつも一人でしょ! マジで友達一人も居なさそうだし、なんかもう……キモ! キモキモキモーイ!」なんて陰口を叩かれてるかと思うと、「いっそもう殺してください」って気持ちになってくる。いや、まあ、かなりの被害妄想だとは思いますけどね、ハイ。
う~~ん、やっぱりタカハの街で、いっそのこと部屋でも借りるか? まだまだ先行きは不安だけど、それなら自炊することもできるし、人との関わりを減らせるから、極悪目玉おやじの素顔も隠しやすい。まあ、炊事場は共同の可能性が高いだろうけど、そこは使う時間帯を調整すればいいんじゃないか? なんか上手いことできそうな気がしてきたぞ……いや、待てよ。……アレだ。アレがどんな物か、まだわかってないんだよ。アレの内容によっては全部覆る可能性があるし……。あ、そうか! そう言えば風呂だ。お風呂も当分どうしようかな……。
ダンジョン探索というものは、いわば肉体労働だ。長い時間と距離をひたすら彷徨い、命がけで魔物やモンスターを相手取って、金目のものを手に入れる。当然、いっぱい汗もかくし、色々と汚れも付いてくる。
そこで重要になってくるのが、お風呂だ。汚れた体をきれいにしてサッパリできるし、疲れた体も癒すことができる。それに、身ぎれいにすることは衛生的にも大事で、病気の予防にもつながる。
体が資本となる肉体労働者にとって、体調管理は決して疎かにすることはできないだけに、お風呂に入る行為は、重要な要素と言っていいだろう。
そんな重要となる風呂だけに、とても悩ましい問題がある。
自分がこの世界で生まれ育った国や、ここタカハの街のあるクスの国では、貴族や金持ちなどの特権階級は兎も角として、一般ピーポーの住居に浴室は備え付いていない。従って一般人がお風呂に入る際は、公共の大衆浴場を利用するのが普通だ。
これは経済的な問題など色々と理由はあるが、一番の理由は国が個人の住居に対して、浴室を設けることに規制を設けているからだ。
何故に規制を設けてるかと言うと、現状、技術面や衛生面に様々な課題や問題を抱えていることから、上水道システムや下水道システムのインフラ環境が、都市全体にまだ十分に整備されておらず、給水及び排水設備を、個人の住居まで整えることは中々手が及ばない。
また、自国やクスの国では住居の大半を木造建築が占め、建物も往々にして密集していることから、火を扱うお風呂は危険を伴い、仮に火事が発生した場合、周りの住居に飛び火する可能性が高く、そうなってしまった場合、甚大な被害をもたらす大火災へと発展するシナリオが、容易に予想される。
以上の理由から国は浴室の設置に規制を設け、特定の施設のみに限定しているのだ。
ただ、多くの大衆浴場は国が運営しており、規制を設けている代わりに利用料金は非常に安く、大抵がひとり銅貨一枚、日本円にして大体百円程度で利用でき、営業時間も早朝から深夜まで行っているところがほとんどで、場所によっては年中無休で営業しているところもあったりする。
因みにだが、水や火を扱う炊事場も、浴室と同様の観点から特定の場所にて、共同で使用する形態が多い。
ここまで来ればわかると思うが、現状だと自分はお風呂に入れない。
だってそうだろ? 食事を取るの為にすら極悪目玉おやじの素顔を、表に出すのが憚られるのに、それどころか入浴する為には、すっぽんぽんにならなければならない。衆目の集まる公共の施設で、そんなこと出来よう筈もない。
今は人気のない川にでも行って、水浴びするぐらいしか手はないかぁ。あ~~あ、お風呂ぐらいゆっくり浸かりたいよなぁ。まあでも、これもアレ次第かな……。ちょっと試してみたいけど、人目に付くのはマズい気がするし、そうすると場所がな……。
人混みを縫うようにして歩きながら、あれこれと考える。しかし、何も良い案が思いつかない。
……まあ、いいか。取り敢えずお得意の保留先送りにしといて、後でもう一回考えよう。そん時になんか良いアイデンティティが思いつかもしれないし、今は何を食うかを考え……んん⁉ このにおい……。
雑踏の中で、微かに漂うにおいにハッとした。
そのにおいは、良いにおいではなかった。ハッキリ言えば、臭いと言っていいだろう。だけど、記憶の片隅を揺さぶられる。どこかで嗅いだことのあるにおいだ。
においに誘われ辿り着いたのは、露店通りから割と離れた、路地裏の行き止まりであった。
普段なら昼間でも訪れることは無いだろう。そんな雰囲気の路地裏だ。
それでもここまでやって来たのは、においの元がどうしても気になったからだ。
暗闇の中にポツンと、屋台が一つあった。それ以外に明かりは見られない。
#件__くだん__のにおいは、その屋台から漂ってきていた。
ここまで近づくと、雑踏の中で微かだったにおいが、ハッキリと分かる。
正直言って、強烈に臭い。油でも腐ったかのような独特なにおいだ。
わかっていない人からしたら正気を問うだろう。このようなにおいを発する食べ物を、提供している屋台の店主に。
普通ならそうだ。自分でも素直にそう思う。
だが、わかっていたら。このにおいを発する食べ物に、心当たりがあったのならどうだろうか。
本当に……? まさかこんなところで……? だけど、このにおいはそうとしか思えないんけど……。
逸る気持ちを押さえて屋台に近づき、そっと中の様子を窺う。
客らしき者は居らず、カウンターの上には箸がギッシリと詰まった箸立てに、調味料の入った容器が幾つか置かれていて、奥には大きな寸胴鍋が二つに、店主らしき男が一人見受けられた。
ある一点を除いて、予想通りの風景である。
予想外であったのは、店主と思しき男の容貌だ。スキンヘッドに厳つい顔から口ひげを生やし、二メートル近い巨漢で筋骨隆々した体格、服の隙間から激戦を物語る傷跡が垣間見えた。どこからどう見てもプロレスラーにしか見えない。それも悪役の方。
こんな容貌の人物が客商売をやるのかと一瞬疑念を抱いたが、こんな人けのない路地裏に店を構えられるのは、こういう人間だからかもしれないと妙に納得させられた。
そう言えば……飲食店を経営しているプロレスラーって、割といたよな。キラーカーンや川田や松永のお店って、結構有名だった覚えがあるし。
その店主と思しき男と目が合った。
暫しの沈黙の後、店主と思しき男はぶっきらぼうに、こう告げた。
「……銅貨七枚だ」
店主の言葉に胸をなでおろした。店主の容貌が容貌なだけに、本当に屋台の店主であるか、完全には疑念を拭いきれないでいたからだ。値段を伝えてきたからには、この屋台の店主で間違いないだろう。
懐から告げられた枚数の銅貨を取り出すと、店主に手渡して屋台の長椅子に腰かけた。
店主は受け取った銅貨をカウンターの上に置かれていたカゴに無造作に放り投げると、慣れた手つきで調理に取り掛かる。
木箱に入っていた物を寸胴鍋に投入すると、手早くどんぶりの中にもう一つの寸胴鍋と、別にあった鍋から掬って入れる。
見覚えのある光景であった。記憶にある食べ物で間違いないように思える。
だが、それでも実物を目にするまでは油断できない。なんせここは異世界なのだから。
店主は状態を見計らって、寸胴鍋に投入した物を網で掬い上げると、水気を落としてどんぶりの中へ入れる。
そして、トッピングを乗せて体裁を整えると、勢いよくオレの目の前にどんぶりを置いた。
「お待ちどう!」
模様の入った白いどんぶりの中いっぱいに、湯気を立てる乳白色のスープに極細のストレート麵、その上に青ネギとチャーシューが乗っかっていた。
そう、コイツはどこからどう見ても、豚骨ラーメンだ。
……マジで豚骨ラーメンだな。自分で頼んでおいてなんだけど、本当に出てきてビックリしてるよ。
震える手で箸立てから箸を取った。
意外なことにこの世界にも箸は普通に存在した。特にタカハの街ではよく箸を目にするのだが、なんでも灰色の一族から伝わってきたという話で、米や豚骨ラーメンのことを考えるに、過去に日本人の転生者が居たのかもしれない。
しかし、よくよく考えてみると、ナーロッパだからと言って箸が無いものと断定するのは、いささか浅知恵のように思える。構造はシンプルだし、材料もあまり選ばないので、別段、普通に存在していても良いのではなかろうか。
ここまできてある重要なことに気が付いた。
フェイスカバー……どうしよう……?
豚骨ラーメンを食べる為には、口を表に出す必要がある。しかし、だからと言って強化外殻のフェイスカバーを開けない訳にはいかない。開けると当然ながら、極悪目玉おやじの素顔が出てきてしまう。
でも、今更後には引けないしな……。バト〇ライガーやギュ〇ギュリみたいに、口元だけを開けばイケると思うけど……。
試しに強化外殻のフェイスカバーを、口元付近だけが表に出るように、少しだけ上げてみた。
……ウン、食べることは問題なさそうだな。でも、結構シュールな絵面だと思うんだけど……。あからさまに顔を見せないようにしているし、犯罪者と言うかヤベー奴だと思われそう。けど、他に客は居ないし、他人の目が無いから、まあいっか!
この時は呑気に安堵していたが、実際には直ぐ傍に店主が一人居た訳で、キッチリヤベー奴だと思ったと、常連になって後々に聞かされた。
箸を親指で挟み、どんぶりの前で両手を合わせる。
「いただきます」
先ずは……。
熱々のどんぶりを両手で持ち上げて、火傷に気を付けながらスープを口に含む。
……⁉ こ、これは‼
カウンターの上に設置されていた調味料の器から、紅ショウガをひとつまみどんぶりに入れる。
どんぶり内を軽くかき混ぜ、麺を箸で摘まんで勢いよく啜った。
美味い! 美味いよ、これ! スープはコクと旨味があるし、麺は細いけど歯ごたえがあって、表面が少しザラザラしているせいなのかな? 食感が良いし、ズープがよく絡んでくる!
