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プロローグ
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プロローグ
鍵を差し込む指が、ほんの少し震えていた。三日間の出張。新商品発表会と取引先への挨拶で心身ともに削られたが、それでも玄関の灯りが見えると胸がゆるむ。
「やっぱり、家っていいな……」
そうつぶやきながらドアを開けた瞬間だった。
ふわり、と鼻についたのは揚げ油の古い匂い。
続いて、知らない香水の甘ったるい残り香。
「……あれ?」
胸の奥がざわついた。家の空気が、いつもの“私の家の匂い”ではない。
視界の端に見慣れない靴が三足転がっている。
男物のサンダル。
派手なヒール。
毛玉だらけのスリッポン。
「おかえりー!」
リビングから夫・和成の声が弾んで飛び出してきた。
その笑顔が、いつもより“妙に”明るい。
「ちょっと……何、この靴?」
声が自然と低くなる。
和成は晴れやかな顔で言った。
「今日から母さんと明美(妹)と一緒に住むことにしたから!」
鼓膜が一瞬、音を拒否した。
“冗談”という言葉を探す間もなく、和成は続けた。
「いやー、ちょうどいいタイミングで帰ってきたね。三人でご飯食べてたんだよ」
リビングから義母の静江が顔を出す。
ソファに座り込んだまま、動こうとしない。
「出張お疲れさーん。あんたの荷物、適当に片付けといたから」
その声は、まるで“私がここに住むのは当然”という響きを伴っていた。
さらに義妹の明美が、アイスを食べながら言う。
「兄ちゃんの嫁なら、うちらの面倒みるの当然でしょ? あ、洗濯物たまってるからよろしくー」
カラン、とアイスの棒がテーブルに転がった。
その軽い音が、胸の奥に不穏な波紋を広げる。
「……ちょっと待って。どういうこと?」
私は靴を脱ぐことすら忘れ、夫を見つめた。
和成は悪びれもなく笑う。
その笑顔が、今まで一度も見せたことのない“他人事の軽さ”を放っていた。
「母さん、少し体調悪いしさ。妹も仕事辞めたから……ここに住むのが一番だろ? 俺も仕事忙しいし、介護とか家のこと、頼むよ。社長なら余裕だろ?」
空気が一瞬で冷えた。
私の背中を、冷水が通り抜けていく。
「介護って……私が?」
「当たり前じゃん。嫁なんだから」
義母が鼻で笑った。
それは油の匂いよりも強く、刺すように不快な音だった。
「それにねぇ」
義母はテレビのリモコンを握ったまま私を見る。
その目は、まるで“使用人”を見る目だった。
「ここは“うちの家”なんだから。おたくは働いて金稼いでくりゃいいのよ」
“うちの家”――
私の胸の奥が、静かに軋んだ。
「……ここは、私の名義の家よ」
かろうじて声にした。
しかし義母も義妹も、ひるむどころかケラケラ笑う。
「名義がどうとか関係ないわよ」
「兄ちゃんの家=うちらの家じゃん」
「そういう細かいこと言う女、嫌われるよ?」
胃の奥で何かがひっくり返る。
油臭、香水、夫の無神経な笑顔――全部が混ざって胸を締め付けた。
和成が近づき、肩に手を置く。
その手は、かつては安心をくれたはずなのに。
「な? 頼むって。家事全部、お前に任せるからさ」
その瞬間、私は悟った。
――この家は、今日から“地獄”になる。
でも、ほんのわずかに微笑んだ自分に気づく。
胸の奥の奥で、別の音が静かに鳴り始めていたからだ。
カチリ。
小さな、小さなスイッチが入る音。
私はまだこのとき知らなかった。
この“軽く押されたスイッチ”が、
のちに夫一家の人生を根本からひっくり返すことを。
――だが、因果はいつだって静かに動き始めるのだ。
鍵を差し込む指が、ほんの少し震えていた。三日間の出張。新商品発表会と取引先への挨拶で心身ともに削られたが、それでも玄関の灯りが見えると胸がゆるむ。
「やっぱり、家っていいな……」
そうつぶやきながらドアを開けた瞬間だった。
ふわり、と鼻についたのは揚げ油の古い匂い。
続いて、知らない香水の甘ったるい残り香。
「……あれ?」
胸の奥がざわついた。家の空気が、いつもの“私の家の匂い”ではない。
視界の端に見慣れない靴が三足転がっている。
男物のサンダル。
派手なヒール。
毛玉だらけのスリッポン。
「おかえりー!」
リビングから夫・和成の声が弾んで飛び出してきた。
その笑顔が、いつもより“妙に”明るい。
「ちょっと……何、この靴?」
声が自然と低くなる。
和成は晴れやかな顔で言った。
「今日から母さんと明美(妹)と一緒に住むことにしたから!」
鼓膜が一瞬、音を拒否した。
“冗談”という言葉を探す間もなく、和成は続けた。
「いやー、ちょうどいいタイミングで帰ってきたね。三人でご飯食べてたんだよ」
リビングから義母の静江が顔を出す。
ソファに座り込んだまま、動こうとしない。
「出張お疲れさーん。あんたの荷物、適当に片付けといたから」
その声は、まるで“私がここに住むのは当然”という響きを伴っていた。
さらに義妹の明美が、アイスを食べながら言う。
「兄ちゃんの嫁なら、うちらの面倒みるの当然でしょ? あ、洗濯物たまってるからよろしくー」
カラン、とアイスの棒がテーブルに転がった。
その軽い音が、胸の奥に不穏な波紋を広げる。
「……ちょっと待って。どういうこと?」
私は靴を脱ぐことすら忘れ、夫を見つめた。
和成は悪びれもなく笑う。
その笑顔が、今まで一度も見せたことのない“他人事の軽さ”を放っていた。
「母さん、少し体調悪いしさ。妹も仕事辞めたから……ここに住むのが一番だろ? 俺も仕事忙しいし、介護とか家のこと、頼むよ。社長なら余裕だろ?」
空気が一瞬で冷えた。
私の背中を、冷水が通り抜けていく。
「介護って……私が?」
「当たり前じゃん。嫁なんだから」
義母が鼻で笑った。
それは油の匂いよりも強く、刺すように不快な音だった。
「それにねぇ」
義母はテレビのリモコンを握ったまま私を見る。
その目は、まるで“使用人”を見る目だった。
「ここは“うちの家”なんだから。おたくは働いて金稼いでくりゃいいのよ」
“うちの家”――
私の胸の奥が、静かに軋んだ。
「……ここは、私の名義の家よ」
かろうじて声にした。
しかし義母も義妹も、ひるむどころかケラケラ笑う。
「名義がどうとか関係ないわよ」
「兄ちゃんの家=うちらの家じゃん」
「そういう細かいこと言う女、嫌われるよ?」
胃の奥で何かがひっくり返る。
油臭、香水、夫の無神経な笑顔――全部が混ざって胸を締め付けた。
和成が近づき、肩に手を置く。
その手は、かつては安心をくれたはずなのに。
「な? 頼むって。家事全部、お前に任せるからさ」
その瞬間、私は悟った。
――この家は、今日から“地獄”になる。
でも、ほんのわずかに微笑んだ自分に気づく。
胸の奥の奥で、別の音が静かに鳴り始めていたからだ。
カチリ。
小さな、小さなスイッチが入る音。
私はまだこのとき知らなかった。
この“軽く押されたスイッチ”が、
のちに夫一家の人生を根本からひっくり返すことを。
――だが、因果はいつだって静かに動き始めるのだ。
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