その豚骨ラーメンの味は予想通り、いや、予想以上に美味しかった。かつて出張で福岡へ赴いた際に、屋台で食した味に全く引けを取らない。
無我夢中で麺を頬張り、胃袋へ放り込んでいく。
異世界に転生して四十年、ラーメンを食したことは一度としてなかった。
転生前はインスタントや飲食店、様々な種類選り好みすることなく、毎日のようにラーメンを食べていた。
だからと言って、特別ラーメンが好きという訳ではない。正直に言えば飽きていた。それでもよく食していたのは、懐事情が大きく、単に腹を満たす為だ。お金に余裕があれば、他の物を食していただろう。そういう食生活が良いかどうかは、人によって意見が分かれるところではあるが、求めれば当たり前に手に入る、身近な物であったことは確かだ。
その身近な物が、今は身近な物ではない。無くしてから気付くこともある。
久しぶりに食べるラーメンは、格別に美味しかった。
それが望郷というスパイスによる影響か、この豚骨ラーメンの旨さなのかは、最後まで判断は付かなかった。しかし、自分はこんなにもラーメンが好きだったのかと、実感させられた。
とは言っても、実際には最近記憶が戻ったばかりなので、感覚としては一か月ぐらいなんですけどね。
箸が休みなく動いて、あっという間にどんぶりの中の麵が無くなり、一気にスープまで平らげてしまった。
そして、懐からお金を取り出し、店主のオヤジにこう告げた。
「もう一杯お願いします!」
店主のオヤジは先程と同じように、受け取ったお金をカウンター上のカゴに放り投げ、変わらぬ動きで豚骨ラーメンを作り上げると、オレの目の前に差し出した。ただ一つ違うのは、追加で小鉢を添えている。
「……これをラーメン入れて、一緒に食うと美味いぞ」
小鉢の中に入っていたのは赤ニンニクであった。タカハの街に来て以来、何かとお世話になっている万能調味料だ。
ラーメンにラー油を入れる感じかな……? まあ、嫌いじゃないけど……。
取り敢えず店主のオヤジのぶっきらぼうな言葉を信じ、赤ニンニクを全て豚骨ラーメンに投入する。
してそのお味は――。
「美味い‼」
赤ニンニクのピリリとした辛さが味を引き締め、豚骨ラーメンの美味さを格段に上げている。
これまた同じように、豚骨ラーメンを一気に胃袋にかき込んで、あっという間に平らげた。
「フゥ~~、美味かったぁー」
体が熱い。熱々の豚骨ラーメンと辛味の効いた赤ニンニクのおかげで、大分ポカポカとしていた。
暑さからフェイスカバーをフルに開いて、手で扇ぎながら額の汗を拭う。
ちょっとまだもの足りない感じがする……。でも、流石に三杯は食い過ぎだよなぁ。実際、お腹壊して酷い目に合った訳だし……。だけど、魔人になっておかげか、まだまだ余裕な感じなんだが……。ヨシ、もう一杯食おう!
懐からお金を取り出している最中、異変に気が付いた。
店主のオヤジが呆気にとられたような顔を浮かべ、オレのことをじっと見ている。
なんだ? まだ食うのかって思っている? まあ、立て続けにラーメンを三杯も食う奴なんて滅多にいないよなぁ。普通はお腹が空いてても、餃子とかサイドメニューを一緒に食うし……それ以前に餃子ってあるのかな? あったら餃子も食べてみたいけど……。それは兎も角として、それにしては少し変な感じだけど……アッ‼
オレはあることに気が付いた。
先程、汗を拭う際にフェイスカバーをフルオープンにしたことに。極悪目玉おやじが丸出し状態であることに。
無言で見つめあう二人。
「……………………………………」
「……………………………………」
懐から取り出したお金を、店主のオヤジにそっと差し出す。
「お、おかわり……お願いします……」
意外なことにも店主のオヤジは少しの間の後、これまでと同じようにお金を受け取って、豚骨ラーメンの調理を始めた。
そして、目の前に出される豚骨ラーメンと赤ニンニクの入った小鉢。
店主のオヤジは特に何も言及することが無かったので、そのままありがたく豚骨ラーメンをいただかせてもらった。
美味しー! けど、ヤバかったな。人前では気を付けなきゃ……にしても、意外と大丈夫なものなのかね……? あとこの店に餃子はあるのかな……?
宿へ帰る道すがら、露店通りで明日のダンジョン探索に備えて、携帯食などを幾つか購入する。
これで全部かな? まあ、足りなかったら足りなかったで、灰色の迷宮前の露店で買えばいいか。あとは帰って寝るだけだ。悩ましい問題はまだまだあるけど、寝て起きたら解決してるかもしれないしなぁ……絶対にないけど。
人混みをかき分けながら宿へと急ぐ。
しかし、時間帯から言って今が混雑のピークだろう。普通に歩くのも難儀して辟易とさせられる。
相変わらず人が多くて参っちゃうね。満員電車を思い出すよ。今となっては懐かしい気がしないでも――。
唐突に手を掴まえられた。
「ウッオ⁉」
思いがけず驚いたが、既視感があった。決してやましい過去がある訳じゃない。
振り返ると、間近に見覚えのある人物が立っていた。
あの時と同じようにローブを頭から目深に被り、その容姿は依然として窺い知ることができない。
「お久しぶりね。ジンセイ君」
手を掴まれたまま目の高さまで上げる。
「ネェサさん……。いきなりこんなことされたらビックリしますよ!」
ネェサさんが茶目っ気がある口ぶりで返す。
「そう? 結構喜ばれるんだけどなー。一部の人たちに……」
「どんな人たちですか?」
その一部の人たちと、オレも同じように見られてるってこと?
「この時間に露店通りを歩いてるってことは、夕食ってところね」
占い師でなくても簡単に当たりそうな占いである。
「まあ、そうですね。腹ごしらえを済ませたので、これから宿に帰るところです。ネェサさんの方は今からお仕事ですか?」
「そんなところね。それじゃあ、行きましょうか」
そう言ってネェサさんはオレの腕に身を寄せると、手を絡めて強引に引っ張る。
柔らかな感触が二の腕に伝わってきた。強化外殻のおかげで直に味わえないのが本当に恨めしい。
「え⁉ ちょ、ちょっといきなり! 「行きましょう」ってどこにっ?」
ネェサさんが悪戯っぽく笑う。
「うふふ、それは着いてからのお楽しみよ」
ネェサさんに連れてこられたのは、露店通りから少し離れた路地にある居酒屋であった。木造の二階建てになっていて、中々年季の入った外観をしている。
この展開は予想外である。てっきり前と同じようにネェサさんのお店にでも行って占うのかと思ったが、どうにもそういう雰囲気じゃない。聞きたいことがあったので、誘われるがままノコノコとついてきたのだけど……。
中に入ると多くの人で賑わっていた。人種や性別は様々だが、雰囲気から察するに大半の者は冒険者だと思われる。
こう言ってはなんだが、民度は低そうだ。
ネェサさんは顔見知りと思しき恰幅のいい女性の給仕と何やら言葉を交わすと、オレのことを指差した。
恰幅のいい女性の給仕が、当然のように水と手拭いの入った桶を差し出す。
「ハイ、これ!」
恰幅のいい女性の給紙の意図はわからなかったが、条件反射でそれを受け取った。
「あ、どうも……」
「それじゃあ、上へ行きましょ」
ネェサさんの後ろについて、酒場のカウンターの横の狭い階段を上がって行く。
階段は踏み出すごとに軋んで大きく悲鳴を上げ、自分の今の体格ではかなり窮屈であった。
二階に上がると、短い廊下に幾つかのドアがあった。
ネェサさんの後について、廊下の奥の部屋に入る。
部屋の中は六畳ほど広さで壁に木窓が一つと、簡素なベッドに木製の丸いテーブル、それとイスが二つ置かれていた。
「それ、ベッドのそこに置いてくれる?」
ネェサさんに促され、ベッドの傍に持ってきた桶を置いた。
間を置かずに扉の向こうから明るい声がした。
「ハ~イ、ゴメンナサイね」
先程の恰幅のいい女性の給仕が扉を開き、両手に樽作りの大きなジョッキを二つ抱えて、部屋に入って来た。
女性の給仕がそれを木製の丸テーブルの上に、ドスンと置いた。樽作りの大きなジョッキは、中々の重量感である。かなりの量が入っていそうだ。
「お待たせー! 料理もジャンジャン受け付けるから、遠慮なく注文してくださいね!」
ネェサさんが礼を示して片手を上げる。
「ありがとう。その時はまたお願いするわ」
恰幅のいい女性の給仕は慌ただしく部屋から出ていき、勢いよく扉を閉めた。
クスの国は麦の栽培が盛んで、特に肥沃な土地が広がるタカハの街周辺一帯は世界有数の一大生産地となっていることから、麦を使った料理が多い。そして、何よりエールが美味い。原材料となる麦が豊富に手に入ることもあって、タカハの街では質が良く、美味い代物がが大量に出回っていた。
この辺もタカハの街が観光産業に重きを置いた結果であろう。何より酔っぱらった者は兎角お金を落としてくれるものだ。
「夕食は取ったばかりって言ってたから、取り敢えずエールだけ頼んだんだけど、問題あったかしら?」
ネェサさんの言葉に曖昧に答える。
「いや、まあ……大丈夫かと」
確かに、エールだけの注文には問題は無い。だが、問題がない訳でもない。
ネェサさんが意味ありげに笑った。
「あら、それなら良かったわ。それに……ここなら私たちだけしか居ないから、周りを気にしないでお酒が飲めるでしょ」
「……なんでそう思ったんですか?」
「誰だって一つや二つ他人には知られたくないことあるじゃない? だからかしら」
「……………………」
ネェサさんの真意がわからない。しかし、明らかにその口ぶりは、こちらの事情を察しているかのようだ。
それに、どうしても気になることがある。
「名前……言いましったけ?」
煙に巻くかのようにネェサさんは笑う。
「うふふ、この前占った時に教えてもらったわよ」
「あの時に名乗ったのは、別の名前でしたよ」
そう、前に占ってもらった時にネェサさんに告げたのは、この世界での名前だ。だが、今日呼び止められたのは、元の世界での名前「ジンセイ」だ。そもそも魔人になる前と今では体格が大きく違う。強化外殻で顔も出していないのに、人混みの中から簡単に、オレのことを掴まえるのはおかしいじゃないか。
それでもネェサさんはのらりくらりとした調子だ。
「そうだったかしら?」
さて、どうしようかな……?
暫く逡巡して意を決した。
「……知ってるのですか? 自分の……秘密を」
質問への答えのように、ネェサさんは頭から目深に被っていたローブをおもむろに脱ぎ始めた。
その行いはオレの秘密を匂わせ、煽っているかのようにも見える。
ローブを全て脱ぎ、ネェサさんの容姿が露になる。燃えるような赤髪に特徴的な先の尖った長い耳、どこかエキゾチックな雰囲気を醸し出している美しい顔と妖しく輝く赤い瞳、レースのロングキャミソールの胸元から、艶やかな褐色の肌と豊満な谷間を覗かせていた。
横を通り過ぎたら、十人中十人の男が振り返る、そんな美女だ。予想通りというか予想以上である。
美しい……きれいだな。
その美貌に圧倒され、躊躇いがちに眺めいた最中、あることに気が付いた。
あの耳は……エルフ⁉ いや、そんな筈は……。
赤い髪から突き出す特徴的な先の尖った耳は、ネェサさんがエルフであることを暗示していた。しかし、エルフは総じて鮮やかなブロンドの髪に純白な肌をしている。
それに対してネェサさんの髪は燃えるように赤い。それに肌は艶やかな褐色だ。そこから頭に浮かんだのは――。
「ハーフエルフ……?」
ハーフエルフとはエルフと他種族との混血児だ。エルフの血を引いている為、その身体的特徴を受け継ぐが、他種族の血も引いている為、そちらの身体的特徴も同時に受け継ぐ。
つまり、ネェサさんがハーフエルフなら特徴的な先の尖った耳を持ち合わせていても、髪の色が鮮やかなブロンドでない可能性はあるし、肌の色が純白でなくとも不思議ではないのだ。
それに、ハーフエルフならネェサさんが、人の多い都会のタカハの街で暮らしていることにも納得できる。
エルフは緑豊かな自然の多い地を好み、独自の文化を形成して自給自足の暮らしを送り、閉鎖的で他種族との交流を敬遠する。
タカハの街のような人の多い都会で、エルフが普通に生活するとは考えづらいのだ。
また、エルフは何よりも自身がエルフであることに強い誇りを持っている。排外主義の傾向が強く純粋な血筋を重んじることから、ハーフエルフのようなある種そぐわない者は、エルフのコミュニティーにおいて異分子と捉えられ、差別や迫害の対象になり居場所が無いと聞く。
本人が望む望まないは別として、ハーフエルフはそこから出て他の地に行くことが、安寧に暮らすことに繋がるのだろう。
ネェサさんはまるでお気に入りの生徒が、授業に出した難問を解答したかのように褒めた。
「あらあら、よくわかったわね。ご明察よ。お利口さんね」
「いや……まあ……」
簡単な問題だ。ネェサさんの容貌を見れば、大抵の者は解答できるだろう。むしろ簡単すぎて、褒められたことが嫌味にさえ思える。
それでもネェサさんほどの美人の先生から褒められれば、大抵の男子生徒は鼻の下を伸ばして浮かれるだろう。
オレも呑気に鼻の下を伸ばしたかったし、無邪気に浮かれたかった。しかし、とてもじゃないが、そんな気分ではいられない。
ある言葉が、頭の中に浮かび上がっていた。その言葉が酷く困惑させる。
答えが見つからない難問に悩み、思わずその言葉を口から滑らせた。
「……災厄の赤き魔女……」
ネェサさんはやさしく微笑んだ。
「うふふ、懐かしい名前ね。昔……そういう風に呼ばれていたことがあったわね」
事も無げに口にしたセリフに、背筋からゾクッとした。
今より五十年ほど前、とある国にハーフエルフの女魔術師がふらりと現れた。なんでも魔術の実験に使う貴重な素材を求めて、この国に辿り着いたという。
そのハーフエルフの女魔術師は国に並ぶ者がないほど強大な魔力と、赤髪赤目に褐色の肌と特異だが、たぐいまれな美貌を有していた。
そのことが暫くすると国の中で噂となり、いつしか国の目に留まった。
相対した役人や学者たちは驚いた。ハーフエルフの女魔術師の深い知識と明晰な頭脳に。
それと同時に王侯貴族たちは魅せられた。優雅な立ち振る舞いと教養ある巧みな話術に。
そして、ついには王にも認められて、ハーフエルフの女魔術師は宮廷魔術師に迎えられた。
しかし、それは悪夢の始まりであった。
ハーフエルフの女魔術師は宮廷魔術師の地位を利用して、国の権力者たちに近づくと、たぐいまれな美貌と権謀術数を駆使し、いとも簡単にそれらの者たちを篭絡せしめた。
そうなると後はやりたい放題だ。ハーフエルフの女魔術師は残虐で淫乱な本性を露にし、欲望の赴くままに酒池肉林に明け暮れ、意にそぐわない者や気に入らない者は、容赦なく排除した。
大半の者はハーフエルフの女魔術師の行いに、見て見ぬふりをして口をつぐんだ。何せ国の権力者たちが後ろ盾となっているのだから、逆らうことは反逆者になることを意味する。
それでも国を思う気骨のある者たちが立ち上がり、ハーフエルフの女魔術師を力ずくで排除しようと行動を起こした。
しかし、残念ながらその全てが無残な結果に終わった。
力が違い過ぎたのだ。ハーフエルフの女魔術師の魔力は、あまりにも強大であった。ひとたび彼女が呪文を唱えれば、紅蓮の炎が舞い踊り、池や川は水蒸気となって干上がり、岩や石は溶解してマグマと化した。
襲撃した者たちはそのこと如くが返り討ちに会い、哀れな黒炭となった。
しかも、その咎は襲撃に加担した者たちだけではなく、親類縁者は言うに及ばず友人知人たちにまでわたり、多くの者が処刑された。それをハーフエルフの女魔術師は見せしめに公開させ、惨たらしく処刑される様子を、楽しそうに笑って見ていたという。
もうこの国は終わりだ。民衆の誰もがそう思った。
宮廷はハーフエルフの女魔術師に取り入ろうとする奸臣や佞臣で溢れ返り、法は都合のいいように書き換えられて、秩序は保たれず国中で不正が横行していた。
そんな中に、二人の人物が国に帰ってきた。
ひとりは隣国に嫁いだ二番目の王女と、もうひとりは別の隣国との同盟締結の折に、人質となった末の王子だ。
両者は互いにそれぞれの国の軍隊を引き連れ、国を壟断するハーフエルフの女魔術師を討ち、国政を回復することを高らかに喧伝した。
正義の名のもとに進軍する軍隊。王女と王子の考えとは別に、それぞれの国にはある魂胆があった。
この機会を利用して、この国を従属化するという魂胆が。
そんな隣国の魂胆など露知らず、ハーフエルフの女魔術師に怯えていた民衆は、進軍してきた軍隊を歓迎して迎えた。
しかし、民衆の期待は直ぐに落胆へと変わった。
進軍してきた軍隊の振る舞いは酷いもので、統制が全く取れておらずやりたい放題。金目のものを根こそぎ奪い取り、若い娘を捕まえて犯すなど、略奪や強姦の悪行三昧。これではどちらが討伐対象か分かったもんじゃない。
そればかりか軍隊は、まともな成果すら上げられない。両軍は目的や魂胆は同じなれど、求められる結果が違った。その為、互いの情報すら共有しよとせず、連携することを以ての外とばかりに、各々の軍隊がてんでぱらぱら行動を起こしていた。
普通に考えれば、それで上手くいくはずもない。
舐めていたのだ。女の魔術師を一人殺すことなんて、軍隊の力をもってすれば容易いことだと思っていたのだ。むしろ指揮官や兵士にとって重要だったのは、ハーフエルフの女魔術師を討伐することではなく、現地から如何に略奪して自らの富を増やせるかであった。彼らにとってこの遠征は、欲望を満たす為のピクニックでしかなかったのだ。
そんな軍隊をあざ笑うかのように、ハーフエルフの女魔術師は強大な魔力を振るう。突如として彼らの前に現れ、笑みを携え呪文を唱えると、空から火の玉が降り注ぎ、地面から火柱が突き出した。
悲鳴を上げて逃げ惑う兵士たち。阿鼻叫喚の地獄絵図が展開され、大半の者は無慈悲に焼き尽くされた。
だが、それでもその場で死んだいった者たちは、まだマシだったかもしれない。逃走した者や命乞いをして投降した者たちを、ハーフエルフの女魔術師は女神のように慈しみ、労って迎え入れた。
そして、その者たちを民衆に分け与えた。己らが散々悪事を働いた民衆たちに。
その後、兵士たちがどうなったかは容易に想像できよう。彼らは皆、死より恐ろしい苦痛が下された。
ハーフエルフの女魔術師の凶行によって、二つの軍隊はほぼ壊滅状態に陥ったが、それでもそれぞれの国は諦めなかった。王女と王子がまだ生きていたことから、追加で援軍を繰り出してきた。
しかも、今回は先の二国だけじゃなかった。一連の騒動に危機感を覚えた幾つかの周辺諸国が、地域の安定と人道の名のもとに、軍隊を派遣して武力介入してきた。
もはや混沌としか言いようがない。誰が敵で誰が味方か、何が正義で何が悪か、なんの為に戦いなんの為に殺すのか、皆誰もがわからなくなっていた。
そんな中、突如としてハーフエルフの女魔術師が消えた。宮廷から居なくなったのだ。理由やどこに行ったかはわからない。一説には一連の争乱に心を痛めた使用人が、ハーフエルフの女魔術師を苦心の末に崖から滝に突き落としたという噂もあるが、確たる証拠はなく、真相は闇の中だ。
ただハッキリとしているのは、ある日を境にハーフエルフの女魔術師が居なくなった、ということだけである。
最も当事者たちにとっては、そんなこともうどうでもよかった。動き出した船は、急には止まれない。ハーフエルフの女魔術師が消えた程度では、この争乱はとてもじゃないが収まらなかった。
結局、争乱が全て終結するまでに、十年の月日を要した。その間にとある国は滅び、王女や王子の後ろ盾となった二国や介入してきた周辺諸国も、内部崩壊や他国からの侵略などによって次々と滅んでいった。
争乱によって失われたものは数知れず、民間人だけでも十万人以上の犠牲者を出したが、後には焼け野原がだけが残った。
まるで松尾芭蕉の詠んだ俳句のような結末だが、もう一つ残っているものがある。
恐怖だ。全ての元凶たるハーフエルフの女魔術師への恐怖である。
何せハーフエルフの女魔術師は争乱後の足跡どころか、姿を消した理由さえわかっていない。
だから人々は今だに畏怖し、こう呼んで警鐘を鳴らしている。
「災厄の赤き魔女」と。
数年前、北方の遠く離れた国へ商いで赴いた際に、現地の人から聞かされた歴史だ。
噂話ではなく、現地の歴史である。
さて、件の「災厄の赤き魔女」の外見は、年齢は人でいうところの三十代前半ぐらいで、ウェーブの入った赤い髪から尖った長い耳を突き出し、彫刻ように整った美しい顔の中にはルビーのような赤い眼、褐色の肌も相まってどこかエキゾチックな雰囲気があったと言う。
そう、ネェサさんの容姿と瓜二つだ。
そして、目の前に腰かける人物は、自らが「災厄の赤き魔女」と呼ばれていたことを認めた。それでいて悪びれた様子は一切なく、楽しげに微笑んでいる。
いやいやいや、そんなことってある⁉ 織田信長やナポレオンとかと会っちゃうようなことってある? だって五十年以上前の人物だよ! そんなことあり得るの? いや、ちょっと待てよ……。
人の寿命はつつがなくまっとうできれば百歳ほどだ。それに比べてエルフの寿命は非常に長く、六~七百年ほど生きると言われている。では、そのエルフの混血児たるハーフエルフはどうかと言うと、大体四~五百年ぐらい生きると言われている。
あくまでも寿命だけで考えれば、五十年ほど前の人物である「災厄の赤き魔女」が、ネェサさんと同一人物である可能性は十分にあり得る。
だが、それを素直に受け入れることはできなかった。受け入れれば、稀代の悪女と酒を酌み交わすことになる。陰キャのコミュ障にそんな高いハードルは越えられない。
フェイスカバーを少し開き、樽作りの大きなジョッキを手に取ると、勢いをつける為に半分ほど喉に流し込んだ。本当は全部一気に飲み干すつもりだったが、思ったよりも量が多くて、歯がゆい思いをした。
そして、諦めきれずになおも問いただした。
「マジでそう呼ばれてたんですか?」
「マジでそう呼ばれていたのよね~」
マジなのかよ~~! しかもヤバい人じゃん! 悪女じゃん! 暴君じゃん! 勘弁してくれよ~~! あ、あれだ! 他人の空似って奴じゃないか? 世の中には自分と似た人が三人いるって言うしな! 人違いで「災厄の赤き魔女」と呼ばれていただけで、本人じゃないのかもしれない! そうだなよ! その可能性だってあるよな? オレと似た人は絶対いないと思うけど……。
エルフは生まれつき魔力が高く、身体能力に優れ、鋭敏な認識能力を持ち合わせるハイスペックな種族だ。しかし、生殖能力に関しては極めて低く、その高い能力と反比例するかように個体数は少ない。その上、エルフであることへの強い誇りと優越感を持つことから、他の種族を蔑む気質からある為、他の種と交わることも皆無に等しい。
従ってハーフエルフの個体数は、ただでさえ少ないエルフよりも、必然的に更に少なくなる。
では、その更に少ない個体数の中に、燃えるような赤い髪、ルビーのような赤い瞳、褐色の肌を持ち合わせた美貌のハーフエルフが、何人いるだろうか?
……いないな。他にいるとは思えない……。それに……「災厄の赤き魔女」って訳わからず消えてるし、結局どうなったかわからないしさ。
それでも一縷の望みをかけて聞いてみた。
「あ、あの……「災厄の赤き魔女」って……人違いで呼ばれてただけで、ご本人様じゃあ……ないですよね……?」
「うふふ、安心して大丈夫よ。ちゃんと「災厄の赤き魔女」ご本人様だから」
安心できないよーー! 大丈夫じゃないよーー! そこはちゃんとしてなくていいんだよーー!
「えっ⁉ じゃ、じゃあ……あんな酷いことをしてたって……」
「あんな酷いこと? それってどんなこと?」
場の空気が一気に変わった。これまでの緩い感じが一転して、凍り付いている。
あれ……⁉ なんか……ヤバい感じ……?
「い、いや……あ、あの……それは、その……」
「へ~~気になるわね。おねぇさんに教えてくれるかしら?」
そんなこと言われても……。だって、気に入らない人間を公職から追放したり、辺境や戦の最前線に送ったとか、好みの者を見つけたら節操なく部屋に連れ込んで、夜ごと乱痴気騒ぎの乱交を繰り返していたとか、襲撃した来た者たちを家族の目の前で、熱した鉄の杭で肛門から突き刺して公開処刑したとか、捕らえたり投降した兵士を民衆にセリにかけ、惨い殺し方を募集して実行させたとか、その他色々なんですけど……。
本人を目の前にして、そんなこと言える筈もない。ましてやこちらは陰キャのコミュ障だ。アドリブなんてきかないし、上手い言い逃れのひとつ思いつかない。
「……………………………………」
「あらあら、どうしたのかしら? 急に押し黙って」
息苦しく背筋が冷たい。それなのに顔や手の平から汗が滲み出て、心臓はせわしなく動いている。
プレッシャーだ。ネェサさんからのプレッシャーがハンパない。
表情はにこやかに笑っているのに、背後に妖気のようなものが、陽炎みたいに立ち昇っている。
錯乱して意味不明なことが頭に浮かんだ。
ア〇ロか? ア〇ロなのか⁉ そうするとオレはギュ〇イなのか?
目の前のテーブルには美味いエールと、対面に腰かけるのは眉目秀麗な女性。
酒を飲むのにこれ以上の状況はあるだろうか?
断じてないと、断言したいところだが、悲しいかな現在の心境は、一刻も早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
「もうしょうがないわね……」
黙りかねるオレに、ネェサさんは業を煮やした態度でそう言うと、椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
そして、当然のようにイスに腰かけるオレの腿の上に跨った。
「……あ……あの……?」
困惑するオレをよそに、ネェサさんは強化外殻のフェイスカバーに手をかけると、一気に引き上げた。
勿論、飛び出る極悪目玉おやじの素顔。そいつが驚嘆の声を上げる。
「エエェェーーーー⁉」
「あら、ビックリ。中々個性的なお顔になったわね」
言葉とは裏腹に、ネェサさんに驚いた様子は一切視えない。それどころか極悪目玉おやじを中々の個性的で済ませてさえいる。情けないことに、実際に驚いたのはオレの方であった。
それにしても、ここまで意に介さない態度だと、あれだけ極悪目玉おやじのことを気にしていた自分が、バカみたいに思えてくる。
それでも何らかの説明は必要と思い、口を開くが上手く言葉が出てこない。
「いや、これは……ですね。その……何て言うか……」
ネェサさんが自らの口の前で人差し指を立てた。
「シー……」
??
美しい顔がゆっくりと近づき、唇が重なった。
舌が侵入し、絡み合う。
「ン……ウン……ウゥウ……」
暫く児戯のように戯れて、舌は離れていった。
「舌……とっても長いのね。面白そうだけど、今は……」
状況についていけずに困惑して自問する。
わからない。本当にこの状況がわからない。何故にこうなったのだ?
夕食を食べたら、今日はもう早々に床に就くつもりでいた。今のところ体に疲労や違和感はないが、初めてのダンジョン探索で舞い上がり、変なテンションになってしまって、自覚できていない可能性だってある。冒険者は体が資本なだけに、体調管理を疎かにすることはできない。魔人になった経緯が経緯だけになおさらだ。
お腹がグーグーと不満の声を上げた。
朝から灰色の迷宮に潜っていたおかげで、まともな物を口にしていなかった。こういうところは魔人になっても、変わらないらしい。露店通りで食した物が災いして、酷い目に合ったというのに……。
う~~ん、明日に備えて何か精が付いて、なるべく美味しい物が食べたいけど。勿論、安全第一な物でね。でも、今だったら多少な物でも平気なのかもしらないな。自動回復や状態異常耐性のスキルなんてものが付いている訳だし、まあ、実際にチャレンジしてみようとは一切思わないけど。
露店通りを見渡す限り、望みの物は多々あるように思える。
だが、問題はそれがテイクアウトできるかだ。
唐突の質問だが、マスクマンのプロレスラーがマスクを着けたままで、十二分に食事を取ることができるだろうか? まあ、マスクの形状によってはできなくもないが、一般的には食事をする為に、マスクを外して口を表に出す必要があるだろう。少なくてもスーパース〇ロングマ〇ーン辺りは、確実に無理な筈だ。
つまり何が言いたいのかと言うと、現在、強化外殻にて顔を覆っているフェイスカバーを、オープンにしなければ食事が取れないということだ。しかし、それは同時に大勢の人が行き交う露店通りにて、極悪目玉おやじの素顔を晒すことでもある。
はなしてそんなことをしても、大丈夫だろうか?
残念ながら、答えはアウトだ。
そんなことをすれば、極悪目玉おやじの素顔を目にした人たちに、魔物と勘違いされて、トラブルになるのが容易に想像できる。直ぐに衛兵が飛んで来て、食事をするどころの騒ぎではないだろう。
従って極悪目玉おやじになってしまったからには、どうしても人目の付かないところで食事を取らなければならないのだ。
一応、タカハの街で部屋を借りて、自炊することも頭をよぎったが、冒険者家業がまだまだ先行き不透明の為、腰を据えることを考えるのは、時期早々な気がする。
結果、食事はテイクアウトできる物に限られてしまうのだが、困ったことに意外とこれが少ない。露店通りの店の多くが、テイクアウトすることを想定しておらず、その場で食事を取る形なのだ。
それもある意味当然かもしれない。そもそもテイクアウトする為には、その料理に適した持ち帰り用の器が必要になる。現代日本にはそういった代物を豊富に見受けられたが、逆にこの世界、少なくともタカハの街では、とんと見た覚えがない。
無論、単に技術不足の問題で、そういった器が製造できない点もあるだろうが、恐らくその主たる原因は、電子レンジのような温めることができる代物が、一般的に存在しないからだと思われる。
せっかくの美味しい料理も、冷めてしまえば台無しだ。勿論、冷めても美味しい料理は存在するが、往々にして冷めた料理よりも、温かい料理の方が美味しい。だから店頭で熱々の料理を食事することが当然であって、テイクアウトする感覚そのものがまったく無いのだろう。
どうしようかな~? 昨日と同じく串焼きにでもするか? アレなら簡単にテイクアウトできるし……。でもなぁ、アレはアレで人ごみの中を、串焼きを直に持って宿まで帰らなきゃならないんだよなぁ。いやぁ、それってどうなの? 鎧ずくめのローブを羽織ったおっさんが、串焼きを手に持って歩く姿って、中々シュールな光景だと思うのだけど……。
何か適当な物がないかと探しながら、露店通りをブラブラと歩く。
しかしあれだなぁ、このまま当分テイクアウトするってことは、多分店も限られてくるだろうし、同じ物ばかり食うことになるだろうな。あ゙~そうすると店の人に顔覚えられちまう? 嫌だなぁ、それ。
陰キャを自認している身としては、店の人に顔を覚えられるのを、絶対に避けたいところである。そもそも陰キャ=コミュ障なのだ。常連だからと話しかけてくるなんて、もってのほか。話しかけられたところで、こっちはなんの上手い返しもできないし、気の利いた話もできない。そればかりか、上手くコミュニケーションが取れなかったことを自虐して、勝手に落ち込んでしまう。それが陰キャという生き物なのだ。
それと、個人的には「ヤバーい! あの人また来てるよ。他に行くお店無いのかな?」「どうせこれでしょ! バカみたいにこればっかり! 飽きるって感覚が無いんだろうね!」「しかもいつも一人でしょ! マジで友達一人も居なさそうだし、なんかもう……キモ! キモキモキモーイ!」なんて陰口を叩かれてるかと思うと、「いっそもう殺してください」って気持ちになってくる。いや、まあ、かなりの被害妄想だとは思いますけどね、ハイ。
う~~ん、やっぱりタカハの街で、いっそのこと部屋でも借りるか? まだまだ先行きは不安だけど、それなら自炊することもできるし、人との関わりを減らせるから、極悪目玉おやじの素顔も隠しやすい。まあ、炊事場は共同の可能性が高いだろうけど、そこは使う時間帯を調整すればいいんじゃないか? なんか上手いことできそうな気がしてきたぞ……いや、待てよ。……アレだ。アレがどんな物か、まだわかってないんだよ。アレの内容によっては全部覆る可能性があるし……。あ、そうか! そう言えば風呂だ。お風呂も当分どうしようかな……。
ダンジョン探索というものは、いわば肉体労働だ。長い時間と距離をひたすら彷徨い、命がけで魔物やモンスターを相手取って、金目のものを手に入れる。当然、いっぱい汗もかくし、色々と汚れも付いてくる。
そこで重要になってくるのが、お風呂だ。汚れた体をきれいにしてサッパリできるし、疲れた体も癒すことができる。それに、身ぎれいにすることは衛生的にも大事で、病気の予防にもつながる。
体が資本となる肉体労働者にとって、体調管理は決して疎かにすることはできないだけに、お風呂に入る行為は、重要な要素と言っていいだろう。
そんな重要となる風呂だけに、とても悩ましい問題がある。
自分がこの世界で生まれ育った国や、ここタカハの街のあるクスの国では、貴族や金持ちなどの特権階級は兎も角として、一般ピーポーの住居に浴室は備え付いていない。従って一般人がお風呂に入る際は、公共の大衆浴場を利用するのが普通だ。
これは経済的な問題など色々と理由はあるが、一番の理由は国が個人の住居に対して、浴室を設けることに規制を設けているからだ。
何故に規制を設けてるかと言うと、現状、技術面や衛生面に様々な課題や問題を抱えていることから、上水道システムや下水道システムのインフラ環境が、都市全体にまだ十分に整備されておらず、給水及び排水設備を、個人の住居まで整えることは中々手が及ばない。
また、自国やクスの国では住居の大半を木造建築が占め、建物も往々にして密集していることから、火を扱うお風呂は危険を伴い、仮に火事が発生した場合、周りの住居に飛び火する可能性が高く、そうなってしまった場合、甚大な被害をもたらす大火災へと発展するシナリオが、容易に予想される。
以上の理由から国は浴室の設置に規制を設け、特定の施設のみに限定しているのだ。
ただ、多くの大衆浴場は国が運営しており、規制を設けている代わりに利用料金は非常に安く、大抵がひとり銅貨一枚、日本円にして大体百円程度で利用でき、営業時間も早朝から深夜まで行っているところがほとんどで、場所によっては年中無休で営業しているところもあったりする。
因みにだが、水や火を扱う炊事場も、浴室と同様の観点から特定の場所にて、共同で使用する形態が多い。
ここまで来ればわかると思うが、現状だと自分はお風呂に入れない。
だってそうだろ? 食事を取るの為にすら極悪目玉おやじの素顔を、表に出すのが憚られるのに、それどころか入浴する為には、すっぽんぽんにならなければならない。衆目の集まる公共の施設で、そんなこと出来よう筈もない。
今は人気のない川にでも行って、水浴びするぐらいしか手はないかぁ。あ~~あ、お風呂ぐらいゆっくり浸かりたいよなぁ。まあでも、これもアレ次第かな……。ちょっと試してみたいけど、人目に付くのはマズい気がするし、そうすると場所がな……。
人混みを縫うようにして歩きながら、あれこれと考える。しかし、何も良い案が思いつかない。
……まあ、いいか。取り敢えずお得意の保留先送りにしといて、後でもう一回考えよう。そん時になんか良いアイデンティティが思いつかもしれないし、今は何を食うかを考え……んん⁉ このにおい……。
雑踏の中で、微かに漂うにおいにハッとした。
そのにおいは、良いにおいではなかった。ハッキリ言えば、臭いと言っていいだろう。だけど、記憶の片隅を揺さぶられる。どこかで嗅いだことのあるにおいだ。
においに誘われ辿り着いたのは、露店通りから割と離れた、路地裏の行き止まりであった。
普段なら昼間でも訪れることは無いだろう。そんな雰囲気の路地裏だ。
それでもここまでやって来たのは、においの元がどうしても気になったからだ。
暗闇の中にポツンと、屋台が一つあった。それ以外に明かりは見られない。
#件__くだん__のにおいは、その屋台から漂ってきていた。
ここまで近づくと、雑踏の中で微かだったにおいが、ハッキリと分かる。
正直言って、強烈に臭い。油でも腐ったかのような独特なにおいだ。
わかっていない人からしたら正気を問うだろう。このようなにおいを発する食べ物を、提供している屋台の店主に。
普通ならそうだ。自分でも素直にそう思う。
だが、わかっていたら。このにおいを発する食べ物に、心当たりがあったのならどうだろうか。
本当に……? まさかこんなところで……? だけど、このにおいはそうとしか思えないんけど……。
逸る気持ちを押さえて屋台に近づき、そっと中の様子を窺う。
客らしき者は居らず、カウンターの上には箸がギッシリと詰まった箸立てに、調味料の入った容器が幾つか置かれていて、奥には大きな寸胴鍋が二つに、店主らしき男が一人見受けられた。
ある一点を除いて、予想通りの風景である。
予想外であったのは、店主と思しき男の容貌だ。スキンヘッドに厳つい顔から口ひげを生やし、二メートル近い巨漢で筋骨隆々した体格、服の隙間から激戦を物語る傷跡が垣間見えた。どこからどう見てもプロレスラーにしか見えない。それも悪役の方。
こんな容貌の人物が客商売をやるのかと一瞬疑念を抱いたが、こんな人けのない路地裏に店を構えられるのは、こういう人間だからかもしれないと妙に納得させられた。
そう言えば……飲食店を経営しているプロレスラーって、割といたよな。キラーカーンや川田や松永のお店って、結構有名だった覚えがあるし。
その店主と思しき男と目が合った。
暫しの沈黙の後、店主と思しき男はぶっきらぼうに、こう告げた。
「……銅貨七枚だ」
店主の言葉に胸をなでおろした。店主の容貌が容貌なだけに、本当に屋台の店主であるか、完全には疑念を拭いきれないでいたからだ。値段を伝えてきたからには、この屋台の店主で間違いないだろう。
懐から告げられた枚数の銅貨を取り出すと、店主に手渡して屋台の長椅子に腰かけた。
店主は受け取った銅貨をカウンターの上に置かれていたカゴに無造作に放り投げると、慣れた手つきで調理に取り掛かる。
木箱に入っていた物を寸胴鍋に投入すると、手早くどんぶりの中にもう一つの寸胴鍋と、別にあった鍋から掬って入れる。
見覚えのある光景であった。記憶にある食べ物で間違いないように思える。
だが、それでも実物を目にするまでは油断できない。なんせここは異世界なのだから。
店主は状態を見計らって、寸胴鍋に投入した物を網で掬い上げると、水気を落としてどんぶりの中へ入れる。
そして、トッピングを乗せて体裁を整えると、勢いよくオレの目の前にどんぶりを置いた。
「お待ちどう!」
模様の入った白いどんぶりの中いっぱいに、湯気を立てる乳白色のスープに極細のストレート麵、その上に青ネギとチャーシューが乗っかっていた。
そう、コイツはどこからどう見ても、豚骨ラーメンだ。
……マジで豚骨ラーメンだな。自分で頼んでおいてなんだけど、本当に出てきてビックリしてるよ。
震える手で箸立てから箸を取った。
意外なことにこの世界にも箸は普通に存在した。特にタカハの街ではよく箸を目にするのだが、なんでも灰色の一族から伝わってきたという話で、米や豚骨ラーメンのことを考えるに、過去に日本人の転生者が居たのかもしれない。
しかし、よくよく考えてみると、ナーロッパだからと言って箸が無いものと断定するのは、いささか浅知恵のように思える。構造はシンプルだし、材料もあまり選ばないので、別段、普通に存在していても良いのではなかろうか。
ここまできてある重要なことに気が付いた。
フェイスカバー……どうしよう……?
豚骨ラーメンを食べる為には、口を表に出す必要がある。しかし、だからと言って強化外殻のフェイスカバーを開けない訳にはいかない。開けると当然ながら、極悪目玉おやじの素顔が出てきてしまう。
でも、今更後には引けないしな……。バト〇ライガーやギュ〇ギュリみたいに、口元だけを開けばイケると思うけど……。
試しに強化外殻のフェイスカバーを、口元付近だけが表に出るように、少しだけ上げてみた。
……ウン、食べることは問題なさそうだな。でも、結構シュールな絵面だと思うんだけど……。あからさまに顔を見せないようにしているし、犯罪者と言うかヤベー奴だと思われそう。けど、他に客は居ないし、他人の目が無いから、まあいっか!
この時は呑気に安堵していたが、実際には直ぐ傍に店主が一人居た訳で、キッチリヤベー奴だと思ったと、常連になって後々に聞かされた。
箸を親指で挟み、どんぶりの前で両手を合わせる。
「いただきます」
先ずは……。
熱々のどんぶりを両手で持ち上げて、火傷に気を付けながらスープを口に含む。
……⁉ こ、これは‼
カウンターの上に設置されていた調味料の器から、紅ショウガをひとつまみどんぶりに入れる。
どんぶり内を軽くかき混ぜ、麺を箸で摘まんで勢いよく啜った。
美味い! 美味いよ、これ! スープはコクと旨味があるし、麺は細いけど歯ごたえがあって、表面が少しザラザラしているせいなのかな? 食感が良いし、ズープがよく絡んでくる!
その豚骨ラーメンの味は予想通り、いや、予想以上に美味しかった。かつて出張で福岡へ赴いた際に、屋台で食した味に全く引けを取らない。
無我夢中で麺を頬張り、胃袋へ放り込んでいく。
異世界に転生して四十年、ラーメンを食したことは一度としてなかった。
転生前はインスタントや飲食店、様々な種類選り好みすることなく、毎日のようにラーメンを食べていた。
だからと言って、特別ラーメンが好きという訳ではない。正直に言えば飽きていた。それでもよく食していたのは、懐事情が大きく、単に腹を満たす為だ。お金に余裕があれば、他の物を食していただろう。そういう食生活が良いかどうかは、人によって意見が分かれるところではあるが、求めれば当たり前に手に入る、身近な物であったことは確かだ。
その身近な物が、今は身近な物ではない。無くしてから気付くこともある。
久しぶりに食べるラーメンは、格別に美味しかった。
それが望郷というスパイスによる影響か、この豚骨ラーメンの旨さなのかは、最後まで判断は付かなかった。しかし、自分はこんなにもラーメンが好きだったのかと、実感させられた。
とは言っても、実際には最近記憶が戻ったばかりなので、感覚としては一か月ぐらいなんですけどね。
箸が休みなく動いて、あっという間にどんぶりの中の麵が無くなり、一気にスープまで平らげてしまった。
そして、懐からお金を取り出し、店主のオヤジにこう告げた。
「もう一杯お願いします!」
店主のオヤジは先程と同じように、受け取ったお金をカウンター上のカゴに放り投げ、変わらぬ動きで豚骨ラーメンを作り上げると、オレの目の前に差し出した。ただ一つ違うのは、追加で小鉢を添えている。
「……これをラーメン入れて、一緒に食うと美味いぞ」
小鉢の中に入っていたのは赤ニンニクであった。タカハの街に来て以来、何かとお世話になっている万能調味料だ。
ラーメンにラー油を入れる感じかな……? まあ、嫌いじゃないけど……。
取り敢えず店主のオヤジのぶっきらぼうな言葉を信じ、赤ニンニクを全て豚骨ラーメンに投入する。
してそのお味は――。
「美味い‼」
赤ニンニクのピリリとした辛さが味を引き締め、豚骨ラーメンの美味さを格段に上げている。
これまた同じように、豚骨ラーメンを一気に胃袋にかき込んで、あっという間に平らげた。
「フゥ~~、美味かったぁー」
体が熱い。熱々の豚骨ラーメンと辛味の効いた赤ニンニクのおかげで、大分ポカポカとしていた。
暑さからフェイスカバーをフルに開いて、手で扇ぎながら額の汗を拭う。
ちょっとまだもの足りない感じがする……。でも、流石に三杯は食い過ぎだよなぁ。実際、お腹壊して酷い目に合った訳だし……。だけど、魔人になっておかげか、まだまだ余裕な感じなんだが……。ヨシ、もう一杯食おう!
懐からお金を取り出している最中、異変に気が付いた。
店主のオヤジが呆気にとられたような顔を浮かべ、オレのことをじっと見ている。
なんだ? まだ食うのかって思っている? まあ、立て続けにラーメンを三杯も食う奴なんて滅多にいないよなぁ。普通はお腹が空いてても、餃子とかサイドメニューを一緒に食うし……それ以前に餃子ってあるのかな? あったら餃子も食べてみたいけど……。それは兎も角として、それにしては少し変な感じだけど……アッ‼
オレはあることに気が付いた。
先程、汗を拭う際にフェイスカバーをフルオープンにしたことに。極悪目玉おやじが丸出し状態であることに。
無言で見つめあう二人。
「……………………………………」
「……………………………………」
懐から取り出したお金を、店主のオヤジにそっと差し出す。
「お、おかわり……お願いします……」
意外なことにも店主のオヤジは少しの間の後、これまでと同じようにお金を受け取って、豚骨ラーメンの調理を始めた。
そして、目の前に出される豚骨ラーメンと赤ニンニクの入った小鉢。
店主のオヤジは特に何も言及することが無かったので、そのままありがたく豚骨ラーメンをいただかせてもらった。
美味しー! けど、ヤバかったな。人前では気を付けなきゃ……にしても、意外と大丈夫なものなのかね……? あとこの店に餃子はあるのかな……?
宿へ帰る道すがら、露店通りで明日のダンジョン探索に備えて、携帯食などを幾つか購入する。
これで全部かな? まあ、足りなかったら足りなかったで、灰色の迷宮前の露店で買えばいいか。あとは帰って寝るだけだ。悩ましい問題はまだまだあるけど、寝て起きたら解決してるかもしれないしなぁ……絶対にないけど。
人混みをかき分けながら宿へと急ぐ。
しかし、時間帯から言って今が混雑のピークだろう。普通に歩くのも難儀して辟易とさせられる。
相変わらず人が多くて参っちゃうね。満員電車を思い出すよ。今となっては懐かしい気がしないでも――。
唐突に手を掴まえられた。
「ウッオ⁉」
思いがけず驚いたが、既視感があった。決してやましい過去がある訳じゃない。
振り返ると、間近に見覚えのある人物が立っていた。
あの時と同じようにローブを頭から目深に被り、その容姿は依然として窺い知ることができない。
「お久しぶりね。ジンセイ君」
手を掴まれたまま目の高さまで上げる。
「ネェサさん……。いきなりこんなことされたらビックリしますよ!」
ネェサさんが茶目っ気がある口ぶりで返す。
「そう? 結構喜ばれるんだけどなー。一部の人たちに……」
「どんな人たちですか?」
その一部の人たちと、オレも同じように見られてるってこと?
「この時間に露店通りを歩いてるってことは、夕食ってところね」
占い師でなくても簡単に当たりそうな占いである。
「まあ、そうですね。腹ごしらえを済ませたので、これから宿に帰るところです。ネェサさんの方は今からお仕事ですか?」
「そんなところね。それじゃあ、行きましょうか」
そう言ってネェサさんはオレの腕に身を寄せると、手を絡めて強引に引っ張る。
柔らかな感触が二の腕に伝わってきた。強化外殻のおかげで直に味わえないのが本当に恨めしい。
「え⁉ ちょ、ちょっといきなり! 「行きましょう」ってどこにっ?」
ネェサさんが悪戯っぽく笑う。
「うふふ、それは着いてからのお楽しみよ」
ネェサさんに連れてこられたのは、露店通りから少し離れた路地にある居酒屋であった。木造の二階建てになっていて、中々年季の入った外観をしている。
この展開は予想外である。てっきり前と同じようにネェサさんのお店にでも行って占うのかと思ったが、どうにもそういう雰囲気じゃない。聞きたいことがあったので、誘われるがままノコノコとついてきたのだけど……。
中に入ると多くの人で賑わっていた。人種や性別は様々だが、雰囲気から察するに大半の者は冒険者だと思われる。
こう言ってはなんだが、民度は低そうだ。
ネェサさんは顔見知りと思しき恰幅のいい女性の給仕と何やら言葉を交わすと、オレのことを指差した。
恰幅のいい女性の給仕が、当然のように水と手拭いの入った桶を差し出す。
「ハイ、これ!」
恰幅のいい女性の給紙の意図はわからなかったが、条件反射でそれを受け取った。
「あ、どうも……」
「それじゃあ、上へ行きましょ」
ネェサさんの後ろについて、酒場のカウンターの横の狭い階段を上がって行く。
階段は踏み出すごとに軋んで大きく悲鳴を上げ、自分の今の体格ではかなり窮屈であった。
二階に上がると、短い廊下に幾つかのドアがあった。
ネェサさんの後について、廊下の奥の部屋に入る。
部屋の中は六畳ほど広さで壁に木窓が一つと、簡素なベッドに木製の丸いテーブル、それとイスが二つ置かれていた。
「それ、ベッドのそこに置いてくれる?」
ネェサさんに促され、ベッドの傍に持ってきた桶を置いた。
間を置かずに扉の向こうから明るい声がした。
「ハ~イ、ゴメンナサイね」
先程の恰幅のいい女性の給仕が扉を開き、両手に樽作りの大きなジョッキを二つ抱えて、部屋に入って来た。
女性の給仕がそれを木製の丸テーブルの上に、ドスンと置いた。樽作りの大きなジョッキは、中々の重量感である。かなりの量が入っていそうだ。
「お待たせー! 料理もジャンジャン受け付けるから、遠慮なく注文してくださいね!」
ネェサさんが礼を示して片手を上げる。
「ありがとう。その時はまたお願いするわ」
恰幅のいい女性の給仕は慌ただしく部屋から出ていき、勢いよく扉を閉めた。
クスの国は麦の栽培が盛んで、特に肥沃な土地が広がるタカハの街周辺一帯は世界有数の一大生産地となっていることから、麦を使った料理が多い。そして、何よりエールが美味い。原材料となる麦が豊富に手に入ることもあって、タカハの街では質が良く、美味い代物がが大量に出回っていた。
この辺もタカハの街が観光産業に重きを置いた結果であろう。何より酔っぱらった者は兎角お金を落としてくれるものだ。
「夕食は取ったばかりって言ってたから、取り敢えずエールだけ頼んだんだけど、問題あったかしら?」
ネェサさんの言葉に曖昧に答える。
「いや、まあ……大丈夫かと」
確かに、エールだけの注文には問題は無い。だが、問題がない訳でもない。
ネェサさんが意味ありげに笑った。
「あら、それなら良かったわ。それに……ここなら私たちだけしか居ないから、周りを気にしないでお酒が飲めるでしょ」
「……なんでそう思ったんですか?」
「誰だって一つや二つ他人には知られたくないことあるじゃない? だからかしら」
「……………………」
ネェサさんの真意がわからない。しかし、明らかにその口ぶりは、こちらの事情を察しているかのようだ。
それに、どうしても気になることがある。
「名前……言いましったけ?」
煙に巻くかのようにネェサさんは笑う。
「うふふ、この前占った時に教えてもらったわよ」
「あの時に名乗ったのは、別の名前でしたよ」
そう、前に占ってもらった時にネェサさんに告げたのは、この世界での名前だ。だが、今日呼び止められたのは、元の世界での名前「ジンセイ」だ。そもそも魔人になる前と今では体格が大きく違う。強化外殻で顔も出していないのに、人混みの中から簡単に、オレのことを掴まえるのはおかしいじゃないか。
それでもネェサさんはのらりくらりとした調子だ。
「そうだったかしら?」
さて、どうしようかな……?
暫く逡巡して意を決した。
「……知ってるのですか? 自分の……秘密を」
質問への答えのように、ネェサさんは頭から目深に被っていたローブをおもむろに脱ぎ始めた。
その行いはオレの秘密を匂わせ、煽っているかのようにも見える。
ローブを全て脱ぎ、ネェサさんの容姿が露になる。燃えるような赤髪に特徴的な先の尖った長い耳、どこかエキゾチックな雰囲気を醸し出している美しい顔と妖しく輝く赤い瞳、レースのロングキャミソールの胸元から、艶やかな褐色の肌と豊満な谷間を覗かせていた。
横を通り過ぎたら、十人中十人の男が振り返る、そんな美女だ。予想通りというか予想以上である。
美しい……きれいだな。
その美貌に圧倒され、躊躇いがちに眺めいた最中、あることに気が付いた。
あの耳は……エルフ⁉ いや、そんな筈は……。
赤い髪から突き出す特徴的な先の尖った耳は、ネェサさんがエルフであることを暗示していた。しかし、エルフは総じて鮮やかなブロンドの髪に純白な肌をしている。
それに対してネェサさんの髪は燃えるように赤い。それに肌は艶やかな褐色だ。そこから頭に浮かんだのは――。
「ハーフエルフ……?」
ハーフエルフとはエルフと他種族との混血児だ。エルフの血を引いている為、その身体的特徴を受け継ぐが、他種族の血も引いている為、そちらの身体的特徴も同時に受け継ぐ。
つまり、ネェサさんがハーフエルフなら特徴的な先の尖った耳を持ち合わせていても、髪の色が鮮やかなブロンドでない可能性はあるし、肌の色が純白でなくとも不思議ではないのだ。
それに、ハーフエルフならネェサさんが、人の多い都会のタカハの街で暮らしていることにも納得できる。
エルフは緑豊かな自然の多い地を好み、独自の文化を形成して自給自足の暮らしを送り、閉鎖的で他種族との交流を敬遠する。
タカハの街のような人の多い都会で、エルフが普通に生活するとは考えづらいのだ。
また、エルフは何よりも自身がエルフであることに強い誇りを持っている。排外主義の傾向が強く純粋な血筋を重んじることから、ハーフエルフのようなある種そぐわない者は、エルフのコミュニティーにおいて異分子と捉えられ、差別や迫害の対象になり居場所が無いと聞く。
本人が望む望まないは別として、ハーフエルフはそこから出て他の地に行くことが、安寧に暮らすことに繋がるのだろう。
ネェサさんはまるでお気に入りの生徒が、授業に出した難問を解答したかのように褒めた。
「あらあら、よくわかったわね。ご明察よ。お利口さんね」
「いや……まあ……」
簡単な問題だ。ネェサさんの容貌を見れば、大抵の者は解答できるだろう。むしろ簡単すぎて、褒められたことが嫌味にさえ思える。
それでもネェサさんほどの美人の先生から褒められれば、大抵の男子生徒は鼻の下を伸ばして浮かれるだろう。
オレも呑気に鼻の下を伸ばしたかったし、無邪気に浮かれたかった。しかし、とてもじゃないが、そんな気分ではいられない。
ある言葉が、頭の中に浮かび上がっていた。その言葉が酷く困惑させる。
答えが見つからない難問に悩み、思わずその言葉を口から滑らせた。
「……災厄の赤き魔女……」
ネェサさんはやさしく微笑んだ。
「うふふ、懐かしい名前ね。昔……そういう風に呼ばれていたことがあったわね」
事も無げに口にしたセリフに、背筋からゾクッとした。
今より五十年ほど前、とある国にハーフエルフの女魔術師がふらりと現れた。なんでも魔術の実験に使う貴重な素材を求めて、この国に辿り着いたという。
そのハーフエルフの女魔術師は国に並ぶ者がないほど強大な魔力と、赤髪赤目に褐色の肌と特異だが、たぐいまれな美貌を有していた。
そのことが暫くすると国の中で噂となり、いつしか国の目に留まった。
相対した役人や学者たちは驚いた。ハーフエルフの女魔術師の深い知識と明晰な頭脳に。
それと同時に王侯貴族たちは魅せられた。優雅な立ち振る舞いと教養ある巧みな話術に。
そして、ついには王にも認められて、ハーフエルフの女魔術師は宮廷魔術師に迎えられた。
しかし、それは悪夢の始まりであった。
ハーフエルフの女魔術師は宮廷魔術師の地位を利用して、国の権力者たちに近づくと、たぐいまれな美貌と権謀術数を駆使し、いとも簡単にそれらの者たちを篭絡せしめた。
そうなると後はやりたい放題だ。ハーフエルフの女魔術師は残虐で淫乱な本性を露にし、欲望の赴くままに酒池肉林に明け暮れ、意にそぐわない者や気に入らない者は、容赦なく排除した。
大半の者はハーフエルフの女魔術師の行いに、見て見ぬふりをして口をつぐんだ。何せ国の権力者たちが後ろ盾となっているのだから、逆らうことは反逆者になることを意味する。
それでも国を思う気骨のある者たちが立ち上がり、ハーフエルフの女魔術師を力ずくで排除しようと行動を起こした。
しかし、残念ながらその全てが無残な結果に終わった。
力が違い過ぎたのだ。ハーフエルフの女魔術師の魔力は、あまりにも強大であった。ひとたび彼女が呪文を唱えれば、紅蓮の炎が舞い踊り、池や川は水蒸気となって干上がり、岩や石は溶解してマグマと化した。
襲撃した者たちはそのこと如くが返り討ちに会い、哀れな黒炭となった。
しかも、その咎は襲撃に加担した者たちだけではなく、親類縁者は言うに及ばず友人知人たちにまでわたり、多くの者が処刑された。それをハーフエルフの女魔術師は見せしめに公開させ、惨たらしく処刑される様子を、楽しそうに笑って見ていたという。
もうこの国は終わりだ。民衆の誰もがそう思った。
宮廷はハーフエルフの女魔術師に取り入ろうとする奸臣や佞臣で溢れ返り、法は都合のいいように書き換えられて、秩序は保たれず国中で不正が横行していた。
そんな中に、二人の人物が国に帰ってきた。
ひとりは隣国に嫁いだ二番目の王女と、もうひとりは別の隣国との同盟締結の折に、人質となった末の王子だ。
両者は互いにそれぞれの国の軍隊を引き連れ、国を壟断するハーフエルフの女魔術師を討ち、国政を回復することを高らかに喧伝した。
正義の名のもとに進軍する軍隊。王女と王子の考えとは別に、それぞれの国にはある魂胆があった。
この機会を利用して、この国を従属化するという魂胆が。
そんな隣国の魂胆など露知らず、ハーフエルフの女魔術師に怯えていた民衆は、進軍してきた軍隊を歓迎して迎えた。
しかし、民衆の期待は直ぐに落胆へと変わった。
進軍してきた軍隊の振る舞いは酷いもので、統制が全く取れておらずやりたい放題。金目のものを根こそぎ奪い取り、若い娘を捕まえて犯すなど、略奪や強姦の悪行三昧。これではどちらが討伐対象か分かったもんじゃない。
そればかりか軍隊は、まともな成果すら上げられない。両軍は目的や魂胆は同じなれど、求められる結果が違った。その為、互いの情報すら共有しよとせず、連携することを以ての外とばかりに、各々の軍隊がてんでぱらぱら行動を起こしていた。
普通に考えれば、それで上手くいくはずもない。
舐めていたのだ。女の魔術師を一人殺すことなんて、軍隊の力をもってすれば容易いことだと思っていたのだ。むしろ指揮官や兵士にとって重要だったのは、ハーフエルフの女魔術師を討伐することではなく、現地から如何に略奪して自らの富を増やせるかであった。彼らにとってこの遠征は、欲望を満たす為のピクニックでしかなかったのだ。
そんな軍隊をあざ笑うかのように、ハーフエルフの女魔術師は強大な魔力を振るう。突如として彼らの前に現れ、笑みを携え呪文を唱えると、空から火の玉が降り注ぎ、地面から火柱が突き出した。
悲鳴を上げて逃げ惑う兵士たち。阿鼻叫喚の地獄絵図が展開され、大半の者は無慈悲に焼き尽くされた。
だが、それでもその場で死んだいった者たちは、まだマシだったかもしれない。逃走した者や命乞いをして投降した者たちを、ハーフエルフの女魔術師は女神のように慈しみ、労って迎え入れた。
そして、その者たちを民衆に分け与えた。己らが散々悪事を働いた民衆たちに。
その後、兵士たちがどうなったかは容易に想像できよう。彼らは皆、死より恐ろしい苦痛が下された。
ハーフエルフの女魔術師の凶行によって、二つの軍隊はほぼ壊滅状態に陥ったが、それでもそれぞれの国は諦めなかった。王女と王子がまだ生きていたことから、追加で援軍を繰り出してきた。
しかも、今回は先の二国だけじゃなかった。一連の騒動に危機感を覚えた幾つかの周辺諸国が、地域の安定と人道の名のもとに、軍隊を派遣して武力介入してきた。
もはや混沌としか言いようがない。誰が敵で誰が味方か、何が正義で何が悪か、なんの為に戦いなんの為に殺すのか、皆誰もがわからなくなっていた。
そんな中、突如としてハーフエルフの女魔術師が消えた。宮廷から居なくなったのだ。理由やどこに行ったかはわからない。一説には一連の争乱に心を痛めた使用人が、ハーフエルフの女魔術師を苦心の末に崖から滝に突き落としたという噂もあるが、確たる証拠はなく、真相は闇の中だ。
ただハッキリとしているのは、ある日を境にハーフエルフの女魔術師が居なくなった、ということだけである。
最も当事者たちにとっては、そんなこともうどうでもよかった。動き出した船は、急には止まれない。ハーフエルフの女魔術師が消えた程度では、この争乱はとてもじゃないが収まらなかった。
結局、争乱が全て終結するまでに、十年の月日を要した。その間にとある国は滅び、王女や王子の後ろ盾となった二国や介入してきた周辺諸国も、内部崩壊や他国からの侵略などによって次々と滅んでいった。
争乱によって失われたものは数知れず、民間人だけでも十万人以上の犠牲者を出したが、後には焼け野原がだけが残った。
まるで松尾芭蕉の詠んだ俳句のような結末だが、もう一つ残っているものがある。
恐怖だ。全ての元凶たるハーフエルフの女魔術師への恐怖である。
何せハーフエルフの女魔術師は争乱後の足跡どころか、姿を消した理由さえわかっていない。
だから人々は今だに畏怖し、こう呼んで警鐘を鳴らしている。
「災厄の赤き魔女」と。
数年前、北方の遠く離れた国へ商いで赴いた際に、現地の人から聞かされた歴史だ。
噂話ではなく、現地の歴史である。
さて、件の「災厄の赤き魔女」の外見は、年齢は人でいうところの三十代前半ぐらいで、ウェーブの入った赤い髪から尖った長い耳を突き出し、彫刻ように整った美しい顔の中にはルビーのような赤い眼、褐色の肌も相まってどこかエキゾチックな雰囲気があったと言う。
そう、ネェサさんの容姿と瓜二つだ。
そして、目の前に腰かける人物は、自らが「災厄の赤き魔女」と呼ばれていたことを認めた。それでいて悪びれた様子は一切なく、楽しげに微笑んでいる。
いやいやいや、そんなことってある⁉ 織田信長やナポレオンとかと会っちゃうようなことってある? だって五十年以上前の人物だよ! そんなことあり得るの? いや、ちょっと待てよ……。
人の寿命はつつがなくまっとうできれば百歳ほどだ。それに比べてエルフの寿命は非常に長く、六~七百年ほど生きると言われている。では、そのエルフの混血児たるハーフエルフはどうかと言うと、大体四~五百年ぐらい生きると言われている。
あくまでも寿命だけで考えれば、五十年ほど前の人物である「災厄の赤き魔女」が、ネェサさんと同一人物である可能性は十分にあり得る。
だが、それを素直に受け入れることはできなかった。受け入れれば、稀代の悪女と酒を酌み交わすことになる。陰キャのコミュ障にそんな高いハードルは越えられない。
フェイスカバーを少し開き、樽作りの大きなジョッキを手に取ると、勢いをつける為に半分ほど喉に流し込んだ。本当は全部一気に飲み干すつもりだったが、思ったよりも量が多くて、歯がゆい思いをした。
そして、諦めきれずになおも問いただした。
「マジでそう呼ばれてたんですか?」
「マジでそう呼ばれていたのよね~」
マジなのかよ~~! しかもヤバい人じゃん! 悪女じゃん! 暴君じゃん! 勘弁してくれよ~~! あ、あれだ! 他人の空似って奴じゃないか? 世の中には自分と似た人が三人いるって言うしな! 人違いで「災厄の赤き魔女」と呼ばれていただけで、本人じゃないのかもしれない! そうだなよ! その可能性だってあるよな? オレと似た人は絶対いないと思うけど……。
エルフは生まれつき魔力が高く、身体能力に優れ、鋭敏な認識能力を持ち合わせるハイスペックな種族だ。しかし、生殖能力に関しては極めて低く、その高い能力と反比例するかように個体数は少ない。その上、エルフであることへの強い誇りと優越感を持つことから、他の種族を蔑む気質からある為、他の種と交わることも皆無に等しい。
従ってハーフエルフの個体数は、ただでさえ少ないエルフよりも、必然的に更に少なくなる。
では、その更に少ない個体数の中に、燃えるような赤い髪、ルビーのような赤い瞳、褐色の肌を持ち合わせた美貌のハーフエルフが、何人いるだろうか?
……いないな。他にいるとは思えない……。それに……「災厄の赤き魔女」って訳わからず消えてるし、結局どうなったかわからないしさ。
それでも一縷の望みをかけて聞いてみた。
「あ、あの……「災厄の赤き魔女」って……人違いで呼ばれてただけで、ご本人様じゃあ……ないですよね……?」
「うふふ、安心して大丈夫よ。ちゃんと「災厄の赤き魔女」ご本人様だから」
安心できないよーー! 大丈夫じゃないよーー! そこはちゃんとしてなくていいんだよーー!
「えっ⁉ じゃ、じゃあ……あんな酷いことをしてたって……」
「あんな酷いこと? それってどんなこと?」
場の空気が一気に変わった。これまでの緩い感じが一転して、凍り付いている。
あれ……⁉ なんか……ヤバい感じ……?
「い、いや……あ、あの……それは、その……」
「へ~~気になるわね。おねぇさんに教えてくれるかしら?」
そんなこと言われても……。だって、気に入らない人間を公職から追放したり、辺境や戦の最前線に送ったとか、好みの者を見つけたら節操なく部屋に連れ込んで、夜ごと乱痴気騒ぎの乱交を繰り返していたとか、襲撃した来た者たちを家族の目の前で、熱した鉄の杭で肛門から突き刺して公開処刑したとか、捕らえたり投降した兵士を民衆にセリにかけ、惨い殺し方を募集して実行させたとか、その他色々なんですけど……。
本人を目の前にして、そんなこと言える筈もない。ましてやこちらは陰キャのコミュ障だ。アドリブなんてきかないし、上手い言い逃れのひとつ思いつかない。
「……………………………………」
「あらあら、どうしたのかしら? 急に押し黙って」
息苦しく背筋が冷たい。それなのに顔や手の平から汗が滲み出て、心臓はせわしなく動いている。
プレッシャーだ。ネェサさんからのプレッシャーがハンパない。
表情はにこやかに笑っているのに、背後に妖気のようなものが、陽炎みたいに立ち昇っている。
錯乱して意味不明なことが頭に浮かんだ。
ア〇ロか? ア〇ロなのか⁉ そうするとオレはギュ〇イなのか?
目の前のテーブルには美味いエールと、対面に腰かけるのは眉目秀麗な女性。
酒を飲むのにこれ以上の状況はあるだろうか?
断じてないと、断言したいところだが、悲しいかな現在の心境は、一刻も早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
「もうしょうがないわね……」
黙りかねるオレに、ネェサさんは業を煮やした態度でそう言うと、椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
そして、当然のようにイスに腰かけるオレの腿の上に跨った。
「……あ……あの……?」
困惑するオレをよそに、ネェサさんは強化外殻のフェイスカバーに手をかけると、一気に引き上げた。
勿論、飛び出る極悪目玉おやじの素顔。そいつが驚嘆の声を上げる。
「エエェェーーーー⁉」
「あら、ビックリ。中々個性的なお顔になったわね」
言葉とは裏腹に、ネェサさんに驚いた様子は一切視えない。それどころか極悪目玉おやじを中々の個性的で済ませてさえいる。情けないことに、実際に驚いたのはオレの方であった。
それにしても、ここまで意に介さない態度だと、あれだけ極悪目玉おやじのことを気にしていた自分が、バカみたいに思えてくる。
それでも何らかの説明は必要と思い、口を開くが上手く言葉が出てこない。
「いや、これは……ですね。その……何て言うか……」
ネェサさんが自らの口の前で人差し指を立てた。
「シー……」
??
美しい顔がゆっくりと近づき、唇が重なった。
舌が侵入し、絡み合う。
「ン……ウン……ウゥウ……」
暫く児戯のように戯れて、舌は離れていった。
「舌……とっても長いのね。面白そうだけど、今は……」
状況についていけずに困惑して自問する。
わからない。本当にこの状況がわからない。何故にこうなったのだ?
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